魔女
深い、深い暗闇。
底など見えず、どこまでも広がる眩み。
身体は冷たく、しかしどこか温かい物に包まれている。
液体……水…?
それがなんなのか、特に知りたいとは思わないし、知ろうとも思わない。
真実、それが何であっても良かったのだ。
息苦しさも痛みもない、心地よい浮遊感。
まるで母に抱かれているかのよう。
優しくて、温かい。
『母なる海に底はなく、暗く温かな闇は全てを受け入れる』
ふと何かが見えた。
水の中だろうか、ぼんやりとしている。おおよその判断しかつかない。
丸い。丸くて白くて……何故だろう。とても綺麗な……。
『だが、何時までも夢を見ているわけにはいかないのだ。起きろ』
冷たい美しさはたちまち目を奪い、ゆったりとしたこの場所から引き上げた。
硬い感触が背中一面に広がり、冷たい風が頬をくすぐる。
王子は石造りの床に倒れていた。
おかしい。先程までは確かに城の中庭にいたはずだ。
「来訪者とは、珍しいこともあるものだ」
「!?」
王子の背後から、声がかけられた。床の冷たさなど生温く感じるほどの、冷酷な声。
蔑みの類いではない、身体の芯まで凍りつかせてしまうような残酷さと冷血さを感じさせる、凛とした綺麗な音だ。
振り返ると、椅子に座っている女がいた。
ローブを纏い、大きな帽子を被った白髪の女。若い外見だが、その身からは歴戦の強者が放つ圧を感じる。
その目は蒼く、これまた鋭く冷たい眼差しで王子を貫いていた。
「驚かせてしまったか?しかしこちらも驚いたのだぞ。突如空間に靄がかかったかと思えば、人の姿を成したのだ……お前のことだ」
「靄が…私になった、だと…?」
「そうだ…我ながら何を言っているのかわからんがな。そうとしか言い表せない、不思議な光景だった」
にわかには信じがたい。
なぜ自分はここにいるのだろうか。城の中庭で父と茶を飲み、そして……白き光に貫かれた。
自分は死んだのか?いや、今こうして生きている。
ではあれは催眠の類か?私をここへ攫ったのだろうか。
もしそうだとすると、下手人は恐らく……。
「……何を考えているのかは察しがつく。私がお前をここへ連れてきたとでも思っているんだろう」
「…違うとでも?」
「ふむ、まずそれについて話すならば自己紹介をしなくてはな」
女が指を振ると、部屋の隅にあった杖がひとりでに浮かび上がり、女の手に収まった。
次いで杖を振るうと、部屋にある蝋燭全てに青い炎が灯る。
「魔法…か?」
「違う。こんなものはただの魔力操作、魔法という域にすらない」
女は椅子に深く背を預け、帽子の鍔を顔が見えるよう指で上げた。
「私の名はサリア。魔女だ」
「魔女……」
王子は父に聞いたことがあった。魔法を操り、国々を助ける者がいると。それこそ『魔女』。数えて三人、神の祝福を受けた上位者たち。
「さあ、私は名乗った。お前は?」
「……私は…?私の…名は……」
名前は、なんだ?
「……私は人王サラザールの息子だ。名は…名は……」
「ふむ……どうやら訳ありのようだな。よい、言わなくても人王の息子であるというだけで大方のことはわかった」
「……………」
「さて、話の続きといこうか。私は魔女、そしてここは魔女が住む塔だ。三人の魔女はそれぞれ塔を持ち、その中から出ることはできん」
「……出ることが、できない?」
「実際に見た方が早い。そこに梯子があるだろう、それを使い1階まで下りろ。私は先に行き待っている」
魔女…サリアが椅子から立ち上がり、杖で床をついた。するとサリアは蒼い光に包まれ、光がおさまるとそこにサリアの姿はなかった。
魔法による移動の類いなのだろう。
「……1階、だったな」
梯子を使い、下の階へと下りる。どうやらこの塔は部屋が積み重なったような構造をしているらしく、何度も梯子を下り何度も同じような部屋を後にしていった。
やっと1階につく。サリアは扉の前に立っており、王子へと冷たい視線を向けていた。
「遅いぞ。体力が無いのか?かの人王の息子とあろうものが、だらしない」
「……お前のいた部屋は何階かわかって言ってるのか」
「7階だとも。その程度わかっているさ」
「………………」
王子はあまりの理不尽さに、言葉を口にすることすら面倒になった。
サリアは何が面白いのかクツクツと笑うと、扉を指さした。
「これが塔の出入り口だ。見ていろ」
サリアが扉へと手を伸ばす。その指が僅かに扉と触れた瞬間、凄まじい衝撃がサリアを襲い背後の本棚へと吹き飛んだ。
「……あ、は?」
「むう…防御魔法をかけていたが衝撃は消せんか」
サリアは割れた本棚の中から這い出てくると、服に着いた埃を払い始めた。
「分かったか。私はここから出られない…今のように弾かれてしまうんだ。この効果は塔の魔女にしか作用せず、他の魔女にも同じ塔があてがわれている。お前ならその扉を開けられるだろうが、それを私がくぐろうとしても同じように吹き飛ばされる。つまり、お前を私が攫うことは不可能だ」
「……魔法でできないのか?」
「確かに、私は相手を転移させる魔法を扱うことができる。だが、塔がそれを許さない。塔の外を対象とする魔法はかき消されてしまう」
「……その証明は?」
「この塔の仕組みを一から十まで全て話せば納得してくれるか?ちなみに軽く一週間はかかるぞ」
「………………」
そんな時間はない。今こうしている間にも、城の者たちを心配させてしまっている。父にも会って無事を伝えねば。
「……この塔はゴドレスの地にあるのか?」
「ああ。ゴドレスの地、その南端にこの塔は建っている。お前のいた国……人の国アノローンはここから東へ行けば着く」
「そうか」
何時までもここにいるわけにはいかない。国に帰らねば。
王子は扉へと手をかけようとする。が、その伸ばした手をサリアが掴み止めた。
「待て、どこへ行く」
「…アノローンに」
「やめておけ。あそこにはもう何も無いぞ」
「…何も無い?どういうことだ」
「……アノローンは滅んでいる」
「……は?」
思考が止まった。アノローンが滅びた?何を言っているんだ。
「アノローンだけではない。遠い昔に、国々はすでに滅び狂人と怪物の巣窟となっている。今やまともな人などそう居ないぞ」
「……私をからかっているのか?」
「偽りを言っている訳では無い。それに、アノローンに行くには広いアラヤ平原を通らなければならない。飢えた獣がわんさかといる。武器すら持たずここから出るのは自殺行為だぞ」
「飢えた獣だと?あの平原には羊があるばかりでそんな野蛮な物はいない。虚言も大概にしろ!」
「……そうか。ならば実際に見てくるといい。私はもう止めん…せめてこれを持っていけ」
サリアが取り出したのは一振りのロングソード。王子はそれを乱暴に受け取ると、扉を押し開け外へと飛び出して行った。
「……忠告はしたぞ、馬鹿者め」
サリアは開いた扉から空を見上げる。そこには、溢れんばかりの巨大な月が浮かんでいたのだった。
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