第3話 秘密の時間
店を出た私たちは何か喋るわけでもなく、ただ黙って手を取り合って歩いた。
久しぶりに彼の手に触れ胸が高鳴る。手汗大丈夫かな……、なんて少女みたいなことを考えてしまい、なんだか自分が恥ずかしくなった。
夢見心地の中、ふと先ほどの彼の言葉を思い返した。
巧が私のことを好き?
夫から私を奪う?
彼は本気で言っているのだろうか? それとも、夫と上手くいってなさそうな私なら、いくつか甘い言葉を並べれば簡単に落ちるとでも思った?
残念ながら、可能性としては後者の方が高いかな……。
だって夫と上手くいっていないのは事実だし、それにまだ若いから、誰かに求められればセックスだってしたいって思っている。
夫には期待できない以上、いっそのこと彼になら遊ばれてもいいや……。
そんなことを考えながら歩いていると、一軒のレトロな建物の前に着いた。赤煉瓦の壁にはツタが這っている。
「……ここは?」
「ここは俺の職場だよ。日本にいる時はここを拠点にしてるんだ」
中に案内されると、私はその美しい世界に圧倒された。家にも高額な絵画が数枚、客人に自慢するためだけに飾られているが、私にとってそれらはただの背景の一部にしか感じられなかった。だが、このアトリエにあるすべての絵には
「これ全部巧が描いたの?」
「うん、そうだよ」
「すごいね……」
それらの絵を見ていると、心が洗われていくかのように自然と涙が溢れてきた。
すると、彼が私の肩に手を置きあるお願いをした。
「麗華、俺がこっちにいる間、短時間でいいから仕事手伝ってくれないかな?」
「私が巧の手伝い?」
「あっ……、やっぱりご主人の許可がいるかな?」
夫に相談してもどうせ反対されるだけだ。それに、少しだけでいいからあの閉鎖された家から飛び出して外の空気を吸いたい。
私は迷うことなく、二つ返事で彼のお願いを引き受けた。
彼が『ありがとう』と言い、私の顔をじっと見た。私はその視線に戸惑ってしまう。
「ねぇ、俺がさっきお店で言ったこと本気にしてないでしょ?」
「……えっ? 何のこと?」
「“麗華のことまだ好きだ”ってこと」
「何で分かったの!?」
「顔にそう書いてある」
そう言うと、彼は私の頬に触れて微笑んだ。
あぁ……その顔ずるいよ……。
一瞬の沈黙ののち彼の顔が近づいてくる。私は目を閉じ、彼の唇を受け入れた。
数年ぶりの彼とのキス。一度スイッチが入ってしまうともう止めることはできない。キスをしたまま彼が寝床にしているソファーベッドに押し倒されると、理性やかろうじて残っていた貞操観念なんて吹き飛び、私たちは時間を忘れて抱き合った。
目が覚めた時、すでに空は明るくなり始めていた。私は身体を小さく震わせ起き上がると、乱れたまま放置された服や下着を拾い集めた。
身支度を整え彼を起こす。彼の寝ぼけた顔や寝ぐせのついた髪には昔の面影があり、まるで学生時代にタイムスリップしたみたいで愛おしくなる。
「おはよ。私、帰るね」
「わかった。仕事の件はまた連絡する」
私の携帯電話に彼の連絡先が再び登録された。
その後すぐに彼から仕事の連絡が来た。
夫をいつも通り貼り付けた笑顔で送り出すと、義母の電話を適当にあしらい、私は華やかな服に着替え彼のアトリエへと向かった。
彼から依頼された仕事は、アトリエの片付けや電話対応など簡単なものではあったが、私にとって“世間と繋がっている”ということがとても幸せだった。
日中は彼の仕事を手伝い、自宅に戻ればすぐに地味な服装に着替え、健気に夫の帰りを待つ嫁を演じる。こうして私の日常に”秘密の時間”ができた。
一日のうちたった数時間のことだが、その時間は単調だった毎日に刺激を与え、私は次第にその時間を心の拠り所にしていった。
しかし、そんな幸せな日々は長くは続かなかった。私の様子が変わったことに夫が気づき始めたのだ。私の生き生きした様子が、普段通り地味な服を着ていても隠し切れなくなっていた。
そしてついに事件は起こってしまった。
夫が1泊2日の出張に行った日、私は彼のアトリエで仕事を終えた。いつもならすぐに帰るのだが、今日は嬉しいことに夫は帰ってこない。
「ねぇ、今日は一緒にいたい」
「俺も。旦那さん出張でしょ? じゃあさ、晩御飯ついでに今日はホテルでゆっくりしよう」
彼の提案に無邪気に喜ぶ私。私たちはディナーが美味しいと有名なホテルへ向かうと部屋を取り、その晩は燃えるような一夜を過ごした。
朝方、幸せな気持ちで家に帰ると、私は恐怖で玄関に立ち尽くした。玄関の上り口に男物のブランド靴が揃え置かれている。なんと夫が予定より早く出張から戻ってきていたのだ。
恐る恐るリビングに入る。
「お前、朝帰りなんてどういうことだ! それもその恰好はなんだ!? 最近様子がおかしいと思ったら男と会っていたのか!?」
夫がすごい勢いで詰め寄って来る。
「……あなただって浮気してるじゃない! どうせ私に興味ないんだから、私のことなんか放っておいてよ!」
私が出来た抵抗はこの一言だけだった。しかし、夫を怒らせるには十分な一言だったようで、次の瞬間、私は頬に衝撃と痛みを感じた。夫が私に手をあげたのだ。
「うるさい! 女が言い訳するな! 俺に恥をかかせる気か!」
私はショックでその場に座り込んでしまった。
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