53 黒蛇ジャジャ 前編

 静かだった。

 戦いの音は聞こえない。

 みな息絶えてしまったのだろうか。

 生き残った者はいるのだろうか。

 剣宮辰也は歩を進める。

 一歩踏み出すたびに蛇気が濃厚になっていく。

 夜のように暗い蛇空を見上げる。不気味に蠢く黒蛇たちは、今も湧き出しているのか四方八方へ流れていく。

 もうすぐ終わりの時が来る。

 そのことをひしひしと辰也は感じていた。

 長いような短いような旅であった。

 朝も昼も夜も暗いおかげで時間の感覚がない毎日だった。桃源島を出てからどれほど経ったか分からぬほどである。一ヶ月なのもしれないし、半年ほどなのかもしれない。

 多くの強敵たちと戦った。一癖も二癖もある者たちだった。

 死の危険を数えきれぬほど感じた。

 それに比するように、己の実力も驚くほど向上した。まさか空の境地を会得できるとは。島を出発する頃は考えられなかった。

 それほどまで濃密な時間であった。

 しかし、それももうすぐ終わる。

 黒蛇ジャジャを討つ。

 ただそれだけのために、ここまで来た。

 志を同じとする仲間と出会い、そうしてみな死んだ。

 島にいた頃こそ、己の死と引き換えにしてでもジャジャを討つと口癖のように言っていたが、今にこそ思えば、それは本当の覚悟とは思えなかった。あれはただ、自分を鼓舞するために言い触れていただけではなかったか。ジャジャという巨大で未知なる蛇を恐れていたからではないか。

 無論、今もそれは変わらない。

 ジャジャに対する恐れがある。

「辰也」

 と桜刀ハナが声を掛けてきた。

「ん?」

「がんばろうね」

「ああ」

 そうだ、と辰也は思う。ただ頑張るのだ。

 全力を尽くしジャジャと戦う。

 その果てに勝利か敗北がある。

 生か死が待っている。

 ただそれだけ。それだけなのだ。

 必要なのは、逃げない覚悟だけだ。全力で頑張る覚悟だけだ。

 生き死には結果に過ぎない。

 洞穴が、見えた。

 切り立った壁に大きな穴が空いており、そこから黒蛇が空に向かって出続けている。

 辰也はハナを引き抜いた。

 最後の戦いが、始まる。



 

 桃源島史上最も過酷な戦いであった。

 圧倒的な物量で押し寄せる黒蛇たちに抵抗する島の戦士たちは、いつ果てるか分からぬ戦闘に身を投じている。

 優勢なのは一部のみで、多くは劣勢に立たされていた。

 北側に位置する場所で死闘を演じていた彼らも例外ではない。

 黒蛇たちの攻勢にじりじりと押されている。

「く」

 思わず呻きながらも槍を振るうは、林田恵子。根津流槍術の使い手だ。

 戦いに参加している殆どが男性であったが、彼女のように自ら志願して身を投じた者は少なくない。

 有事の際に神社に引きこもって時を待つよりも、こうしてみなと共に島を守りたくて道場に入ったのは十年も前のこと。槍の道場を選んだのは、遠い間合いから攻撃できる槍ならば、女の自分でも戦えると思ったからだ。

 しかし、己よりも遥かに屈強な兄弟子が早々に黒蛇に殺されたのを目の当たりにした彼女は、もはや自分の命も風前の灯火であると悟った。

 それでも一匹でも多く黒蛇を屠りたく、槍で突く。脳天を貫かれた黒蛇は絶命したが、すぐにまた違う黒蛇が襲いかかってきた。

 切りがない。

 荒く呼吸を繰り返す。体力は限界に近い。

 走馬灯のように頭の中を流れるのは、桜花一刀流との模擬試合のこと。当時また未熟だった彼女は参加させて貰えず、見学しかさせてくれなかった。

 刀よりも長い槍の方が戦いにおいて有利に働く。それが常識で、共通認識だった。事実他の剣術道場との模擬試合においては、槍の長い間合いに翻弄されて、剣術家の多くが殆ど何もできずに負けていた。

 しかし、桜花一刀流は違った。その中でも特に印象に残っているのは剣宮辰也だ。彼は槍の一撃を払い除けるや、一息で間合いを詰め、瞬く間に相手から一本を奪ってしまったのである。

 衝撃だった。

 島内最強の剣術と名高い桜花一刀流だが、それは剣術においてのみの話で、勝利するのは根津流槍術であると信じていたのだ。

 蓋を開けてみれば桜花一刀流の完勝で、根津流槍術は善戦をしたがまるで敵わなかった。中でも辰也は別格だった。

 しかも彼は剣宮家だ。剣宮家といえば、剣宮流錬気法を修めていることで有名である。しかし彼は錬気法を使わなかった。桜花一刀流の技のみで戦ったのだ。

 つまり、手加減された。その上で、彼は圧勝してしまったのである。

 自分よりも強い兄弟子があっさりと負けたことに、なぜか悔しさはなかった。

 礼をし、仲間の元へ戻っていく辰也の背中が、ものすごく遠く感じ、そこに追いつきたいという想いに駆られた。

 恋心とは違うと思う。

 この感情はきっと、憧れだ。

 彼にはいつも側にいる幼馴染みがいて、それを羨ましいと感じたのは事実だ。そうして自分も側にいたいと思ったのも事実。

 彼が二度と戻れないかもしれない戦いに出ようというのに、自分の気持ちを打ち上げることなんてできるはずがない。自分の槍の技は、彼の足手まといにしかならないのだから。そもそもが話したこともない遠い憧れの存在だ。

 けれど今、彼が命がけの戦いをしていると同様、自分も命がけの戦いをしている。

 恵子はそれがたまらなく嬉しかった。あの刀となってしまった少女には決してできないことだから。

 しかし命運は尽きようとしている。

 黒蛇が目前に迫り、その大きな顎を大きく開けた。

 ここで終わるのだ。そう思った矢先、

「……桜花一刀流、枝垂れ桜!」

 若々しい掛け声と共に、黒蛇の頭が二つに裂かれた。

 呆然とする恵子の視界に入ったのは、若い少年の姿だ。名前は確か、剣宮哲也。辰也の実の弟だ。

「大丈夫ですか! お姉さん!」

 恵子ははっとした。

「……は、はい!」

「しばらく休んでいてください! 僕たちが代わりに戦います!」

 そう言って哲也は、刀を手に駆け出した。彼が連れてきたらしい数人の男たちも、刀を持って飛び出す。

 哲也は目を見張るほど俊敏な動きであった。走りながら斬ったと思うや、黒蛇を足場に飛び跳ねて、桜花一刀流の枝垂れ桜をお見舞いする。

 辰也はどちらかと言えばどっしりとした静かな戦い方だったが、哲也は縦横無尽に自由に動いて斬る。その運動量は凄まじいものがある。すでに彼も死闘を繰り広げていたはずだが、疲労を感じさせない。

「……すごい」

 恵子は思わず感嘆とした声を発した。彼の元気溢れる戦いぶりは、見ているだけでこちらも力をもらえるようだ。

 槍を持つ手に力を込めた恵子は、負けてたまるかと再び戦いを始めた。

 他の仲間たちもまた力をもらえたらしく、勢いが増している。

「このまま押し返します!」

 哲也が吠えた。

「はい!」

 恵子は槍を振るった。島を守る。その先に辰也の勝利があると信じて。


「剣宮流錬気法、花冷え」

 いつの間にか、その男は立っていた。

 押し寄せてくる黒蛇たちの一匹の側頭部に掌底を当てる。すると黒蛇の目と口から多量の血が飛び出て辺りに撒き散らした。

 剣宮敬也。剣宮家長男であり、剣宮流錬気法の副師範。

 彼は最も戦況が悪化している地域に参戦した。

 士気はすでに著しく低下しており、損耗率も最も高い。押し切られるのも時間の問題である。

 だが敬也は少しも臆することなく立ち向かう。

 彼の脅威に感付いたのか、無数の黒蛇たちが殺到する。

「……花びら」

 轟音が轟いた。敬也は黒蛇たちの猛撃によって空中にかち上がる。くるりくるりと回転しながら上昇した彼は、体勢を整えて眼下を見据えた。

 勝利を確信したのだろう。黒蛇たちは敬也に頓着する様子がない。次の獲物を探し移動し始めていた。もしももっと知能があって、犠牲者を観察する気があれば奇妙な点が見つかるだろう。敬也には、一切の傷がなかったことに。

 彼は口角を上げた。

「山桜」

 瞬間、直下に落下。

 その一撃は、爆撃だった。直撃した黒蛇は文字通り破裂して、肉ばかりか骨も砕けて飛散した。巻き起きた衝撃波もまた凄まじく、周囲の黒蛇を吹き飛ばし、致命傷に至らなくとも一時的な行動不能にさせたほどである。

 山桜を解いた敬也がその隙を見逃すはずがない。瞬発的に動いて止めを刺してゆく。

 その圧倒的な力を目の当たりにした生き残りの武芸者たちは、地に伏せたくなっていた体に活を入れて奮い立たせた。

 そうだ、彼らがいる。剣宮家の精鋭たち。自分たちよりも遥かに強大で、遥かに過酷な使命を背負った者たちが。

 彼らが諦めずに戦い続ける限り、敗北はありえない。そうして何よりも、今まさに死地でただ一人だけでジャジャと戦っているであろう男がいるではないか。自分たちは彼と、自ら刀となることを望んだ少女のために戦っているのではなかったか。

 武芸者たちは手に再び力を込めた。

 銘々の武器を構え、再度黒蛇と対峙する。




 蛇空の中心の下にある洞窟の中で眠るジャジャは目が覚めた。

 己を狙う辰也が洞窟に近寄っていることに気づいたのである。

 空へ排出し続けていた分体を停止させながらも、ジャジャは憤っていた。己を守るための蛇剣衆は自らの責務を果たせなかったのだ。これでは何のために力を与えたのか分からない。役立たずの愚鈍共めが。

 こうなればジャジャ自身が戦わなければならない。全くもって煩わしいことである。


 辰也はじりじりと近づいていくと、前方にある洞窟から空に出ていく黒蛇が現れなくなった。

「辰也」

「ああ」

 ハナの声に頷く。

 すると、今度は洞窟の入り口が一杯になるほど巨大な黒蛇が飛び出てきた。黒光りした鱗がびっしりと生え揃い、恐ろしい顔を辰也に向けている。その大きさは、桃源島を襲っている黒蛇たちの倍はある。

「……あれは分体だよ。本体じゃない」

 ハナは洞窟の奥にいるであろう本体の蛇気を感じ取った。禍々しく、大きく、色濃い蛇気だ。

「ならば、あれをどうにかしなければならんな」

「うん。気をつけて」

「ああ」

 分体の黒蛇が襲いかかってきた。

 牙で辰也を噛み砕こうとその大きな口を目一杯に広げる。たった一口で辰也を飲み込めそうなほど大きい。

 辰也は横に動いて避けると、がつん、と黒蛇の口が閉じた。その拍子に合わせ、辰也はハナを振り下ろす。

 しかし黒い鱗に阻まれて、刃を通さない。その感触には覚えがあった。色蛇街の牢屋に使われていたジャジャの鱗と同じ手応えなのだ。幾度斬りつけても傷一つつけられない。

 空を覆っている黒蛇とは明らかに力が違う。この黒蛇はジャジャを守るための特別製なのだ。

 黒蛇の攻撃から距離を取る。息を整える。

「……すまない、ハナ。あれを、使う」

「……うん」

 ハナの声は諦観と悲しみを帯びていた。

 体内の気を巡らせる。始めは緩やかに。それから徐々に強く激しく巡り巡り、気を練り込んでいく。全身が熱を帯びた頃、練り込んだ気を手から刃に流し込む。

 その間に黒蛇が迫ってくる。

 鋭く睨み付ける辰也。

 ほのかな桜色に輝いていた刃に変化が訪れた。

 桜色の光が強くなる。強く、強く、強く。

 そして、ぼう、と炎が立ち上がった。桜色の炎が、刃に纏わり付く。

 大きく口を開けた黒蛇が、今まさに辰也を噛み砕こうと襲いかかった。

「しっ」

 強い呼気を発し、辰也はハナを縦に振るう。

 刃は鱗を断ち、頭部を真っ二つに斬った。桜色の炎の残滓がはらはらと残る。

 斬られた黒蛇は黒い血を流しながら地面に落ちた。そうしてそれきり動かない。

「剣宮流錬気法禁術、散り桜」

 桜色の炎に照らされた辰也は、なぜか儚く見えた。

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