16 空の境地 二
「我慢できなくなったら、襲ってもいいんですよ?」
床の上で横になった彩は、誘う様な視線を送って微笑んだ。
「いや、襲わない」
辰也はあっさりと断る。
「むう……おやすみなさい」
「おやすみ」
辰也は社の柱に背を預けて座っていたが、彩が寝息を立てているのに気づくと外に出た。
闇の奥にあるガス灯を眺めながら一息つく。
「……これから襲うの?」
するとハナが小声で意地悪く聞いてきた。
「……襲わん」
呆れながらもすぐさま断る。そうして境内の中央に立った。
辺りには鋭い緊張が走っている。
「それに……どちらかといえばこれから襲われる方だな……数は?」
「五人」
「少ないな。蛇気は?」
「大丈夫。感じないよ」
辰也は両腕を頭の上に上げて背伸びをした。
瞬間、周囲から五つの影が飛び出した。彼らは刀を手にして辰也を狙う。
辰也は一足で前に跳ね、居合を放った。影の一人と交錯する。
着地する。呻き声が響いて、影は倒れ伏せた。
残された四人はじわじわと辰也に近づいて来る。
振り返った辰也は中段に構えて対峙する。
「蛇剣衆だな?」
尋ねるも返事は来ない。
その代わりだと言わんばかりに、四人が同時に斬りかかってきた。
飛ぶ様に下がって空振りに終わらせるやいなや、思い切り踏み込んで一人の首筋を裂く。そのまま流れる様な剣捌きで、残り三人を次々と斬り伏せた。
危機を乗り越えた。だが辰也はどうにも違和感を拭えない。蛇剣衆であることは間違いなかろう。しかしそれにしてはあまりにもあっさりと斬り殺せた。
「死体隠さないと……あの子に気づかれちゃうよ」
確かに、と納得して、辰也は木々の中に隠す。赤く染まった地面は、適当に土をかぶせて誤魔化した。
社に戻ると、彩は出る前と変わらず穏やかに眠っている。あどけない寝顔は、男に何度も襲われたようには思えない。辰也のことをまるで警戒していないのだ。
それだけ信頼されているということなのだろうか。それとも、襲われることが当たり前になっているせいで、無関心でいられるのかもしれなかった。
辰也は柱にもたれて瞼を閉じる。疲労は溜まっているから、すぐに眠りに入った。
誰かに揺さぶられている。そう気がついた時、辰也は目が覚めた。
「おはようごさいます、剣宮様」
目を開けると、微笑みを浮かべている彩の顔が視界を覆っていた。漆黒の目はろうそくの光で輝いて、辰也の仏頂面を写している。
「……おはよう」
返事をしながら、辰也は彩の接近を許したことを疑問に思った。いつもなら手にかかる前に目が覚めるはずだ。なのにそうならなかったのは、それだけ安心しきっていたのかもしれない。
軽く身支度を整えて、日課である素振りを境内で行っていると、見物していた彩が質問する。
「いつもしているんですか?」
「……ああ」
ハナを振りながら答える辰也。
彩はそれ以上何も聞かずに、ただ黙って辰也を眺めている。
それから日課を終えると、ようやく社から出発した。
数刻ほど歩くと、彩が前日に言っていた通り峠が待ち構えている。暗闇の中、道標のガス灯が点々と上へ向かっているのは、幻想的だが空恐ろしくもある。
二人は足を踏み締めて峠を登っていく。坂は急勾配で、一歩踏み締めるごとに体力を削る。
時折馬車や、馬に乗った男が通りかかる。
歩いている者も少なくないが、呼吸を荒くしていずれも疲労を隠せていない。
反面、辰也は疲れている様には見えなかった。長年の修行の賜物である体力は、この程度の坂ではものともしない。
だが彩も軽々と登っていくのはさしも辰也も舌を巻いた。もっともそれは、昔のハナならとうの昔に音を上げているだろうと思ったからだが。
「どうかしましたか?」
辰也の視線に気がついたのか、彩は尋ねてきた。
「いや。大した健脚だと思うてな」
「これでも私は旅慣れていますから。足には自信があるんですよ」
ぱん、と彩は自分の太ももを軽く叩いた。
「なるほど」
「それよりも剣宮様の方が凄いです。あんな素振りをしながら少しも息が乱れていませんから」
「物心ついた頃にはすでに刀を握っていたからな。この程度のことなんということもない」
「剣術は村で?」
「そうだ」
「……前から気になっていたのですが、剣宮様の村はどのような所だったのですか?」
「そうだな。……いわゆる普通とは違う。皆が助け合い、協力しながら生活をする」
「助け合う? よく分からないです」
「分からないとは?」
「だって、普通は自分のために他人を利用するでしょう? 人を助けても、自分にはなんの見返りもありませんから」
「確かに見返りがあることは殆どない。だが助けられた人は、また別の誰かを助けるかもしれない。そうして助けられた人は、また別の誰かを助ける。そうやって巡り巡って、自分が困った時には誰かが助けてくれるものだ。それが因果というものだ」
「因果、ですか」
「ああ。だが逆に、悪いことをすれば悪いことが返って来る」
「そう、なのかもしれません」
遠い目をして彩は同意する。男に襲われ、その代わりに財布を盗んで金銭を得てきた。良いことは決して起きず、対して悪いことは頻繁に起きる。
「この世界は悪い因果に囚われ、悪循環に陥っている。元を断たねば終わることはないだろう」
そう言って辰也は、蛇空を見上げた。彼の視線を彩が追いかけると、黒蛇が流れてくる方向、つまり辰也が向かっている方向だった。
彩の背中がぞくりとした。
「剣宮様の旅の目的は、一体」
言ってから、彩はすぐに後悔する。辰也の突き刺す様な目線に晒されたせいだけではない。彼が言うであろう答えを聞いてしまえば、もう取り返しがつかないと直感したからだ。
「それは……」
辰也が言いかけた時、
「危ない!」
どこからともなく緊迫した少女の声が聞こえてきた。
いち早く動いたのは辰也。彩の頭を抑え、強制的に体を伏せさせる。
刹那、風を切る音が聞こえ、偶々通りかかった男の首が跳ねた。傷口から多量の血液が噴出して、辰也と彩に降りかかる。
「なっ!」
驚愕し、青ざめる彩を気にせずに、辰也は周囲を窺った。
だが付近には、先ほど頭を飛ばされて倒れた男しかいない。
「辰也、もっと遠くだよ!」
少女の声。
辰也は助言の通りに目線を送る。
そうして見つけた。
進行方向のおよそ百間先に、男が一人立っている。彼は鎖を持ち、だらりと垂れた片方の先端は鉄分銅。もう片方の先端は、凄まじい速度でぐるぐると振り回しているが、辰也の優れた動体視力が捉えたそれは、血に塗れた鎌である。
鎖鎌。そう呼ばれる武器だが、それにしてはその長さ、尋常ではない。加えてあの距離から男の首を落とす手腕は、異常と言って良いだろう。
さらに加えるならば、辰也にとっては初めて見る武器であり、その奇妙な武器の意味を考える暇すら相手は与えない。
「ちあっ!」
裂帛の掛け声と共に、再び鎌が放たれたのだ。
辰也は彩を庇う様に立ち上がり、ハナを抜き放つ。
甲高い音が鳴り響いて、恐るべき速度で飛来した鎌を弾いた。
しかし男は至極冷静に、いや、むしろ好戦的な笑みを浮かべ、今度は分銅を振り回して解き放った。
反射的に刀で防御するが、鎖がぐるぐると刀身と腕に巻きつく。
「ぐ」
と辰也は呻く。凄まじい力で引っ張られ、抵抗するのもやっとで腕を動かせない。
「くくく」
男は鎖を手繰り寄せながら、一歩二歩と近寄って来る。もう片方の鎌で止めを刺すつもりだと辰也にも理解できる。
だが身動きが取れない。
彩は胸元に手を入れた。
「娘よ」
男は笑みを浮かべて話しかける。冷や汗を流しながら、彩は男を見上げた。
「俺は田所勘兵衛。蛇剣衆の一員よ。その意味が分かるな?」
ぞお、と血の気が抜ける感触を彩は感じた。
「此奴は我らが黒蛇ジャジャ様に仇なす者。この者の味方をするとなれば、貴様も容赦せぬ。だが何もしないのであれば、俺も貴様に対して殺そうとは思わぬ。もっとも、巻き添えを食らわぬ様に気を使うこともないがな」
彩は辰也を見た。
絶体絶命の危機であるはずなのに、彼は不敵な笑みを浮かべる。
「……護衛はここまでだな。案内感謝する。疾く逃げよ」
一瞬の逡巡の後、彩は背中を向けて逃げ出した。
辰也は流し目で背中を見送り、満足そうに頷く。
「逃げたな」田所は愉快そうに言う。「せっかく手にした女子が離れ、さぞ残念だろうよ」
田所はなおも近づく。鎌が辰也の首に届くまで、あと数歩。
「ふん。どうせ遅かれ早かれそうなっていた。それが今来ただけのこと。問題はない」
「余裕だな。俺の鎌が怖くはないのか?」
「怖くないな」辰也は、一呼吸おいて呟く。「剣宮流錬気法、山桜」
「ぬ?」
辰也は背負い投げをするかのように思い切り振りかぶる。
「ぬおっ」
すると田所の体が浮き上がり、そのまま半円を描いて背中から地面に叩きつけられた。
「があっ」
間髪入れずに腕を振ると、今度は田所の体は横に引っ張られて飛んだ。そのまま木と衝突する。
「ぐ、う」
これはたまらぬ、とばかりに、田所は手首を捻って辰也の腕に巻きついていた鎖を解いた。
「別にあのままでも良かったがな」
辰也が皮肉げに笑うと、
「ぬかせ」
痛みで顔をしかめたまま、田所は吐き捨てる様に言った。
中段に構えた辰也は、じりじりと近寄っていく。
田所は鎌をぐるぐると回し始めた。
「どうやら食らいたいらしいな。俺の蛇剣術を」
途端、相手の雰囲気が変わり、辰也は足を止める。
「ちあっ」
田所は鎌を上へ放り投げた。放物線を描き、辰也に向かっている。
瞬間、辰也は前へ走る。
「つあっ!」
田所は強引に鎖を引きつけると、鎌は急激に軌道を変えた。急転直下に落下して、猛烈な勢いで辰也に襲いかかる。
「む」
辰也は横へと飛んだ。鎌は辰也がいた地面に見事にのめり込む。
「この程度か」
と言う辰也に対して、田所は不敵に笑い、
「ていっ」
鎖を振り上げる。地面にめり込んでいた鎌が、今度は下から襲撃する。
ハナで弾く。
する今度は鎌が再び上空へ舞い上がり、辰也の首目掛けて落ちてきた。
再度弾こうとするも、いかなる手腕かまたも急激に軌道を変えて辰也の太腿に突き刺さった。
「ぐあっ」
「これぞ、蛇剣術鎌首飛ばし!」
田所の笑い声が高らかに響き渡った。
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