ネトラレリルレ
栖東 蓮治
第1話
食べ終わった皿をキッチンに運んだついでに、電子レンジで温めた新しいつまみを持ってテーブルに戻ると、夫が新しい缶ビールに手を伸ばしていた。
「もうっ、アナタったら。明日の出張いつもよりも家を出る時間が遅いからって、飲み過ぎ! お酒は終わりにしなさい」
夫の手から缶ビールを抜き取ると、缶を奪い返そうと追って来た夫の腕が空中を掻く。
「えーっ! 俺まだ全然シラフだぞ。あと一缶!」
「アナタやっぱり酔ってるでしょ。缶が見えてないじゃないの……」
呆れていると、向かいから伸びて来たA子の腕が缶ビールを奪っていった。
「O君の代わりに、アタシが飲んでおいてあげるわよ♪」
A子は夫に見せつける様に缶ビールのプルトップを開けると、ゴクゴクと喉を鳴らしてその中身を飲んでいく。
「くっそ、A子ちゃんは良いよなー! 自宅に籠りっきりの絵本作家なら朝から飲もうが、夜に起きようが、酔っぱらって描こうが関係ないもんなぁ。あ……T、お茶頂戴」
「はいはい」
グラスにウーロン茶を注いであげると、夫は恨めしそうにA子を睨みながらグラスの中身を飲み干した。
「そんな訳ないでしょ。きちんと飲む時と飲まない時は分けてるわよ。ベロベロに酔ったまま子ども向けの本を描く作家なんて、どこにいるのよ」
A子は飲み切った缶をテーブルに置くと、つまみに箸をつける。
「俺が担当してるW田先生。ほぼアル中状態で適当に描いてるのに、人気作を連発するから編集部は誰も注意出来ないんだよなぁ……時々線がヤバすぎて俺らが原稿を描き直す事だってあるし」
「W田先生ってそんななの? やだー! アタシ、いま連載してる漫画好きなのに~っ! 先週のとかちょっと泣いたのに~!」
夫のぼやきにA子は大袈裟な程に反応していた。
◆
夫は大手の出版社勤務で、少年向けの漫画雑誌の編集者をしている。
普段からweb会議ツールやメールだけでやり取りしている作家さんとも、定期的に直接顔を合わせての打合せを行うのが決まりらしいのだが、デジタル化の影響を受けてか地方住みの作家さんが増えてしまい、ここ数年は打ち合わせの為に県外へと出張に出る回数が増えていた。
締め切りギリギリまで粘る作家さんの原稿を回収していたので、帰宅が深夜になる事は元々多く、結婚した当初から夫は家を空けている時間が多かった。
いま一緒に飲んでいるA子は私とも、夫のOとも高校時代からの友人だ。
昔から3人でよく誰かの部屋に集まって朝まで騒いでいる様な仲だった。
私とOが結婚してもその関係は変わらず、夫が出張の日は私が独りで寂しいだろうからと、前日の夜からうちに泊まりに来たり、昼間に手土産を持って遊びに来てくれている。
「いやー、いつもA子ちゃんが来てくれるから、安心して出張に行けるよ。少し前に、この辺で強盗事件が続いた事があっただろ。ああいうのがあると、やっぱり心配でさー……」
「あったねー。そういえば、あの犯人って捕まったんだっけ? まだだっけ?」
A子がニュースサイトを見ようと取り出したスマホを見て、私は首を傾げた。
「あれ? A子、スマホ変えた?」
「うん。珍しいデザインだし、そろそろ機種変しようと思ってたから、丁度いいかな~と思って先週くらいにね」
「へー。Oもそれに変えたばかりだよ。ねっ、O」
「ん? おお、そうそう」
夫はスマホを取り出すと、黒い手帳型のケースを開いて見せた。
「そのスマホケースいい感じだね、使いやすそう。アタシ、まだいい感じのケースを見つけられてないんだよね」
A子のスマホはいまだカバーが着けられておらず、青い本体がそのままになっていた。
「ねえ、そのカバーって他に何色が売ってた?」
「えーと、確か白と緑だったかなぁ。あとピンクもあったかも」
その夜は寝室に入るまで夫とA子はスマホの機能について語り合い、その隣で私は録画していたテレビドラマを見て笑っていた。
編集者に絵本作家、そして主婦。
高校、大学と卒業し、それぞれの道を歩み、私達は来年30を迎える。
だけど、この3人で集まれば私達はいつでも学生時代と同じ様に過ごす事が出来た。
◆
朝になり、玄関で革靴を履いている夫の背中を、私とA子は並んで眺めている。
「アナタ。気を付けてね」
「お土産よろしくね~♪」
「分かってるって。それじゃあ、いってきます」
「「いってらっしゃーい」」
夫とは24歳で結婚した。
それから5年。私達夫婦は些細な口喧嘩すらなく、平和な夫婦生活を送っている。きっと誰から見ても羨ましがられる様な、仲睦まじい夫婦の形は築けているだろう。
もう3年近くもセックスをしていない、という事を除けば──────。
夫とは、俗にいうセックスレスだ。
元々Oは淡泊な方で、付き合い始めた高校生の頃からあまりセックスを求めて来ない男だった。
私達は心で繋がっている……夫はそう思っているのだろう。
「O君、今回は広島に4日間の出張ですって?」
「ええ。そうよ。ねぇA子……」
たったいま閉じたばかりの玄関ドアの向こう側で、スーツケースを引く音が遠ざかっていく。
それを聞きながら、私は抱きつくようにA子の腰に腕を回した。
「旦那が出ていったばかりだって言うのに……」
A子は呆れた様に溜め息を吐いたが、すぐにその柔らかな唇を私の唇に重ねてくれた。
心でしか繋がっていない夫の代わりに、私の身体を満たしてくれているのは彼女───、A子だった。
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