第3話  夏色の舞台


 夏色の舞台



       ※


 七月二日、月曜日。

「……えーと、何言ってんの、あんた?」

「はぁ!?」

 赤面する男子生徒。

「あ、いや、だから、こんなこと何度も言わせんじゃねーよ」

 短髪で、男としては目が大きい印象のある井上いのうえともが、赤くなった顔を仰ぎながら、言い放つ。

「しょうがねーだろ、好きなもんは好きなんだから」

 そしてもう一度。さきほどより力を込めて口を開けた。

「お前のことが好きなんだよ!」

「…………」

 至近距離でありながらも不必要なまでに力いっぱい投げつけてくる同級生の智の言葉を受けて、ただただ目を点にさせるしかない少女、広橋ひろはし由衣ゆい。十八歳。大名希だいなき北高等学校三年I組の生徒。ソフトボール部所属。制服である白シャツに胸には赤いリボン、下はチェックのスカート。場所は学科教室と職員室しかない北校舎三階にある理科準備室前の廊下。周囲には誰もいない。今は放課後なので部活動のものであろうが、トランペットの音が響いていた。

「……あ、の……」

 由衣は、点にさせていた目を瞬きさせて、唖然としていたというか、呆然としていたというか、半分開けられたまま閉じることもできなかった唇をなんとか上下に動かしていくことに。

「……そ、そんな、冗談、やめてよ。そんなの、智らしくないよ。どうしちゃったの、あんた?」

「冗談じゃねーっつうの!」

 智は、恥じらいのために逸らしていた目を正面に立つ由衣に向けていく。それは力を込めて真っ直ぐに。少しも茶化すことなく真剣な眼差しで。顔を茹でた蛸のように紅潮させながら。不必要に胸の前で大きく手を動かして。言葉はとてもたどたどしい。今の精一杯を表していく。

「し、真剣なんだよ。おれは、お前のことが、好きなの」

「……そんなの、知らないよ」

「今言った」

「知らないよ、そんなの……もー、智ってさ、そんなんじゃなかったじゃん。いきなりどうしちゃったの? 梅雨だから雨ばっかであんまり体動かせなくて、わけの分からない鬱憤が頭おかしくさせちゃったの?」

 由衣は去年までの二年間、智と同じクラスだった。が、特別仲がよかったというわけでもなく、同じクラスにいただけ。『智』と名前で呼んではいるものの、それはみんながそう呼んでいるだけであり、男子として特別に意識したことはない。智はあくまで同級生であり、今はただの元クラスメートであり、男子の元クラスメートなんて廊下で擦れ違ってもせいぜい挨拶を交わす程度で、これといって仲がいいことなんてまるでない。

 だというのに、三年生の一学期の大事な期末テストを目前にしたタイミングで、このような現状がある。理解に苦しむ由衣。目の前の相手に対して、どう対処したらいいかも分からない。

「と、とにかく落ち着いて。ほら、智、深呼吸した方がいいんじゃない? なんかちょっと焦ってる?」

「そ、そりゃ焦ってるさ。ああ、焦ってるよ。悪いかよ!?」

「いや、別に……」

 なぜか責められるようなことを言われてしまい、なんとなく納得いかないような感じで由衣は唇を尖らせていく。抱いた理不尽さは、どこにもぶるけることができない。やる瀬ない。

「…………」

「今年、クラスが別れてほとんど喋れなくなっちまったし、今年は受験だからこれから忙しくなるだろうし、部活のことだってあるし、気がついたらあっという間に七月だし……とにかく焦ってんだよ」

「……ご苦労さまです」

「とにかく!」

 智はくるっと勢いよく後ろを振り返ったかと思うと、ここにいる人物に言い捨てていくかのように言葉を口にする。それは足を前に踏み出すタイミングとほぼ同時だった。

「返事、待ってるからな」

「…………」

 食い逃げならぬ言い逃げでもするように、今は渡り廊下へと消えていった智の後ろ姿を視界に映し、ただただ大粒の汗を浮かべるしかない由衣。惚けたように、ぽかーんとした口を閉じることができずにいた。

 そんな間の抜けた姿、とても誰かに見られていいものではなく、ここが今は誰もいない理科準備室の前であることに感謝した。

(……いや、待ってるっていうか、そんなの今言ってあげたのに。なんで走っていっちゃうかな)

 今はもうその視界に智の姿はない。由衣には意味も分からずに突然投げつけられた言葉の不条理が、ここにきて少しずつ込み上げてきて……大きく吐息して、窓の外を見つめることにする。

 今日は気持ちのいい快晴だった。そろそろ梅雨も明けるのかもしれない。夏という活発的になる時期はもうすぐそこまで迫っていた。

(あー、教室戻ろ)

 ここでのことは一切なかったというか、すべて投げ出そうとする無責任さを発揮してみる。頭の切り換えである。さっきのことは自分のことではない。これはあくまで智のことであって、自分のことではない。なら、深く考えても仕方がない。また何か言ってきたら、そのときずばっ! と言ってやればいいだけのこと。だから今はもう、頭の隅にあるごみ箱にここでのことを投げ入れていた。

(うーん……なんか、当て逃げされた気分だな……)

 放課後。教室にはクラスメートであり親友の小野田おのだ明美あけみを待たせている。帰ろうと思ったタイミングで智にここまで連れてこられたのだ。きっと教室ではいらない詮索というか、勘繰りをされているに違いない。

 面倒なことになりそうな予感がひしひしとあった。

 気が重い。

 足取りも重い。

 自分はまったく悪くないというのに……不幸な思いがした。

(……そういえば)

 思った。

(ああ、初めてだ)

 生まれて初めて告白された。

(ふーん……もっとどきどきするもんだと思ってたけど、こんなもんなんだ。こんなの縁がないと思ってたけど、結果だけみてみると、なーんだ、あたしも案外捨てたもんじゃないじゃなーい)

 自然と口元が緩み、急に機嫌がよくなる由衣だった。

(うんうん)

 ここが理科準備室の前の廊下である以上、前には理科準備室がある。扉に嵌め込まれているガラス窓から覗くと、下級生の男子が掃除をしていた。廊下とは壁一枚を隔てているだけなので今のやり取りを見られたかもと思うのだが、箒を掌に乗せてどれだけバランスを保っていられるかに夢中な様子だった。ほっとする。

 その体を渡り廊下へと向けた。そちらに走っていった智を追いかけるわけではないが教室がそちらにあるので仕方がない。由衣は渡り廊下に向かって、南校舎二階の一番西側にある教室を目指していく。そこに三年I組の教室があるのである。

 今日はこれから明美の家に遊びにいくこととなっていて、由衣はとても楽しみにしていた。

 今週の木曜日から期末テストがあり、一週間前から部活は休みというか禁止となっていた。本来ならすぐ家に帰って勉強しなければならないのだが、せっかくの時間なので、遊ぶことにする。それこそが有効活用である。勉強なら夜にだってできるのだから。

 実際に夜やるかどうかは別として。

 気が重い。

「明美ぃ、お待たせー」

 教室に戻り、五、六人の女子が残っているのを目にしつつ、窓側の席に置いてある黒鞄を手にする。今日は部活がないのでいつものスポーツバッグはない。帰る準備はできていたので、鞄を持てばすぐ帰宅できる。長居はしない。長居すると、きっと厄介なことになるだろうから。

「よし、帰ろう」

「うわ、さらっとなかったことにしてるの? そういう神経が信じられないわ。ねぇねぇ、なんだったの、智のやつ? わざわざ呼び出しちゃったりして」

 にやける明美。ずっと由衣が戻ってくるのを教室で待っていた。その間、なんとなく甘い青春を感じるような妄想を膨大に膨らませて。そわそわして。そして、実際そういったことが由衣たちの間であったと決め込んでいる。である以上、すでにその頬は緩みに緩みまくっていた。大物芸能人の不倫について取り上げているワイドショーに、煎餅を齧りながら胸踊らせている主婦のように、猛烈に興味津々。なんとも忙しなく落ち着かないようで、後ろで縛った髪がぴょんぴょんっ跳ねていた。

「ねぇねぇ、なんだったの? 教えてよ? けちけちしないでさ。減るもんじゃないじゃない」

「うーん……多分、今、明美が思ってる通りだと思うよ」

「嘘ぉ!?」

 その言葉とは裏腹に、思っていた通りのやり取りがあったと確信していた明美。『まあ、なんて素敵なのかしら』と両の頬に手を当てていた。自分のことでもないのに、少し頬を染めながら。

「で、どうだった?」

「詳しくは帰りながらってことで。じゃあね、みんな」

 教室に残る他のクラスメートに手を振り、由衣は明美とともに教室を後にする。そそくさと。

(うわー、どうしよ?)

 まずは一階の下駄箱に向かうのだが、隣で目を爛々に輝かせている明美に、由衣は困惑するような呆れるような、その口からは出したくもない吐息が出るのだった。

(うわ、面倒だなー)

 今日はやけに蒸し暑かった。昨日も蒸し暑くはあったが。


「もったいなくないもったいなくない」

「えー、もったいないよー」

「そんなことないよー。全然そんなことない」

「あるよ。目茶苦茶あるよー。まったくもう、信じらんないわ。なんでこの子はもったいないことをー」

「……もー、しつこい」

 広橋由衣は頬を大きく膨らませる。直後に唇を尖らせていく。眉を寄せて、隠すことなく嫌気が差している視線を相手に向かって送っていた。

「なんであたしが智なんかと付き合わなきゃいけないの!?」

「だって、由衣はフリーじゃん。ってより、ずっとフリーじゃん。入学してからずーと。その前からもずーと。なら問題ないじゃん。ほら、付き合っちゃいなよ。それにそれに、智ってさ、女子の間じゃ結構人気あるんだよ」

「へっ……」

 まったくもって予想できなかった言葉を耳にして、全身の力が抜けたような、由衣はなんとも間抜けな表情を浮かべる。

「あ、そうなの? 人気があるの?」

「もしかして、知らなかったの? どこまで鈍感なんだ、この女は」

 勉強机の前、ピンクのクッションに腰かけた小野田明美は、できの悪い生徒に教えるエリート教師のような雰囲気を醸し出しながら、かけてもいない逆三角形の眼鏡を指でくいっと上げるような仕草。

「単純にさ、智って格好いいじゃん。頭だっていいし、運動神経だっていいしさ。サッカー部だって二年生のときからレギュラーだったし、ユーモアでおもしろいし。うん、言うことなし」

「頭がいいとか運動神経とか、そんなのあたし、別に興味ないけど。だって、智でしょ、所詮は。ないない」

「……この子、せっかく起きた奇跡をどうしてそうも無下にしようとするかね? こんなのもう一生ないかもしれないんだよ」

「あたしが男子に告白されるのが奇跡だっていうの? まあ、そうだけど……うわ、なんか悔しいな」

「いい、由衣。よーく思い出してみてよ。去年までのことを」

 明美は、一、二年と由衣とも智とも同じクラスだった。今年は由衣と同じだが、智とは離れてしまっている。三年I組と三年E組。

「クラスでさ、あいつの悪口言ってるやつ、見たことある?」

「うーん……あんまり……」

「じゃあさ、何かクラスが盛り上がってるとき、いつも智が関係してなかった?」

「うーん……そうだっけ?」

「隣のクラスの女の子なんかにも、バレンタインのチョコレートもらってたじゃん」

「知らないよ、そんなの。ってより、なんで明美、そんなに詳しいの?」

「呆れた……」

 大粒の汗。去年のクラスの女子だったら誰でも知っていることをこうも堂々と『知らない』と言い切られてしまっては、明美は苦笑するしかない。しかもそれを相手が真剣に言っていることが分かるだけに、始末が悪い。

 吐息。

「あのさ、由衣」

 感情が極めて薄く、とても淡白な口調で問いかけていく。

「あんた、どんなけ鈍いわけ?」

「し、失礼な。別にあたし、鈍くなんてないよー。どこをどう見たらそんな風に見えるわけ? もー、信じらんなーい。あたしね、直感だけで生きてるようなものなんだから……いや、違うけどさ」

「現状を鑑みるに、充分鈍いっての」

 明美のやきもき度数は臨界点に近づきつつあった。『こいつはもう破天荒なほど焦れったいぜ!』とばかり、座っているクッションをぱんぱんっ叩く。叩いて叩いて、そうして肩から力を抜いていた。

「……もうあんたが鈍いってのは分かった。いや、今までなんとなく察してはいたけど、今ので断固たるものとなったよ。まさかそこまで重症だったとはね。いい病院、紹介してもらおうね」

「いやいや、そんな風に、あたしに変なの押しつけるの、やめてくれるかな。全然鈍くないから。鈍いっていうか、あたしはこの尖ったナイフのような鋭さだけで人生を全うしようとさえしてるんだから……いや、もちろんまだ死なないけどさ」

 ベッドの上にある薄緑の布団に腰かけている由衣。冗談を交えてはいるものの、根底の部分としては相手が言っていることがちんぷんかんぷんだった。

 なぜ明美が、それほどまでに智のことを押してくるのかが分からない。それ以前、智のよさが分からない。まったく。これっぽっちも。クェスチョンマークは由衣の頭上で派手に点滅していた。

「にしても、智ってそんなに人気あったんだねー。へー、知らなかったなー。『わーわー、ぎゃーぎゃー』授業中でも平気ではしゃいでる傍迷惑なやつだとばかり思ってたよ……まっ、それはあたしも同じかもしれない、かもしれないと思う、かもしれないけどさ。んっ? 今のって肯定したことになるのかな? うーん、謎だ」

「由衣、これはいい機会だよ。もっと真剣に考えようよ。ねっ?」

 言葉に相応しいほど、明美は真っ直ぐな眼差しを向けていく。もうこの話題に関して茶化さないように。

「由衣はまだ気づいていないかもしれないけど、これはチャンスだよ。大チャンス。せっかく智から告白されたんだからさ、だったら付き合っちゃえばいいじゃん。付き合ったからってどうこうなるわけじゃないし、いやだったらいやだったらで別れちゃえばいいだけの話だからさ。ねっ?」

「それは駄目」

 由衣は大きく首を振る。そこには断固たる意思があり、絶対に曲げようとしない。

「そんないい加減な気持ちでなんて付き合えないよ、あたし。それに、智となんか付き合う気もない」

 由衣は一瞬、実に凛々しい顔つきをして、その数秒後、真夏の太陽でアイスクリームが溶けていくように表情が緩んでいく。

「だってだって、あたしはあたしは、うふふふ、どんなときも和兄かずにい一筋だからね」

「……そこは相変わらずなんだ」

「そりゃそうだよ。そりゃそうだったらそりゃそうだよ。あたしには、そうじゃないことなんて考えられないもんねーだ。そうじゃない? そうだよ。うんうん」

「……あ、そう」

 明美は吐息する。と同時に、なんとも悲痛というか、今までにはない暗い色をその表情に滲ませていく。

「……兄ちゃんは、その、あの……」

 なんとも気まずそうな明美の視界は、ベッドに腰かけている相手ではなく、その横に置かれているグローブを捉えていた。

 そのグローブ、所属するソフトボール部で使用しているもの。明美のポジションはセカンドで、ショートの由衣と抜群のコンビネーションで今日までダブルプレーの山を築いてきた。小学校からの腐れ縁で、揺るぐことのない親友である。それは今後も変わることはないだろう。

 だからこそ、今は視線を合わせることができない。

「……やっぱり、由衣と兄ちゃんとはさ、年齢差ってもんがあるんじゃ……」

「当たり前じゃん、そんなの生まれたときから変わらないよ。だって、二人とも毎年一つずつ年取るんだから。ってより、そんなの関係ないよ。だいたい、たったの四歳差じゃん。って、二年後の二十歳になった自分もろくに想像できてない今のあたしが言うのもなんだけどさ」

 少しだけ渋い表情。けれど、曇ったものはすぐ晴れ渡る。

「でもでも、夫婦として考えたらさ、四歳差なんてよくある話ってうか、別段おかしな話じゃないよね。でしょ? 普通だよ、普通。だって、たったの四歳差だもん。そんなのあってないようなもんだよ」

「そうだけど……その、あのね、年齢差ってのは、やっぱり経験の差であって、まだ高校に通ってる由衣とさ、社会に出てる兄ちゃんとじゃさ、多分、釣り合わないんじゃないかな?」

「うわっ、ひどい! それってなに、あたしに諦めろっていうこと!? 冗談じゃないわ!」

「その、諦めるっていうか……元々無理があるっていうか……」

 言葉を濁す。明美の胸にはとても重大な秘密事項が存在し、そのせいで心がどんどん重たくなっていく。思い切ってぶちまけてもいいが、まだそのタイミングではない気がしている。

 言いたいけど、まだ言うわけにはいかない。明美は困惑するように頭を左右に振っていき、やはり視線を逸らしながら言葉をつづける。

「……やっぱりさ、等身大の自分っていうか、その年齢にはその年齢の生き方があるっていうか」

「いいのいいの」

 目の前の明美にどんなことを言われようが、由衣の瞳に迷いはない。雰囲気として諦めさせようとしている気まずさからか、目を逸らしている相手のことをしっかりと見据えて、自分の考えが揺るがないものであると強く主張するように言い放つ。

「あたしは和兄と結婚するんだから。そしたら、明美なんてあたしの妹になるんだからね。ほら、お姉ちゃんに逆らわないの。いっぱいかわいがってあげるからね。うふふ、今から楽しみだなー」

「…………」

 返答に困ってしまう。この話題によって目の前の人間が嬉しそうにすればするほど、明美が抱え込んでいる懸案事項の重みが増していくばかり。心情として明美はこんな重荷をいつまでも背負っていないので、一刻も早く意を決したいところだが、だからといってなかなか踏ん切りがつくものでもない。

 近所に住んでて、由衣のことを小学校からずっと知っているからこそ、抱えている事実を口に出すことができない。

 言えるわけがない。

 由衣の望みが、もう叶うことができないものになってしまったなどと。

「……あのね、その……由衣さ、これからまだまだ長い人生、諦めっていうのも肝心っていうか、大事なことだと思うよ。手が届かないっていうのかさ、その……智にしときなよ。今まで近過ぎてその魅力が分からなかっただけで、よーく見てみると、格好いいと思うよ。そこに向き合ってみようよ。うん、それが現実的だ」

「うるさいなー。なんでそうも和兄を諦めさせたいんだか。なに、あたしの妹になるのが不満なわけ?」

「もちろん、それはそうだけど」

「きぃーっ! 即答ぉ!」

 由衣は全身全霊を込めたヒステリックな叫び声を上げた。ハンカチを持っていたなら、口に銜えて思いっきり引っ張っていたに違いない。ぎしぎしっと歯噛みの音は大きかった。

 と、その時、一階から声がした。由衣の耳ではよく聞き取れなかったが、声が低いものだったので、明美の母親のものではなさそうがである。

「あれ、おじさん帰ってきたのかな? あちゃー、もうこんな時間か」

 ベッドの枕元に置かれている目覚まし時計は午後七時を回っている。今はテスト前の期間で、本来なら放課後は勉強しなければならないのに、またそれ以外のことに使ってしまった。罪悪感が胸いっぱいに張りついていく。

「早く帰って勉強しないと、お母さんに殺されるー」

 二人の間には布団のかけられていない炬燵があり、その上に一時間前には紅茶が入っていたカップと袋の開けられたポテトチップスが置かれている。コンソメ味。帰りにコンビニで買ったものである。由衣はそれを二枚摘むと素早く口に入れると、ベッドに置いていた黒鞄を手に取った。

「そろそろ帰るわ」

「あれ、今日は夕飯食べてかないの? きっと用意してくれてると思うけど」

「うーん、それは魅力的な提案だけど、今日は遠慮しとく。これ以上、お母さん怒らせたくないし」

 と、その時、廊下から階段を上がってくる音が聞こえてきた。足音は階段を経て、この部屋の前で止まる。

「んっ?」

 ポテトチップスをしゃかしゃかっ噛みながら、鞄を手にしたまま子猫のカレンダーが貼られている扉を見つめる由衣。『あれ、誰だろう? おじさん?』瞬きの回数が増えていく。

「…………」

「明美ぃ、飯だってさ。入るぞ」

 声とともに扉が開き、半袖のTシャツ姿の小野田おのだ和人かずひとが部屋に入ってきた。耳にかかる髪が小さく揺れる。

「あれ、由衣ちゃん。そっか、来てたんだね、いらっしゃい」

「和兄ぃ! 今日は早いんだね? なに、もしかして仕事がうまくいってないとか? 不景気だからね、転職は大変だと思うよー」

「はははっ、馬鹿言ってんじゃないの。これでも、会社じゃエースとして活躍してんだから。うん、今のは五割以上嘘が混じってはいるけども」

 自分の虚勢を即座に訂正。和人は笑みを見せる。

「今ね、ちょっとだけ忙しさが過ぎてったってところなんだよ、最近。でも、今日はこれでも少しは残業してきたんだぜ。社会人は辛いよ」

「それはそれは、ご苦労さまです。日本経済の発展のために頑張ってください。全部、和兄の肩にかかってるからね」

 わざとらしく大きくお辞儀し、上げた顔に満面の笑みを浮かべる由衣。それはもう、ここにいることが嬉しくてしょうがない満面の笑み。その内側には今までにはない気持ちの高揚とときめきがある。

 どきどき。

「そうそう、和兄。今月の、えーと、あれは、何日だったっけ?」

 扉にカレンダーが貼られていたが、今は和人によって内側に開けられているためよく見えない。

「えーと、今月の最後の土曜日。何日かちょっと分からないけど」

「最後だったら、二十九日だと思うけど」

「じゃあ、その日。その日って、何か用事ある?」

「二十九日か」

 和人は少しだけ視線を上げて、考えるようにどこでもない虚空を見つめる。百八十センチと身長が高いため、視線の先は窓側の天井となっていた。

「……月末だからな。ちょっと忙しくなるとは思うけど。今は順調っていえば順調なんだけど、毎月追い込みが激しいから。うーん、どうかな?」

「駄目なの?」

「予定は未定ってやつであって、今はまだなんとも言えないところではあったりする……でも、今のところは休みの予定だよ」

「そ、そうなんだ」

 ほっと胸をなで下ろした由衣の表情が輝きだす。

「その日ね、試合があるの。県大会一回戦。その、あたしたち三年生だから、その……もし、もしだけど、その試合に負けちゃうと引退になっちゃうんだ」

 だから。

「だから、できれば和兄に応援にきてほしいかな、って」

「ふーん、由衣ちゃんは負ける気でいるわけね?」

「な!?」

 烈火のごとく目に力が入る。『失礼な!』と声に厚みが出た。

「んなわけないじゃーん! 和兄、馬鹿なこと言わないでよー。いくら和兄だからってね、言っていいこととそうじゃないことがあるんだからね」

 口に食べ物を溜め込んでいるリスのように、頬は膨れ上がった。

「勝つよ。絶対勝つから。和兄が来てくれるんだったら、絶対勝つから。いやいや、来てくれなくたって勝つけどさ。んなもん、引退試合になんかしてたまるもんですか。あたしの夏はまだまだつづくんだからね」

「そう。なら、よかったよ。その意気だよ、由衣ちゃん。そうやって勝つ気でいるんだったらさ、応援にいってもいいかな。なんたって、由衣ちゃんの頼みだもんね。そりゃ、いかないとね。あ、でも、急遽仕事が入ったらごめんね」

「本当ぉ!? 約束だからね。絶対の絶対だからね。嘘ついたら針千本だからね。魚じゃない方だからね」

「おう。魚の方もいやだけど」

 柔らかな笑みを浮かべてから、和人は視線を横にずらしていく。すると、そこには明美がいる。

「んっ?」

 その姿に、和人は僅かに目を見張り、小さく首を傾けた。由衣がいつも通りにぎやかなのに、明美はいつもと違ってどこか元気なく、下を向いていた。

「おい、明美、どうしたんだよ? 腹でも痛いのか」

「……別に」

「元気ないじゃんか」

「そ、そんなことないよ……」

「おいおい、どうしたよ? 変なやつだな。試合のことだって、言ってくれればよかったのに。かわいい妹の試合、応援にいくに決まってるじゃん。土曜日だったら、父さんたちも誘っていくよ」

「そ、そんな、の、いいよ。恥ずかしいからさ……」

「おいおい、そんな寂しいこと言うよ。お前にとって最後の大会なんだろ? なら、ちゃんと目に焼けつけとかないと。いいか? そんな試合なんてさ、今しかないんだから。もう来年はないんだぞ。だったら、家族で応援させてくれよ」

 和人は顔の横に人差し指を立てる。

「お前さ、今までずっとそうだったから実感ないかもしれないけど、試合とかそういうの、もう今年しかないんだからな。高校卒業したら、体動かすことなんてなくなっちまうんだからな。嘘じゃないぞ。びっくりするぐらいなくなっちまうんだから。そんなこと、授業がある今のお前じゃ想像もつかないかもしれないけどさ。だから、お前にとって最後になるかも、っていうなら、そういうのもっと大事にしろよ」

「……うん」

「よし、気合入れていけよ」

 自分の言葉に相手が小さく頷いたことを確認し、和人は由衣に視線を戻していく。すると、すぐ目が合っていた。

「そうそう、由衣ちゃん、ご飯食べてくでしょ?」

「うーん、そうしたい気はあるんだけどね、今日はパスかな? 実は、こんなに遅くまでお邪魔するつもりじゃなくてね。ここにいること、お母さんに言ってなくて……早く帰らないと怒られちゃうよ。あたし、全然勉強していないから。木曜日から期末テストだっていうのに」

「そうか、もうテストなんだっけ? 大変だね」

「いいよね、和兄はもう勉強しなくてさ。羨ましいよ」

「うん、そういう面ではいいかもしれないけど……でも、その分、社会人は社会人で、それまでにはなかった、かったるいような苦労がいっぱいあるんだぞ。特に上司との相性が合わなかったら最悪だからな。もう毎日地獄みたいなもんなんだから。思わず登校拒否したくなる、じゃなかった、無断欠勤したくなるよ」

「地獄なの!?」

「そうだよ。そりゃもう地獄だよ。うーん、そうだな……学校でいえば部活の先輩のしごきみたいなのがあるかもしれないけど、あれは肉体的なことがしんどいじゃん。しかも、一年か二年我慢すればいい話だし。けど、会社ってのは何年も同じ上司でさ、毎日毎日細かいことをうだうだ言うわけよ」

 こほんっと咳払い。

「机の上を整理しろとか、掃除をちゃんとしろとか、見積もりまだか、とか、とかとか。もう精神的にまいっちゃうんだよね。だから、入社してもすぐ辞めちまうやつだってたくさんいるんだから。人間関係のぎくしゃくで、鬱病になっちゃうとかさ。実際にそうなっているやつ、結構いるんだから。俺の同期のやつも鬱病になっちまって、三月からずっと休んでるんだぜ」

 和人はふと、『これから社会に出る人間相手に、あんまり脅してもいけないかも』と思い直し、つづけるはずだった言葉を呑み込み、曖昧な笑みを漏らす。

「まっ、おれは上司に恵まれてるのか、今のところはどってことないけど。仕事だって順調だし」

「順調なんだ、よかったね。和兄が仕事で落ち込んでたり、上司にいじめられてたらどうしようかと思っちゃった」

 和人の調子のよさが、由衣にはまるで自分のことのように嬉しく感じられた。本当によかったと思う。

 と、そんな由衣の頭に閃くものがあった。であれば、即座に提案する。もはや和人相手に遠慮なんてするような間柄ではない。

「あ、そうそう。ねぇねぇ、和兄、もうすぐ夏休みじゃん。でさでさ、今年も、よければプール連れてってよ。会社で割引券もらえるんでしょ? いきたいいきたい。また連れてってよー」

「プールか、そうだな、確か今年も事務所に置いてあった気がするな。よし、じゃあ、テストでいい点が取れたらな」

「えー、意地悪ぅ……」

 さっきまでの元気はどこへやら、急に表情を曇らせたかと思うと、頬を膨らませてみせる由衣。しかし、その頬をすぐ緩めていた。

 そのまま三人で一階の玄関まで移動し、由衣はスニーカーを履いて、見送ってくれる二人に胸の前で手を振った。

「お邪魔しましたー。じゃあね、また遊びにくるから」

「うん、いつでも大歓迎だからね。ああ、そうそう、由衣ちゃん由衣ちゃん」

 後ろを振り返って今まさに出ていこうとしていた由衣を呼び止める声。和人の声。少しだけ笑みが増す。

「今度ね」

 それは、日常生活における些細なものではなく、和人の人生の大きな分岐点を告げるもの。

「実はさ、おれ、結婚することになったんだよね」

 小野田和人。二十二歳。会社員。独身。婚約済。

 和人としてはなんとも珍しくはみかんだ笑みを漏らしながら、顔の横にVサインを作っていた。

「へへへっ」

「ぇ……」

 届けられた言葉……由衣の表情は一瞬して全身硬直となっていた。

(…………)

 最初はかけられた言葉の意味がよく理解できなかった。単語として意味するものは理解できていたのだが、それを口に出した和人とどう関係するのか、うまくつなげることができなかった。

 しかし、決して難しいことを言われたわけではないのだ、すぐ状況を把握することができるようになる。

『小野田和人が結婚する』

 同時に、由衣の瞳はぼやけるというか、すっかり焦点を失っていた。そればかりか、今がどこにいるのかすらろくに認識できなくなったほど、頭が真っ白となる。

 由衣にとって思わず我も忘れてしまうほど、いや、それどころか、後ろから巨大なハンマーで頭を思い切り叩かれたような凄まじい衝撃が、帰り間際に告げられた言葉に含まれていた。

(結婚……?)

 結婚する。和人が結婚する。

 告げられたこと、それはとてもこの世界の出来事とは思えなかった。和人と結婚するのは自分であるとずっと思っていて、それだけを今日まで一途に願ってきて、けれど、由衣は和人と婚約した覚えはない。

 だというのに、和人は結婚する。

 自分以外の誰かと、結婚する。

 結婚、する。

「……結婚って……和兄がってこと?」

「おう」

「結婚、する……」

「おう」

「…………」

 驚きというよりも、呆気というか、突きつけられた現実をうまく処理できなかった。思考することが困難となり、意識もうまく保つことができず、半開きの口を閉じることもできずにいる。急に足元が随分と覚束なくなってきて、まるで家具屋で寝ころんだことがあるウォーターベッドの上に立っているようだった。すぐにでも崩れていってしまいそう。

「…………」

 力をなくした由衣の視線、それが和人から僅かに右に逸れていく。

 そこには、終始俯いている明美の姿があった。和人のやや後ろの位置で隠れるようにして、何かに耐えているかのように下唇を噛みしめている。

 二階の部屋で由衣と喋っていたときはそんなことなかった。明美がそうなったのは、和人が現れたときから。それまでは楽しく喋っていたのに、和人がきてからは、ずっと下を見るばかり。

(……そりゃ、知ってたよね)

 同じ家に暮らす兄妹である以上、兄の結婚を妹の明美が知らないはずがない。

 そして、明美は由衣が誰を慕っているのかも知っている。

 だからこそ、今はああしてろくに顔を上げることもできないのだろう。明美をそうしてしまったのは、他でもない、由衣自身だった。

(……そっか)

 これまでの自分の視野の狭さのせいで、ろくに見えなかったものが、不意にジグソーパズルのピースが次々と埋められていくようにはっきりと認識することができた。智に告白されたことをまるで自分のことのように喜んでいた明美の気持ちが、今なら手に取るように分かる。

 これまでずっと、親友に気遣わせてしまっていた。

 申し訳ない。

(……そっか、結婚するんだ)

 ゆっくりと視線を和人に戻す。

 今日までずっと追いかけていた存在。慕ってきた人物。それが今はこうして手を伸ばせば届く距離にいるというのに、急に遠くにいってしまった気がした。もう触れることもできないほど遠くに。

「……おめでとう、和兄」

「おう」

「よかったね。うん、よかったよ。よかったよかった。めでたいね。はははっ」

 今の声、少し震えてしまったことに、その胸に重たいものを抱える。どうしようもなく不安定な気持ちになったものを落ち着かせるために、心の中で素早く一から十まで数えていく。

 吐息。

「じゃ、じゃあね、また、遊びにくるから」

 由衣は別れの言葉を告げ、和人と明美のいた玄関を後にした。そうした以上、もう後ろを振り返ることはしない。

 そんなこと、できるわけがない。

 保ってきた感情が、一気に零れ落ちてしまうから。

(ぃ!?)

 玄関を出てすぐ、右足を前に踏み出して、左足を踏み出して……そして、由衣には込み上げてくる激情があった。鼻の頭が熱くなってきたと思ったら、もうじっとなどしていられない。

「っ!」

 考える間もなく、込み上げてくる衝動に従うように、由衣は駆けていた。走る走る走る走る。日が落ちてすっかり暗くなってきた住宅街を髪を靡かせながら力いっぱい駆け抜けていく。


 夜。部屋の照明を点けてはいない。ベッドの上で仰向け。目を開けて、ただただ暗い天井を見つめている。

 広橋由衣。

 帰ってきたままの制服姿。胸に赤いリボンのある白シャツに、チェックのスカート。ベッドの上、肩にかかる程度の髪を四方八方に広げていた。

 自分がそんな無気力状態になるなどと、今日の夕方までは思いもしなかった。

(…………)

 まるで絶頂の恐怖に追いかけられているみたいに、明美の家から全力で走って帰ってきた。用意されていた夕食に手をつけることなく、急いで二階の部屋に入っていったかと思うと、照明も点けることなく倒れるようにしてベッドに横たわっていき……三時間もの間、ただ、そこでそうして、横たわっていた。目を閉じることもなく。

(…………)

 帰ってきたばかりの頃が信じられないほど、今は感情の起伏がなくなっている。荒れ狂っていた波が平穏を取り戻してきれいな水面になったように、心が静寂なものになっていった。

 薄いカーテンが引かれている窓からは、街灯の明かりが入ってくる。窓を開けていたため、虫の音も届いてきた。窓の近くの本棚には背表紙がピンク色の漫画が並んでいて、ソフトボールのグローブが机横の絨毯の上に置かれている。

(…………)

 由衣の頭、とても冷静な部分が、静かに思考を開始する。ここにきて、ようやくそれをすることができていた。

(……どんな)

 天から一雫の水滴が落ちたときのように、きれいだった水面が波打つ。それは波紋となって一気に大きく広がっていく。そうして波は、由衣の心の奥底まで伝わっていくこととなる。

 これでようやく、突きつけられた現実と向き合う自分ができた。

 もう狼狽したりしない。

(どんな顔、してたんだろ?)

 まったく想像もできなかった。明美の家の玄関で、不意に和人が結婚することを伝えられたとき、いったいどのような表情を浮かべていただろうか?

(きっと変な風になってたんだろうな)

 あの瞬間のことはもう思い出そうにも思い出せないぐらい、記憶がぶっ飛んでしまっている。和人の言葉はあまりに突然のことであり、内容がとてつもなく衝撃的なもので、もう我も忘れるほどにパニックだったに違いない。ただ、それを悟られないように、平然を装って対応しているつもりではいた。その虚勢は張れていたと思う。

 けれど、冷静になって振り返ってみると、そんなの薄っぺらのものでしかないことが今の由衣ならよく分かる。感情の乱れ、心の混乱、存在の揺らぎ、とても誤魔化すことはできなかっただろう。

 少なくとも、ずっと気を使わせていた明美には。

(いやだなー……)

 頭が重い。もう一生会えないならそれでいいが、そんなことはない。近所に暮らしているのだから、顔を合わせないわけがないのだ。

 それに、あれが最後なんて、そんなのいやだった。

(あー、次会ったとき、どんな顔してればいいんだろ……)

 とても憂鬱な気分で、ただただ特大の溜め息を漏らしていた。

(…………)

 長年追い求めていた夢が散った。まだ芽も出すこともなかったというのに、あの一瞬ですべてが吹き飛んでいってしまった。それはもう無残なほど残酷に。ぱっと火花が散るほどきれいなものでもなく。どうすることもできずに。どう抗うこともできずに。どこにも縋ることができずに。夢は一瞬にして消えてしまった。

(……明美も、きっと今日まで辛かったんだろうな)

 和人が結婚を知らされたとき、その場に立ち会うこととなった明美の気持ちについて考える。和人が結婚することを知りながらも、由衣の気持ちを知っているばかりにそれを打ち明けることができなかったのだろう。そんな明美の心情を考えると、ただただ申し訳ない気持ちでいっぱいだった。自分のせいで、今日までいらないものを抱え込ませてしまって。

『自分はなんという業を抱え込んでいたのだろうか? こんなことで誰も幸せになることもなく、そのせいで親友を苦しませてしまって』

 そんなことをしていた自分に、そして、その行為による影響をろくに感じることができなかった自分自身に、激しい怒りと憤りを感じていた。

(あーあ……)

 仰向けの状態から、ばたんっと寝返りを打つ。帰ってきてからまだ着替えていないので、そんなことをしていれば制服の白シャツが皺になってしまうが、そんなこと気にかけるだけのゆとりはなかった。

(まだ振られてもいないのに……)

 振られることすらできなかった。

 気持ちを告げることすら叶わなかった。

『後悔』という大きな二文字が由衣の体を蝕んでいた。

(…………)

 そうしてまた由衣は、現実から逃れるように放心していく。

(…………)

 この世界に生きている由衣が、こうしてベッドで横たわるだけの生命として非効率な過ごし方をしていたところで、時間というものは確実にそのときを刻んでいて……数時間もすると明日になり、朝となり、ベッドから起き上がって学校にいかなければならなくなる。今は、学校にいくという当たり前のことができるような状態にあるとは思えなかった。

 だからといって、仮病を使おうにも実に鋭く無茶苦茶厳しい母親に見抜かれるだろうし、天変地異が起きれば登校しなくてよくなるかもしれないが、そう都合よく起きるわけがない。起きるともっと悲しいことになるだろうし。

 とにかく、こうして横たわることしかできない今の由衣には、数時間後、学校にいる自分がとても想像できなかった。

『いったいどんな顔をすればいいんだろう? 明日、明美と、どんな話をすればいいんだろう?』

 悩んでいたところで、結論が出ることはない。そうして答えを出せないままに悶々と過ごしていくしかなく、このまま翌朝を迎えること……由衣はそうなってしまうことが容易に想像できていた。顔なんて物凄く腫らせて、目の下に隈を作って。とても人前に出ていける顔ではない。

(…………)

 大きな息が漏れる。再び仰向けとなり、膝を持ち上げるようにして曲げ、腹筋を使ってゆっくりと上半身を起き上がらせた。照明は点けていないが、それでも勉強机の輪郭ははっきり見ることができる。

(……お腹空いた)

 時間の経過とともに、その体はエネルギー補給を求めていた。

 由衣は、そこに避難するかのように居ついていたベッドを後にし、ようやく制服から部屋着のスウェットに着替え、部屋を後にし、水玉のあるスリッパを履いて、暗い廊下から階段へ向かって、明かりを点けることなく一階まで下りていって、リビングの照明を目にする。

 リビングにはソファーに腰かけてテレビを観ている母親がいた。父親の姿はない。もう就寝したのかもしれない。

 由衣は、これまでずっとベッドで横たわっていたので髪がぐしゃぐしゃになっていることに気づくこともなく、ただ込み上げてくる自分の欲求を満たすためにリビングに顔を突っ込んで声をかけていく。

「お母さん、ご飯食べたーい」

 食事は生きている者にとって必要不可欠なもの。そうやってエネルギーを摂取しないと活動できなくなってしまう。だから、頭のどこかでは、いっそのこと爆弾でも破裂させてきれいさっぱり死んでしまいたい気持ちもあるが、気持ちだけであって本当に死にたいとは思っていない。少なくとも、今月下旬にあるソフトボールの大会には出るつもりである。そのために練習してきたのだから。

 だとしたら、これからも由衣が生きていくのだとしたら、そのためにはエネルギーを摂取する必要がある。

 空腹を得ているのだとしたら、満たさなければならない。

 これからも生きていかなければならない。

 どんなに惨めな思いをしたとしても。

「これから、ちゃんと、勉強するから。ご飯、食べたい」

 明々後日からは期末テストである。それが終わると、いよいよ今月下旬の県大会に向けて高校生活最後の部活動に汗を流さなければならない。

 由衣にはやらなければならないことはたくさんある。もうベッドの上でうだうだなんてしていられない。時間はあまり残されていないのだ。

 だから、そのためには、まず活動を可能とさせるエネルギーが必要である。

「いただきます」

 不思議なことだった。

 物凄く寂しい気持ちだというのに、涙が流れなかった。

 そうできていれば、はっきりと踏ん切りがついたかもしれないのに。

 気持ちがすっきりできていかもしれないのに。

 けれど、由衣の瞳から涙は出てくることはなく、由衣の深い底の部分に溜まっていく一方だった。

「ごちそうさまでした」

 だいぶ遅くなった夕食は、とてもおいしかった。次から次におかずが口へと消えていったのである。

 こうして由衣は、生きていくのに必要なエネルギーを摂取することができた。

 これなら、明日も生きることができる。


       ※


 七月十一日、水曜日。

 本日は大名希北高等学校で行われた期末テストの最終日。

「あー……」

 たった今、帰りのホームルームが終わったばかり。黒板の上にかけられた丸時計は十一時三十分を少し回っている。教室の雰囲気は、テスト期間中ずっと重々しく淀んでいた空気が、強力な換気扇と空気清浄機によって、きれいさっぱり洗浄されているようだった。

「あー……」

 周囲にいたクラスメートは、ようやくいやなテストが終わった解放感から、みんな笑顔でこの教室を後にしていく。遊ぶ約束をしていたり、午後からの部活について笑顔で話し合っている。

「あー……」

 だというのに、無残なほどに覇気がなく、まるで死んだ魚のような目をしていて、席から立つこともなく、『あしたのジョーの最終回で、リング中央で世界チャンピオンのホセ・メンドーサの判定勝ちの様子など眼中になく、リングサイドで、椅子から立ち上がることもなく真っ白に燃え尽きた矢吹やぶきじょう』と同じような状態で、がっくりと肩を落としている広橋由衣。突っ伏した机から起き上がることもできなかった。もしかすると、今の由衣相手なら、てこの原理も成立しなくなっているかもしれない。

 今日までの五日間の期末テスト。由衣はいちいち振り返るまでもなく、どれも洒落にならないさんざんなものだった。『今日で地球が滅んでしまえばいいのに』そういった感情のどす黒さが自身の内側に大きく渦巻いていた。

「あー……」

「ちょっと……大丈夫、由衣? 部活、今日は休む?」

「んっ……?」

 すぐ前に、とても心配そうにこちらを覗き込んでいる小野田明美の顔がある。今日もいつものように後ろで髪を縛っていて、なんだか今はそれが元気なくしなだれているように見えたのはあくまで由衣の主観で、現実はそんなことないのだろう。明美が元気ないはずがない。

「ううん。部活はぁ、頑張るぅ。頑張りまーすぅ」

「いや、とても頑張れるようには見えないけどね……」

 魂が抜けたような由衣の姿に、明美は苦笑するしかない。『こいつはいったいどうしたもんか!?』と困惑するように頬をぽりぽりっ掻いていた。

 由衣のこの覇気のない状態、明美には無理もないことだと思っている。なんたってずっと憧れていた人が、それ以上に自分が結ばれると信じていた人間が、あろうことか自分以外の人間と結婚してしまうのだ。しかもそれを面と向かってそれを本人に告げられてしまった。

 明美は和人の結婚を知っていながらも伝えることができなかったことに、ずっと大きな罪悪感を抱いていた。親友だからこそ正直に話すべきなのだろうに、けれど、親友だからこそ話すことができなかった。そうしてずるずるといやなことを先送りにして、とうとう先日のあの場面を迎えてしまった。いつかそういう日がやって来ると分かっていながらも。

 申し訳ない気持ちでいっぱいだった。隠していたこと、謝っても許してもらえるとは思えない。けれど、そんなこと気にしていないかのように、翌日由衣は笑顔で声をかけてきてくれた。その点については救われていた。親友を失わなくて本当によかったと思っている。

 しかし、だからといって、現実の由衣の姿を見る限り、明美にはあのショックからとても立ち直れているように思えなかった。受けたショックを引きずって引きずって引きずって引きずって、由衣自体も地面に引きずられて、擦れて削られていって、存在そのものが削り取られていって、そのままばらばらになって消えそうな気さえした。それほどまでに由衣の姿は重症であり、もう見ていられないほどさんざんたるものだったのである。

「と、とにかく、お昼食べにいこ。じゃないと練習どころじゃないって。何でもいいよ? パン買ってきてもいいし、ここは思い切ってカレーでも食べにいっちゃう? しかも、大盛りいっちゃうとか? ラーメンでも何でもいいけど?」

「あたし、今、あんまり、食欲、ないんだよねー……」

 と言いながらも、由衣はあの日から三食きっちり食べられてはいる。ただ、食事にしろ勉強にしろ、これまでのように集中することができなくなっていた。失ったものがあまりにも大きくて。

 生活していくことがこれほど辛いものなのかと、由衣は十八歳にして初めて痛感させられていた。

「あー……」

 ずっと開けられたままの口からは、いつ魂が抜けていってもおかしくない。

「あー……」

「駄目だよ、ちゃんと食べなきゃ。由衣、ファイトだよ。いやなことも全部、部活やれば発散できるって」

 明美はいつも励ましているように背中をぱんっと叩くも、相手からの反応があまりにも薄いことに、大事な試合を控えている身として、一抹どころか億抹の不安を感じていた。『こんなことだったら、自分がもう少し早く伝えられていればよかったかな』そう思うと、心が痛むばかりである。

「ほら、立って。やっとテストが終わって、今日から部活できるんだよ。頑張んないと。そうだよ、今日まで部活できなかったから、そんな風になっちゃったんだよ。体動かせばすっきりするって。試合だって近いんだしさ。試合、兄ちゃんに応援にきてもらうんでしょ……あっ……」

 慌てて口を塞いだところで、出てしまった言葉を取り消すことはできない。目を大きくさせて『しまった』と表情が物語っている明美は、胸の前で指をもじもじっさせながら、呟くように謝罪する。

「……ごめん、由衣……」

「んっ……? あー、ううん、気にしないで。うん、気にしないで。ほんと、気にしなくていいからね」

 無理して浮かべた笑みで、帰りのホームルームから今まで机に突っ伏していた由衣はようやく立ち上がった。今日は部活があるので青いスポーツバッグを教室後部のロッカーに取りにいく。

「じゃあ、ご飯にしよっか? コンビニいってさ、ついでケーキも買っていいかな? 猛烈に食べたくなってきちゃった、甘いもの。あたしという存在そのものが甘いものを求めています。どうしても食べたいです。ケーキを食べたいです」

「いいよいいよ。じゃんじゃん食べちゃおうよ」

「あれれ? おかしいな? 明美、いつもはダイエットとかうるさいのに、今日はやさしいんだね」

「そ、そう? えーと……それは、あれだよ、あれ」

 明美の目が猛烈な勢いで泳ぎまくる。

「その……日本人は、もっと食べられる幸せを大事にするべきなんだよ。そうだ、そうだよ」

「うん、そうだよねー。明美、いいこと言った。珍しくいいこと言ったよ。うんうん。その通り」

 そうやって言葉を口にする由衣の目はとても遠いもの。まるで焦点がこの世界に存在しないかのように。

「世の中には食べたくても食べられない子供がたくさんいるんだもんね、食事はもっと大事にしないといけないよね。だからあたし、わざわざ食料を買うことができるお金を払ってまでジムに通ってダイエットする人間にだけはなりたくないなー。痩せたいなら、その辺走ってろってんだ」

 と、現代社会に鋭いメスを入れながら、なんとも危なっかしい足取りで教室を後にしていく由衣。ここまで蓄積されてきたダメージにより、アルコール摂取を疑われそうなほどよろめきながら歩いていた。

「……あっ」

「……よっ」

「……うん」

 由衣が廊下に出てすぐ、階段に辿り着く前に、井上智と向き合うこととなった。相手は、まるで由衣のことを待ち構えていたように立っていたのである。視線はすぐぶつかっていた。

 その瞬間、由衣の心、ずしりっと重たいものがしかかる。

「……や、やあ。久し振り、かな?」

「あのさ、ちょっといいか?」

 智は北校舎を指差す。先週も放課後、同じ相手に同じことをしていた。しかし、あの時よりは今の方が断然落ち着いている。前回はろくに相手も見ない押し売りのようなものだったのだが、今はしっかり相手の目を見ることができている。その分、気は楽だった。

「すぐ、だから」

「あー、うん……そうだよね……」

 智の登場とこの展開に、由衣はなんとも気まずそうにゆっくりと後ろを振り返り、『あはははっ。ちょっといってくるよ。ごめんね。先にいっててもいいからさ。ごめん』そう明美に言い残して、先にいった智の背中を追って渡り廊下へと向かっていく。

(そうだよね。そうなんだよね。これがあったんだよね)

 前をいく背中に、由衣の内側に渦巻く気の重さが増していた。暫く視線が上げられないほど。

(忘れてたー)

 胸がちくりっと痛んでいた。


 放課後。北校舎にある理科準備室の前の廊下。先週と同じ場所で、同じ二人が向き合って立っている。前回、告白した人間と、された人間。

 告白された人間は、冴えない頭を抱えたまま、けれど、ちゃんと相手を見据えて話しかけていく。

「智さ、テストどうだった? あたしは全然駄目だったよー」

 今日までの期末テスト五日間を振り返って、それはもうこの世の終わりを眼前にしているように、がっくりと大きく肩を落とす由衣。『絶望』という二文字に押し潰されているみたいに。

「まっ、中間はそんなに悪くなかったから、追試とか補習なんてことにはならないだろうけど。ああ、これでもあたし、そういうの一回も受けたことないんだからね。あれ、もしかして疑ってる? ほんとにないんだから……にしてもショックだなー。結構勉強したつもりだったのになー」

 部活が禁止されているテスト期間にはテスト勉強をするものである。当たり前。由衣は自分の部屋で、教科書とノートが開いて置いている机の前には座っていた。だが、座っているだけで、教科書を見つめているだけで、なかなか手を動かすことができなかったのだ。数分に一回、二回動いたとしても、そんなのすぐ止まってしまう。テスト期間中、まったくもって勉強に身が入らなかった。もう呆れるほどに。

 それは先週、明美の家の玄関で受けた精神的ショックを引きずり、吹っ切れることができずにいたから。だから、勉強に身が入らなかった。

 やはりショックだった。『ショック』という言葉では表せないほどショックだった。あれほど強く思っていた願いが、予告も予兆もなしにああも見事にばっさりと一刀両断に切り捨てられてしまったのだ、悔しいやら、やる瀬ないやら、さまざまな感情が渦巻いて、それをうまく整理できずに、気持ちは一向に切り換えることができずに、あろうことか大事な期末テストをふいにしてしまったのである。今年は大事な受験があるというのに。

「あー、もうしっかりしないとね。もうすぐ大会なんだから、テストは駄目だったけど、部活ぐらいはちゃんとやらないといけないな。うん、三年間の集大成だもんね。後悔だけはしたくないよー」

「……お前さ、どうかしたのか?」

「んっ?」

 なんとも不思議そうな顔をしている正面の人物に、言われていることが分からずに首を傾げる由衣。

「どうかって?」

 自分の服装を見回す。制服の白シャツに胸には赤いリボン、チェックのスカートは膝よりも高い。

「おかしい?」

「いや、服じゃなくて。その……なんとなく、いつもと違うっていうか。その、お前の雰囲気がさ」

「うーん……」

 クラスの違う智にまで現在の落ち込みを悟られるほど、由衣は不安定な心情を隠せずにいたのだろう。そう気づかされ、馬鹿正直に内面が態度に出してしまう自分の経験不足に、苦笑いを浮かべるしかなかった。

 小さく息を吸い込み、身を引き締める。

「あ、いや、だからさ、テストが悪かったの。さっきそう言ったじゃーん。はははっ。採点なんて待つ必要もないぐらい、ずたぼろだよー。あー、もー、今すぐ怪獣が来て、この学校踏み潰してくんないかなー。そうじゃなくてもさ、最低限、テストは燃やしていってほしいよねー」

 由衣は、物騒なことをあっさり言い放つ小学生のような発言をして、『もー、まったく、やってられないよー』とばかり勢いよく天井を仰いでいた。

 昼間なので点けられていない照明を目にしながら、小さく下唇を噛みしめる。ゆっくり目を閉じて、全身という全身からいやなものを出すように長い息を吐き出してから、再び正面の人物を見つめた。

 処理すべき問題は、まだ眼前に残されている。

「で、智はどうだったの? あんたのことだから、どうせまたよかったんでしょ? いいよね、あんたみたいに頭よかったら、テストが楽しくてしょうがないじゃん。いっつも掲示板に掲載されてさ。あー、羨ましい。一回ぐらい載ってみたいもんだよ、卒業しちゃう前に」

 この大名希北高等学校では、テストの科目ごとに上位者を職員室横の掲示板に貼りだすこととなっており、智はその常連だった。一年生からずっと、そこに名前を連ねないことがなかった。

「また一番とか? いいなー。他はともかく、数学とか理科の点数は半分分けてほしいよー。いや、今回に限っては、あらゆる科目を分けてほしいんだけどねー。あー、大きな地震が起きて、この学校だけなくなってくれないかなー。地割れが起きて、校舎がすっぽり沈んじゃうの」

「…………」

 相手の言葉を半分耳にしながらも、もう半分の感覚で智は意識的に息を吸い込んでいく。哀れなほどに多くの嘆きの言葉を口にする由衣を目の前に、智は相手に気づかれないように呼吸を整えた。それは、相手には気づかれていない程度ではあるが、乱れていたからである。意識的に息を吸って、吐いて、また吸って、吐いて……鼓動が乱れないようにしようとするも、不思議と手が震えて仕方なかった。後ろで組んで相手に悟られないように努めることにする。吸って、吐いて。また吸って。吐いて。

 乱れていたものが整うかどうかという、次の瞬間、後ろで組んでいた手にぐっと力を入れた。

「……あのさ」

 心の揺れ幅は大きかったが、しかし、かけた声がまったく震えていなかったことが、智に次の言葉をつづけさせる勇気を持たせていた。

「……おれも、あんまりだったよ」

「はっ?」

「テストのこと。おれも駄目だった。いつものようにはいかなかった。ホント、駄目だったよ」

 視線が僅かに下がる。同時に喉が鳴っていた。水分補給ができるのなら、すぐにでも喉を潤わせたい。

「全然、その、勉強しようにも集中できなくてさ……だから、駄目だった」

「またまたー、そんなこと言って、ほんとはちゃんとできるくせにー。頭いい人って、平気でそういうこと言うよねー。それ、結構残酷だと思うなー。あたしたちみたいなできない人間にとってはさ」

「いや、駄目だった……駄目だったから」

「……あのね、慰めなんかで、嘘ついてもらわなくていいからね」

「嘘じゃねーよぉ!」

 出した声。意図してではなく、大声となっていた。すぐ我に返り、現状をどうすればうまく処理できるのか考えるがまったくいい案が思い浮かばず、ただ気まずそうに視線を下げつづける智。

 口からは小さな声が零れるように出ていく。

「……ごめん」

「…………」

「……本当なんだ、テスト、できなかった。全然駄目だった」

「……あ、う、うん。そ、そう、なんだ。そう……えーと、あはは。智にしては珍しいね。どうかした?」

 由衣からすれば、そんなの単純な疑問でしかなかった。

『なぜ頭のいい智が、今回の期末テストに限って調子が悪かったのか?』

 いてみる。

「山が外れたとか?」

「山っていうか、その……」

「お腹でも痛かったの?」

「…………」

 智の下げられた視線は、まだ上げることができない。汗は額を伝って、リノリウムの床に落ちていった。

 そのまま言葉を口にすれば、目の前の相手にすら届かずに床に落ちていってしまうかもしれない。けれど、どうしても顔を上げることができずにいた。

「……そんなの、お前のせいに決まってるだろ……」

「はぁ……?」

 口を半開きにした由衣の表情が、たっぷり三秒間硬直し、

「……あたしぃ!?」

 目が巨大化する。意味もなく自分を指差しながら、声は素っ頓狂に裏返っていた。

「あたしのせい!?」

 とばっちりとしか思えない現状に、裏返った声をなかなか戻すことができない。

「いやいやいやいや!」

 納得いくわけがなく、もちろん抗議する。

「な、な、な、なんであたし!? あたしがなんであんたのテストに関係あるのさ!? いやいやいやいや、濡れ衣ですけど。思い切り濡れ衣なんですけど」

「……全部、お前のせいだろうが」

 また智の喉はごくりっと鳴る。次の言葉を吐き出すために、意識して大きく息を吸い込んでいた。

「お前が、その、なかなか、返事、くれないから」

 智が由衣に告白した日は先週の二日、月曜日。本日は十一日の水曜日。その間に五日間の期末テストがあった。本日はその最終日である。

 智は告白した。由衣に恋の告白をした。けど、その返事をまだもらっていない。そんな生殺しのような状況で、テスト勉強に集中できるはずがない。もう気になって気になって仕方なかった。

 そうして今日、とうとう待ちきれずに、放課後、このシチュエーションがある。

「……だから、ちゃんと、責任、取ってくれよ」

「せ、責任ってね、それは言いがかりだと思うんだけど。こっちが言おうとしたら、そっちがすぐ帰っちゃったんだしさ……だいたい、あんたはあんたで大変だったかどうかはともかくとして、あたしだってね、あたしはあたしで無茶苦茶大変だったんだからね」

 あの日以来、由衣も由衣で大変だった。間違いなくとんでもなく大変な日々だった。ずっと追いかけていた大好きな人の背中が、突然遙か彼方に飛んでいってしまったのである……あろうことか、まだ振られてもいないのに、もう追いかけることもできなくなった空虚感に、ただただ打ちひしがられていた。

 もちろんそんな状況では、テスト勉強などできるはずがない。 ただただ無益な時間を過ごすこととなり、どうにもすることができずに、気がつけば期末テスト最終日を迎えていた。さんざんたる結果を残して。

「そうか。そうだよ。いい? よーく聞いて。テスト、あたしも駄目で、あんたも駄目なら、これでちょうどイーブンじゃない? うん、お相子あいこだよ、相子。なら、恨みっこなしってことで」

「……全然イーブンじゃねーだろ」

「やっぱり……」

 反射的に小さく出した舌を、手を口元に当てることで隠している由衣。舌を引っ込ませるのと同時に、唇を尖らせる。

「じゃあ、いったいあたしにどうしろっていうの? テストなんて、もう終わっちゃったわけだし。取り返すことなんてできないよ。できたらあたしがしたいぐらいだよ。ほらほら、どうすんの?」

 なぜか強気の口調で言い放つ。由衣は開き直っていた。

「ってよりさ、早くご飯食べて部活にいかないといけないんだけど。試合も近いんだし、練習があるんだよ。だから、ほら、とっととしなさいよ」

「だから、その、だな……」

 智の視線が僅かに逸れる。同時に耳が赤くなっていた。

「……返事を、聞かせてくれよ」

「返事? もしかしてもしかすると、あの時の」

「……それ以外に何があるんだよ」

「だよねー」

 だとすれば、迷うことはない。返答は決まっている。由衣は少しの間も置かずに言葉をつづけていく。

「うーんとね、智には申し訳な……」

「あれぇ、由衣じゃん」

「んぐ……?」

 突然あらぬ方角からかけられた声に視線を向けてみると、由衣と同じ胸に赤いリボンをつけた女生徒がゆっくりと近づいてくる。それは階段の方の下の方から。

 それは由衣の知っている女子生徒だった。

ひめぇじゃんか。どうしたの?」

「ちょっと職員室に寄ってたんだよ。日直でね」

 白井しらい姫香ひめか。耳にかかる程度の女子としてはとても短い髪で、由衣と同じソフトボール部に所属しており、ポジションはピッチャー。エースである。

「なことより、由衣こそどうしたのよ、こんな所で?」

 それは姫香としては単純な疑問であると同時に、心情的にはどうしても尋ねておかなければ気が済まない重要な確認事項でもあった。いちいちそちらに首を動かすこともなく、その視界には智の姿がある。しかもこんな理科準備室の前の廊下というあまり人気のない場所で。

 この状況、姫香にとっては是が非でも、今後の人類がどういった滅亡の道を辿ろうとも追及しておかなければならない。

「井上君と、何話してるの?」

「あ、うん。あ、いや、智がね……」

「うわっ! ば、馬鹿!」

 顔の前で大きく両手を振りながら、一歩、二歩、三歩、四歩、五歩、素早く後退っていく智。姫香の登場に、狼狽する。

「馬鹿。そんなこと、こんな状況で言うことないだろうが」

「えっ……だってだって、さっき言えって言ったじゃーん。っていうのか、馬鹿ってひどくない?」

「こ、今度でいいよ。今度でいいから。じゃあな」

「あ、そうなの、なーんだ。じゃあね、ばいばーい」

 第三者の登場により、慌てて渡り廊下へと消えていった智に苦笑しながら、由衣は組んだ手を天井に向かって大きく伸ばしていた。脱力させて腕を振り下ろすと、なんだか無償に疲れた気がした。

「あれ?」

 考えてみると、結局また返事はできずじまいになったのだが、由衣にとって痛くはない。すべては智の問題である。しかも今回は悪くない。智が返事をする前に帰ってしまったのだ。そう思うと、ちょっと肩の荷が下りていた。

「あー、お腹空いた。そうそう、姫ぇは昼どうするの? 明美と一緒にコンビニいく予定なんだけどさ」

「ちょ、ちょっと」

「ケーキ食べるんだー。もう野獣みたいに貪るように食ってやるんだから。あたしって腕白だなー」

「ちょっと待ちなさいってば」

「んっ?」

 ここに呼び出した人間がいなくなったのだ、だとすれば由衣がここにいる意味はない。教室に昼食を一緒にする明美を待たせているので、早く教室に戻るべく足を渡り廊下の方へ踏み出したのだが、しかし、なぜか後ろから姫香に止められた。それもぐいっと肩を掴まれてまで。

「どうしたの、姫ぇ? 早くご飯食べにいかないと」

「ここで、何してたの? その、井上君と一緒に」

「んっ? ああ、別にぃ。全然大したことじゃないよ。うんうん」

『ほんと、いちいち言うことじゃないよ』と涼しい顔をして、渡り廊下へと向かおうとするのだが、今度は腕を掴まれた。それも力強く。

「もー、姫ぇ、どうかしたの? ちょっと変だよー」

「言いなさいよ」

 ここは譲れないとばかり、口調が少しだけ強くなっている姫香。睨みつけるように視線を鋭くして。

「井上君と、ここで、いったい何してたっていうの!?」

「だから、大したことじゃないってば」

「だったら言えるでしょ!?」

「そうだけどさー……とにかく、まず手を離してよ。痛いから」

「…………」

 姫香はピッチャーである。握力も部員でナンバーワン。無意識に力が入っていたことに気づき、それは感情が乱れているからこそそういうことになっているのであって、だからこそ、姫香は自身を落ち着かせるように意識して鼻から息を吸い込んでいく。吸って、吐いて、吸って、吐いて。

 改めて問う。

「教えて」

「いやね、姫ぇがきたからさ、なんだか中途半端になっちゃったんだけど、さっきね、まさにあたしが智のことを振るところだったんだよ」

「振る……?」

「うん」

 渡り廊下に消えていったのはついさっきのことで、まだ智が残っているだろう南校舎の方に顔を向け、つづける。

「いつだったかな? 先週のー……忘れちゃった」

 その日、由衣はずっと好きだった和人の結婚を知った日であり、絶望に覆い尽くされた日のことをそう簡単に忘れるはずないのだが……今はなんともないかのごとく少し戯けるようにつづける。

「でね、先週ね、智に告白されちゃったんだよ。あたしが告白、じゃないよ。智があたしにね。で、さっき、その返事をしようとしてたところだったんだよ」

 けれど、できなかった。しようとしたとき、姫香が乱入してきたから。それにより、智が尻尾を巻いて逃げていってしまった。

 呼び出しておいて、返事をよこせといっておいて、そそくさといなくなってしまった智に、由衣は『もう意味が分からん』と両肩を上げるジェスチャーをした。

「だからね、まだ振れてはいないんだよね。だからね、実にいやなことに、今のやり取りをまたいつかやんなきゃいけないってことで……うーん、それはちょっとだけ気が重いぞ。うわ、面倒だなー。なんとかならないかな? まったく、察してくれればいいのにー。まあ、でも、しょうがないかー」

「……なんでよ」

「んっ……?」

 姫香の声が小さくて聞こえなかった。由衣は首を傾ける。

「何ぃ?」

「なんで、よ?」

「なんで、って?」

「その、なんで井上君のこと、振っちゃうわけ?」

「なんでって……そりゃ、そんな気がないからね」

『智と付き合う気なんてさらさらないから』当然のことを当然の顔をして当然のように口にした由衣。

「あ、そうそう、あれなんだってね? この前明美に聞いたんだけどね、智ってさ、あれで結構女の子に人気あるんだってね。あたしには理解できないよ。うん、とても信じられん」

「…………」

「いやー、やっぱり分からんなー。あれのいったいどこがいいのかね? うーん、不可解な。あたし、去年まで一緒のクラスだったってことは知ってるっけ? 一緒だったんだけどね、でもね、特にこれはっていうとこなかったけどなー」

「…………」

「まあ、喋ってて、おもしろいことはおもしろいし、特にこれといった欠点はないんだけどね」

「…………」

「頭はいいよ。うん、それは認めないといけないな。だって、いっつも貼りだされてるんだもん、嫌味なほどにさ。くそー」

「…………」

「あ、運動神経もいいっちゃいいか。そういや、サッカー部で去年からレギュラーだったもんねー。運動会でも目立ってるし、あいつ。おかげでクラスが優勝できて、万々歳だよ」

「…………」

「あれ……? あれれ?」

 首を大きく傾ける由衣。口に出していた言葉が、なんとも不思議なことに気がついたみたいに。

「あれ、おかしいな? あれれ、おかしいぞ? いや、まったくもっておかしいぞ。あれれれ? 今んとこ、智って結構いいやつなんじゃないかって思えてきちゃった……ははっ、ないない。なんであんなの」

「…………」

「姫ぇもそう思わない? 不思議だよね、なんで智って人気あるのかな? うーん、これはもはや学校の七不思議でしかないね。残りの六つは『トイレの智さん』とか『夜な夜な校舎を走り回る理科室の人体模型っぽい智』とか『階段を数えるごとに増えていく智』とか?」

「…………」

「しかし、やっぱり分かんないなー。なんで智なんかが……」

「うっさいなぁ!」

 力いっぱい吐き出した。姫香はその内側に急激に膨らんできた真っ黒で気持ちの悪い鬱憤を爆発させるように、きぃっ! と由衣のことをきつく睨みつける。その目には憎悪すら宿っていた。

「分からないよぉ! 由衣は近過ぎて分からないだけだよぉ!」

「えっ……あ、ちょっと、姫ぇ……」

「由衣には分からないんだよぉ!」

 姫香は拳を力いっぱい握ると、最初の一歩目に物凄い音を立てながら、渡り廊下の方に体を向ける。怒り心頭に発するといった心情で。

「じゃあね!」

「ちょ、ちょっと待ってよ。姫ぇ、どうかした? あたし、怒らせるようなこと言ったかな?」

「触んないでくれる!」

 姫香は後ろから触れられた腕を力いっぱい振り払い、もう相手を見ることなく、歩いていってしまう。

「もう絶交だからね!」

「あ、いや……へっ……」

 予告もなしに突然怒りだしたかと思うと、逆ハの字のように眉を吊り上げて不機嫌極まりない感じで力いっぱい床を踏みしめながら歩いていく姫香の背中を、まったくもって状況を把握できずに、間抜けにもぽかーんと口を開けながら呆然と見つけるしかない由衣。

(……へっ……)

 状況を客観的に確認してみると、今の由衣は、放課後でこの人気のない理科準備室の前に取り残されるように、ぽつりっ。しかもあまりに突然に怒りだした姫香の気持ちがさっぱりで、思考回路はフリーズしていた。

(……あ、いや……)

 ただ、置かれている現状を理解できない由衣ではあったが、けれど、それでも由衣は紛いなりにも恋する乙女である。その恋が残念ながら実ることはないのだが……である以上は、なんとはなしに、怒っていた姫香の気持ちを察することができてしまい、

(……もしかして、姫ぇって、智のこと……)

 今の今までまったく気づかなかったが、自分が堂々と真っ正面から力いっぱい地雷を踏みつけてしまっていたこと、自覚することができていた。

(……あっちゃー……)

 廊下に立ち尽くす由衣。その心は気まずさに覆い尽くされている。自分の馬鹿さ加減にうんざりだった。

(…………)

 由衣は、今はただ電柱のように立っていることしかできない。それ以外、できることがない。

(…………)

 がっくりっと首をとうなだれたかと思うと、リノリウムの床に向かって深ーい溜め息を吐き出していく。

 その耳には、姿は見えないが男子生徒の冗談っぽい怒鳴り声が聞こえていた。ふざけ合っているのだろう。まったくもって青春である。

 けれど、それを聞く由衣は、青春の裏側に追いやられ、悪状況の渦に呑み込まれてしまいそうだった。

(……やっぱ、まずいわな……)

 呑気に智のことを姫香に話したこと、悔やまれる。それは断じて悔やんでも悔やみきれるものではないが、それでもやはり悔やまれる。

 チェックのスカートのポケットからハンカチを取り出し、額を拭う。すぐに青いハンカチはその色を濃くしていた。

(……ぜ、絶交って……)

 まさに『後悔先に立たず』の状況に立たされており、『口は禍の門』そのものの由衣なのだった。

「……あーあ……」

 現状をを嘆いたところで、どうにもなることではない。しかもその種を蒔いたのは自分自身。自業自得なこと、極まりない。

 とてもこの場にじっとしていられない状況でありながらも、どこにも逃げ場のない八方塞がりな気分を痛いほど味わっており、元気なくとぼとぼと足取り重く渡り廊下へと向かっていく。

(…………)

 大好きだった和人の存在に手が届かなくなり、大事な期末テストはぼろぼろで、智にはちゃんと返事することができておらず、同級生でありチームメートの姫香を怒らせた……由衣は人生のどん底で這いずり回っているようだった。


       ※


 七月二十八日、金曜日。

 午後五時。まだまだ燦々と輝く太陽は茜色に染まることない。自分たちの富のために地球環境を荒らしに荒しまくっている人類に対して、神という絶対的な存在が罰していると思えるほど、広橋由衣のいる大名希北高等学校は殺人的な蒸し暑さに覆い尽くされていた。シューマイのように蒸かされてしまいそうである。

「みんな、また明日ね」

 体育館は北校舎のさらに北側に位置する。由衣は、その体育館裏にあるソフトボール部室で胸に赤いリボンのある制服の白シャツに着替え、ユニホームやグラブが入っている青いスポーツバッグを肩にかけ、先に出て待っていてくれた小野田明美と合流した。

「ぁ……」

 ふと後ろ髪を引かれる思いがある。明美と並んで南門へと歩いていこうとしていたその一歩を止めた。引っかかっていることはまだぼんやりとした輪郭しかなく、それを確認するためにゆっくりと後ろを振り返る由衣。

 そこには今まで自分が着替えていた部室がある。扉が閉まっていて、まだ他の部員が着替えているところ。そこは由衣が一年生のとき、ソフトボール部に入部したときからずっと使用している場所。

「そうか……そうなんだよね……」

「どうしたの、由衣?」

「んっ? あ、いやね……」

 明日は七月二十九日。いよいよ県大会一回戦である。由衣たち三年生にとっては最後の大会で、その後は受験生としての日々が待っている。

 つまりは、明日の初戦に負けると、入学してからつづけてきたソフトボール部を引退することとなってしまう。そうなると、もうこの部室で着替えることがなくなってしまう。放課後は毎日当たり前のように通っていた場所にいけなくなることになる。着替えているときはそんなこと考えなかったが、不意にそのことが頭に浮かんでいた。

『ソフトボール部』というプレートの下にある扉を見つめる双眸。試合を前にしている由衣にはあまり実感ないのだが、それでも扉を見つめる目にはそれなりに感慨深いものはあった。

「……もしかしてもしかすると、これで最後かもしれないなー、って思っちゃったりしてた」

「やなこと言わないでよ。勝つよ。明日勝って、次も勝って、勝って勝って勝って勝って、でもって優勝するんだから。そうでしょ?」

「う、うん……」

 肯定を示すように頷きはするものの、その声に覇気はなかった。

(…………)

 今の問いかけ、もし七月二日という大切なものを失った日以前の由衣であれば、『当たり前じゃん。今度こそ優勝して、華々しい引退をするんだからね!』と胸を張っているのだろうが、今は違う。

(…………)

 絶不調だった。

 部活動が再開した期末テスト最終日の七月十一日から今日までずっと、絶不調。うまくいかないことをもがいたところで、まったくどうにもならないほど、これまでの練習ですらうまくこなせなかった。

 練習中、守備ではなんでもないゴロをトンネルしたり、ファーストの遙か上に送球したり……バッティングも不調で、スイングの軌道が乱れているのかなかなか思うようにボールが前に飛んでくれなかったのである。

 そんな由衣の不調に活を入れるべく、顧問の犬飼いぬかいにこれでもかというほど雷が落とされるのだが、一向に調子が戻ってくる気配がなかった。

(…………)

 その原因は、もちろん分かっている。由衣は今も引きずっているのだ、七月二日のことを。

 和人が、もう自分の手の届かない場所にいってしまったことを。

(…………)

 さらに由衣が気を重くさせるのは、絶不調だというのに、それでも明日の試合はスタメンとして指名されていたことにある。ショートは他にもいるというのに、スタメンに選んでもらっていた。だからこそ、期待を裏切るわけにはいかないが……今の状態では、ただ足を引っ張るイメージしか湧いてこなかった。

 こんなこと、生まれてはじめてのこと。

 暗澹あんたんたる思いである。

「……明美さ」

「何ぃ?」

「……明日、雨降らないかな……」

「馬鹿なこと言ってんじゃないの。ほら、こんなにいい天気なのに、降るわけないじゃない」

「だよね……」

「なんでこの子はそんなに現実逃避したいかな? そういうの、由衣が一番嫌ってたじゃん。やることがあるのに、やろうとしないこと」

「うん……」

 意識なく吐き出される大きな溜め息。三年間通った部室を背中にゆっくりと歩を進めていく。足取りは、足首に鉛でも張りついているみたいに鈍いものだった。

「…………」

 暑い。とても暑い。夏なのだから、とんでもなく暑い。熱と湿気が全身にまとわりついているようで、粘り気のあるような空気が気持ち悪いことこの上ない。汗は次々と滴り落ちていく。

 下校のために南門を目指す由衣の耳にはトランペットの音が響いていた。秋の文化祭のためか、はたまた近々市で発表会があるのか、夏休みだというのに、こんな時間までブラスバンド部は練習をしているようだった。

「……ねぇ、明美」

「何さ?」

「……明日、あたしがスタメンでいいのかな」

「今さら……いいに決まってるじゃん。元気出しなよ。わたしとの二遊間コンビは、由衣しかいないんだから。それとも怖じ気ついちゃった? なら、すぐ先生にいって辞退してきなよ」

 責めるようなはっきりとした口調の明美。

「もっとも、その時はわたしもそうするけどね。他の子じゃ、コンビネーションがしっくりこないから」

「……うん、ありがと」

 大名希北高等学校では生徒の多くが電車通学であり、全体の八割ほどが利用する南門を由衣たちは出ていく。そのまま最寄りの小里井こざとい駅を目指す。

 門を出てすぐの交差点は赤だった。目の前の乗用車が行き交っていく。大きな市営バスも横切っていった。近くに外観に緑色が目立つコンビニエンスストアを見ることができる。由衣が着ている白シャツにチェックのスカートと同じ制服が店内にも見えた。由衣も部活帰りはよくあそこに寄り道するのだが、今日はとてもそんな気分ではない。

「…………」

 このままではいけないことは分かっている。信号待ちをしている今のように、由衣は立ち止まったまま。踏み越えなければならない場所を眼前に、踏み出せずにいる。だからこそ今がある。

 進まなければならない。でなければ、これからずっと駄目なままのような気がする。

 足を前に踏み出さなければならない。

 意を決する。

「……明美さ、お願いがあるんだけど」

「お願いねー。由衣のお願いかー……もー、しょうがないなー」

「……まだ言ってないよ」

「じゃあ、改めて、どうぞ」

「うん」

 お願い。

「今日、家、遊びにいってもいい?」

「今日?」

「うん……」

 明日は試合である。それは最後になってしまうかもしれない、とても大事な試合である。であれば、今日は寄り道せずに早く帰って明日に備えなければならない。

 けれど、由衣は遊びにいくことを望んだ。正確には『明美と遊ぶこと』ではなく『明美の家にいくこと』を熱望している。

 そこに大きな決意を込めて。

 その一歩を踏み出すために。

「駄目かな?」

「うーん、これは余計なお世話だったりするかもしれないけどさ……けじめでもつけたいの?」

「うん」

 今月の二日から今日までの駄目駄目な自分では、きっと明日でもチームメートの足を引っ張ることだろう。けれど、明日失敗したら本当に取り返しがつかなくなる。そんなの、いいはずがない。

 だから、どうにもならない現状を打破するため、駄目な自分から立ち直るために、すべきことをする。

 未練切り。

(…………)

 今日までずっとなんとか気持ちを切り換えようとするのだが、どうしても引きずってしまっていた。それはきっと、まだ振られることすらできていないから。

 告白さえできていないから。

 そんなの、諦めようにも諦めきることができない。それがどうにもならないことだと分かっていても。

(…………)

 もやもやした気持ちを断ち切るために、本来の自分を取り戻すために、けじめをつけたい。

 今までの自分ではなくなりたい。

 新しい自分になりたい。

(…………)

 由衣は、ずっと踏み出すことのできなかった一歩を踏み出す決意をした。であれば、実行あるのみ。

「…………」

「……いいよ」

「……ほんと?」

「うん。兄ちゃん、最近早いみたいだから、もう帰ってるかもしれないし。しっかりなさいよ」

「ありがと」

 足止めされていた信号が青となった。青は進めである。足を上げて前に踏み出していく。抱える気持ちとともに、由衣は前に進んでいく。

「ありがとね、明美。あたし、明美のこと、大好きだよ」

 由衣と明美は小学校からの親友だった。

 学校から最寄り駅までは徒歩十分の距離である。すでに由衣の視界には高架が見えていた。今そこを左から右に赤い電車が通り抜けていく。由衣が乗るのはそれとは反対方向である。

「あたし、ちゃんとするから」

 そう意識すると、急に由衣の心臓が激しく脈打ちはじめてきた。

 どきどきどきどき。

(ちゃんとするから)

 大きくなった胸の鼓動、しかし由衣には、それをとても愛しいものに感じることができていた。


 午後八時。

「…………」

 広橋由衣はまだ帰宅することなく、学校の制服姿のまま、遊びにきていた小野田明美の部屋にいた。

 そこでそうして、小野田和人が帰ってくるのを待っている。

 踏み出せなかった過去を断ち切り、新たな自分になるために。

「…………」

 ベッドに置かれた目覚まし時計の秒針の動く音が、その耳にはやけに大きく響いていた。由衣はじっと絨毯を見つめ、そうしてベッドに腰かけているだけだというのに鼓動の周期を乱しながら、ただただその身を固くさせている。

 エアコンは入っていた。外気から比べればこの部屋の室温はとても涼しい。だから汗を掻くことはない。しかし、それでも由衣の体のどこかは普段にはない熱を持っていた。それがどこなのか、由衣にはろくに認識できなかったが、けれど、確かに熱を有していた。

「…………」

「……ジュース、持ってこようか?」

「……あ、うん」

「うん」

「…………」

 由衣のせいだが、重たい空間が漂うこの部屋にじっとしていることに耐えられなくなったのか、出ていってしまった明美のことを目で追うこともなく、ただただ絨毯の端の少しだけ折れ曲がった一部分を見つめている由衣。

 学校帰り、この家にお邪魔した。そんなつもりはなかったが、夕食をご馳走になってしまった。家に電話して遅くなることを伝え、それからずっとこの明美の部屋で、そのベッドに腰かけながら、時がくるのを待っている。

 小野田和人が帰ってくるのを待っている。

 二人でお喋りに興じることもなく、漫画を読むこともなく、テレビを観るわけでもなく、ゲームをするわけでもなく、ずっとずっと待っている。

 けじめをつけるために。

 今日すべきことをするために。

 明日という日を迎えるために。

「…………」

 自分のためにも。

 みんなのためにも。

 今日を最後に、これまでの自分を断ち切ってみせる。

「…………」

 この緊迫感のある状況下において、由衣にはもう一つ懸案事項を抱えていた。白井姫香のことである。あの理科準備室の前の廊下で『絶交宣言』をされて以来、まともに口をきけていなかった。ピッチャーとショートということで、練習に必要な内容はともかく、それ以外のコミュニケーションが希薄となっていたのである。

 よりにもよって、高校生活最後の大会を前にして。

(……姫ぇとは、せめて試合の前には仲直りしときたかったなー)

 今日は試合の前日。とてもではないが明日の試合までに姫香と仲直りなどできそうになかった。それも最近の絶不調の要因の一つとなっている。いずれは解決しなければならないことではあるが、今はそれどころではない。

「……はぁー……」

 漏れた息。それにより、少しだけ張り詰めた気持ちが緩んでいた。

(なんか、最近こんなのばっかだな)

 そう思うと、また口から息が漏れていく。

「…………」

「あのね、由衣」

 明美が部屋に戻ってきた。一階へはジュースを取りにいっていたが、その手にはそれらしきものどころか、何も持ってはいない。

「その、兄ちゃんのことなんだけど……今ね、その……」

 明美は、この部屋には自分が一階で仕入れてきた情報の報告に戻ってきて、けれど、それを伝えるべき人間を前にして、口にすることを躊躇してしまう。その視界にいる少女は、和人のことを待っている。そのために今こうしてこの部屋にいるのである。ずっとずっと待っているのである。

 そんな由衣に、明美はとても言いにくそうに、けれど知ってしまった以上は黙っているわけにもいかず、重たい口をどうにか動かしていく。

「その、今ね、兄ちゃん……帰ってくるのちょっと遅いから、電話したみたんだ。その、もしかしたら、もしかして、と思って……」

 すぐには本題を言いだせずにいる明美だが、そうやって肝心な部分を避けつづけていたところでなにも進展することはない。

 覚悟を決めて、ようやく核心部分を口にすることにする。そこでそうして和人が帰ってくることを縋るように待っている親友に向けて。

「兄ちゃん、今、お義姉ねえちゃんとこにいるみたい、なんだよ……」

 まだ婚約の状態で、正式に結婚が成立しているわけではないが、明美は和人の婚約者を『お義姉ちゃん』と呼んでいた。それはこれからずっと、一生変わることはないだろう。

「だから、その……兄ちゃん、もっと遅くなるかもしれないから、だから、今日はもう無理かも」

「教えて」

 ここまでずっと俯くばかりだった由衣だったが、明美の言葉に瞬発的に顔を上げた。入ってきた扉のところで、なんとも気まずそうにしている明美をしっかりと見据え、言葉をつなげていく。

「教えて、その人の家」

 もう待っていられない。

 明日では意味がない。

 和人には、どうしても今日会わなければならない。

 だから。

 立ち上がる。

 前に進むために。

「教えて」

「もしかして、今からいくつもり?」

「うん。今日じゃないと意味ないし。電話じゃ駄目。そんなの逃げてるだけだから。これは直接じゃないと。だから、お願い。住所、教えて」

 そして由衣は、和人が今いるとされる婚約者の家の住所を教えてもらい、ずっと俯きながら待つことしかできなかった明美の部屋を後にした。

 それは、ここまでずっと溜め込んできたいろいろなものの、決着をつけるために。

 待つのではなく、自分から向かっていって。

 由衣は、自らの力で歩んでいく。

 その先にどんな未来が待ち受けていようとも。

 由衣は必ずそれを乗り越えてみせる。


       ※


 午後九時三十分。

「…………」

 広橋由衣は北曽根きたぞね駅のバスターミナルにいた。

 北曽根駅は、この大名希市の北東部に位置する、JRや私鉄の駅がある大きな駅。駅前は賑やかな繁華街となっており、近くには巨大なショッピングモールがあった。

「…………」

 由衣は、カラフルなネオンサインがきらめく賑やかな駅前を横目に通り過ぎていき、この時間でも交通量の多い国道を北上していく。国道には一定の間隔でオレンジ色の街灯が整備されており、歩くのに支障が出ることはない。そうして駅から十分も経たないうちに大きな橋に着いていた。

 この大名希市は太平洋に面しているため、そこに流れる川は必然的に河口近くとなり、川幅はとても広い。だとすれば、その川に架かっている橋も当然大きなもので、全長は百五十メートル以上あるのだった。

 風はとても強い。由衣の肩までの髪が横に流されていく。橋の上から覗き込んだところで川面は暗くてよく見ることはできないが、それでも遠くの方は月明かりに水面がきらきらっ輝いているようだった。橋の中央辺りにベンチが設置されていて、柴犬を連れた老人が休憩していた。風はとても強く、暑い夏夜に涼むだけの価値を有している。

「…………」

 国道となっている大きな橋を渡ると、すぐ薬局を見つけることができた。深夜までやっている全国的なチェーン店であり、由衣はそれを通り過ぎたすぐの角を右折していく。曲がった狭い路地は閑静な住宅街のよう。

「…………」

 由衣はこの辺りどころか、北曽根駅にすらきたことがなかった。しかし、それでも道はだいたい分かっていた。明美に住所と地図を描いてもらっていたからである。少なくとも、ここまでは迷うことなく直進的に歩むことができている。すべて明美のおかげだった。感謝してもしきれるものではない。

 考えてみると、明美にはこれまでいっぱい苦労をかけていたかもしれない。そう思うと、申し訳ないというか、恐縮してしまう。あんなにもいい子が、こんな自分の親友でいてくれること、こんな自分のために一緒になって悩んでくれること……もう胸がいっぱいだった。

「……っ……」

 薬局の角を右折するまでの国道に比べると、曲がった路地では道を照らす街灯の数はぐっと減る。その分路地が暗く感じ、歩いていくのが少し心許ない気持ちとなっていく。たまに擦れ違う自転車や中年の姿を目の当たりにすると、すっと息を止めて早足となることさえあった。暗い時間、狭い道、知らない場所、擦れ違う見たことのない人……それらは進行速度を加速させるに充分な理由である。

 けれど、今はそんなことに臆している場合ではない。これから由衣は、自身に渦巻くやる瀬なくてやり切れない気持ちを断ち切らなければならないのである。なんとしても今日中に決着をつけなければならない。それをするにはとても勇気がいることだが、しかし、どんなことがあろうとも絶対に実行しなければならない。それが今の自分がすべきことであるから。

 とてもこんな気持ち悪いうじうじした状態で、明日の試合になど臨むわけにはいかなかった。明日はなんといっても三年間の集大成なのである、これまで積み重ねてきたものを全力で出していきたい。そのためには、なんとしても強引にでも力ずくにでも気持ちの整理をつけて、高校生活最後になるかもしれない試合に勝利しなければならない。明日勝って、まだまだ部活を終わりにしたくないのだから。

 だからこそ、最善を尽くすべく、由衣はしっかりけじめをつける。

 かけらたりとも、未練を残すことなく。

 新しい一歩を踏み出してみせる。

 それは、自分こそがやるべきことであるから。

 前に進むために。

「…………」

 国道にあった薬局を右折するまでの足取りは順調だったが、住宅街に入ってから少し迷ったかもしれない。掲示板が設置されている角で立ち止まり、きょろきょろと辺りを見渡す。近くにある電信柱で住所を確認しつつ、服を着せた小さくてかわいらしい犬の散歩をしていた主婦に道を尋ねて、そうして、どうにか、ようやく辿り着くことができた。

 辿り着くべき場所。

 由衣のすべてがここにある。

 決戦の場。

「……ふぅー……」

 目の前には二階建てのアパートがある。時刻は十時前で、だいたいどの部屋からも明かりは漏れていた。息を吐き出し、目の前にして竦みそうになった足を鼓舞するために、腹から大きく息を吐き出して、踏み出す右足に力を入れていた。

 今由衣は建物東側にある公園越しにアパートを見つめている。こちらにはベランダがあるが、入口はない。建物の反対側に回り込み、まずは階段を目指す。

「…………」

 目的の部屋は208号室。建物南側にある階段でやけに大きく足音を響かせながら上がっていき、階段を上がったそこが201号室である以上、各部屋のガスメーターを横目に通路を一番奥まで進んでいかなくてはならない。

 通路はとても狭い印象があり、上にある照明は寿命が近いのか、ぱちぱちっと点滅していた。街灯の光もここまで届き、歩くのに不便を感じることはないが、気持ちは落ち着かないものだった。

「……ぇ!?」

 と、突然!

(うわっ!)

 奥の方のどの部屋かは分からないが、扉が開いた。薄暗い通路に明かりが漏れたからである。

(へっ……!?)

 部屋から漏れた明かりが消えないうちに、狭い通路の真っ正面から真っ黒な人影が猛スピードで迫ってきたではないか!?

 由衣がそう認識したときはすでにその人影と肩がぶつかってしまい、そのまま尻餅をつくように転倒してしまう。

「っ!」

 いきなりのことでまともに対応することができなかった。うまく手をつくことすらできず、由衣は目から火花が散るぐらい思い切り尻を打ちつけていた。打ちつけた激痛により、顔が大きく歪んでしまう。

(いつつつ……もー、いったいなんなのぉ!? 痛ーい)

 強かに打ちつけてしまった痛みもさることながら、今は一瞬にして頂点まで達した怒りによって歯を強くがききっ! と食いしばり、人影が駆けていった階段の方を振り返るも……通路には誰の姿もなかった。あの勢いのまま進んでいったのなら、今頃は階段を駆け下りて、どこかへいったのだろう。

(まったく、なんなの、謝りもしないで……)

 痛みによってわけも分からない笑みを漏らしつつ、打ちつけた尻を摩りながらなんとか立ち上がる。まだ痛みはあることはあるが、歩くのには支障をきたさなかった。それなら暫くすれば気にならなくなるだろう。明日が試合だけに、その分では救われていた。もし今ので歩けなくなったのなら、チームメートに申し訳なくて、二度と登校できなくなっていたところである。

(……にしても、あー、なんか変に落ち着いちゃったよ)

 ずっと気を張っていた。明美の部屋を後にしてからここまでずっと緊張していて、それはもう岩のようにがちがちな状態。だが、今のアクシデントで、そういったものがすべて遠い空の向こうへと飛んでいったというか、すーっと張っていた気が抜けていってくれたような気がする。

 そんな状況が無償におかしく思えてきて、小さく笑みを浮かべたまま改めて通路奥を目指していく。

 間抜けにも、尻を摩りながらではあるが。

「…………」

 通路の一番奥、208号室の前に辿り着いた。近年の個人情報保護意識が高まっているためか、表札には名前が記されていなかった。しかし、住所と部屋番号からすると間違いなくここである。

 扉一枚を隔てて、和人がいる。

 ごくりっと喉が鳴った。

 鼓動が激しくなる。

 どきどきどきどき。

(……よし)

 意識して呼吸を三回繰り返し、薄く閉じていた目を見開いた。腹の中心に思い切り力を入れて、扉右側にインターホンのボタンを見つめる。

 指を伸ばし、押した。

 扉の向こうから、チャイムが響いてくる。

 心臓の鼓動がより高まっていった。

「…………」

 もうインターホンは押している。ここに由衣をいることを扉の向こうに示したのだ。であれば、もう待つしかない。閉ざされている扉が内側から開かれるのを待つしかない。

「…………」

 待つ。待ってみる。十秒。二十秒。三十秒。しかし、扉は開かない。由衣の目の前、相変わらず閉ざされたまま。

「っ?」

 扉が開かないこと、どこかほっとしているような部分もあるが、そんなことを感じていたところで意味がない。扉が開かなければ、何も進展することがないからである。もう一度インターホンのボタンを押してみると、同じようにチャイムが響いてくる。けれど、またもや反応はなかった。

(……おかしいな?)

 扉に耳を近づけてみる。チャイムに反応するような足音が聞こえてこない。それ以上に、物音すら聞こえない。

(いないの……?)

 目の前に扉がある。当然ノブもある。なんとなく手にしてみる。ゆっくりと捻ってみる。扉が開いていた。

(……あら?)

 開いてしまった。扉が施錠されていなかったのである。手前に引くと、扉は何の抵抗もなく開いてしまう。チェーンロックすらされていなかった。

「……あのー、すみませーん」

 許可なく勝手に玄関を入っていくこと、抵抗がないわけではないが、けれど、部屋の明かりを確認することができたので、間違いなく誰かいるはずである。玄関からなんとも遠慮がちに声をかけてみたが、その返答はなかった。

 もしかしたら風呂かトイレにいっているのかもしれないと思うが……それにしても施錠していないなどと、不用心である。

「っ!?」

 玄関からすぐはキッチンで、奥に部屋がある。そこの照明が点けられていた。目にした瞬間、由衣の瞳は大きく見開かれていた。と同時に、体が縦にびくっと痙攣する。目に映ったものの衝撃に全身の毛穴という毛穴が開いていったような凄まじい衝撃を受けていた。

真っ白となった頭とざわめく心が、今自分が身を置いている空間が異常なものだと、思考以前にある由衣そのものが警戒している。

 危険を示すシグナルは頭で派手に鳴り響いていた。赤ランプは眩いばかりに激しく点滅するばかり。

 ばっくんばっくんばっくんばっくんっ! 鼓動は直接心臓を太鼓の鉢で叩いているように、激しくなっていた。それにより、全身の血管という血管から、強く脈動を感じることができている。

「……あ、の」

 主の許可なく、玄関からその一歩を踏み出していく。その瞬間、由衣の体は、日常から非日常へと飛び込んでいた。

「……大丈夫ですか!?」

 部屋の奥、そこで女性がぐったりと横たわっていた。長い髪を放射状に広げ、横向きとなって玄関の方を向いている。その姿、由衣には眠っているというよりは意識を失っているように見えた。

 そして、頭部近くの絨毯は、大量の赤黒い液体で満たされているではないか。それを長い髪が吸い取っているみたいに見える。

「し、しっかりしてください!」

 あまりの緊急事態に、玄関で靴を脱ぐことも忘れていた。それに気づいたところで対応しているような余裕などない。玄関から急いで駆け寄ると、由衣は髪の長い女性に声をかけていくのだが、反応がまるでなかった。由衣の目の前で、ぐったりと力なく横たわっている。だがしかし、僅かに胸が上下しているのを確認することはできた。できたが、顔色は青白くとても生きている人間のものとは思えなかった。

「しっかり! しっかりしてください!」

 もうなにがなんだか分からない。パニックだった。由衣の日常において、こんなに大量な血を流して気絶しているような女性を目の当たりにすることなんてない。あるはずがない。ソフトボールの練習だって、運悪く骨折する程度で、こんな大量に血を流して生死の狭間を彷徨っている人間を見たことがないのだから。

 戸惑いは激しく、こうして相手に触ることもできずに、ただ大声で声をかけることしかできなくて、次にすべきことが分からない。突如として置かれてしまった異常事態に、どう対応していけばいいか分からないのだ。

 分からない分からない分からない分からない。

 声をかけること以外、どうしていいか分からない。

「しっかりしてください!」

 自分の不甲斐なさに、由衣は苛立ちを覚えた。力いっぱい何かを蹴り上げたい心境である。

「しっかり! しっかりしてよ!」

 以前、和人に写真を見せてもらっていた。髪の長いとてもきれいな人。だから分かる。目の前で目を閉じている女性は、間違いなく和人の婚約者だった。

 自分から、和人を奪っていった、あの。

 あの。

「…………」

 ふと思う。思ったときはもうそのように考えてしまっていた。目の前の状況、置かれている現状では、とてもそんなこと、考えている場合ではないというのに。

 由衣は考えてしまった。

「…………」

 こうして前にしている女性こそが、自分から希望を奪っていった人間。そう思ったとき、不思議とざわめく気持ちが静かになり、すっかり落ち着いてしまった。これまでが信じられないほど、心が静寂なものとなっている。

「…………」

 目の前の女性、顔色は生気を感じられないほど悪い。それはもはや悪いという次元ではなく、今にも火が消えてしまいそうな細い蝋燭を見ているようですらあった。今も絨毯に流れる出血はつづいている。意識は戻っていない。女性はただぐったりとそこに横たわっている。由衣のすぐ前で。

 けれど、その胸は小さく上下しつづけている。

 まだ生きている。

「…………」

 もしもである。もしも、ここでこの女性がいなくなれば、当然のことながら和人は結婚できなくなる。婚約者がいなくなってしまうのだ、当たり前の話である。

 それはつまり、由衣の希望を取り戻すことを意味する。

 そうなれば、由衣は和人との結婚を叶えることができるようになる。

「…………」

 由衣を取り巻くすべての事柄は、目の前のこの瀕死の状態にある女性の生死によって決定する。

 生き残れば、和人が完全に遠のいてしまう。もう二度と触れられないほど、遙か彼方へ。

 しかし、死んでしまえば、願いを叶えることができるようになる。由衣は望んでいた和人の隣に立つことができる。

「…………」

 どくどくどくどくっ。心臓の鼓動は破裂せんばかりに激しくなっていた。内側から胸を激しく上下させ、由衣そのものを壊しそうなほどに。

 喉が大きく鳴る。

 汗が頬を伝う。

「…………」

 この状態を吟味したところで、由衣が悪いわけではない。目の前の女性を自分がこのような瀕死の状態に追い込んでいるわけではない。それが由衣には分かっている。詳細は分からないものの、こうなったのは、自分以外に原因があるはずである。なぜなら、自分が部屋に入ったときからこうなっていたから。由衣はただそれを目の当たりにしたに過ぎない。

「……っ……」

 ふと頭に過る影があった。それは、この部屋を訪れる前、外の通路で突然ぶつかってきた人影。相手にどんな事情があったかは不明だが、慌てている様子だった。ぶつかった由衣のことにもまるで気づけなかったぐらい、夜の闇へと勢いよく走り抜けていってしまった。

 だとしたら、あれほど強烈に由衣にぶつかったのも分からないぐらい慌てていたのだとしたら、それにはそれ相当の理由があるはずである。

 そして、あの人影が走ってきた方角にこの部屋がある。

 さらには、この部屋は施錠されていなかった。それはこうして入室できている由衣自身がよく分かっている。けれど、表札に名前も出さない用心深い人間が、施錠を怠るとは考えにくい。

 ここまでの条件を考察して、導かれることといえば……つまりは、由衣にぶつかったあの人影こそが、眼前にしている状況を作り上げた張本人なのであろう。

「…………」

 もしもである。もしも、このまま目の前の女性が死ねば、それはもちろんあの人影のせい。由衣はその現場を誰よりも早く見つけただけであり、ただそれだけのこと。この状況を作り上げたわけではない。女性を瀕死の状態に追い込んだわけではない。

 だとしたら、女性が死んでしまっても、問題はないはず。由衣には一切害はないのだから。

 いや、そればかりか、そうなった方が由衣にとっては好都合だった。そうなることで、和人を取り戻すことができるのだから。

 失った希望を取り戻すことができるのだから。

「…………」

 呼びかけるためにしゃがみ込んでいたが、ここで由衣は膝に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。制服であるチェックのスカートに血がついてしまっていた。『あーあ、これじゃお母さんに怒られちゃうよー』そう場違いな感想を抱きながら。

「…………」

 このような緊急事態なのに、とても静かな部屋。当然だろう。主である目の前の女性は声を出すどころか、身動き一つしないのだから。

「…………」

 次の行動をすることを、制御することができなかった。由衣はしゃがみ込み、両手を女性に向かって伸ばしていた。両手を横たわっている女性の細い首に伸ばす。

 ここでこの女性が死ねば、すべてはリセットされる。

 ならば。

「…………」

 触れた。とても細い首。あとはそこに力を入れさえすればいい。

「…………」

 力を入れる。

 女性の首を挟んで両手で作っていた円の面積が狭くなる。

 狭くする狭くする狭くする狭くする。

 その行為こそが、由衣の幸福をもたらすことであると信じて。


「……っ」

 はっとした。まるで悪い夢から覚めたように。そうなった理由は由衣本人も分かっていない。

 はっとして、由衣は慌てて両手で作る円を壊していた。

「…………」

 危ない。とてつもなく危なかった。このままでは、人殺しになるところだったのである。

 どれだけ目の前の女性の死を望んでいたとしても、自分が殺すわけにはいかない。

 殺人者になどなりたくはないのだ。

「…………」

 願いを叶えるのはとても簡単なこと。ここに放置すればいいだけのこと。それだけのことで死神は女性の首を撥ねるに違いない。

 だから、由衣は何もする必要はない。目の前の女性の現状は、由衣には一切関係のないことなのだから。

「…………」

 由衣は、横たわっている女性を目にしたまま、後退る。一歩、二歩、三歩……同時に、その脳裏には和人の笑顔が溢れていた。

「…………」

 由衣は、ずっとあの笑顔に憧れていた。そしてずっと追いかけていた。いつかその隣に立つものだと信じて疑わなかった。結ばれるものだと確信していた。自分こそが選ばれるのだと。特別なのだと。

 笑顔を浮かべる和人を、一番近くで見ていたい。

 それは今も変わらない。

 これからもずっと。

「…………」

 あの笑顔を、ずっと見ていたい。

 ずっとずっと見ていたい。

 だから。

「…………」

 だから、どうあっても和人をあの笑顔以外の表情にするわけにはいかなかった。

 和人に、悲しい思いをさせてはいけない。

 自分は常に、和人の笑顔だけを見ていたいのだ。

 ずっとずっと、あの笑顔を。

 だから。

 由衣は、小さく息を吐き出す。両の拳を握りしめて。

「…………」

 由衣は、血溜まりに倒れる女性を見つめる。自分から希望を奪った和人の婚約者を見つめる。見つめて、見つめて、見つめて、見つめて、そして、ゆっくりと視界からその姿を消していた。今はただ胸いっぱいに溢れてくる和人を思う気持ちに身を浸しながら、由衣は次の行動に移っていく。

 由衣は選択する。

 今までにない未来を。

 そこに待つ希望を。

 拳を握った。

 前進する。


       ※


 広橋由衣は、小学校四年生のとき、学校のソフトボール部に入部した。しかしそれは、どうしてもソフトボールがやりたかったから、ではない。

 四年生になると部活動に参加することができるようになる。由衣は合唱とか美術とか、文科系の部活には興味がなく、体を動かしている方がよかった。男子は野球やサッカー、バスケットボールに水泳に卓球にバトミントンといっぱいあったが、女子はソフトボールと水泳と卓球しかなかった。三択。

 水泳は夏しかプールを使っての本格的な部活動ができず、それ以外の時期はランニングや筋力トレーニングといった基礎トレーニングをひたすらやるしかない、というあまりにもおもしろみのない情報を集団登校で一緒の上級生から事前に仕入れていた。夏しか活動ができないなんておもしろくないことこの上ない、と迷う間もなく却下だった。ろくに吟味することすらなく。

 卓球でもよかったが、体育館の一角でひたすら小さなボールを弾き返しているというのが性に合わなかった。やるんだったら、外で思い切り走り回りたかった。だから卓球部にも入ることはなかった。見学すらせずに。

 三択の内、二つは事前に仕入れた情報により却下となっていた。という意味もあり、由衣はソフトボールを選んでいた。当時は消去法でしかなかったが、後の自分が振り返ったとき、それはまさにベストチョイスであったと思えていた。それほどまでに、ソフトボールが好きになっていたからである。


 五年生になって小野田明美と同じクラスとなった。明美とは同じソフトボール部だったが、せいぜい部活動中に話す程度で、放課後に遊びにいくような親密な関係ではなかった。しかし、クラスが一緒になったことで急速に仲が深まっていき、家も近所ということで由衣はよく明美の家に遊びにいくようになった。

 明美に四つ上の兄がいることは知っていた。中学三年生で、当時の由衣からはとても大きなお兄さん。しかし、家に遊びにいったときに顔を見たことがある程度で、話すことなんてなかった。そもそも、小学五年生の女の子二人が部屋で遊んでいるところに、中学三年生の男が入ってきて一緒になって遊ぶようなこと、あるはずがない。せいぜい廊下で擦れ違ったとき、挨拶を交わす程度である。

 だというのに、由衣はいつの間には明美の兄、和人とも仲良くなっていった。それは、近所の空き地で一緒にキャッチボールをするようになったからである。

 ソフトボールをはじめて一年、由衣も明美もフライもろくに捕れないほど下手くそだった。そんな力量では試合になんか出してもらえるはずがなく、ずっとベンチの外側でチームの声を出して応援することしかできなかった。放課後の練習も三分の一はボール拾い。レギュラーがバッティング練習をしていて、その飛んできたボールをただ追っていくだけ。そんなの、ちっともおもしろくなかった。

 だから、由衣はうまくなりたかった。春に入部してきた年下には負けたくなかったし、少しでもうまくなって、上級生と交じってもっと試合形式に近い練習をしたかった。いや、欲をいえば試合に出たかった。試合で活躍したかった。だから、明美とキャッチボールをするようになっていた。近所の空き地で、練習をするようになっていたのである。部活ではない練習なので、それは秘密特訓だった。それは学校の部活のような誰かに言われたのではない、自主的なものである。

 とはいえ、秘密特訓をしたところで、できることといえば、下手な二人が下手なりにボールを投げ合っているだけ。それだけでは一向にうまくならなかった。やらないよりはましだろうが、進歩としてはほとんどあってないようなもの。それは誰よりも当人たちがよく分かっていた。


「明美、こんなとこで練習してるの?」

 ゴールデンウイークが明けてすぐ。由衣たちの秘密特訓がはじまって二週間。由衣と明美がいつものように空き地で練習しているとき、学生服を着た小野田和人が現れた。学校帰りに近所の空き地でたまたま妹の姿を見つけ、声をかけたのである。

「お前、いかにも捕れないって感じだな」

 和人は、道路から声をかけるだけではなく、二人が練習している空き地に入っていく。柵があるわけではないので、誰でも容易に入ることができる。文字通りの空き地で、ドラえもんに出てくる積み重なった土管もなければ、公園のように遊具がないので子供が遊ぶような場所でもない。隅の方に草が生えている程度なので駐車場として利用できなくもないだろうが、そういった風には使用されていなかった。誰かの私有地であることは間違いないが、入ったところで問題になることはない。

「ほら、グローブを頭の上に出してちゃ駄目だよ。違う違う、こうやってちゃんと顔の前で構えるんだ」

 和人は、下手な自分を見られてなんとも恥ずかしいような苦笑いを浮かべる妹の明美の元にいくと、ボールを上に投げ、顔の前で構えたグローブでキャッチしていた。難なくと。いとも簡単に。『こうやってやるんだよ』と見本を示すように。

「なっ? 別に難しいことじゃないんだから。おーい、そっちの子もおいでー」

「……うん」

 キャッチボールをしていたので、当たり前の話、由衣は明美と少し距離を取っていた。突然やって来た学生服の中学生男子に臆していたが、それが見たことのある明美の兄の和人だと分かり、緊張しながらも頷いていた。加えて、今見たボールの捕り方がとても上手にみえたので、そこに惹かれて力いっぱい駆け寄っていく。部活動の顧問の先生に集合をかけられたときのように。

「フライ、難しい、です」

「えーと、名前は……由衣っていうんだ。じゃあ、由衣ちゃんね。ばんざーいって両手上げてるってことは、ボールが自分の後ろに落ちるってことなんだよ。フライはね、自分の前で捕らなきゃ」

「うん」

「こうやって、顔の前でグローブを構えて、しっかりボールを両手でキャッチする。キャッチするとき、ちょっとだけ胸に引き寄せるような感じにするといいかな。こんな風にね」

「顔の前。両手で。ちょっと引き寄せる」

「あとね、由衣ちゃん、腕を伸ばしてボールを捕りにいったらうまくいかない。腕じゃなくて、ちゃんと自分が動かないと。腕を伸ばした先で捕るんじゃなくて、常に自分が動いて正面でキャッチするようにする」

「腕じゃなくて、自分が動く。正面でキャッチする」

「うん。じゃあ、やってみようか」

「へっ……? あっ? ええっ?」

 和人がバックステップで距離を取ったかと思うと、由衣に向けて上空にボールを投げた。それが今、由衣の三メートルぐらい上にある。しかし、グローブは顔の前に固定している。今までならまず腕を伸ばしてグローブでボールを追っていったが、さっき『グローブは顔の前』と言われていたので、ボールに合わせて自分が動くようにしていた。どんどん落ちてくるボールに対して、由衣は、右に、後ろにとふらふらっしながら、ボールを睨みつけるように見つめる。

「あれ……?」

 由衣のすぐ前、ボールが落ちた。地面で跳ねて、由衣の靴にぶつかった。キャッチできなかったことが恥ずかしく、俯きながらしゃがみ込んでグローブで掴む。相手の顔もろくに見ずに和人に投げ返していた。投げたボールは一応、和人まで届いていたが、そんなことちっとも嬉しくなかった。

「………」

「ほらほら、惜しい惜しい。でもね、そうやって顔の前で捕ろうとすることが大事だよ。もう一回やってみようか」

「……うん」

 由衣は顔の横でグローブを構える。

 そうして和人の指導がはじまった。ここが由衣と和人とのはじまりだと思う。

 その日、由衣は明美とともにフライを捕る練習をしていき……太陽が西の空に顔を隠そうとしている頃、どうにかフライを捕ることができていた。その瞬間は表情がぱぁーと明るくなる。

 もちろんそんなの、まぐれだったかもしれない。たまたまグローブに入ってくれただけで、次やればまたキャッチできる保証はどこにもない。しかし、これまではまぐれですら捕ることができなかったのに、和人のアドバイスを聞いたおかげで捕ることができたのである。

 そうできた自分は、自分の中で何かが変わった気がした。

 グローブに入ったボールを目にして、由衣には今そこにボールがあることが不思議で仕方なかった。和人が言っていること、それはほとんど顧問の先生と同じようなことを言っていたはずなのに、和人が言っていることは分かりやすいというか、自然と頭に入っていくというか、体が素直に動いてくれた。そうして技術を身につけていくことができたのである。

 それからというもの、由衣は明美の家に遊びにいくと、和人を見つけてはコーチをお願いしていた。いつもの空き地、和人のバットがボールを弾くと、由衣の元にフライやゴロがくる。由衣はそれをしっかりキャッチして、和人に投げ返していく。うまくできると『ナイスキャッチ』そう言ってもらえる。うまくできないと『惜しい惜しい。もう一回やってみよう』そうまたチャレンジさせてもらえる。

 とても楽しかった。

 そういった部活動ではない秘密特訓の成果が出たのだろう、気がつくと由衣は、部活の練習でボール拾いをやらなくてもよくなっていた。試合形式の練習も参加することができ、他校との練習試合にも出してもらえるようになっていた。

 そして、まだ上級生の六年生が引退する前の夏の大会、由衣はユニホームを着て試合に出た。ライトでスタメン。ろくにフライも捕れなかった春からはとても想像できない自分の姿がそこにあったのである。

 試合に出るのは緊張するが、けれど、そんなことは些細なことでしかない。グラウンドで声を出しながらプレーしていること、もう最高の気持ちだった。春まではボール拾いをしながら練習を遠くで見ていることしかできなかったのに、それが夏には上級生を押し退けて試合に出場できている。凄く自分が輝いているように思えていた。日々が充実していた。

 それもこれも、すべて和人のおかげ。和人がいたから、そんな最高な時間を過ごすことができた。由衣にとって、和人との時間が、より自分を高みへと導いてくれる、今ではない凄いものへと変えていってくれるような気がして、ずっと一緒にいられる妹の明美のことが羨ましくて仕方なかった。


 呼び方、迷っていた。

 由衣にとって和人は兄ではないので、明美みたいに『兄ちゃん』と呼ぶことはできない。かといって名字ではよそよそしく、『和人さん』と呼ぶにはなんだか恥ずかしいような気がした。

『明美の兄さん』と口に出すことにしていたが、心では『和兄かずにい』と呼んでいた。それはあだ名っぽかったし、親しみもあるような気がしたし、由衣は一人っ子なので兄というのには憧れもあった。だから『和兄』だった。けれど、本人相手にそう呼んだことは一度もなかった。


 ある試合に負けた。しかも、最後の最後、よりにもよって自分のエラーで負けてしまった。由衣は深く落ち込んだ。明美やチームメートからは『気にすることないって』そう言ってもらえるのだが、どう考えたところで由衣のせいだった。

 試合帰り、とぼとぼと元気なく歩いていく。

「…………」

「由衣ちゃんじゃん。どうしたの、元気ないね?」

「あ……うん……」

 その試合のことは部員以外、誰にも話すつもりはなかった。ただ自分が抱え込んで、自分だけで処理するつもりだった。時間さえ経てば、きっと消えてくれるものだと思っていたから。

 けれど、和人の顔を見た瞬間、由衣は打ち明けることにした。

「……だから、あたしのせいで、負けちゃったんです」

「ふーん……」

 和人は中腰になり、由衣の顔を覗き込んでいく。

「それは、よかったね」

「よぉ!?」

 かけられた言葉に、目が点だった。いいはずがない。自分のせいでチームが試合に負けたのだ。それがいいだなんて、言っていいことと悪いことがある。

 由衣の拳に、自然と力が入っていた。

「よく、ないよ……」

「ううん。よかったよ」

「よくないよ!」

 さきほどまで元気なく俯くことしかできなかった由衣は、自然と感情的になり、声に力を入れる。

「いいわけないよ。そんなのいいわけない。だって、あたしのせいで負けちゃったんだもん!」

「だからだよ」

「だからって」

 由衣には、自分のこれほど落ち込んでいることを、おもしろそうに微笑んでいる和人のことが理解できなかった。

「よくないよ!」

 和人は、きっと負けた自分を貶しているのだろう。そう思った。そんなことする人ではないと思っていたけど、でも、由衣は和人のことをすべて知っているわけではない。そういう一面だってあってもおかしくない。

 悔しかった。

 由衣はそっぽを向く。できることなら、そのまま全力で駆けていきたかった。もう二度と顔を見たくない。

 けれど、そうしなくてよかったと、数分後の由衣は思うこととなる。

「…………」

「あのね、由衣ちゃんは、そうやって負けたことを落ち込んでるんでしょ?」

「…………」

「それってのはさ、責任を感じているからなんだよ」

「…………」

「試合に負けた責任を背負えるってことはさ、それだけ由衣ちゃんがチームにとって重要なポジションにいるってことだから」

「っ」

 はっとした。その頃の由衣は試合に出ることが当たり前。けれど、五年生の春まではグラウンドに入ることはおろか、遠くで応援することしかできなかった。ユニホーム姿でプレーするチームメートを、ただ指を銜えて見ていることしかできなかった。

 けれど、今は違う。試合に出られている。チームの勝利を左右する重要なポジションにつけている。

「…………」

「落ち込むってことは、それだけ悔しいってことなんだよ。それだけ責任を感じているということなんだから。さっきも大きな声出せたよね。そんなけ悔しい思いがあったら、また次頑張れるよ」

「…………」

「失敗して、うまくいかなくて、それが悔しくて練習して、また失敗して、それでもめげずに練習して……そういった繰り返しができるんだったら、由衣ちゃんはまたうまくなれるよ」

「…………」

 由衣の見た和人の笑みは、これまで見てきたどの和人よりも魅力的に見えた。

 心臓が大きく跳ねる。見ている顔に、今までにない気持ちが芽生えていた。

「……ありがと、和兄」

 この時、初めて和人のことを『和兄』と呼んだ。『しまった』と思った。それは自分が心で思っているだけで、実際にそんな呼び方をしてはいけない。和人は自分の兄ではないのだから。

 自然と口に出てしまった言葉に、気まずさから下を向いてしまう由衣。

「…………」

「はははっ。なんだか、妹がもう一人できたみたいだな」

「っ」

 由衣が顔を上げると、和人は笑っていた。ただただ楽しそうに。

 だから、由衣に笑うことができた。心の底から。

「ありがとね、和兄」

 もう一度口にした。


 六年生になる頃には、由衣には特別な意識ができていた。ベッドで目を閉じると、その頭は自然と和人の笑顔が思い浮かぶようになっていたのである。その頃はもう明美の家に遊びにいくというよりは、和人の顔を見たい一心で通うようになったのである。部活のソフトボールだって、もっともっとうまくなった姿を和人に見てもらいたくて、『うまくなったね、由衣ちゃん』そう褒めてもらいたくて、練習は誰よりも真剣に取り組んでいた。

 和人は四つ年上。由衣が六年生になったときは高校一年生で、たまに彼女を家に連れてきていることすらあった。和人の彼女という存在、由衣にはショックを受けたが、けれど、そんなに落ち込むようなことでもなかった。なぜなら、由衣には二人の姿が合っているようには見えなかったからである。

 和人と彼女の関係が、自分の両親みたいな一緒にいて当たり前と思われる間柄には到底思えなかった。どこか互いに遠慮していて、気遣っていて、それは『違う』と思った。幼い由衣にはそれが今だけのもので、長続きしないように見えていた。だから、ショックはショックだったが、でも、和人の彼女を見てもそんなに落ち込むこともなければ、焦るようなこともなかった。『ふーん、そうなんだー。彼女ができたんだ、そりゃよかったねー、和兄。隅に置けないんだー』そんな風にからかうこともできた。

 案の定、和人はその彼女の人と二か月で別れていた。由衣の思った通りである。それからも和人が高校を卒業するまでに何人か彼女を見ることになるのだが、どれも『違う』と思った。『あの人は和兄の隣に立つ人じゃない』と。

『違う、あなたじゃない』

『違う、あなたでもない』

『あなたも違う』

『違う』

『違う』

『違う』

『違う』

 由衣は、和人の近く女性がいる度に思っていた。

『和兄の隣に立つのはあたし』

 ずっと和人のことを見てきて、そこには由衣の揺るぎない自信がある。

『和兄の隣は、あたししかいない』

 ずっとずっと思ってきた。

『あたししか』

 そうやってずっと思いを募らせてきた。

 それは高校三年生の七月二日まで、ずっと。

 和人の結婚を知るまで。


       ※


 七月二十九日、土曜日。

 大名希市立球技場。午後三時。燦々と降り注ぐ真夏の太陽の日差しは、殺人的にグラウンドにいるユニホーム姿の少女たちの体力を奪っていく。グラウンド上の空気は陽炎のように揺らめいていた。

 試合は大詰め。九回の表。七対六で紺色のユニホームの大名希北高等学校が一点リードしていた。しかし現在、ツーアウトランナー一塁三塁。一打同点、長打逆転の大ピンチを迎えていたのである。

「…………」

 セカンドとサードの中間に位置するショートのポジションからマウンド上にいる背番号『1』を見つめていた広橋由衣は、まだ次のバッターがバッターボックスの手前で屈伸運動をしているのを確認して、マウンドに近づいていく。

「ねぇ、姫ぇ」

 試合はいよいよ大詰め。次のバッターを打ち取れば由衣たちの勝利。打たれれば裏の攻撃で逆転しなければならなくなる。まさにクライマックス。そんなとても重要なタイミングで、由衣はこれまでずっと敬遠していたマウンドに向かっていった。

 試合が終了する前に、どうしても言っておきたいことがあって。

 どうしても、今。

 この場で。

「聞いてほしいことがあるの」

 本日の由衣は好調だった。守備では今のところでノーエラーで、打撃ではヒットを三本打っている。昨日までの絶不調が嘘のようにチームに貢献できていた。

 それは、この試合前までにそうなるだけのことをしてきたからこそ、由衣は普段の調子を取り戻せていた。

「あのね、今日の試合、勝ちたいの。あたしは、どうしても」

 由衣は調子を取り戻していた。しかし、マウンド上にいる白井姫香は不調を極めていた。投げるボールにはいつもの球威はなく、相手バッターの打球がおもしろいほど外野に飛んでいってしまう。さらには、ここまでエラーを二回していた。ヒットも打ててはいない。

 そんな姫香の不調の原因が自分にあること、由衣は知っている。けれど、それを試合がはじまるまでに解決できなかった。しかし、試合が大詰めの九回表の今からだって、それをしようとすることは決して遅くないはずである。だからこそ、マウンドまで駆け寄った。現実から背けたくなる目でしっかりと相手を見据えて、気まずい互いの空気を自ら破っていく。

 逃げることなく、ちゃんと現実と向き合うために。

 姫香と向き合うために。

「今日の試合、すかっと勝ってさ、あたし、智のこと、振るから」

 目が合うことはない。姫香は足でマウンドを慣らしている。しかし、由衣はそんな相手に向かって言葉を投げかけていく。相手がこちらの話をちゃんと聞いてくれているかどうかは関係ない。由衣は口を動かしていく。由衣にしか言うことのできない言葉をかけつづけていく。

「だから、姫ぇも勝ってさ、したいことをしなよ」

「…………」

「大丈夫だよ。大丈夫。智ならさ、姫ぇの気持ち、茶化したりなんてしないはずだから。絶対」

「……あのさ、絶交だって言ってなかったっけ?」

「うん、ちゃんと覚えてるよ」

 感情を抑えた棘のある冷たい言葉を浴びせられたが、由衣の浮かべる表情には余裕の色があった。それは、昨日から今朝という時間を乗り越えたからこそ、その表情を浮かべることができている。

 小さく頬を緩めた。

「けどね、そんなことでこの試合、負けたくないんだよ。そんなあたしたちのせいで、なんてさ」

 こんな気持ちで、引退なんかしたくない。

「勝ちたいの。どうしてもこの試合は勝ちたいんだよ」

「……あのさ、打たれるつもりはないんだけど」

「さんざん打たれてるくせに」

 冷やかすように言い放って、ぽんっと肩を叩いた。もうポジションに戻る。かけておかなければならない言葉はもう残っていない。

「頼んだよ、エース」

「……言われなくても」

「まっ、逆転されたらされたで、裏の攻撃であたしがホームラン打ってあげるから、安心して」

「……ホームランなんて 打ったことないくせに」

「裏があったら、絶対打つよ!」

 口から歯を出してにかっと笑ってみせると、由衣はショートのポジションについていった。

 今日も晴天である。とてつもなく暑かった。昨日同様の暑さである。けれど、由衣には感じる熱が昨日とはまったく違うものに思えていた。

(…………)

 由衣の視界では、マウンド場の姫香が額の汗を拭って、両足でプレート踏んでいる。グローブを腹の位置で構えて、キャッチャーのサインを確認していた。サインを見るために前屈みになっていた上体を起こす。

(あとワンアウト)

 今日という試合の重要さ、最終回の大ピンチという緊迫感を感じてはいるものの、由衣の気持ちはとても晴れやか。昨日の同じ時間帯の自分からはとても想像できないぐらい。

 それは、ようやくけじめをつけることができたから。


 昨夜、小野田和人の婚約者である女性は、救急車で病院に運ばれて緊急手術を受けていた。もちろん救急車は由衣が呼んだものである。

 由衣が病院で警察に事情を説明し、そのまま病院の廊下で手術が終わるのを待つことに。

 それは今日が昨日になってすぐだったと思う、由衣のいた廊下に和人が現れた。それも頭に包帯をぐるぐるを巻いた姿で。和人は大怪我をしていたのだ。本当なら病院のベッドの上で安静にしていなければならない状態であった。けれど、和人は集中治療室の前にいることを選んでいた。由衣とともに、そこのソファーに座ることを。

 由衣は、ここでようやく和人に会うことができた。そもそも和人に会いに北曽根までいっていたのである。会うことはできなかったが、けれど、それが功を奏してか、大量の血を流して重傷だった婚約者の女性を発見できていた。

 ソファーの横に座る和人は、今まで見たことのない、不安で押し潰されんばかりに思い詰めた表情をしていて、ソファーに座って唇を噛みしめながら俯いていた。自分の怪我のことなど、気にもしていないみたいに。

 由衣は、せっかくこうして和人と会うことができたのに、こんな状況ではとても由衣の目的を果たすことなどできなかった……二人は、集中治療室前の廊下に設置されているソファーに座っていた。ただただ静かに、前だけを向いて。

 そのソファーに座って、ずっと待っていた。ずっとずっと待っていた。目の前にある閉ざされた扉の上にある『手術中』のランプが消灯することを。

 手術が無事に終わることを。

 由衣の隣で、悲痛な表情を浮かべている和人を、一刻も早く安堵させてあげたかった。そのために懸命に祈っていた。

『手術が無事成功しますように』

 世界は深夜と呼ばれるとても闇色の深い時間帯であり、ただただ静かな空間にただただ静かな時間だけが通りすぎていく……そして夜という時間が白々と明けていく頃、『手術中』のランプが消える。

 手術は成功した。


「ありがとな、由衣ちゃん。ありがとう」

「…………」

 こちらの手を握って、何度も何度も感謝の言葉を重ねてくる和人に、由衣はなんとも不思議そうな表情を浮かべていた。自分が手術したわけではないのに、これほどまで深く感謝されていることが、不思議で仕方なかったから。

 それも憧れの和人になんて。

 嬉しい気持ちと、複雑な気持ちと、でもやっぱりよかったと思える気持ちに、由衣は小さく微笑んでいた。

「…………」

 個室の病室。和人の婚約者は薄緑の入院服に身を包み、酸素マスクをしながらベッドに横たわっている。まだ瞼は閉じられているが、もう心配はない。

 ベッドに眠っているのは、髪の長いとてもきれいな女性。由衣ではとても敵いそうになかった。

 病室に医師の姿はない。何かあったときはベッドにある呼出しブザーを押すように言われている。ここには由衣と和人、それと眠りつづける女性の三人しかいなかった。

 清潔そうな真っ白なカーテンの向こう側から、朝の日差しが入ってきた。今日も暑くなりそうである。

「……あのね、和兄」

 由衣はまだ学校帰りの制服姿である。まだ昨日の部活の練習以降、家に帰れていないのだ。しかも、チェックのスカートは血で汚れてしまっている。とてもではないがこんな格好では電車に乗って帰るわけにはいかない。乗ってしまえば、不審者扱いされるに決まっているから。

「前に言ってたと思うけど、今日ね、試合があるんだ」

 負けたら即引退となる、大事な県大会一回戦。大名希北高等学校、ソフトボール部。

「そろそろ、帰らないと」

「そうか、今日だったな……」

 和人は言葉に詰まり……申し訳なさそうに小さな声を連ねていく。

「……ごめん、応援しにいくって約束だったけど……」

「ああ、ううん。いいよいいよ。まだ意識が戻ってないんだもん、今日は傍にいてあげて」

 相手の気持ちを察して、胸の前で両手を横に振っていた。

「それでね、その、こんな格好じゃ……」

 制服を血で汚した女子高生が、呑気に町を歩くわけにはいかない。まだ朝早いとはいえ、常識的なことを考えればそんな格好で出歩くには無理があった。

「タクシー乗りたいけど、その……あたし、お金がなくて……」

「ああ、そうか」

 和人はポケットから二つ折りの財布を取り出し、一万円札を出した。それを渡すのに一切の迷いはない。

「玄関まで送るよ。あっ、タクシーも呼んでもらわないとね」

「うん、ありがと」

 病室にまだ意識を戻さない和人の婚約者を残して、二人は一階の玄関へ移動した。まだ人気のない静まり返ったロビーに足音を響かせながら、受付でタクシーを呼んでもらい、玄関で待つことにする。

 姿は確認できないが、どこからともなく鳥の囀りが聞こえる。世界に降り注ぐような蝉の声はまだ聞こえてこない。

「…………」

 朝早くの二人だけの時間。もう二度と訪れることはないだろう。

 由衣は呼吸することを小さく意識した。

「……あのね、和兄」

「うん……?」

「怪我してるんだから、ちゃんと安静にしとかないと駄目だよ」

「おう」

「うん……それから、ね」

「うん?」

「結婚、おめでとう」

「おう」

「うん」

 暫くすると、緑に白線のあるタクシーがロータリーに入ってきた。受付で呼んでもらったものである。しかし、まだ由衣たちの前にはやって来ていない。別れにはまだ少しだけ時間がある。

 まだ少しだけ時間は残されている。

「あのね、和兄」

「うん?」

「あたしね」

 心臓が一度大きく跳ねた。

 けれど、それは決していやなものではなかった。

「和兄のこと、好きだよ」

「おう。俺もだよ」

「うん」

 頷く。

(はははっ、そう言うと思ったよ)

 少し視線を下げて、由衣は口元を緩めていた。

 タクシーがやって来た。後部座席のドアが開く。

「あのさ、和兄」

「どうした?」

「前みたいにさ、今度、またキャッチボールやろうね」

「おう」

「うん」

 タクシーに乗り込み、運転手に行き先を告げる。エンジン音とともにタクシーが発車すると、すぐに和人の姿は見えなくなった。十階建ての大きな病院の建物もすぐ小さくなっていく。

「…………」

 朝。交通量はとても少ない。タクシーはすいすい進んでいく。

 朝。もう二度と経験しないであろう壮絶な経験を乗り越えた朝。由衣はそんな朝をしっかり踏み越えていた。

「…………」

 止まらなかった。走りつづけるタクシーの後部座席で、止めどなく溢れてくる涙を止めることはできなかった。

「…………」

 唇を噛みしめ、あらゆる感情を自身に抑えるように瞼をぎゅっと閉じたが、それでも涙が止まることはない。

 感覚的に、漠然とした一つのゴールを迎えていた。と同時に、漠然とした一つのスタートを迎えた気がする。

 広橋由衣。十八歳。

 少女はまだ前に進む。

 そこに待つ未来に向かって。


「…………」

 紺色のユニホームを着た由衣の数メートル先では、背番号『1』をつけた姫香が動きはじめた。勢いよくバックスイングに入り、左足を踏み込んでグローブをつけている左手でバランスを取りながら右腕を回転させていく。右腕を上げた頂点でスナップを返して、ボールをリリースする瞬間に手首を返して投球した。

 それは、今日の試合にはない、いつもの姫香のきれいな投球フォームだった。

 ゆったりとしたフォームから放たれたボールは、直線的にキャッチャーミット目がけて飛んでいく。

 きーんっ。

 金属音が響いたかと思うと、スイングしたバットに当たったボールは由衣の前に転がってくる。

 由衣は、止まってボールを迎えるのではなく、自らダッシュして捕りにいく。前に。前に。

(よし)

 ソフトボールは小学校からはじめていた。今日まで九年間つづけてきた練習は決して嘘をつくことはない。ぼてぼてのゴロを軽快なリズムで捕球し、その体に染みついた一連の動作でファーストへ送球。

 由衣の手から放たれたボールは、小さな放物線を描いてファーストミットへと納まった。ランナーの足はまだファーストベースには届いていない。

 アウト。

 スリーアウト。

 試合終了。

 七対六で大名希北高等学校は辛くも県大会一回戦を勝利していた。

「やったぁ!」

 グラウンドでは少女の笑顔が弾けている。それは天空に位置する夏の太陽のように輝いていた。

 由衣は整列してベンチに戻ると、歓喜の輪から抜けて、荷物を整理している姫香の背中を叩いていく。

「ナイスボール」

「……ありがと」

「ごめんね」

 由衣は笑顔。そのまま足を止めることなく、タオルで汗を拭いている明美の元へと向かっていく。

「明美ぃ、早く病院いこー。そろそろ意識が戻ってるかもしれないよー」

 広橋由衣。高校三年生。

 今年はまだいろんなことが待っている。

 県大会ははじまったばかりで、この勢いのまま優勝までまっしぐら。

 高校三年生なので、今年は受験生として勉強にも身を入れなければならない。それはかなり頭の痛いことである。

 告白してくれた智のこともちゃんとけじめをつけなければならない。昨日までの由衣のように、智も不完全燃焼状態だろう。そう思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 季節が移ると、すぐに和人の結婚式が行われる。

 学校では高校最後の文化祭や体育祭だってある。

 とにかく、これからはいろいろとごちゃごちゃしたことが待ち受けている。由衣はそれらすべてを経験して、来春には大名希北高等学校を卒業する。今からはまだまだ遠い日のような気もするが、けれど、そんなのきっとあっという間のことなのだろう。

 これからの道、さまざまな選択を余儀なくされて、それでどんな歩み方をしていったとしても『後悔』というものは残したくない。今日の試合のように、すべてに全力でぶつかっていって、すべてを乗り越えていく。それが由衣にはできるはずである。

 由衣はそれをするだけの力を持っているのだから。

 だからこそ、由衣は足を前に踏み出していく。

「ほら、明美、ぐずぐずしなーい。そんなことしてると置いてっちゃうよー」

 由衣は駆ける。真っ青な空の下、元気に駆け抜けていく。日差しに焼かれた夏の世界に向かって。

「早く和兄に勝利の報告をしないといけないんだからー」

 ここにいる由衣はもう、昨日までの由衣ではない。大きな山を乗り越えた者だけが得られる新たな広橋由衣という存在を手に入れて。

 そうして、一つの大きな恋はきれいさっぱり終止符を打たれた。もうそこを振り返ることは、ない。

 由衣は前を向いて、走っていく。

 これからも、ずっと。

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