第15話

 六月二十三日午前十時


 児童相談所を出てから数分、佐東のカフェに着いた三人は店に入る。店には佐東一人だけだった。佐東は三人を見るとまず千聖と息子を見てから鷲島を見る。それから家族で来たと察した様だった。


「いらっしゃいませ!ご家族で来てくれたんですね」


「どうも・・・すみません、俺はこの後すぐに出なくちゃならなくて・・・」


 そこまで言ったところで佐東が遮るように話す。


「千聖さん、鷲島さんの奥さんだったんですね。いつも来てくれてありがとうございます」


「佐東さんも、夫のこと知ってたんですね」


 二人が話すのを聞いて頭にクエスチョンマークが浮かぶ。そんな鷲島を見て千聖が少し笑う。


「ごめん、言ってなかったよね。私前からここのカフェに来てたの・・・息子も連れてね」


「そうだったのか・・・俺のことは話してなかったんだな」


「うん、特には聞かれなかったし・・・あと事件のことでこの店に来ていたのも知ってたし、そこで旦那ですとか言うとちょっと気まずいかなって。だって多少は疑って聞き込みに来ている人の妻が常連とかやりずらいでしょ」


 鷲島は上手い具合に繋がるな、と思う。つまりこの事件が発生してから鷲島と千聖は入れ替わりで佐東のカフェに来ていたのだ。佐東の方は鷲島と千聖が夫婦である事は知らなかった様だが、ある意味では家族でこのカフェに通っていた事になる。妙な繋がりに感心していたが、鷲島はいつものアルバイトの女子高生が居ないことに気が付く。


「今日はアルバイトの女子高生はお休みなんですね」


「今日は忙しくないし、それにたまたま二人とも今日お休みなので。それより鷲島さん、怪我は大丈夫なんですか?」


「えぇ、ちょっと身体を打っただけです・・・それより今からまた戻らないといけないんですが、妻と息子をここに居させてもらってもいいですか?」


 店を見ると、電話で話した通り確かに他の客はいなかった。だからといって何時間も居座っていい訳では無い。本当は家に帰すべきなのだろうがここに連れてきたかったのと、まだ心のどこかで千聖を疑っていたのもあるのかもしれない。第三者がいれば万が一の事があっても止めてくれる。本当は自分がいればいいが今はこの街で連続殺人をしている凶悪犯を捕まえなければならない。幸いどうやら千聖と息子、佐東は顔馴染みだった様なので安心だ。


「いいですよ。今日は雨も降りそうでお客さんも来なさそうですし。ゆっくりしていってください」


「すみません、お願いします・・・」


 鷲島は急ぎ足で店を後にしようとする。そこで足に何かしがみついている様な感覚があった。足を見ると息子がしがみついていた。何事かと見ていると息子が顔を上げてこちらを見る。息子は不安そうに鷲島を見ていた。鷲島は子どもにこんな顔をさせてしまう自分の不甲斐なさに怒りを感じながら息子の頭を撫でる。


「すぐ帰ってくるからな・・・待っててくれるか?」


 息子はそれを聞いてしばらく黙っていたが、ゆっくり笑って頷く。それを見て鷲島も笑顔で返すと向き直る。


「それじゃ、行ってきます」


 鷲島は店を出て、警察署に向かう。


 ━━━━━━━━━━━━━━━


 警察署に戻るとそこは異様な光景に包まれていた。いや、正確に言えば警察署の中には入っていない。大きな問題と道路を挟んで向かいの歩道にいた鷲島は警察署の名前に大きな人だかりと怒号が飛び交うのが見えていた。何が起きているのかが分からないまま道路を渡り警察署の前に来る。人だかりの中で飛び交う言葉は罵詈雑言というにはあまりにも強烈なものだった。


『警察は何やってるんだ!』


『早く捕まえてよ!』


 鷲島は人混みに揉まれながら懸命に前に進もうと歩を進めるが押し返されるのみで進まない。


「くそっ!これじゃ捜査が・・・!」


 入り口付近にも多くの人が殺到しており、中に入れないように警察官が何人も出て盾になっているが、数人と数十人では力の差がありすぎる。何より彼らは今かなりの興奮状態であり、人間何かに追い詰められたりすると異常な力を発揮する事がある。よく火事場の馬鹿力というがそれも似たような状態なのかもしれない。異常な力に押されながらも懸命に前に進む。その時、怒号の中でスマホが鳴ったが聞こえた。かろうじて聞こえた着信音に気が付き、何とかポケットに手を伸ばしてスマホを取り出す。発信元を確認する暇もなく電話に出る。


『鷲島!裏から回れ!』


「佐々川さん?!ちょ・・・!」


 電話の相手は佐々川だったが、緊迫した声と共に鷲島の返事も待たずに通話を切ってしまう。本当に必要最低限の事のみを伝えた様な感じだった。とにかく佐々川の言っていた通り人混みを警察署とは反対方向に潜り抜け、バレないように距離を取りながら裏へ回る。裏口には殆ど居なかったがもしかしたら回り込まれている可能性もあるので慎重に入る。警察署の裏口は基本的に逮捕した容疑者を連行する際に使用する出入口である。テレビ等では正面玄関から連行されている様に見えるが、実際は一般の来客が正面玄関を使う為容疑者の連行は裏口から行われる。テレビカメラに映るようにわざと車のカメラ側のドアから降ろしたりするので、実はテレビで見るような光景はマスコミと警察が打ち合わせ済みなのだ。警察署によっては裏口から直接留置場に繋がっている所もあるようだが熊谷警察署は違うようだった。鷲島は静かに裏口の扉を開ける。扉の軋む音が響く。騒がしい外とは別世界かのように中は静寂に包まれていた。裏口の通路を通り、取調室等がある廊下に出る。その通路を通り過ぎて捜査本部がある会議室に入る。


「佐々川さん!外のあれは一体・・・」


「来たか。話すと色々あるが・・・あの暴動の大きな理由は二つ。まずはこれから説明しなきゃな」


 鷲島の目に一番最初に入ったのは見慣れた捜査本部と捜査員、そして十数名の子どもだった。鷲島が子ども達と佐々川を交互に見ていると佐々川はスマホの画面を見せてきた。SNSの投稿板の一部だった。その投稿には『警察は犯人を分かっているのに捕まえていない』、『犯人は虐待関係者だ』という内容の投稿があった。その投稿に対する反応は既に何万という数になっていた。現在世間を騒がせている猟奇殺人に人々の恐怖を煽るような文面、そして好奇心がSNSの拡散速度を加速させたのだろう。


「誰がこんな事を・・・」


「アカウントは新聞社のものなんだが、一人の記者が勝手に投稿したようだ」


 佐々川は窓の外を見る。佐々川は集団の一番前で鬼の形相で警察官に掴みかかっている男性を見る。その男性は会見の時に出会った虐待被害のある男性記者だった。普通の記者だったらいつも通り命までネタにするろくでもない奴ら、と一蹴するが身体の痣などを見てそう言えるような神経は持ち合わせていなかった。虐待加害者が虐待被害者、もしくは被害者側の人間に殺される。それだけでも虐待被害者達にとっては今回の事件はそれだけ深く無視しがたい事件なのだろう。鷲島を見ると記者の方を見ながらも子ども達の方も見ていた。早く説明してくれと言わんばかりに佐々川を見てくる。佐々川は少しの沈黙の後、ゆっくりと話す。


「二つ目の理由がこの子達だ」


「この子達・・・?一体・・・」


 そこまで言いかけてある一人の女の子の腕に目がいく。七分袖なのか、と思ったが女の子が着ていた服はボロボロになっていた長袖の服だった。七分袖に見えていたのは長袖が破れていたからであり、明らかにサイズも合っておらず恵まれていない環境で育っていたのは明らかだった。だが鷲島が目を奪われたのは長袖の部分ではなく、袖にギリギリ隠れて見えていなかった痛々しい痣と瘡蓋だった。他の子ども達も同様に明らかにサイズも合っていない、洗濯もされていない、親から必要な環境で育てられていない様に見えた。そして身体に見える傷も。


「虐待児童・・・親は虐待者・・・」


「最初は早く犯人を捕まえろ、という人達だけだったが、この子達が来たのと同時に犯人を擁護する人達も暴動に加わり、そしてこの子達を見てさらに暴動は激しくなった」


「警察署の前にいるのは犯人を捕まえて欲しい人達と犯人を支持する人達ってことですか?そんな反対の意見を持つ人達が一緒になって暴動を?」


「確かに俺もそう思った。だが奴らの根底に共通してあるのは『警察への不満・敵意』だ。表面上は違っても中身を構成するものは同じだから理由は違くても共鳴する。あの中に本気で虐待や事件の事を考えている奴なんて一握りだろうよ」


 佐々川は子ども達が虐待児童だと知って、犯人を支持する人達は子どもを助けろ、と言っているとも話していた。それはつまり今虐待加害者だと思われる人が殺害されている事件を支持し、その犯行を行っている『イヌ男』に親を殺してもらえ、と言っているのと同じだ。しかし実際三船千佳子も碓氷保も虐待などしていない。意図は分からないが恐らく尼崎が周りに被害者を虐待しているという噂を流しているせいだが、きっと警察署の前にいる人達にはそんな事は関係ないのかもしれない。一番前で暴動を起こしている男性記者以外は殆ど警察に対して漠然な不満などを抱えている人達だろう。もちろん市民もいるだろうし、その市民は殺人鬼が自分の住む街にいるというだけで不安になるのは当たり前であり、中々犯人を捕まえられない警察に不満を覚えるのは仕方ないのかもしれない。だが、虐待という傷を持つ人達を踏み台にして不満をぶつけていい訳では無い。

 鷲島は子ども達を見ていると最初に見た女の子が声を震わせて話す。


「お父さんとお母さんを助けてください・・・」


「え?」


「今、人を殺している人はその・・・虐待をしている人を狙ってるんですよね?だから・・・お父さんとお母さんも狙われてるかも・・・」


 それはつまり現在両親から虐待を受けていると言うことであり、その両親を助けて欲しいと言っているのだ。鷲島は子ども達を見て思い出す。何が理由か分からないまま理不尽に暴力を振るわれる。毎日毎日怯えながら、泣きながら生きてきた。親に愛されて生きるはずだったのに親に憎まれ、嫌われて生きてきた。それがどんなに辛いものかも知っている。だからこそ鷲島は親を憎んでいた。どうして自分なのか、どうしてこんな目に遭わなくてはならないのかと。理由も何も話さずにただ呪詛の様な言葉を吐きながら暴力を振るう母を憎んだ。そんな鷲島は堪らず声を出してしまった。


「どうして・・・だって君達は親に暴力を振るわれてるんだろう?理由も分からないまま、ただ理不尽に殴られている。自分を愛してくれるはずの親が暴力を振るう・・・憎くないのか?そんな親を本当に助けて欲しいって思ってるのか・・・?」


「おい・・・!」


 佐々川の制止を振り切って話す。もちろん刑事として有るまじき発言だということは分かっている。どんな人間でも殺されていい人間なんていない。誰がそう思おうとも命を奪われ、そして狙われてる人達を守るのが刑事としての仕事だ。だから聞きようによっては犯人を支持する様な発言をしている事を自覚しながらも鷲島はつい問いかけてしまう。それを聞いた子ども達は一瞬目を伏せる。だがすぐに顔を上げて鷲島の目を真っ直ぐ見て話す。


「どうしてって思う。なんで私だけって。でも・・・それでも・・・」


 まるで鷲島の過去を知ってるかのように、しっかりと、言い聞かせるように話す。


「家族だから。私にとって私を産んでくれた親で、名前をつけてくれた親で・・・家族だから。死んで欲しいなんて思いません」


 鷲島は何か大切な事を忘れていた様な気がした。鷲島は母を憎んだ。恨んだ。だが不幸になって欲しい、いなくなって欲しいとは思わなかった。どうしてだろうか、と今まで思いその答えを子どもに教えてもらった様な気がした。そう、鷲島も本気で母を憎んだりはしていなかった。どんなに理不尽に暴力を振るわれようが、憎いと思っていようが本当は好きだったのだ。たった一人の家族を、たった一人の親にいなくなって欲しいなんて本気で思っていなかった。当たり前なのかもしれない。この世に心の底から親に死んで欲しい、いなくなって欲しいと思う人はそういないのかもしれない。今、目の前にいる子ども達も同じだ。今受けている理不尽に憎み、恨みながらも自分の家族に死んで欲しいと心の底からは思っていない。だからこそ警察署まで来て助けて欲しいと言ってきたのだ。鷲島は当たり前の事に気が付けなかった事に刑事として、人間として自分を憎んだ。子どもの頃の醜い憎しみだけが増大した醜い大人になった自分を恥じた。佐々川が黙ってこちらを見ている。鷲島の中で答えが出るのを待っているようだった。鷲島は子ども達を真っ直ぐ見る。


「大丈夫。お父さんとお母さんは必ず守る。俺達が絶対に犯人を捕まえるから信じてくれ・・・・・・ただ、もう生きるのが辛いって思ったら抱え込まないでいつでも相談に来てくれ・・・もう逃げない。俺達は絶対に受け止めるから」


 鷲島の言葉を聞いた子ども達は皆安堵の表情を浮かべる。だからといって安心はできない。この子達を囲う虐待という問題は事件が解決しようが終わらない。警察による継続的な支援、児童相談所との連携も必須になる。それも含めてやらなければいけない。警察が今まで虐待という問題から目を背けてきた代償が今来ているのだ。鷲島は事件解決の先も考えていると鷲島の中で納得のいく答えが出たようで強く頷く佐々川が見えた。


「この子達どうします?家に帰すって言っても家庭の状況が・・・」


「俺たちが無理に引き止められる権利もないし、何より親が帰せと言ってきたら俺たちは返すしかない。だがこれを見過ごすほど馬鹿でもない」


「児童相談所・・・一時保護をしてもらいましょう。本来は虐待の発見者の通報により状況によって一時保護をしますが、今回は虐待被害者である本人達が来ているんです。これほど虐待を受けているという可能性の高さは児童相談所も否定できないでしょう」


「そうだな。だが今は事件の解決もしなければならない。だから警察署で一時保護を行う。本来はやってはいけないのかもしれないが、そう規則に則っている暇はない」


 佐々川の言葉に鷲島は頷くと佐々川が紙を渡してくる。紙には防犯カメラの映像の一時停止画面が映っていた。そこには何度も見た顔があった。


「尼崎・・・」


「一時間前に佐東さんのカフェ近くの防犯カメラに映っていた。捜査員も向かったがまだ見つかっていない。鷲島ともすれ違っていないともなれば、まだそう遠くは行っていないはずだ」


「必ず捕まえます。イヌ男なんてふざけた殺人鬼を」


 鷲島と佐々川は子ども達を女性職員に任せて下に降りる。外では轟音にも聞こえる怒号を発する集団が勢いを増して警察署に押し寄せていた。入り口の警察官も増えているがもう扉の中に入って中から抑えている感じだった。


「まずい・・・さっきよりも人も増えてる・・・このままじゃ警察署がもたないぞ!」


「とにかく奴らを抑えないと捜査どころじゃない!尼崎の捜索にはすでに捜査員が向かっている!今警察署にいる人達は暴動を抑えるのに集中しろ!」


 署長の言葉に事務員等も含めた署内の人間が扉を抑える。だが扉を叩く勢いは収まらず人も増えていく。


「くそっ!周りの勢いに興奮状態になり始めてる!何かきっかけがあると一気に爆発するぞ!」


「鷲島!お前だけでも先に行け!俺はさっきの子ども達をもっと安全なところに誘導してくる!」


「わかりました!」


 鷲島が佐々川の声に応え、裏口から外に出ようとした時。怒号の中から一つの声が聞こえた。



「警察は虐待加害者を署内に保護している!そして犯人も確保しているのにそれを隠している!俺たちの手で罰するんだ!」



 まるで嵐の前の静けさの様に一瞬静寂が訪れた。それはまさしく戦争の引き金となる爆弾のように人々の中に落ちていく。鷲島も、佐々川も、署内の人間も何が起きたのかを理解できなかった。ただ、その後に起きたのは爆弾が爆発したような破壊音と怒号と、人の波が署内を襲った。


「扉が破壊されたぞ!」


「まずい!押し寄せてくる!」


「あの野郎・・・とんでもない爆弾を落としやがった!」


 その爆弾を落としたのは一番前にいた男性記者だった。虐待を受けていたという記者の憎しみはそれほどまでに大きかったのか。正面玄関の扉は破られ、金属バットや鉄パイプを持った人々までなだれ込んでくる。署内の人間が防御盾を一斉に構えて階段のところで並ぶ。鷲島は階段の先にいる子ども達にこの光景を見せたら更に恐怖を刻むことになるかもしれない、と思い暴動の食い止めに協力する。


「虐待加害者を許すな!」


「犯人いるんだろ!俺達を教父に陥れたやつが!」


 それぞれの思惑が怒号で飛び交う。どれも理由は様々でこんな事では集団がまとまるはずがないが、皆警察への不満や敵意という根底にある共通の気持ちで繋がっているのかもしれない。すでに署内の廊下は人で埋め尽くされ、中には負傷者も出始めている。鷲島も必死に暴徒を食い止めるが異常な力で押し返されてしまう。


「ここから先には子ども達がいる!行かせたらとんでもない事になりますよ!」


「何としてでもここで食い止めろ!もう手段は選べない!とにかく暴動を食い止めるぞ!」


 海外の暴動のニュースでよく警察官が警棒等で必要以上に暴徒を叩きのめしている映像が流れるが、日本ではそんな光景はあまり見られない。だからこそ警察官が一般市民に対して行う制圧行動にも海外と大きな差が見られる。海外の警察は権力者に対する抗議活動者を敵視、攻撃する傾向があるため制圧行動も暴力的になりやすい。それが守るべき一般市民でも警察側が悪とみなせば武力行使をしてでも倒すべき悪になる。対して日本はどちはかというと武力行使で解決するというよりは一般市民を守る事を第一に目的としている事が多いため例え一般市民が暴動を起こしても中々武力行使をして抑え込むという事はできない。もちろん全てがそうでは無いし、中には暴力的な警察官もいるだろう。しかし今、熊谷警察署にいる警察官や職員達は後者に属する警察官が多かった。なので武力行使をしてくる一般市民に対して同じ武力行使で押さえ込もうとは思えなかった。それが署内への侵入をどんどん許してしまった。


「向こうの階段がやばいぞ!人員を寄越してくれ!」


「そんな事言われてもこっちも手一杯だ!」


「やめろ!こんな事しても罰せられるだけだぞ!」


 鷲島は叫ぶがその声は当然届かない。強風の中で虚しく消える煙のように鷲島の声は怒号にかき消される。必死に押さえ込んでいると新たな声が聞こえてくる。


「子どもを返せ!」


「勝手に保護なんてするな!そんな権限あるのか!」


「今度は子どもの親か!虐待してたのはお前達なのに虫のいいこといいやがって・・・!」


 後ろの方から聞こえてくるのは子どもを返せや警察が勝手に子どもを署内に留めている事を職権乱用だと叫ぶ声だ。恐らく自分の子どもがいないことに気が付き、そして暴動を知って子どもが警察署にいることを知ったのだろう。表面上は子どもを思っている親の言葉に聞こえるが、虐待をする親が警察や児童相談所の訪問で中々子どもを出さないのは子どもを見られて虐待をしているという事実がバレるのを恐れているからだ。もう無駄だが、それでも子どもを返せと言ってくる。親としては勝手にいなくなり、勝手に警察が保護している子どもを返せというのは当然なのかもしれないが、事情が事情だ。理不尽な虐待から守るためにも簡単に返す訳にはいかない。そう考えている間にも防衛線が階段に迫り、どんどん後ろに下がってくる。


「これ以上先には絶対に・・・!」


 そこまで言ったところで鷲島は階段から一人の女の子が降りてくるのが見える。それは虐待されその親を殺人鬼から守って欲しいと頼んできた少女だった。少女は暴徒と化した人々を見て固まっていた。怒号と気迫に気圧されて動けないでいると、誰かが投げたのか真ん中辺りから金属バットが飛んでくる。それは回転しながら少女のほうに向かっていく。


「危ない!伏せて!」


「あっ・・・」


「鷲島ぁ!」


 鈍い音が響く。少女はその場に蹲っていたが自分に鷲島が覆い被さっているのに数秒経ってから気がついた。鷲島は頭に走る激痛に顔を歪めながら額に手を当てる。生暖かい液体が手に付く。しかし少女を怯えさせない為に決して掌は見せなかった。


「あ・・・ごめんなさい・・・ごめんなさい!」


 何か悪いことをしたと思ったのか。恐らく自分のせいで鷲島が怪我をしたと思い自分を責めているのだ。そして何かから身を守るように頭を手で覆う。恐らく殴られると思ったのだろう。普段から少しでも親にとって気に食わない事すれば殴られる毎日を過ごしていれば何も悪くないのに自分が悪いと思い込んでしまう。そしてそれが他人にも適用されると思う。鷲島はそう思わせてしまった少女の親と自分に憤りを感じながら怯える少女を優しく抱き締める。


「大丈夫・・・大丈夫だから・・・君に怪我なくて良かった。ここは危ないから上の階に上がっててくれ・・・・・・」


 少女は泣きながら二階に上がっていく。気がつけば周りは静寂に包まれ、人々は鷲島を見ていた。驚いた様子だったが、恐らく今自分が何をしているのか、何をしようとしていたのか、その結果がなにをもたらすのかを見たのだろう。鷲島は赤く染る視界も、激痛も、揺れる意識も気にせずに立ち上がる。


「鷲島・・・無理は・・・」


 無理はするな、という佐々川の声を遮るように叫ぶ。


「今!あなた達がやっていることは!虐待を受ける子どもを守ることでも!犯人を罰することでもない!ただ己の欲望に負けて、人の命なんて気にせずに凶器を振り回してるだけだ!心にも体にも深い傷を負った人達の傷跡を抉ることしかしていない!」


 これは警察への不満や恨み、敵意、そして正しい事をしているという建前を使ってそれを暴力に変えた人達に向けて放つ。そして。


「そして!その子ども達に一生治らない傷を作り!それでも子どもを返せという都合の良い事を言っているあなた達が生んだ結果がこれだ!虐待は虐待を受けた人の人生を歪ませる!これを見て!自分が何をやったのか、何をしようとしていたのか考えてください!」


 人々は黙って鷲島の言葉を聞いていた。聞いていたと言うよりも鷲島の気迫に押されて言葉を発せないようにも見えた。


「・・・俺達は今、凶悪な殺人犯を追っています・・・その為に多くの人が命を張っている・・・皆さんを守るために・・・だから・・・・・・信用してください・・・お願いします」


 フラフラになりながらも鷲島はしっかりと言葉を発し、そして頭を下げる。鷲島自身も虐待を受けた身として叫んだ言葉が届いたのか。一番前にいた男性記者もいつの間にか鷲島の言葉に耳を傾けていた。後ろの人々もようやく自分が何をしようとしていたのかを自覚したようで苦虫を噛み潰したようなバツの悪そうな顔をする。佐々川はゆっくり鷲島に近づくと自分の肩を貸して鷲島を支える。


「もういい・・・早く治療しないと意識が落ちるぞ」


 佐々川は鷲島を支えながら人々に話す。


「今回の暴動は騒乱罪、多衆不解散罪に問われる可能性があります。皆さんは我々警察が守るべき対象です・・・出来ればこんな刑罰を皆さんに課したくはありません」


 佐々川の言いたい事を理解したのか、人々はゆっくりと踵を返していく。鷲島はそれを見て自然と目が止まる。


「おい、早く治療しないと・・・」


「・・・・・・あれは」


 鷲島が見ていたのは、踵が返す人々の中にいる一人の男。それは何度も見た顔で鷲島の頭に焼き付いていた顔だった。鷲島は佐々川の身体を抜け出すと痛みも忘れて走り出す。


「おい!鷲島!」


「佐々川さん!尼崎です!」


 鷲島は人々を掻き分けて走る。鷲島の言葉を聞いた佐々川も一瞬驚いたような表情を浮かべてからすぐに走り出す。人々の隙間で作られた複雑な路地裏の様な道を必死に走る。


「尼崎がそこにいます!」

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