28:世界の仕組み


 紫黒しこくさんが戦意を喪失したことによって、木々を揺らしていた風が徐々に落ち着いていく。

 今日まで恨みだけを募らせて自分を保ってきたのだろう。項垂れる彼の姿はとても痛々しくて、先ほどまでの紫黒さんと同一人物とは思えない。


 これほどまでに人を変えてしまうなんて。負に転じた強い情が暴走するという恐ろしさを、まざまざと見せつけられたような気がする。


「……俺はずっと、無意味な時を過ごしてきたのだな」


白花しらはな様がオレの記憶を封じていた。伝えられなかったオレにも、責任はあります」


「だとしても、俺の行いが消えることはない。貴様に存在を消されたとしても、仕方がないことだ」


 座り込んでしまった彼を見下ろす白緑びゃくろくに対して、抵抗するつもりはないと示すように、紫黒さんは大鎌を手放す。

 確かに恐ろしい人だったけれど。彼はただ、奈々さんのことが大切だっただけなのだろう。

 彼女を奪われた怒りも、白花さんが戻らなかったことでぶつける先を失ってしまった。その結果が、逆恨みへと至ってしまったのだ。


『愛し愛された記憶が消えて無くなる苦しみが、貴様らにわかるはずもない』


 大切なひとを失ったばかりか、彼女の中に紫黒さんの記憶は残されていない。それがどれほど大きな悲しみを生むのか、私には想像もつかなかった。

 だけどもし、私も同じように記憶を失うことになるとしたなら。


「……記憶は無くとも、奈々さんはきっと、あなたと同じように悲しんでいたと思う」


「…………戯言たわごとだ」


 確証などない。だけど、奈々さんだってきっと、紫黒さんのことを忘れたくなどなかったはずだ。

 意図せず人間の世界へ戻ってしまい、記憶も無いまま寿命を全うしたのだろう。

 けれど、彼女だって記憶の奥底ではずっと、紫黒さんを想っていたのではないだろうか?


(私もきっと、そうなるだろうから)


 彼をどうするかは、白緑の判断次第だ。多くを傷つけた紫黒さんを、このまま許すことはできないだろう。

 そう思っていると、白緑はなぜか紫黒さんの真正面に腰を据えた。藍白あいしろ紫土しどくんたちも、その姿を目を丸くして見ている。


「本来なら、秩序を維持するために口外することは許されないが……お前たちなら大丈夫だろう。妖都ようとの仕組みを教えてやる」


「妖都の仕組み……?」


 白緑が何を言わんとしているのかはわからないけれど、各々が彼を取り囲むように腰を下ろしていく。

 どこに座るべきか迷っていると、白緑がそっと私の手を引いて隣へ誘導してくれた。そんな些細なことでも、嬉しくなってしまう。


「妖都の王の役割は、この世界の維持をすることだ。……だが、それは表向きの話。実際には、生贄と言っても差し支えない」


「生贄……!?」


「世界の維持とは、妖魔から平和を守ることではない。妖都そのものから、あやかしと人間の世界を守るということだ」


「妖都から……守る?」


「門を維持すること、己の命を削って妖都に力を与えること。これが、王の本来の役割だ。それは、後継候補であった藍白も知っている」


 藍白が手段を選ばずに白緑を王の座から引きずり下ろそうとしていたのは、こんな理由があったからなのか。

 人間不在の妖都では、力を得る手段が限られている。妖都が暴走しないために、白緑はずっと一人で力を与え続けていたのだ。――その命を削ってまで。


「妖都というのは、この世界そのものが人間を欲している。だからこそ門には、妖魔の流出を防ぐ以外にも、二つの世界を隔てるという役割も果たしているんだ」


 手近にある枝を拾い上げた白緑は、話をしながら地面に線を引いていく。

 二つの世界を隔てる門を消し去ると、一方の世界がもう一方の世界を包み込んでしまった。


「隔てるものを失えば、妖都は己の力となる人間の世界を食らい尽くそうとする。そうなれば、やがては二つの世界がどちらも破滅の道を辿ることになる」


「人間の世界を食い尽くせば、妖都の力となる人間もいなくなってしまう……ということですね」


「そんな……門を失えば人間の力は取り放題になって、王の存在が必要なくなるわけじゃ……」


「まず始めに王の命が吸い尽くされる。その時間が早まるだけだな」


 兄を解放したい一心だった藍白あいしろは、可哀想なほどに青ざめている。恐らく、その事実については知らされていなかったのだろう。

 紫黒もまた、怒りによって取り返しのつかない過ちを犯していたことに、反省の色を浮かべていた。


「だからこそ、錠となる注連縄しめなわは絶対に守らなければならないものだ。俺のためだけじゃない、お前たちや……依織の世界のためにも」


「けど、誤解だって解けたんだし、僕たちこれで元通りだよね?」


 神妙な空気を変えようと口を開いたのは、紫土くんだ。確かに彼の言う通り、これ以上私たちが争う理由はない。

 紫黒さんは門を破壊しようとしていたけれど、その脅威が無くなった今は、妖都を脅かすものはないのだから。


 そう思った矢先、座っていた私の身体が浮き上がるほどに、地面が大きく揺れる。


「きゃああッ……!?」


「依織、掴まれ……!」


 その場に倒れ込みそうになった私の身体を、白緑の腕と尻尾が支えてくれる。

 何が起こったのかわからなかったけれど、揺れの影響を受けない空中へと朱さんが飛び上がった。状況の確認に向かったのだろう。


「これは……まさか……」


「朱、どうなっている!?」


 高い木々のてっぺんまで向かった朱さんは、私たちには見えない遠くの景色を見て、驚愕の表情を浮かべている。

 紫土くんは淡紅と、紫黒さんは藍白と、それぞれに支え合いながら揺れが収まるのを待った。

 やがて、朱さんが静かに降り立ってくる。その顔は、今にも倒れてしまうのではないかと思うほどに青ざめていた。


「……妖都が、崩壊を始めています」


「えっ!? どうして……!?」


「まさか……」


 確かに争いは終わったはずなのに、どうして妖都に影響が出ているのだろうか?

 その理由がわからない私とは違い、白緑には何か思い当たる節があるようだった。


「すぐに屋敷へ戻るぞ!」


「すぐにって、アタシたちの足じゃ……!」


「みんな、乗って!!」


 今にも駆け出そうとする白緑の前に、くすんだ紫色をした巨大なヘビが現れる。

 それが紫土くんだと認識するよりも早く、私は白緑に抱え上げられてその背中へと乗せられた。

 走り出した紫土くんに、遅れて淡紅たちも飛び乗っていく。その速度は驚くほどに速くて、私は振り落とされないよう白緑にしがみつくのに必死だった。




「これ……あの大樹なの……!?」


 屋敷へ戻る最中、森の一部が黒くよどんでいるのが目に入った。

 それだけではない。あんなにも生い茂っていた草木は枯れて、低級のあやかしたちの姿も見当たらなかったのだ。


 明らかに異変が起こっている。それを強く実感したのは、見慣れた屋敷に到着した時だ。

 少し前までは綺麗に咲いていた大樹の桜は、嵐が通り過ぎた後のようにすべて散り落ちてしまっている。その花びらが真っ赤な血のように変わり、まるで大樹が血を流しているようだった。


「嘘でしょ、こんな姿見たことない……」


「僕だってないよ、こんなの」


 広い湖はれ果て、幻想的で美しかったあの光景は、今や見る影もない。

 まるで別の場所へと来てしまったかのように、妖都の景色は恐ろしいものへと変化していた。

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