あやかし王とあやかくし~いずれは婚約破棄する応急処置の関係なので、もふもふの溺愛だなんて困ります!~

真霜ナオ

01:妖隠し


依織いおり、俺の嫁になれ」


 不思議な雰囲気を纏う、深い深い森の中。

 白銀の美しい髪と同色の三角耳、九つの尻尾を生やした彼は、淡い緑色をした瞳でまっすぐ私を見つめている。


 とても現実とは思えないこの状況に、私は混乱する頭を必死に回転させようとしていた。

 どうしてこんなことになったのか。

 思い返せば、あの神社に足を踏み入れたのがきっかけだった。




 ◆




「今日から夏休み……か」


 アラームをセットしたままだった私は、長期休みに突入したというのに、いつもの時間に目を覚ますことになる。

 そのまま二度寝をしてしまおうかと思ったのだけど、不快な蒸し暑さがそれを許してはくれない。

 この気温にも負けず、どこかへ遊びにでも行くのだろう。外からは元気な子どもたちの声が聞こえてくる。


 少し空気を入れ替えようと、私は窓を開けて室内に外の風を入れることにした。


 笹垣依織ささがき いおり、17歳。

 世間一般では、青春を謳歌する同世代が多いであろうこの夏休み。遊びの予定を入れるような友人は、残念ながらいない。


(勉強くらいしか、することないな)


 急いで動き出す必要もないとはいえ、目が覚めてしまった以上、そのまま寝転んで過ごすのももったいない気がした。

 のろのろと部屋を出て洗面所で顔を洗うと、何か胃に入れようとリビングに向かう。

 扉を開けた先、黒い革張りのソファーに座ってテレビを観る父の姿があった。


「……おはよう」


「…………」


 ニュースに夢中になっているらしい父から、挨拶が返ることはない。

 気にせずキッチンへ移動すると、どうやら洗い物をしているらしい母の姿があった。


「お母さん、おは……」


「夏休みだからってダラダラしてないで、洗濯物くらい干してちょうだい」


 開口一番の、苛立ちを含んだ声。

 乱暴に食器を置いた母は、溜め息を吐きながら私の横を通り抜けていく。


 彼女にとって、挨拶を返す価値もない相手なのだろう。それは父も同じなのだけれど。

 食欲が失せてしまったので、私はコップに汲んだ水で喉を潤すと、部屋に戻ることにした。


 こんな日常が始まったのは、昨日今日の話ではない。

 父は某大病院の外科医、母は大手企業の管理職として勤めている。だからこそ、学歴重視の両親から私に向けられる期待も大きかった。

 けれど、高校受験に失敗したことで両親からは大きく失望され、気づけば居場所がなくなってしまったのだ。


(勉強ばかりで遊ぶことも許されなかったから、友達も作れなかったのに)


 両親を恨んだところで、この生活が変わらないことは理解している。だからこそ、必死に勉強をして早く自立するべく奮闘しているのだ。

 そう頭ではわかっていても、時折とてつもない孤独感に襲われることがあった。

 長期休暇のように、人が誰かと楽しく過ごす時間は特にそうだ。そんなつもりはないのに、自分と比べてしまうから。


「いっそ、妖隠あやかくしにでもえたらいいのに」


 その小さな呟きを聞き取る人間は、この家にはいない。

 家で過ごす気になれなかった私は、適当な白シャツとワイドパンツに着替えて外に出ることにした。


 妖隠しの噂は、私が生まれる前からあったらしい。

 学校の七不思議とか、都市伝説と同じようなものなのだろう。

 とある神社を訪れると、神隠しのように人が消える。それはどうやら、あやかしの仕業であるらしい。

 だからそこには近づかないようにと、この町の子どもなら誰もが聞かされた噂話だ。


 実際には、不審者が出没したり誘拐事件があったために、注意を促す意味で流された噂だとされている。

 子ども相手には、そうした噂話の方が効果的なのだろう。


(ここ、だよね……?)


 そんな噂に吸い寄せられるように、私は町の端にひっそりと建てられている神社へとやってきていた。

 周囲は背の高い木々に囲まれていて、人目を避けるには丁度良い。石段を上がってすぐに寂れた神社が見えてくる。

 そして、その背後にはひと際存在感のある大樹がそびえ立っていた。


 その大樹によって日差しが遮られ、神社の周りはやけに薄暗く感じた。心なしか肌寒い気すらする。

 そのせいで不気味さを感じさせて、人を遠ざけているのかもしれない。


 けれど、今は何よりこの静かな環境がありがたかった。


「本当に妖隠しがあるなら、少しでもいいから……私をここから連れ出してほしい」


 そんなことは無理だとわかっていても、願わずにいられない。

 せめて日が沈むまで、ここで時間を潰していこうかと思った時だった。


 突然、目の前の大樹から強烈な光が放たれる。私はあまりの眩しさに強く目を瞑って、反射的に両腕で顔を庇うようにした。

 そうして少し経った頃、恐る恐る目を開けてみる。


「ウユーン」


「……え?」


 奇妙な鳴き声が聞こえて足元に視線を落とすと、小さな生き物の姿を見つけた。

 手に乗るほどの大きさのそれは、タヌキのように見える。その子は、私に何かを訴えかけているように見えた。


「何? 私に何か言いたいの?」


「キューン」


 しゃがんで手を差し出してみると、そのタヌキは警戒する様子もなく、私の手の上に飛び乗ってくる。

 もふもふとしていて可愛らしいその子は、一生懸命話しかけてくれているようだ。


「お前を歓迎しているんだ、依織」


「えっ!?」


 まさか人間の言葉を話すとは予想もしなかったので、私は驚いてタヌキを手から落としてしまいそうになる。

 けれど、聞こえた声は手元ではなく頭上からだったことに気がついて、顔を上げた。


(うわ……かっこいい人)


 そこに立っていたのは、同じ人間とは思えない整った容姿をした男の人だった。

 細やかな刺繍の施された白地の和服に、束ねられた白銀の髪は高価な芸術品みたいに美しい。

 洋装ではないけれど、まるでいつか見た絵本に登場した王子様のようだ。


「依織、俺の嫁になれ」


 私の前にひざまずいた彼は、まっすぐな視線を向けながらそう口にした。

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