3-10 殺戮とご馳走と
(空が、まぶしい)
サムエルに連れられて城の中庭に出たヴィヴィは、よく晴れた冬の空を見上げて、着込んだ上着の袖を太陽の光に透かした。
ヴィヴィはレオカディオが、どこかで近くで待っているものだと思っていた。
しかしあたりにはヴィヴィを物珍しそうに眺める兵士しかおらず、サムエルはヴィヴィを庭に止めた馬車へと案内した。
「レオカディオ様は今、ヤスライネ城を攻めに行っている。もうすぐ落城するから、お前にもぜひ来てほしいそうだ」
内装は豪華だけれどもがらんと寒い客室にヴィヴィを乗せて、サムエルは行き先の説明をする。
ヤスライネ城はヴィヴィにとって、名前くらいしか聞いたことがない遠い場所であった。
(私はあの人の寵姫だから、あの人のいるところへと連れ回されるんだ)
見知らぬ場所から見知らぬ場所へと運ばれるヴィヴィは、きっともう人間ではなく物に近いのだろうと思う。
やがてサムエルが客室の扉を閉じると、鞭の音と馬のいななきが聞こえて馬車は走り出した。
茶色に枯れた草原が広がる景色が、金色の枠がはまった車窓の外を流れていく。
ヴィヴィは一人で客室で馬車の揺れに酔いながら、吐き気をこらえて馬車が再び止まるときを待った。
◆
朝に出発した馬車がヤスライネ城の近くに着いたのは、昼過ぎのことである。
ヴィヴィがふらつきながら馬車を降りると、そこは数多くの天幕が張られた宿営地の中だった。
城にいた兵士たちよりもさらに多くの武装した男たちが各々の仕事をしていて、ヴィヴィは無力な自分が場違いな気がして立ちすくむ。
しかしすぐにサムエルが現れて、ヴィヴィを先導した。
「レオカディオ様は、こっちで待っている」
背が高いと言うよりはひょろ長いサムエルの後ろ姿について行くと、丸太を組んだ簡易的な高楼があって、ヴィヴィはその上まで登らされた。
敵の城を包囲する自軍をよく見渡せるように建てられた高楼の最上部は、頭上には丈夫そうな紋章入りの布が張ってあって、天候の悪い日でも過ごしやすく作られている。
レオカディオはその中央に置かれた豪奢な革の長椅子に座って、ヴィヴィを待っていた。
「よく来てくれたね、ヴィヴィ。そのドレスも君に、よく似合っている」
黒鉄の鎖帷子を身に付け、長剣を佩いたレオカディオは、いつもにも増して威圧感のある美しさがある。
その軍事の統率者らしい風格に怯えて、ヴィヴィはレオカディオに視線を合わせずに目を伏せた。
「あなたが、ここに呼んだので」
「うん。とりあえずここに、おいで」
レオカディオは長椅子の自分のすぐ隣を軽く叩いて、ヴィヴィを招いた。
まったく近寄りたくはなかったが、他に選択肢もなく、ヴィヴィはレオカディオのすぐ側に座る。
長椅子の前には大きなテーブルが置いてあり、その上には食事の用意がしてあった。
淡黄色のソースを添えて綺麗に盛り付けられたザリガニに、色鮮やかな冬野菜のソテー、香ばしい鶏の丸焼きにハーブ入りの白いパンなど、そこにあるのは戦場とは思えないほど豪華なご馳走である。
主とその寵姫を二人っきりにするために、サムエルはもうどこかに行ってしまっていた。
レオカディオは真っ赤に茹で上がったザリガニを手で剥いて、その大ぶりな身をソースに浸して食べながら敵の城を見遣った。
「俺は今、あのヤスライネ城を包囲して兵糧攻めにしているから、あの城の者たちは飢えている」
常に勝者で有り続けるレオカディオは、淡々とどうでも良いことのように戦況を語る。
しかし「飢え」という言葉は、ヴィヴィの心臓を跳ねさせ、呼吸を乱した。
(この人はまた、人を苦しめて命を奪っているんだ)
青く晴れた空に映える灰色の城壁の姿が、ヴィヴィの脳裏に飢餓の記憶を蘇らせる。
ザリガニはまだ茹でたてであるらしく、冷たい空気に白い湯気が上がっていた。
その滋味のある匂いを鼻をくすぐられても、城の中の惨状について考えてしまうヴィヴィはその赤い身に手を伸ばすことはできない。
だがレオカディオは手についたソースを舌で舐めて、残酷な言葉を軽々と重ねた。
「だから飢餓に苦しむ者たちのいる城を眺めながら食べる食事は格別だろうと思って、君を呼んだんだ。本当に飢えて死にそうになった君なら、なおさらありがたみが増すだろ」
あっけらかんと何の罪悪感もなく、レオカディオはヴィヴィや飢餓に苦しむ人々を幾重の意味でも踏みにじる。
そのあまりの思いやりのなさに、ヴィヴィは頭が真っ白になった。
(この人は一体、何を言っているのだろう)
レオカディオほど他人の苦しみに鈍感な人間がいることを、ヴィヴィは信じられない。
しかしレオカディオは今度は金の杯に入った葡萄酒を飲み干して、またさらに口を開いた。
「俺は雨に濡れるのは嫌いだが、雨に濡れない場所で雨の音を聞くのは好きでね」
相槌もまったく言えないヴィヴィを相手に、レオカディオは何も気にせずに話し続ける。
穏やかに残酷なレオカディオの金色の瞳は、包囲された城をただの楽しみの対象として映していた。
「だから辛いことがたくさんある戦争も、安全な場所から見れば君も楽しめると思うんだ」
空の杯をテーブルに置くと、レオカディオはヴィヴィに曇りのない笑顔を向けた。
レオカディオはヴィヴィに親切にしているつもりのようだったが、それは決定的にずれて間違っている。
その優しさを受け入れることもできず、かと言って拒絶することできず、ヴィヴィは長椅子の上で身体を強張らせていた。
レオカディオはそうしたヴィヴィの緊張も都合よく捉えて、ヴィヴィの細い肩を抱き寄せる。
「遠慮せずに、君にもたくさん食べてほしい」
肌触りの良いドレスの生地ごとヴィヴィの身体を撫で、レオカディオは皿から小さなパンを一つ掴んでヴィヴィの口元に近づける。
それは手元の動物に餌をやるようなしぐさで、パンからは
限度を超えたレオカディオの強引さに逆らえず、ヴィヴィは味がわからないまま微かにパンを食む。
ヴィヴィがパンの欠片を飲み込むのを見届けると、レオカディオはそっと優しげにささやいた。
「君はあのとき、すべてを失った不幸な女の子だった。でも今はこうして、食べきれないほどのご馳走があるんだから幸せだろ」
その言葉は流石に半分は冗談かもしれないが、もう半分は間違いなく本気であり、ヴィヴィはレオカディオの非道な愛情を噛み締めた。
オルキデア帝国の将軍として破壊と殺戮を生み出したレオカディオは、ヴィヴィを不幸にした張本人の大人である。
それにも関わらず、レオカディオはヴィヴィを幸せにしたつもりで微笑むのだ。
(こんな人に気に入られて、私はどうすればいいの)
圧倒的な非人道性を前にして、ヴィヴィは無力感に苛まれた。
レオカディオのたくましい腕の中で、ヴィヴィは真っ黒なオルキデア帝国の兵士の群れと寒々しい青空に囲まれた灰色の城を見つめる。
飢えて死ぬしかない人々の苦しみがわかるだけで、強者に生かされる弱者のヴィヴィには何もできることはなかった。
この先もきっとより惨い死や破壊を見せられるのだと想像して、ヴィヴィは目を潤ませる。
レオカディオはヴィヴィを、直接殴ったり蹴ったりはしない。
だが暴力ではなく甘く倫理に欠けた優しさで、レオカディオはヴィヴィの善良さを壊そうとする。
ヴィヴィは人の痛みや苦しみを感じようとしないレオカディオと同じものを見て、心を削られることを強要されていた。
(でも私は、テオに守ってもらったのに)
命をかけて自分を救おうとしてくれた幼馴染を思い出すのも申し訳なくて、ヴィヴィはくちびるを噛んだ。
権力者に弄ばれる存在である今の自分のどこに生きる価値があるのか、ヴィヴィにはわからなかった。
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