2-9 星空と白骨
それからアスディスは、ヨアヒムの薬指をナイフで切って自分の船へと持ち帰った。
アスディスが乗り込む頃には出港の準備も済んでいて、船はいずれ終わりを迎える街を後にする。
決定的な破壊と殺戮を見ることなく、アスディスは戦火の迫るハーフェンの街から立ち去った。ハーフェンでアスディスが見ていたのはヨアヒムただ一人であり、その他は何も記憶には残らない。
ヨアヒムが武器を買わずに残した食料が民を救ったのかどうかは、アスディスにとってはどうでも良いことなのだ。
だからアスディスはヨアヒム以外の人間の死は気にせずに、富に囲まれた海の上の生活に戻った。
(だって私は、この生き方しか知らないから)
甲板に設えられた宴席につき、真っ白なレースを重ねたドレスを着たアスディスは頭上に広がる満点の星空を見上げた。
白い布の敷かれたそのテーブルには、仔羊肉のキャベツ煮や熱いバターをかけたニシン、香草入りのグリーンピースのポタージュなど、アスディスの食べたい献立しか置かれていない。
それらは地味で素朴なハーフェンの料理とは違う、専属の料理人が丹精を尽くした色鮮やかな品々だ。
席についているのはアスディス一人であり、向かいに置かれた椅子は空席だった。
他に甲板にいるのは、料理を運ぶ船員と、隣に立つ侍女のダラだけである。
「このニシンの塩漬けは、買って正解でしたね」
小皿にとったニシンをクラッカーで挟んで食べながら、ダラはアスディスに話しかけた。
テーブルの置かれた皿の上のニシンは、刻んだゆで卵やパセリが彩りよく散らされていて華やかだ。
「そりゃ、最高級のニシンなんだから美味しいよ」
アスディスはいてほしい人間のいない席を見つつ、とろけるように温められたニシンをフォークで口に運び、その塩気のある旨みとまろやかなバターのソースが混ざるのを堪能した。
骨までやわらかく熟成されたニシンは、最高級品ならではの上品な香りが残る。
今食べているアスディスの好物のニシンは、金貨を使えばいくらでも買える。
しかしアスディスがいくら銃や火薬の代金としてもらった金貨を持っていても、一番欲しかったヨアヒムは手に入らない。
(そもそも本来はどれくらい好きだったのか、もうわからなくなっちゃったけど)
アスディスはやわらかく熱いニシンをワインでのどに流し込み、テーブルの上に置いたヨアヒムの薬指の骨入りの飾り小箱を撫でた。
それは螺鈿細工で白く輝く海鳥を描いた、黒い漆塗りの艷やかな小箱である。
殺したことで愛が深まったのは事実でも、アスディスはヨアヒムの命を奪いたくはなかった。
しかし中途半端に失うよりは、全てが失われた方が美しいのかもしれないと、アスディスはヨアヒムの体の一部を手に収めて思う。
死にたがりのくせに死を恐れているヨアヒムを撃ち殺すのは、たしかに辛かった。
だがこれから引き金を引いて人を殺す未来があっても、アスディスが初めて殺した人がヨアヒムである事実は変わらない。
死んだヨアヒムはアスディスにとっての、永遠になったのだ。
(できればもう、誰も殺したくはない)
白くやわらかなパンをちぎって、アスディスはニシンの汁と溶けたバターの混ざったところに浸した。
アスディスが不殺を願うのは、命の重みを知ったからではなく、自分が殺した存在がヨアヒムだけである方が、より特別だからである。
無数の星が瞬く夜空の明るさが、暗い海と食卓のアスディスをほのかに平等に照らす。
凝っても飽きても豪華な衣食住が約束された、海の大商人の娘のアスディスの手元には、恋人であったヨアヒムの白くて綺麗な骨がある。
だがアスディスは猟奇的な趣味を持っているわけではないので、やはり骨ではなく生きているヨアヒムがほしかった。
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