第38話 見えない傷跡

 それは間違いなく、無垢なメイドさんの亡骸だった。


(なんで……! どうして!)


 頭が爆発しそうなくらい熱い。感じなきゃいけないはずの恐怖なんて、完全に忘れていた。


 無垢なメイドさんに罪を着せて、殺した犯人が許せない。


 無実の無垢なメイドさんを閉じ込めた黒ドレスさんが許せない。


 すぐに無垢なメイドさんの無実を証明できなかった自分が許せない。


「っ!」


 右手に鈍い痛みが走り、それと共鳴するような重たい金属音が響く。


 無意識のうちに鉄格子を叩いていた。


(そうだ。悲しんでる場合じゃない。犯人の手掛かりを見つけないと)


 痺れるように残る痛みを握りしめて、牢屋の中を見回した。廊下と同じように天井には斜めの天窓が付いていて、外に繋がっている。けれど、張ってあるガラスを割らないと出入りはできなそうだ。


 他に窓や扉はなく、出入りに使えるのはこの鉄格子だけだろう。


(でも……)


 扉になっている部分に手をかけたけれど、動きそうにない。


(鍵はかけられている。牢屋だから当然か)


 密室に近い状況で殺されたってことになる。小屋とは違って鉄格子越しに使える凶器、例えば銃とか槍とかは使えるからあまり意味はないかもしれない。


「――――」


 考え事をしているわたしの肩に手がかけられ後ろに引かれた。


(まだ何もわかってないのに……!)


 わたしが鉄格子から離れると黒ドレスさんが肩から手を離し、鉄格子に鍵を差し込んだ。


 鍵をひねる音も格子を押し開く音も、まるでおもちゃの扉を開けたかのように軽い。


 黒ドレスさんが開いた格子戸の中を片手で示した。


(え? 入っていいの?)


 こんな場所に入るのを喜ぶなんて、どうかしてると思う。でも間違いなく、中を調べた方が、犯人の手掛かりが見つかる可能性は上がる。


 大きく深呼吸して、牢屋へと踏み込んだ。


 慣れてきて感じなくなってきていた血の臭いも、中に入ったとたんに一気に蒸し返してくる。完全に脱力した無垢なメイドさんは、無造作に捨てられた人形のようだ。


 石の壁と床があるだけの牢屋で、トイレや寝具すらない。長時間入れておくつもりではなかったのかもしれないけれど、人を入れておく場所とは思えなかった。


(調べる分には楽でいいけど、無垢なメイドさんは無念だっただろうな)


 壁や床も手で触れて調べてみたけれど、煉瓦のように石が敷き詰められているだけで、通路とかが隠れてはいないようだ。


 あと調べる場所は一つ。


「ごめんね……」


 手を合わせてから無垢なメイドさんに触れた。手足に傷はなさそうだ。


(白くて綺麗な肌……。冷たくて蝋みたいになっちゃってるし、血で汚れちゃってるのがかわいそう)


 顔はあごの周りが赤黒く汚れているだけで、他は綺麗なままだった。開かれた目で虚ろに光る青い瞳は、不謹慎だけど美しい。


(こんなに血が出てるんだから、大きな傷があるはずだけど)


 服も裂けているようには見えない。


(前がこんなに汚れてるんだから、背中ってことはないよね。あと見えてないところは……)


 血で汚れたあごを持ち上げようとしたけれど、固まってしまっていて、わたしの力では動かせそうにない。仕方ないので体を寄せて、顔の下から首元を覗き込んでみた。


 でも暗い上にべっとりと血がついていて、肌の状態がよくわからない。


(仕方ない……か)


 覚悟を決め、血まみれの首筋に手を伸ばす。ねっとりとした気持ち悪い感触を予想していたけれど、血は乾いていて、本物の人形を触ったような感じだった。


(うーん、傷っぽいものはないかな……ん?)


 血で固まった表面にでっぱりがある。


(ここだけ血が出っ張って固まってる? どうして……って考えるまでもないか)


 ここにより多く血がついていたってことだ。でもここより上の顔に、傷はなかった。


(じゃあこのでっぱりの下に傷が?)


 でっぱりに爪を引っ掛けると、SDカードスロットを開けるような感覚で簡単に取れた。


(おっと)


 取れたかけらを落とさないように手の平に載せて見てみると、それは溶けかけのアポロチョコのような形をしていた。


 固まると黒くなる印象のある血だけれど、そのかけらは熟しすぎたイチゴくらいの赤みをまだ残している。無垢なメイドさんにくっついていたところに、ダイヤの形の浮彫がされていた。もちろん、誰かが人工的に彫ったものではないだろう。


(もしかして、これが傷の形?)


 血の剥がれたところに触れてみると、肌に小さな裂け目があった。出血の量にしては傷が小さい。


(他にも傷があるのかな?)


 思い切って首周りの血を剥がしてみたけれど、出てきた肌は傷一つない綺麗な物だった。


(太い血管に穴が開けば、傷一つでもこれぐらい血が出るのかな?)


 例えばドライバーみたいな凶器で首を刺せば、血管つらぬくこともあるだろう。でも普通の人はその一突きが致命傷だと確信できないはず。不安になって何度も刺したりするものなのではないのだろうか。


(人を殺しなれている人の犯行? 一突きしたら怖くなって逃げた可能性もあるけど……)


 ここまでの廊下には、血なんて一滴たりとも落ちてなかった。つまり凶器や返り血をどうにか処理してから立ち去ったということだ。怖くなって逃げた人にできることじゃない。


(このお屋敷にいる人の経歴とか調べられれば、容疑者を絞れるかもしれないけど、わたしには難しいよね。他に手掛かりは……)


 無垢なメイドさんが何か持っていないか。体の後ろに何か隠していないか。調べてみたけれど、何も見つからなかった。もしかしたら目ぼしい物はすでに、黒ドレスさんたちに押収されているのかもしれない。


 もう調べるべきところは全て調べた。けれど、なぜだかとても離れがたい。


(じゃあね。無垢なメイドさん)


 わたしはもう一度、両手を合わせた。

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