第29話 坊ちゃんのお兄さん

 いつもならば、お人形ちゃんたちは庭で遊んでいるはずだ。それなのにお人形ちゃんと無垢なメイドさんが、わたしたちの部屋に来た。


(何か、イレギュラーなことが起きたのかな?)


 無垢なメイドさんは走ってきたのか、少し頬が紅潮していて、息も弾んでいる。


 無垢なメイドさんはそっとわたしに近寄り、耳に口を寄せた。


「―――――」


(いや、わかんないって……)


 わたしの耳元でささやく。それはこの世界で一番無駄な行為だと思う。ただ明るい声だったので、何かいいことがあったのだろうということだけわかった。


 わたしの反応が悪かったからか、無垢なメイドさんに手首を掴まれた。そのまま部屋の外へと引っ張り出される。


 『見ればわかる』ということなのだろうか。


(坊ちゃんは……?)


 廊下に出たところで後ろを見たけれど、坊ちゃんは付いてきていなかった。


(戻らなきゃ)


 そう思ったときには、すでにロビーのバルコニーまで来ていた。手を振り払おうとすると、ちょうど同じタイミングで無垢なメイドさんは手を離した。


 そして声を潜めて何か言いながら、手すり越しにロビーを指さす。


 手すりに近寄ってロビーを見ると、たくさんの人が集まっていた。


 猫目メイドさんに姫ちゃん。眠気メイドさんと姉御ちゃんに、食堂のおばちゃんもいる。見たことのないメイドさんも二人いた。


(いないのは黒ドレスさんとご主人と、最初に見たメイドさんかな? あと双子ちゃんもいないか)


 ご主人と最初に見たメイドさんは、初日しか見かけていない。きっと、普段はこのお屋敷にいないのだろう。


(どうしてこんなに集まって……って、考えるまでもないか)


 ロビーにいる人の視線は玄関に集まっていた。そこには見知らぬ男が一人立っている。


 一週間ぶりに坊ちゃん以外の男の人を見た。その男は高校生くらいで、短い金髪に整った顔をしている。細身でありながら、芯の通った立ち姿。それでいて力の入りすぎていない様子は、年齢以上の威厳を感じさせた。


(ご主人と坊ちゃんの、ちょうど中間って感じかな?)


 坊ちゃんのお兄さんなのかなと、勝手に思った。


 お兄さんが手招きすると、列から一人だけ前に出た。猫目メイドさんだ。姫ちゃんは列でおとなしく待っている。


(この二人はお人形ちゃんたちみたいに、べったりって感じじゃないよね)


 お人形ちゃんと無垢なメイドさんが姉妹みたいな関係だとしたら、姫ちゃんと猫目メイドさんは先生と生徒みたいな関係だろう。


 猫目メイドさんが膝を折って礼をすると、お兄さんは背中越しに玄関の扉を叩いた。すると扉が開き、外に立っていたスーツ姿の紳士が紙袋を差し入れる。紳士はお屋敷の中には入ってこない。


 お兄さんはそれをあごで指し示す。すると、猫目メイドさんは前に出て、その紙袋を受け取った。


(なんだろう? みんなに何か配ってるのかな?)


 ここにいない人たちは、貰える物に興味がないか、配る対象ではない人たちなのだろう。


 バルコニーから見ているわたしも、その一人だ。


「じゃあ、戻るね……」


 無垢なメイドさんに断って、手すりから離れた。


 立ち去ろうとするわたしの肩を、無垢なメイドさんが叩いた。そして少し興奮気味に、ロビーを指さしている。


 その姿は完全にアイドルオタクだ。


(いや、もう見たからいいって)


 ロビーを覗き直すと、お兄さんと目が合った。そしてあろうことか、手招きしている。


(いやいや、わたしじゃなくて無垢なメイドさんでしょ)


 そう思いながらも自分を指さしてみると、お兄さんは静かに微笑んで頷いた。


「いや、あの……」


 困っていると、無垢なメイドさんに背中を押されて、階段へと連れていかれてしまった。


(あれ? 行くしかない? 何か貰えるのはうれしいけど、あんな人前に行くの嫌なんだけど)


 階段をゆっくり下りて、どうにかできないか考える。ただもし、ここでわたしが変なことをしたら、坊ちゃんに迷惑がかかるかもしれない。


 そんなことを思っていたら、何も思いつかないまま、ロビーの真ん中に来ていた。


 お兄さんは手を前に出し、床を指さした。


(ああ、そうか。礼をしないと)


 猫目メイドさんがやっていたのを思いだして、腰を下ろす要領で一礼する。


 それでもお兄さんは床を指さすのをやめない。むしろ、強調するように手首を動かした。


(腰を下げる量が足りなかったかな?)


 猫目メイドさんを真似したつもりだったけれど、自分が思っているより腰が下がっていなかったのかもしれない。


 意識して、さっきよりも腰が低くなるように礼をする。そして腰を下げたまま、お兄さんの様子をうかがう。


(あれ? まだ高い?)


 お兄さんは床を指さしたままだ。


 もう少し腰を下げて様子を見てもそれは変わらなかった。


(これ以上、下げたら座っちゃうけど)


 もう一度顔を上げたとき、見えたのは靴底だった。


(え……!)


 顔が熱くなる。反射で目をつぶった瞬間に、後ろへと突き飛ばされた。一番痛かったのは、床に打ち付けたお尻だ。


 石を叩きつけられるような痛みに備えていた顔には、全く痛みがなかった。代わりに、ぬいぐるみを投げつけられたような感覚が、腕と体に残っている。


(なにが……?)


 目を開くと、金色の毛先が目の前にあった。


「坊ちゃん!?」


 間違いない。わたしの腕に収まっているのは坊ちゃんだ。


 顔を上げると、お兄さんの汚い靴底がこっちを向いていた。


(もしかして、わたしを庇ったの?)


「―――!」


 坊ちゃんが叫んだ。わたしでもお兄さんに向かってでもなく、ただ天に向かって、何かをぶちまけるように叫んだのだ。


 お兄さんが足を持ち上げた。


(もう一回来る!)


 思わず体に力が入る。でも固まったりはしなかった。わたしの体は坊ちゃんをしっかり抱え込み、お兄さんへ背中を向けた。


 腹ばいになって、坊ちゃんを体の下に隠したのだ。


 背中が一気に冷えた気がした。


(怖い……)


 感じたことのない恐怖だった。これが本当の恐怖なのかもしれない。


 暴れる坊ちゃんを抑え込みながら体を震わせていると、本当に背中に冷たい感覚があった。


 水がぶちまけられる音も聞こえる。


「「「――――!」」」


 重なる悲鳴がロビーに響いた。


「あっ……!」


 悲鳴に気を取られてる隙に、坊ちゃんがわたしの腕から抜け出してしまった。


 顔を上げるとすでに坊ちゃんは立ち上がっていて、目が合うとわたしの手を掴んだ。


 坊ちゃんに急かされて立ち上がると、階段の方へと引っ張られる。


 坊ちゃんの目はわたしの後ろに向けられていた。そこにはお兄さんらしき人が立っている。


 『らしき人』と思ったのは、顔が見えていなかったからだ。


(頭にバケツをかぶってる?)


 わたしの背中は濡れていた。バルコニーを見上げると、お人形ちゃんたちの姿はなく、代わりに紐がスルスルと上がっていく途中だった。その先にあった小さな影には見覚えがあった。


(双子ちゃん?)


 反対側のバルコニーをみると、全く同じ影があった。やっぱりと思ったときには、二つの影は姿を隠してしまった。


 花火が破裂したような音が、空気を凍らせる。


 お兄さんの足元で、木のバケツがバラバラに砕け散っていた。雨の中の野良犬のようにびしょ濡れになった金髪は、見る影もない。ただその下に見える表情は猛犬のようだった。


 間違いなく、もう蹴られるだけでは済まない。


(ど、どうすんの……!)


 このまま逃げても簡単につかまってしまうだろう。だからといって、戦う力なんてわたしにはない。それは坊ちゃんだって同じだ。


(わたしが坊ちゃんを守らないと……)


 その術を探していると、坊ちゃんはわたしの手を思いっきり引っ張った。かまぼこ型の扉を指さしている。


 わたしたちはその扉へと飛び込んだ。


 黄色い竜と目が合った。


(ここって……)


 一度だけ入ったことがある。お屋敷で最初に通された謁見の間だ。もちろんご主人の姿はない。小さめの体育館くらいの広さはあるけれど、ここで追いかけっこをしても、時間稼ぎにすらならないだろう。


 坊ちゃんがわたしの手を離した。そしてあろうことかUターンして、入ってきた扉へと向かっていく。


「な、なにを……!?」


 脳裏によぎったのは、蹴とばされる坊ちゃんだった。さっきのようにわたしを庇って、お兄さんに立ち向かおうとしてるのではないか。


 そう思うと心臓が冷えた。


 坊ちゃんと扉はまだ距離がある。にもかかわらず、扉が動いた。


 お兄さんが入ってこようとしているのだ。


「まって!」


 わたしの声に答えるように、坊ちゃんはスピードを上げた。そして開く扉とすれ違うように飛んで、両足を前へと突き出す。


 坊ちゃんのドロップキックが扉の先にいたお兄さんのお腹に突き刺さり、カエルのような声が聞こえた。そしてお兄さんはそのまま後ろによろけて、尻餅をつく。


「坊ちゃん!」


 お腹から床に落ちた坊ちゃんは、うつぶせに倒れていた。わたしが駆け寄ると、坊ちゃんは顔を上げて、生意気な目をこっちに向けてニッっと笑った。


「やるじゃん……!」


 そんなことを言っている場合ではないのに、思わず声に出てしまった。


 大きなダメージを与えられたとはいえ、お兄さんを行動不能にできたとは思えない。


 わたしが坊ちゃんの手を取るのと、お兄さんが床に手をつくのはほぼ同時だった。


「に、逃げ――」


 鉄パイプでコンクリートを叩いたような音がして、空気が固まった。


 わたしの手を握ったまま立ち上がった坊ちゃんは、お兄さんに目を向ける。お兄さんのすぐ前の床に、細い棒が突き刺さっていた。


(なにあれ……?)


 太さはボールペンくらいだろうか。真っ黒で、長さはわたしの身長と同じくらいだ。お兄さんはその棒に怯えているようだった。


 坊ちゃんはもう逃げようとしない。わたしも、もうお兄さんから脅威を感じなかった。


 お兄さんの視線が横にずれる。そこに現れたのは、姿勢のいい黒いドレスの影だった。


「黒ドレスさん……?」


 黒ドレスさんの目はお兄さんに向けられていた。絵本を読むような穏やかな表情なのに、その目はドライアイスのように冷たい。


 黒ドレスさんは何も言わずに、黒い棒を引き抜いた。するとお兄さんは尻尾をまいた犬のように後ろへと逃げる。


 黒ドレスさんが静かに何か言うと、お兄さんは引きつった笑みを見せた。もう、わたしたちなど目に映っていないだろう。


 そのままじりじりと後ろに下がり、玄関から外に出て行った。


(こわっ……)


 わたしの視線の先で、黒ドレスさんはさっきの棒を五等分に分解していた。

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