【初日 ④】ならば問題はない。
講義が終わった教室から人が消えるまでそう時間は掛からなかった。
初日とあってガイダンスと概要の説明だけで早々に切り上げられ、時刻はまだ五時半。
サークルや部活の飲み会やアルバイト、友人同士で親睦を深めることに大半の学生は忙しいのか、あるいは慣れない大学生活の疲労が極に達しているのか、誰もがそそくさと教室を後にした。
百人以上の学生を収容できる広い室内で、雅也は教卓がすぐ目前の机に座っている。隣の教室ではまだ講義が続いているようで、教授の声がわずかに響いてくる他、空調が発する淡白な音が空気を震わせるのみ。静けさで満ちていた。
カゲロウは先ほどまで教授がいた教卓の前に立ち、雅也を見下ろす。
「お前、実家で暮らしてるの? それとも一人暮らし?」
「一人暮らしだよ」雅也は応じる。
他に学生がいないので、声を潜める必要はない。仮に誰かが入ってくれば、黒板に向かって独り言を放つ変人としか思われないだろうが、半ば自棄になっている今、どうでも良かった。大学生活が始まって早々に関わった現象から解放されるのであれば、なりふり構っているわけにはいかない。
むろん、カゲロウを信用しているわけではないが。
「実家はどこ?」カゲロウは質問を重ねた。
「仙台だよ。大学に入学するためにこっちに引っ越してきた」
「今住んでいる家は、ここから近いのか?」
「歩いて十分くらいかな。いや、そんなに距離はないか。五反田駅のすぐ近く」
「初めての一人暮らしが五反田って、お前はなかなかの確信犯だ」カゲロウはにやにやと笑みを浮かべる。
「どういうことだよ」
「都内でも夜の店が多いエリアだ。遊ぶために五反田を選んだんだろ?」
「違う。大学から近いからだ。夜の店のことは知らなかった」
実際、アパートのすぐ裏手の通りは派手な電飾を施した居酒屋が立ち並び、官能的な装いの看板も目立っている。夜遅くまで騒いでいる学生やサラリーマンの姿も珍しくない。
大学から近く家賃が安いという理由だけで内見もせずに選んだ物件。もう少し慎重に探せばよかったと入居初日に後悔した。
「誘惑には負けるなよ。あくまで学生の本分は勉強だ。そして友達づくり。最後に夜の店での遊び。金が掛かるからバイトは必須だけど」
「遊ばないっての」雅也は顔をしかめながら応じ「というか」と話の矛先を強引に変えた。「詩織って子に憑いてなくていいのか?」
彼女は他の学生と同様、講義が終わるや早々に教室を後にしている。そんな彼女に憑いているならばカゲロウも行動を共にするべきで、これまで雅也が接してきた人に憑く幽霊は、まるで対象者にしがみ付くように離れようとしなかった。
「俺は詩織に憑いているわけではないよ。ただ一緒にいるだけ」
カゲロウはあっけらかんと応じる。
珍しい型である。憑いているのか守護しているのか判然としないが、幽霊のくせに自由であり過ぎる。彼が本当に幽霊なのかどうかさえ疑問に思えてしまう。
「あの子は霊感あるのか?」雅也は尋ねる。
「皆無だね。俺のことに気付きもしない」
「なんで憑いているんだよ」
「だから憑いてないって。あの子に何かを預けている気がして。だから仕方なく一緒にいるのだけど、何を預けたのか思い出せない。何だと思う?」
「知らねえよ」
客観的に見れば、今の状態は紛れもなく憑いているという状況であるにカゲロウは自覚がない。幽霊の中には自覚なく生者に害を及ぼすモノも多い。いつか詩織という子にも影響が出るのは間違いないと雅也は確信した。かといって赤の他人への興味も心配する余裕もないので、どうにかしようとは思わないが。
「そんなことはどうでもいいから、本題を話せよ」
寝不足も相まって、感情に棘が混じり始める。今は与太話をする時間はない。今夜もあれは現れる。時間はないのだ。もはや一分一秒が惜しい。
「お前が夜の店の話を始めたんじゃないか」カゲロウは不満そうに眉根を寄せ、下唇を突き出した。「まあいいや。お前の体臭についてだっけ?」
「違う。家のこと」
「ああ、そっちね。何かいるだろ、お前の家」
雅也は無言でうなずく。
「そいつの感情がお前に染みついて臭くなってる。よくもまあ、これだけ執着されていると同情を禁じ得ないね。お前、何をしたんだ?」
「引っ越してきただけだよ。引っ越し初日から、夜になると嫌なモノが玄関の外を行き来している。本当に心当たりがなくて。もしかしたら部屋に憑いているのかもしれない」
引っ越しの前にはアパートが事故物件かどうかの確認はしていたが、情報を拾いきれなかった可能性もある。
自殺、他殺、病死。いずれにしろ、世の中に未練を遺したまま死した者は幽霊になりやすく、それらは人や場所、ものに執着する。
雅也の経験上、執着が強いほど悪霊と呼ばれる存在になりやすく、力も増す。夜な夜な現れるあれの力は、カゲロウが察するほどに強い。
「そいつが何モノか確かめたのか?」
「怖くてできない」
「お前、正直でかわいいな」
「あれは何モノなんだよ」
「俺だって知らないよ。俺に訊かないでよ。でも、良くないモノなのは間違いない。だってこんなに臭いのだから」カゲロウは鼻をつまみ、身体の前に大袈裟に手を振ってみせた。
良くないモノ、と口の中で反芻する。同時に懸念が浮かび上がる。
「何とかしてくれよ」雅也はいった。
「なんで俺が?」
「積極的に関わってきた以上は、手をかしてくれてもいいじゃないか」
「俺に甘えすぎだよ。そういうのは自分でどうにかしなきゃ」
「どうにもできないから困っている」
「俺だってただの霊だ。他の霊と戦う戦闘力も説得する話術も、無償でお前を助ける優しさも持ち合わせていないぞ」
「つまり何か寄越せと?」
「何か見返りをおくれ」
「何が欲しい」
雅也は身構える。単に金銭を要求されるのであればそれに越したことはないが、相手は幽霊である。取引の内容が真っ当であるはずがない。
だが、カゲロウの口から発せられたのは思いも寄らない言葉だった。
「詩織の友達になってくれ」
「は?」
「彼氏とかではないぞ。友達だぞ。下心を持たないと約束しろ。でなきゃ俺はお前に対して何もしない」
「なんで俺があの子と友達に」
「お前だって友達がいないじゃないか。ちょうど良くないか?」
「それは悪口だぞ」
「でも事実だ。そして詩織に友達がいないのも事実。あの子にはせっかくのキャンパスライフを楽しんでもらいたいんだよね。お前と友達になったら劇的に変わるとか、楽しくなるとかそんな期待はまったくないのだけど、お前でもいないよりマシだろ」
「悪口のオンパレードだな」だが、想像よりも遥かに容易く、軽い対価であったことに違いはない。「詩織さんの友達でも何でもなるよ」
「いいだろう」カゲロウはにんまりと笑い、手を差し出した。「ほら、契約の握手」
「幽霊なんだから握手なんてできないだろ」
「こういうのはかたちが肝心なんだよ」
カゲロウに促されるまま彼の手を握るが、当然ながら実態がないものは掴めない。ひんやりとした空気に手の平が触れた感触だった。
「俺の家のことは任せた」
「任せろ。でも、最初に言わせてもらうぞ」
「戦闘力も話術もないから当てにするなと?」
「くれぐれも詩織に下心を持つな」
ならば問題はない。
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