無音の世界
風のない日は降り積もる雪がすべての音を吸い、ただ静かに冬を演出していく。
家族も友人も、慣れてはいるが好きにはなれないと口を揃えて言う雪国の冬だが、そんな中で珍しく彼は雪深い冬のこんな日が嫌いではなかった。
なぜと言うに、
「拓、みかんとって」
「いやすぐそこだろ。手を伸ばせば取れるものをなぜ俺に言うんだよ」
両家の親が正月2日から早々に彼女の家で飲み始めるのは毎年の恒例であり、その輪に加われない子供たちが彼の家でだらだら過ごすのもいつものことだからだ。
「今手が離せないの」
「ならみかんも食えないだろ」
昔はボードゲームやらで遊んで過ごしていたが、高校生にもなると子供達三人が集まったところで何をするということもない。
「剥いて並べてくれれば」
「横着すぎる」
居間のソファに転がって雑誌を読む彼女に、彼は呆れたような声を出しながらもダイニングテーブルに置かれたみかんに手を伸ばし剥き始める。
「拓君、姉貴に甘すぎじゃね?」
そんな彼を見ながら向かいに座ってノートを広げていた洋介が眉を潜めながら言うが、指摘されるまでもなく自覚していた彼は肩を竦めるだけで黙って作業に没頭した。
「洋介は余計なこと言わないの。黙って勉強してなさいよ」
「うっせぇよ。言われなくてもやってるっつの。まったく……こんなののどこが良いんだろうな。ただの猫かぶりじゃんか」
どうやら中学校で色々言われているらしい。
そうなんだろうなと思っていたもののはっきり聞かされていた訳ではなかったので、彼は姉弟の会話に耳をそばだてながら白い筋を丁寧に取っていく。
「猫なんて被ってないわよ。むしろ人気者の姉がいることに喜ぶところじゃないの、そこは」
「自分で人気者とか言っちゃってるよ。自意識過剰は嫌だねぇ」
「自意識過剰だなんて、洋介も難しい言葉知ってるのね。えらいえらい」
「うぜぇって。子供扱いすんな。そんな言葉ガキでも知ってるわ」
「あー、そうね。あんた難しい言葉色々知ってるわよねー。何だっけ、天之瓊矛だっけ、古事記とか買って置いてるもんね」
「ちっ、違っ、それはあれだ、今やってるゲームの参考に」
「何慌ててるのよ。良いじゃない、一度も開いてなくたって教養を身につけようとする姿勢は悪くないと思うわよ」
「一度も開いてないなんてことはねぇよ!って、何で拓君までそんな目で見るんだよ!」
思わず顔を上げてしまった彼も巻き込まれてしまったが、
「大丈夫だ洋介、きっと忘れられない思い出になる」
「何だよそれ」
「悪い意味で忘れらない記憶になりそうよね」
「姉貴はうるせぇっての!」
ぎゃあぎゃあと再び姉に噛みつき出した様子を見ながら、自分にはそういった時期はなかったなと彼は思った。周囲の友人たちは高確率で罹患していたからそれがどんなものか、どんな心情から沸き起こった行動なのかは比較的冷静に見てきた。だから彼自身がそうならなかった理由もわかっている。
洋介も含め、彼らは「誰かに」かっこいいと思ってもらいたいと特定のターゲットに絞っていないから、その時自分がかっこいいと思うものを手当たり次第に取り込む。そして見てもらうために振り撒く。けれど彼は彼女のことしか考えていなかったから「誰かに」かっこいいと思って欲しいなどとは思わなかった。
彼の「見てもらいたい」「思われたい」基準はすべて彼女であって、幼少期から姉の立場だった彼女がそういった若気の至りに興味を示すことはなかった。故に彼は罹患しなかった。
ありがたい副作用なんだろうか、とぼんやり思いながら剥いていたみかんは、いつの間にか五個にまで増殖していた。
「それにしても洋室って良いよね」
相変わらずソファに寝転がった彼女が雑誌から目を離して居間を見渡す。四年前、彼が中学に上がる時に改装した内装は掃除好きな母親のおかげか汚れひとつない。母拘りのシステムキッチン、父がどうしてもと言い張って導入したマッサージ機能付きのリクライニングシート、親よりも古風なのだろうか、彼自身はどちらかと言えば前の和室の方が落ち着くのだがトイレが洗浄器付きの洋風になったのだけはありがたいと思っている。
「そうかな?畳とこたつの方が落ち着くと思うけど」
洋介の回答チェックをしていた彼が呟くと、姉弟は信じられないと言ったような顔をした。
「マジで言ってる?拓君」
「そりゃマジだけど。そんなに良いか、洋室って」
「良いでしょ、洋介が開けた障子の穴を塞ぐ必要もないし、洋介が毟った畳の修復も必要ないし、洋介が」
「だからうっせぇよ姉貴!」
相変わらずの弟弄りに噛み付く洋介の声を耳にしつつ、うーんと唸ってぐるりと見渡す。真っ先に目につくのは大きな窓だ。二重サッシだから断熱がどうとか言って父が強引に決めたのを覚えている。
その窓の向こうには庭が広がり、雪で真っ白なそこにぽっかりと空いた暗い楕円では鯉も縮こまっているのだろうか。そこに覆い被さるかのように立派な枝を垂らした松が見える。今は雪で覆われているから良いものの、完全な洋室から見える和風庭園には日々違和感しか覚えない。だからそんな中途半端にするくらいなら立派な古民家と言える彼女たちの家の方が良いと思うのだ。
そんなことを言うと、
「いや拓君、忘れてるかも知れないけどうちめっちゃ寒いって」
「絶対洋風の方が便利だよ。掃除だって楽だし」
姉弟からそれぞれ「らしい」突っ込みを入れられる。
「「これだから持つ者は。持たざる者の苦労を知れ」」
「さすが姉弟、息ぴったりじゃん」
そうまぜっかえせば再びぎゃあぎゃあと、今度は姉弟間ではなくこちらに矛先を向けてくる。こいつら面倒臭いと思いつつ洋介の採点を進めていると、二ヶ所から着信音が響いた。
「ん、家からだから私取るよ」
ローテーブルに置かれた親機、そのディスプレイに表示された番号を確認して彼女が言う。キッチンにあった子機を見て羨ましそうな顔をする洋介はもちろん、先ほどの純和風な自宅を思い出しているのだろう。彼らの家は未だ黒電話なのだから。
通話内容は聞かなくてもわかる。両家とも長い付き合いだ。親が集まって飲んでいる時に、何が起きて何を言いたいのかなんて瞬時に判断できる。二人は即座に机に広げられた参考書と問題集に向き直り、
「さ、洋介次は英語の第三課の復習テストやってみようか」
「おっけー。あ、宿題の方は大丈夫だった?拓君」
「大丈夫大丈夫、洋介が英語やってる間に確認全部終わらせておくよ」
勉強という攻撃し辛い盾を振りかざす。
その様子を見た彼女はため息をつくと、
「二人も息ぴったりじゃん……あ、お母さん、私が行くよ。おつまみ作ればいいんでしょ。洋介、ちゃんと宿題終わらせなよ」
「わかってるって」
ひらひらと手を振る弟を軽く睨みながら受話器を置いた彼女は、コートを羽織って玄関へ向かって行った。
作業中は静かな方を好む二人らしく、しばらくはテレビも音楽もない無音のまま、頁をめくる音と鉛筆を走らせる音だけとなる。
雪は相変わらず窓の外を白く染め、時折走る車の音しか聞こえない。
「なあ拓君」
「なに」
「まじで姉貴のどこがいいわけ?」
顔を上げずに答えた彼も、洋介のその言葉でぴくりと反応する。
別に隠している訳ではない。わざわざ口に出したりもしないけれども。だが、物心ついた時からずっと一緒にいた幼馴染だ、気づいていてもおかしくないだろう。
だが、こう面と向かって言われると気恥ずかしいというより何故か後ろめたい気持ちになってしまうのはなぜだろうか。相手が彼女の実の弟だからだろうか。
「……まぁ、そういうのってこれと言った理由なんてないじゃん」
「いいんだけどさ。物好きだなとは思うけど」
実の弟ならそう思うものなのだろう。残念ながら彼は一人っ子なので兄弟姉妹にどういった感情を持つものなのかはわからないけれども。ただ、今まで兄や姉に良い感情を持っている友人はいなかったような気がする。嫌いではなくとも面倒だとかうざいだとか、ネガティブな話しか聞いたことがない。
それを考えると、思い出したくもないが夏祭りの時に会った彼女の友人である日和は兄とそれなりに良好な関係を築いている方なのだろう。少なくとも妹を迎えに行く兄なんて、彼の知る限りいない。
と、自分で思い出しておきながらあの大学生の顔や車が頭を過ぎって嫌な気持ちになる。別にあの後彼女から何か聞いたわけではないが、彼女を知る大人の男がいるという事実だけでも不快だ。
「なんかわからないけどさ」
湧き上がってくるもやもやに心中で悪態をついていると、洋介が何かを思い出すように手を止めて宙空を睨んでいた。
「最近さ、時々姉貴に連絡してくるやつ、高校の人じゃないような気がするんだよな」
「連絡?」
「うん、うちってほら壁薄いじゃん。てかただの襖だし。声聞こえてくるんだよ」
あまり頓着しない洋介はともかく、彼女は年頃になって襖だけで隔てられている部屋が嫌だったようで厚手のカーテンをかけている。電話は玄関に近い廊下にあるから、そこから離れた居間はともかく二人の部屋には通話内容は聞こえてしまうだろう。
「……ふぅん。で、何て?」
洋介に自分の気持ちがどうせバレてはいるけれど、相手が誰なのか、どんな話をしていたのかなど聞きたいことを直截的に聞けないのがもどかしい。幼い時から一緒の弟みたいな存在に、『お前の姉ちゃんが誰とどんな話してたんだよ』と聞くなど出来るはずもなかった。彼女への後ろめたさだけでなく、洋介に対する年上の矜持としての問題だ。
が、洋介自身はそんな葛藤を一切感じていないようで、
「何だったかな……そんなに頻繁でもないからよく覚えてないけど、受験があるからとか何とか断ってるみたいな感じだったから、どこか遊びにでも誘われたんじゃね」
それだけであの大学生だと断じるのは早計だろうが、受験を言い訳にするのであれば高校の同級生である可能性は少なそうだ。それにクラスメイトであれば直接誘う機会など学校でいくらでもあるだろう。わざわざ誰が出るかわらかない自宅に電話するはずもない。その勇気がないだけ、ということも多いにあり得るが。
「ま、姉貴のことなんかどうでもいいけどさ」
それきり興味を失ったらしく、洋介は再び宿題に取り掛かる。
だが彼は、彼女が断ったという情報でいくらかの安堵を得たものの、連絡先を知っていて連絡してきているという事実に少なからず不安と不快感を覚えた。
大学生にもなって高校生の妹の友達に手を出すのか。糞エロ野郎が。
と言って、洋介にこれ以上尋ねるのも情けないし彼女に直接問い質すのも変な話だろう。聞いたところで答えてくれるかどうかわからないし、そもそも関係ないと切り捨てられたら立ち直るのに時間がかかりそうだ。
どうしようもない苛立ちを抑えようと、無音の景色に目を移す。
真っ白な庭に空いた暗い穴が、いつまでも消えそうになく彼の心に残った。
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