第291話 心

 俺は怯えていた。

 恐怖を紛らわそうと過去を振り返るも、走馬灯のようにすぐに走り抜けてしまい、再び恐怖が襲ってくる。

 いまかいまかと執行の時を待つ。

 しかしいつまで経ってもその時がこない。悠久とも思える長い時間、俺は恐怖に怯えつづけた。

 今回の悪夢はこの焦らしによる精神攻撃が狙いだろうか。

 しかし油断したころに手痛い拷問が襲うのだ。いっときたりとも気が抜けない。

 この張り詰めた緊張感の持続がひどくしんどい。


 そんな中、ついに変化が起きた。

 仲間たちがぞろぞろと、精神の中に直接入り込んできた。

 今度はキューカの能力を使った悪夢なのだろう。精神内なのであらがいようがない。

 もちろん肉体への攻撃にも抗いようはなかったが、精神内からの精神への攻撃は、肉体でいうところの神経への直接攻撃みたいなものだ。相当なダメージが予想される。


「エスト、大丈夫? ごめん。大丈夫じゃないのは分かっているんだけど、ほかに言葉が思いつかなくて」


 最初に声をかけてきたのはキーラ・ヌアだった。

 俺を心配している。こんな気遣いを見せるのは彼女らしくない。

 いや、彼女にだって優しさはあるし、こういう状況ならふざけたことを言わないだろうことは分かっているが、受け入れてはならない。

 これはカケラの悪夢。心のガードが緩んだところをザクッと貫かれるのだ。


「エストさん、もう少し待っていてくださいな。カケラのことは、わたくしたちでなんとかしてみせますわ」


 リーズ・リッヒの言葉。

 強い決意が俺にも見える。感覚共鳴でつながっているから互いに互いのことが分かる。

 彼女の力ではカケラにとうてい及ばないし、彼女もその自覚があるが、なんとかしてみんなが力を合わせ、自分も可能な限りのことを全力でやってカケラに打ち勝とうという気持ちは本物だ。


「あなたのつらさはきっと、私たちには想像もつかないひどいものでしょうね。体に狂気が同居していた私でさえ、とうてい及ばないほどに。私はそのことを理解しているって伝えたいの」


 シャイル・マーン。

 彼女もさぞかし苦しんだだろう。その責任の大部分は俺にある。

 彼女には俺を責める権利がある。しかし、彼女からは恨みなどいっさい感じられない。むしろ、感じるのは感謝の気持ちだ。

 なんて優しくて温かいのだろう。

 俺は間違っていたのかもしれない。彼女がお人好しすぎて他人につけ入られる隙があるのなら、彼女の性質を変えるのではなく俺が守ってやればいいだけなのではなかったのか。

 改めて彼女に対して申し訳ない気持ちと、そして感謝の気持ちが沸いてくる。


 次はダース・ホークが俺に語りかけようと近づいてくる。

 しかし、俺は手を掲げて彼に言葉を飲み込ませた。


「いや、いい」


 これは拒絶ではない。俺はダースに微笑をたたえた顔でうなずいてみせた。

 どうにか作った笑顔はきっとぎこちなかっただろうが、ダースは頷き返してくれた。


「十分だ。おまえたちの気持ちは伝わっている。ありがとな……」


 感覚共鳴でつながっているから、言葉にせずとも皆の心が分かるのだ。

 先の四人だけでなく、ずらりと並ぶ全員の心が伝わってくる。


 魔導学院のレイジー・デント会長、ルーレ・リッヒ風紀委員長、サンディア・グレイン副風紀委員長、セクレ・ターリ書記、アンジュ、エンジュ、ミスト・エイリー教頭、スターレ、ハーティ・スタック、イル・マリル。


 シミアン王国のミューイ・シミアン女王、メルブラン・エンテルト騎士団長、アラト・コータ。


 リオン帝国の皇帝リーン・リッヒ、ロイン・リオン大将、スモッグ・モック工場長。


 護神中立国の守護者・盲目のゲン。


 外ではキューカが俺たちをつないでくれていて、ドクター・シータが単身でカケラと戦ってくれているらしい。


 みんな俺のことを分かってくれている。俺が嫌うことを誰も言わない。俺の心に安らぎをもたらす言葉がどういったものかをよく理解している。

 これはキューカの感覚共鳴でつながっているからだろうか。

 人の心が視えるカケラとて、こんな優しい言葉は思いつかないのではないか。

 これは俺の心を知った上で、それぞれの持つ優しさがなければ出てこない言葉に違いない。

 誰も俺にカケラと戦えとは言わない。

 まるで心や体が壊れた者に「頑張れ」とは言わず「ゆっくり休め」と言うように。


 みんな俺に助けを求めたかったはずだ。

 俺を狂気の牢獄からひっぱりだして、戦力を補いたかったはずだ。

 なのに、誰もそれを言わなかった。


「優しいなぁ……」


 俺は泣いていた。とめどなく涙があふれ出してくる。

 これはいままでさんざん流した涙とは明らかに別種の涙だ。

 俺はいま、たぶん、ほんの少し幸福だ。

 このまま死ねたら最高に幸せだろう。


「ありがとうなぁ……」


 俺には迷いが生じていた。

 なぜなら、俺には選択肢が生まれたからだ。

 このまま彼らに甘えてもいい。それは最高に魅力的な至高の選択だ。

 もう一つは自分に鞭を打つ最低最悪の選択。

 しかしなぜだろう。こっちの選択肢から不思議な引力を感じる。まるで磁力の弱まった磁石が遠くの砂鉄を少しずつ吸いつけるみたいに、妙に後ろ髪を引かれるのだ。

 これを振りきったら、たぶん、後悔する。


「エスト、会いたいよぉ」


 そのたどたどしく甘える声に、俺は反射的に顔を上げた。

 そこにいたのはマーリンだった。


 しかしマーリンがここにいるはずがない。マーリンは護神中立国の本殿で保護されているはずだ。

 やはりこれはカケラの悪夢。水面直下まで浮き上がっていた気持ちは再び沈み込む。

 しかしそれでいいのだ。危ないところだった。


 そこへ見知らぬ女性がやってきた。

 白と緑の着物を着こなす姿はとても上品だ。

 彼女はマーリンの隣に並び、かがんで俺に視線を合わせた。


「お初にお目にかかります。わたくし、ウィンドと申します」


「ウィンド……? リーズの精霊か?」


「元、精霊でございます。つい先ほど人成したのでございます。わたくしの魔術はシミュレート。相手の記憶にある人物や事象について、映像や音声として精巧に再現できるのです。ですから、この子はたしかに本物ではございませんが、本来の彼女の姿と声を再現したものでございます」


 ウィンドの出現には俺以外の者も驚いていた。

 彼女とも感覚共鳴されていて、彼女が人成した経緯はだいたい察知した。


「あなた、ウィンドなのです……?」


 リーズが感覚共鳴直後に人成したため、契約主である彼女さえ知らなかったようだ。

 人成した起点になったのは感覚共鳴前の勇気を出した告白にあった。


「ええ。見事な勇気でしたよ、リーズ」


 リーズが長身のウィンドに抱きつき、ウィンドは母親のようにリーズを優しく抱いた。


「そうか。じゃあ本物のマーリンも、おそらく俺に会いたいって思っているということか」


 いま目の前のマーリンは俺の記憶からの再現ではあるが、彼女の気持ちは俺だけの思い込みによって作られたものではないはずだ。

 なぜなら、いま感覚共鳴で皆とつながっているから、俺の思い込みがあったとしてもほかのメンバーの記憶によって修正や補正がされるからだ。

 つまり、このマーリンは極めて客観的に再現されている。


「そうかぁ、会いたいかぁ。嬉しいなぁ。俺も会いたいなぁ」


 いま、俺は油断してしまっている。心の中で固く絡まった緊張の糸がほんの少しほどけてしまっている。

 いま心を貫かれたらさぞ痛いだろう。

 いま心をえぐられたらさぞ苦しいだろう。


 でも……。


 もしそうなっても構わない。

 いまはこのぬるま湯に浸かっていたい。


「エスト……」


 もう一度名前を呼ばれた。

 今度はマーリンではない。


「エア!」


 そうか。これは記憶からの再現だから、死者だろうと関係ないのだ。


 エアは俺の名前を呼んだだけで、それ以上は何も言わない。

 彼女の顔を見上げると、彼女はニコリと優しく微笑ほほえんだ。


 十分だ。

 それ以上の言葉はなくてもいい。

 その笑顔が見られただけで俺は嬉しい。


 また見たいなぁ、本物のエアの笑顔が。

 そしてもっと色んな彼女が見たい。

 声を聞きたい。

 抱きしめたい。

 一緒に過ごしたい。

 俺は本当にエアが好きなんだ。


 エアだけじゃない。ほかのみんなのことも好きだ。

 真につながったからこそ知った。人に理解されることがこんなにも嬉しく心地良いものなのだと。

 こういうことは俺には無縁だと思っていた。性格の悪い俺なのに、笑顔や優しさを向けてくれるかけがえのない仲間たち。

 このままではそれを失ってしまう。


 いいのか?


 いいわけがない。


 俺の心は水面の膜を突き破って綺麗な空気を吸い込んだ。


 エアに会いたい。


 マーリンをまもりたい。


 なにが世界王だ。

 俺はなにも背負ってなんかいなかった。自分を騙していただけだ。

 全人類を救わなくたっていい。俺が護りたいものを護れば、ほかの奴らは勝手に救われるはずだ。


 俺はもう自分のために戦う。

 自分の望みを叶えるために戦う。


 エアに会うために。


 マーリンを護るために。


 キーラ、シャイル、リーズと笑い合い楽しい時間を過ごすために。


 身近な仲のよい友とともに魔導学院を卒業するために。


 普段は身近にいない仲のよい友とたまに語らうために。


 そして、俺の望む理想的な世界を見るために。

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