第3話 その声は


 東の空から顔を覗かせた満月がゆっくりと天上へ昇り、周囲を優しく染め上げる深夜。甘く冷たい春の夜風がそよぎ、青葉を揺らす。葉が織りなすさざめきと虫の涼やかな音が混じる歌は、普段なら聴く者の心を癒すのだが、今の天凱にとっては耳を塞ぎたくなるものだ。


「慶王様、崔皇后様はわたくし達が見ていますからおやすみくださいませ」


 震える声が投げかけられ、天凱は面をあげる。

 楽瑛が沈痛な面持ちで天凱を見据えていた。


「いい。お前達が休んでいろ」


 底冷えする声を放ち、天凱はまた視線を落とした。絹の褥に散らばる黒髪に指を絡めて、硬く閉ざされたまぶたが持ち上がるのを今か今かと待つ。どれだけ待っても暮れゆく空を映した瞳は隠れたまま。死んでいるように見えるが、胸が微かに上下しているので生きているのは分かっている。


「しかし」

「いいと、予は命じた。同じ言葉を繰り返させる気か?」


 怒りを乗せた声に、楽瑛が息をのむ。素早く揖礼ゆうれいすると他の侍女を引き連れて臥室から出ていこうとする。

 その中で一人の侍女だけが不満そうな顔をしていた。


「お前も下がれ」

「嫌です」


 ぴくり、と天凱は片眉を持ち上げる。


「お前は紫苑が連れてきた侍女だな」

「雨蓉と申します」


 背筋を伸ばして雨蓉は答える。天凱が恐ろしいはずなのに、負けじと柳眉りゅうびを持ち上げ、唇をへの字にする。他の侍女達が雨蓉も連れていこうと袖を引っ張るが、足に力を込めてその場に踏みとどまった。


「わたくしの主人は紫苑様だけでございます。慶王様の命を聞く道理は一寸たりともございませんわ」


 気丈にも、意志の強い瞳で天凱を見つめ続ける。


「……紫苑も頑固で、自分の意志を曲げない。お前達は似ているな」

「紫苑様がお目覚めになるまで、わたくしも近くにいます」

「駄目だ。下がれ」

「絶対に嫌でございます」


 しばらく二人は睨み合うが、不摂生の体を揺らした宦官が入室したことで、二人の睨み合いは終了した。


「遅くなり申し訳ございません」


 宦官は臥室の中を見渡し、現状を把握すると丁寧な動作で天凱に頭を下げる。

 そして、すぐに褥に眠る女へ視線を定めた。目を細めて、安堵の吐息をつくので雨蓉は内心で首を傾げる。

 天凱お気に入りの宦官だという名前も知らない男は、まるで家族の安否を確認したかのように安心していた。配下にはありえない表情で紫苑を見つめた。


「雨蓉どの、ここは我々が見守りますゆえ、ご退室ください」


 丁寧な言葉遣い。美しい動作。柔らかな声質と笑顔。——あの男と全てが違うはずなのに、なぜだろう。重なって見えるのは。


「ね?」


 にっこりと口角を持ち上げる笑みは、あの男と同じ。いいや、ありえない。だって、ここは後宮だ。あの男がここに立ち入れるわけがない。


「あなた、もしかして」

「さあ、ご退室を」


 嫌がっても背中を押されて無理やり臥室の外へ追い出される。すぐさま扉を開けて中に入ろうとするが、中からかんぬきをかけられたことでそれは叶わない。

 楽瑛が袖を引っ張るまで、雨蓉は呆然と扉を見つめ続けた。




 ***




「遅いぞ」


 珍しく心の奥底から怒っているようだ。普段は穏やかな悪友が初めて見せる姿に英峰は驚きを隠せない。


「これでもすっ飛んできたつもりだよ」

「これでも?」


 遣いを出してからずいぶんと時間が経っている。変装していたにせよ、英峰ならもう少し早く駆けつけれたはずだ、と天凱は目を鋭くさせた。


「俺に八つ当たりするな」

「してない」

「してんじゃん。んで、紫苑の様子は?」

「後頭部を石で殴られ、池に突き落とされた」

「ふうん。石で殴られたって、油断していたんだな。こいつ、昔っからなにかに熱中すると周りが見えなくなるから」


 英峰はつかつかと紫苑の近くに移動する。


「宦官はこいつを殺す気だったんだろう。普通の良家の女なら泳げないし、池に落とした時点で勝ち確定だし」


 幼い頃から英峰のわがままに付き合っていた紫苑は、崔家の姫ながら得意とまではいかないが水泳ができる。今回は重たい衣裳と頭に受けた衝撃のせいで岸に辿り着くのが精一杯だったのだろう。じゃなければ、ここまで痛めつけられる女ではない。

 幼馴染が襲われたというのに淡々と言葉を発する英峰に、ん? と天凱は疑問を抱く。


「宦官ではなく女だろう。えらく背が高く、痩せた女が紫苑さんにわざとぶつかったと聞いているが」

「いや、女ではない。男だ」


 そう言うと、英峰は椅子に座る天凱へと近づき、問答無用で天凱を蹴落とした。なんとなく、英峰の行動を予想していた天凱が咄嗟に受け身をとったため、大事には至らなかった。

 蹴られた横腹は痛いが、いきなり振るわれた暴力も、相手が英峰なら怒りはわいてこない。その事を不思議に思いながらも天凱は、自分の代わりに椅子に腰掛けた英峰の隣に移動する。


「ここに来る前にお前に取り次いで欲しいという女がいた」


 天凱を一目見ずに、静かに英峰が語りだす。


「そいつは林大勇の恋人と名乗った」

「……恋人って、あの女の人?」


 かすれた声が臥室内の空気を震わした。重たげに瞼をこじ開けた紫苑は横たわった体勢のまま、英峰を見据える。


「紫苑さんっ! 体調は、気持ち悪くは、医官を呼んでくるから少し待っていてくれ!!」

「落ち着け。耳元で騒ぐな。うるさい」


 焦った天凱が医官を呼ぶために踵を返して回廊ろうかへと向かおうとするので、英峰は舌打ちとともに帯を掴んで食い止める。せっかく人払いを終えて、内緒話に適した空間にしたのに他人を招き入れたくない。


「ご心配をおかけしました。体調はすこぶる良好ですので、今はこのままで」


 誰が見ても良好とは言えない状態なのに、紫苑は苦笑しながら気丈に振る舞う。


「……本当に医官を連れてこなくても大丈夫か?」

「今は話し合いが先かと」

「なら寝たままでいい。あまり無理をするな」

「ええ、お言葉に甘えます。さすがに立つのは辛いので」


 そっと紫苑は頭を撫でる。殴られて負った傷は熱をはらみ、鈍痛は依然として無くならない。

 腕を下ろすと、英峰が冷たい声で紫苑の名前を呼ぶ。


「お前、油断しすぎだ」

「ごめん。まさか、人がいるだなんて思わなかった」

「だからといって周りへの警戒を解くな。ここが戦場ならお前は死んでいたぞ」


 英峰は腕を組み、ふんぞり返る。


「……まあ、いい。お陰で、事態は早く進んでいる」

「その恋人はどうして今頃、接触しようとしたんだ?」


 紫苑が問おうとしたことを、代わりに天凱が口にする。


「実際に会えば分かる。——おい、入ってこい」


 と、英峰が声を張るとカタカタと窓枠が震える。


「おい、天凱。窓を開けてこい」


 命じられて天凱は窓へと移動した。垂れ幕を引き寄せ、扉を開けると一人の女が泣き腫らした目で立っていた。


「……崔皇后様」


 女の声が闇夜を震わした。

 その声を聞いて、天凱は目を剥く。


「——紅琳?」


 女が放つ声は、愛しい妹とまったく同じものだった。

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