第11話 秋香宮


 鳳輦ほうれんから降り、秋香しゅうか宮の門をくぐると、異国情緒に満ちた香りが紫苑を出迎えた。花のように甘く、果物のように爽やかでありながら、それらは反発することなく巧みに融合している。

 香りに導かれるままに紫苑がおもてをあげると、象徴色である白に染められた殿舎が映り込んだ。まるで雪の精霊が住まうかのような幻想的な美しさをたたえていた。

 しかし、細部には慶国の伝統を超えた異国の趣が溢れている。織物は羊毛で編まれ、五色の糸で複雑な刺繍が施されている。壺もまた、鮮やかな染料で彩られており、慶国の伝統品とはかけ離れたものだ。

 その一つ一つを、細部まで観察していると秋香宮の奥から小柄な少女が小走りで駆け寄ってきた。


(……謝秋妃?)


 まろい目尻が特徴的な顔立ちは先日の朝礼の際に確認した、謝鳳花ほうかと重なるが、足を進めるたびに揺れる赤茶色の巻き毛には見覚えはない。謝秋妃は見事な黒髪だったはず。

 侍女か宮女かとも考えたが少女が身に纏う純白の襦裙じゅくんは秋妃にしか着用を許されないものだ。


「申し訳ございませんっ! お待たせいたしました」


 紫苑の前に足を止めた少女は頬を桃色に染めながらはにかんだ。

 すぐに背後に控えた侍女から「無礼ですよ」と声をかけられて、はにかむのをやめると顔を青褪めさせた。


「あっ、そうでした。崔皇后様がお許しにならないと、わたくしは話してはいけないんでしたわ」

「別にいいわよ。朝礼とか、他の方がいる場所は気をつけてね」

「……やっぱり、崔皇后様はお優しいですわ。あ、あの、わがままを言ってもいいですか?」


 すぐさま侍女が諌めるが少女は止まらない。大きな瞳を更に輝かせて、紫苑をじっと見つめるので、紫苑は照れくさそうに笑った。


「ええ、私もお茶会を急遽、午後にしてもらったもの。叶えられる範囲でならなんでも言ってちょうだい」

「紫苑様、とお呼びしてもよろしいでしょうか?」

「いいわよ。あっ、でも朝礼とかは駄目よ」

「もちろんですわ!」


 ところで、と紫苑は少女をじっと見つめる。


「謝秋妃よね?」

「ええ、謝鳳花ですわ」


 こてんと少女——謝秋妃は不思議そうに首を傾げた。その拍子に赤茶色の髪が胸元に流れ落ちる。


「その髪色、どうしたの?」


 謝秋妃は不満そうに唇を尖らせると髪に指を絡めた。


「……わたくしの髪色は、見るにも耐えない奇抜な色なので。黒に染めているんです。瞳も色は薄いけれど、これは変えれないから髪だけはしろと」


 うなだれる謝秋妃をまたもや侍女が諌めるのを横目にみつつ、


(葉夏妃だろうか)


 紫苑は一人だけ心当たりがあった。本人の口からどれほど他人に厳しく接していたかは聞いていたが、生来の髪色や瞳の色を卑下するとはいかがなものだろうか。


「それなら私の瞳も奇抜なのかしら」


 するりと指先で目の縁を辿れば、謝秋妃は「そんな!」と叫んだ。


「紫苑様の瞳は美しいです! とても、宝石のようにきらきらしていて!」

「ふふっ、ありがとう。私も謝秋妃の明るい髪と瞳を美しいと思うわ。あなたがご自身の色を嫌っているのなら、染めることにとやかく言うつもりはないけれど、それが他人の言葉からならやめなさい」

「けれど……」


 謝秋妃は視線を彷徨わせる。侍女達もどことなく居ずらそうに肩を揺すったり、意味ありげに視線を交わす。


「もしかして、侍女のみんなも染めているの?」


 よく見れば侍女達の瞳の色も薄い。


「ええ、そうですわ。彼女達はわたくしが輿入れする際に故郷から連れてきたんですけれど、髪色は慶人と比べて明るくて。染めろ、と言われましたの」

「そう。なら皇后として声明を出すわ。風紀を見出さなければ髪色も衣裳も自由にしていいと。髪色を染めてもいいし、染めなくてもいい。どうかしら?」

「衣裳もですか?」

「ええ、もちろん。さっきも言ったけれど、過度の露出とか風紀を乱さない程度なら許可します」


 謝秋妃と侍女達はお互いの顔を見る。頬は桃色に染まり、嬉しそうに笑い合う。


「あ、あのっ、もう一つ、わがままを申し上げてもよろしいですか?」


 これにはさすがの侍女達も見逃すことができなかったようで、すぐさま謝秋妃の名前を呼んだ。


「謝秋妃様、いつまでもこんなところで崔皇后様にいてもらうのは」

「あっ、そうですわ! わたくし、不慣れですがお茶会の準備をしてみましたの! こちらにいらしてくださいませ!」


 侍女の静止を無視して、謝秋妃は紫苑の手を取ると「こっちです!」と小走りで駆け出した。小柄ながらも力強く、ぐいぐいと引っ張っていくので紫苑は苦笑しながらも後を追う。


(妹がいたらこうなんだろうか)


 背中で舞う蜂蜜色の髪を見ながらそんな妄想をした。




 ***




 本日は快晴ということで謝秋妃は中庭で茶会を楽しもうと思ったようだ。


(本物かな)


 紫苑は自らの足元に広がる虎柄の絨毯を撫でた。贋作がんさくにしては毛並みは本物のように艶があり、柔らかい。一本一本の毛の生え具合も偽物には思えない。


「お気に召しましたか? 砂族は自ら獲った獲物の皮を衣裳や家具に加工するんです。その虎はわたくしが初めて討った子なんですよ」

「謝秋妃が?」

「ええ、彼女達の手も借りましたが止めをさしたのはわたくしです」


 自慢げに胸をそらした謝秋妃の足元には絨毯が広がっている。こちらは織物のようだ。


「そんな大切なものを踏むわけにはいかないわ」


 腰を浮かせようとした紫苑を謝秋妃は慌てて止める。


「紫苑様だからいいんです!」


 なぜそこまで懐かれたのか分からないが謝秋妃はうっとりと頬を褒めて、微笑む。


「初めて討った獣は亡くなる時に一緒に埋葬すると次も強い人間に生まれ変わると言い伝えられておりますの。それで、ぜひ、紫苑様にもらっていただきたくて」

「いいの?」

「大切なものだからですわ。紫苑様に出会ったあの日から、あなた様に贈ろうと思っておりました」

「ありがとう。大切にするわ」


 紫苑はそっと虎毛を撫でた。


「私からも後でなにかを贈ろうと思うのだけれど、欲しいものとかある?」


 途端、謝秋妃は前のめりになる。


「馬を! 仔馬でもかまいませんわっ! この後宮で飼う許可をくださいませ!」


 その返答に紫苑は即答できなかった。犬猫や小鳥程度なら皇后の許可があれば飼育が可能だが、馬となると話は別だ。厩舎きゅうしゃ馬場ばば装蹄師そうていしまで用意しなければいけない。後宮は確かに広大で土地も余っているが、それらを新しく作るとなると天凱に話を通さねばならない。


「謝秋妃は本当に馬が好きなのね。いいわ、天凱様に頼んでみるけれど、あまり期待しないでちょうだいね」

「彼らは頭も良く、いつもわたくしの味方でいてくださるもの。期待せずにはいられませんわ」

「許可が下りたら、私にも馬を触らせてもらえるかしら?」

「ええ、もちろんですわ! 名付けも紫苑様にしていただきたいと思っています」

「……名付けは苦手なの。謝秋妃の方がきっといい名前をつけてくれると思うわ」


 近所の子供が小鳥や犬を拾った際に候補にしたいからと名前を考えてと言ってきたことがある。紫苑も冗談抜きで真剣に考えたが全て微妙な顔をされた。まっすぐ言われたわけではないが、あの時の表情は自分に名付けの感性がないことを物語っていた。

 当時のことを掘り下げられる前に紫苑は話題を変えることにした。


「ところで、後宮内で起きた事件についてなのだけれど」

「姫春妃様のことでしょうか?」


 天真爛漫な謝秋妃は怯えると思っていたが、きょとりと不思議そうに目を丸くさせると小首を傾げる。


「今ね、犯人を探していて危険だから外出禁止令を出したじゃない?」

「きちんと守っておりますわ。紫苑様にお会いできないのは残念ですが、あの人に会わなくてほっとします」

「それでね、犯人が見つかるまでの間、季妃あなた達に護衛をつけることにしたの。お家から連れてくるのが難しいなら崔家から人を送ろうと思うのだけれど、どうかしら?」

「いりませんわ」


 きっぱりと謝秋妃は告げる。


「必要ございません」

「一応、ここには宦官を置いてはいるけれど、鍛錬を積んだ者もいた方が安全なの」


 幼子を諭すように紫苑は優しく語りかける。

 謝秋妃はくすくすと笑うと背後——控える侍女達を振り返り、


「わたくし達は砂族の女。剣を携わる許可をいただけるのであれば、自分の身は自分で守ってみせます」


 自信たっぷりに告げる。侍女達も自信ありげに胸をそらす。砂族は少人数だが、その勇猛果敢な戦いっぷりに周辺からは恐れられていることは紫苑も聞いたことがある。彼女達の自信は己が部族の誇りからくるのだろう。


「分かったわ。それも聞いてみましょう。でも、危険なことがあれば、まずは命を優先しなさい」


 自分の身を守れるのならば、紫苑としても否定することはできない。

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