段差につんのめるようにして、我に返る。あわてて左右に見やれば、彼方にもよく見覚えのある通りに出ていた。

「今日はよく、ぼうっとしてるね」

 平坦な姉の声音は、彼方を心配してのものかあるいは特に興味もないのに口を開いたものなのか。何年もともにいたにもかかわらず、いまだにその辺りのことはよくわからないままだった。普通の姉と弟というものは、もっと、心を通わせているものなのだろうか。昔から何度か考えたことを頭に浮かべつつ、首を横に振る。

「そんなつもりはないんだけどな」

 彼方の答えに、姉は興味なさげな様子で瞼を閉じてみせる。その様子を見て小さく息を吐き出したあと、先程まで頭に浮かんでいた記憶を振り返った。

 とんでもない現場だったなとあらためて思う。あのあと、彼方は姉がなにかを問い詰めてくるのではないのかという不安におそわれる一方で、ある種の期待を寄せてもいた。これまでほとんどいつでも無表情でことに応じていた姉が、初めて剥き出しの感情をみせて詰めよってくるのではないのか。そうなれば、なにを思っているのかもわからない姉に、束の間の人間性を見いだし、安心できるのではないのか。……当時の彼方にここまで深い考えがあったというわけではなかったが、おおむねこんな気持ちを胸に抱えたまま遅くに帰ってくる一つ年上の女を待ちかまえた。しかし、帰宅した姉は、なにひとつ、彼方に告げず、何事もなかったように残りの時間を過ごした。

 その後しばらくの間、彼方は、平然としている姉をそれとなく観察した。今はまだ、機をうかがっているのかもしれないと疑い、気もそぞろなまま毎日を過ごすこととなった。だが、いつまで待っても、姉がその件について口を開くことはなかった。

 やはり、あれは偶然だったのだろうか。あの日、立てかけられた懐中電灯に照らされた室内にいた姉と合った目を、たまたま、そのように見たのだろうか、と彼方は思おうとした。たしかに、そう受けとっても別段、不自然な状況というわけではない。しかし、あの力強い視線は、いくら目が不自由な女のものであったとしても、明確になにかを見て、つまらないとでも思っている時のものにちがいない。その確信は彼方の中で崩れなかった。

知っているうえで、依然として姉は、見られていたことをどうでもいいと思っている。そう解釈した彼方は、姉の心がわからないという恐怖を新たにした。

 一方で、なんとはなしに、以前よりも、姉のことを目で追うようにもなったが、そこには少し大人びた以外は中学時代と変わりない様子の年上の少女がいるだけで、あの日の廃屋での出来事の痕跡はどこにも見いだせなかった。

 いったい、姉はなにを考えているのだろう。急激に大きくなった得体の知れないものの内面への興味は、自らも同じ行為をすはるばわかるのではないのかといったやや歪んだ方向へとつながっていった。しかし、後輩のマネージャーとの初体験をはじめとした高校時代の情事の数々は、男の生理の一端をわからせても、決して親類のよくわからない内面の解明につながることはなく、彼方が得たものは束の間の快楽と、新たに積み重なる謎ばかりだった。挙句の果てに他のことばかり考えているなどという理由で後輩に別れを告げられ、とりあえずは否定してみるものの、おおむね向こうが言っていることの方が正しいため、破局することになった。

 その後も彼方なりの傷心を抱えつつも、次々と周りにあらわれる女に手を出しては、まあまあ楽しくやったあとに、最初の後輩と似たような理由で別れを切り出される……そんなことを繰り返しているうちに、高校生活は終わっていた。

 結局、高校の頃も姉に振り回されていたのかもしれない。手を引く姉の白い顔を見守りつつ、彼方は自らの行いを棚にあげてそんなことを思う。とはいえ、良くも悪くも充実していたのだから、やはり、いい時代だったのではないのか。年月に換算してみれば、さほど時が経っているわけではないにもかかわらず、そんな爺臭いことを考えた。

 空を見上げれば、丸い月はとっくに一番高いところを通りすぎ、かなり下りはじめている。随分と時が経ったのかもしれない。心ここにあらずといった感じで歩いていたせいかそんな気はしないが、いつの間にか足はくたびれているし、夜風を浴びたせいか体も冷たくなっている。家からさほど遠くにきたわけではないにもかかわらず、こんなに時間を潰せるものなのだな。他人ごとのように振りかえりつつも、いままで度々行った夜の散歩の中でも珍しいことだと思う。しかも、昔は嫌々だったのだが、今では自分から姉を連れまわすようになっているのだから、心とはわからないものだった。

 再び、姉に視線を移すと、涼しい顔をして足を動かし続けている。体力的には彼方よりもかなり劣っているこの女性にとって、決してこの散歩は楽なわけではないはずにもかかわらず平然としている。いつも通りと言われてしまえばいつも通りであるのだが、この変わらなさに、今では敬意を示すようになってもいた。

「星は、綺麗なの」

 唐突に尋ねてくる姉の言葉は少ない。

「ああ、とても」

 例のごとく、できうるかぎり空の様子を説明するところからはじめようともしたが、なんとはなしにそんなことを求められているわけではない気がして止めた。

「月は、輝いている?」

「ああ」

 見上げれば、月の光はそれほど強くはなかったが、どことなく目に突き刺さってしまいそうな鋭さを有しているように思えた。それがなんとなく物騒な気がして、目を逸らしてから、真正面を見据えて歩いていく。姉はそれ以上聞いてはこず、彼方に手を引かれるままになっている。握ったばかりの時は少し温いくらいだったのに、いつの間にか汗ばむくらいの熱を持ちはじめた掌を、彼方はいい加減離したくもあったが、仮に手を離してしまったとすれば、姉はその場で動かなくなるかもしれなかった。昔の姉であれば、一人で帰ることもできただろうが、以前よりも弱視が進行してしまった今では、その行為は危険をともなう。土地勘自体はあるので、歩いて帰れるかもしれなかったが、しかし、ほぼ目が見えないまま進んでいくのは、困難なように思えた。姉のことだから、顔色一つ変えず背筋を伸ばして歩いていくだろうが、朝になるまでさ迷い続けたり、道路に飛びだして事故に合う可能性がないとは言いきれない。そんな姉を闇夜に連れだしたという意味でも、彼方は家に帰るその時まで、見守らなくてはならなかった。

「そう」

 姉は短くそう答えたあと、月の方を見上げ、眩しげに目を細めてみせる。一瞬だけ、垣間見えた、姉のどこかもどかしげな表情に、見なかったふりをして、彼方は先へ先へと進んで。遠くにある建物の集まりからは、月明かりに当てられた教会のとんがり屋根が顔を出している。

 大学生になった彼方が、姉をこうして連れだす日は、中学時代の経験もあり、できるかぎり晴れた、そして星がよく見える日にと決めていた。降雨時の歩きにくさというのもあったが、姉が好ましく思っている空模様が星月夜だとわからないなりに考えたからでもあった。

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