Ⅳ
目の前を横切ったぶち猫は、椅子に座る姉の足元に寄りそってきた。その毬みたいな体を、彼方は可愛らしいと思う。しかし、相変わらず猫が自分自身の傍ではなく姉の近くへと行ってしまうことに、ある種の理不尽さを覚えざるをえない。愛おしげに顔を擦りよせる猫に、姉は一瞥すらせずに、ただ機械的に浅い呼吸を繰りかえしていた。目線は東屋の真ん中にある机におろされたままであり、まさに、そこにいるだけである、というのがふさわしかった。
しばらくの間、彼方は姉の足元にいるぶち猫の媚態を見守っていたが、空気に少しばかり冷たさを感じると同時に、ゆっくり立ちあがった。彼方の動きに合わせて、猫が足から素早く離れたかと思うと、すぐに公園の闇の中に姿を消した。気配を感じとったのか、姉もまた腰をあげるとともに、掌を差しだしてくる。それをおもむろにつかみ、自分以外のぬるさに、なんともいえない異物感をおぼえる。
「どこか、行きたいところはあるか」
「別に」
すぐに返ってきた素っ気ない声は、予想していたものだったが、ますます姉と自らのへだたりを強く意識させた。こうして手をにぎっている間も、この血の繋がった女性が他者であるというのを実感は深まっていく。
東屋の屋根から出て、細長い月明かりと電灯の光の間に身を置き、一足一足で後ろからついてくる肉親の歩みがほつれないように注意をしつつ進んでいく。相変わらず夜の公園には誰もおらず、虫の音と遠くから響く車の走行音などが聞こえてくるのみだった。その間、園内に生えている木の陰を横切ると、足元が地面からコンクリートへと移り変わっている。程なくして、出入り口の一つである小さな上り階段が見え、すぐさま園外へと飛びだした。
さあ、これからどこへと行こうか。それほど生活範囲が広くないのもあり、行くあてもかぎられており、どこにだろうと新鮮さは薄いだろうとわかってはいたが、だからといって家に帰りたいとも思えなかった。
姉はどう思っているのだろうか。ちらりとうかがえば、ほとんど見えていないだろう目は、じっと彼方の方をとらえている。影の中でのそのたたずまいからは、弟に頼るしかないという風にも、惰性で付きあってくれているという風にも受けとれた。こうして素直に連れだされてくれている以上、おそらく、後者であるのだろう。そう推測してなんとはなしに虚しくなり、再び前に向き直った。
右前方に空き地が広がっている。ふと、彼方は首を捻る。以前はなにかが建っていた気がしていたのだが、それがなんであったのか、いまいち、思いだせなかった。
「ねえ、ここってなにが建ってたっけ」
つい口にだしてから、答えは返ってこないかもしれないと思う。彼方の声自体は届いているのだろうが、どんなに大切な話であっても、気が向かなければ、姉は答えないこともざらだった。なにより、今の姉の目の前に広がる世界からすれば、ここがどこであるのかも、曖昧であるおそれすらあった。
案の定、足を止めた彼方にあわせてその場に立ちつくしはしたものの、無言のままでいる。振り向けば、細かな表情まではうかがえないまでも平静でいるようだった。顔の位置からするに、彼方が指し示した土地を目にいれてないことすらありえた。
どうやら、気分は乗っていなかったようだ。少し時を置いてからそう判断した彼方は、軽く姉の手を引いて歩きだしながら、なにがあったのかを考えはじめる。そもそも、よく足を運んだ土地というわけではなかったはずだったが、なんとはなしに、忘れがたいなにかがあった気がした。途中まで引っかかっているのに、なぜだか出てこない感じが気持ち悪くて仕方がなかったので、ああでもないこうでもない思いを巡らせては、姉にまた歩く速さについて指摘されそうだと考えては、歩幅に注意する。そんなことを繰りかえしていると、右前方に段々畑があらわれる。ここもまた見覚えがあった。地元であるのだから、見覚えがあっても別段おかしくないのかもしれなかったが、まだ、成長しきっていない野菜が植えられているその土の盛りあがりや、すぐそばに立つ電信柱とその上から伸びる電線の配置、真正面に立つ酒屋の裏手の倉庫など、この角度からの風景にはどことなく心当たりがあった。そうやって気に留める程度には、何度も通りすぎていたということだろうか。
「今年も、あそこには向日葵が咲くんだろうね」
独り言のように姉が呟いたのに反応して向きなおると、青い目は段々畑の端の方を見ているようだった。
「あったっけ、向日葵」
「ええ。もっとも、今の私にはそんなはっきりと見えるとは思えないけど」
すぐ近くの電灯に照らされた姉の真白な顔色は変わらず、声音もまた淡々としていた。おそらく、自嘲しているのだろう。そう察し、彼方は姉が想像したであろう光景を想像してみる。
どことなくくたびれた横並びの向日葵。言われてみればそんなものがあった気がするし、これから畑の上に伸びるのかもしれない。
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