-Ⅳ

 小学校高学年にあがるかあがらないかといった頃のある日の夕方、彼方はまだ遊びたりないと思いつつも、暗くなる前に家にいなければと帰路についていた。とはいえ、遊び盛りの少年にとっては渋々ではあっても、時刻に照らしあわせれば門限ぎりぎり。このままでは親にどやされそうだった。

 仕方がないか。

 彼方はあまり気が進まないなりに、近道を使おうと決めた。ちゃんと計ったことはなかったが、その道を通れば家に着く時間を数分短縮できるはずだった。にもかかわらず、彼方がこの道を使いたがらないのは、背の高い木の並ぶ森に挟まれているからにほかならない。朝方や昼間であれば別段気にもならなかったが、暗くなりつつある間に通るのは、道々に設置されている電灯の少なさもあいまって、不気味そのものだった。だから、よほどのことがないかぎり、遠まわりをすることにしていた。

 この日も森の前に彼方が立つと、背の高い木が六月の微かな風に揺らされ、手足ともいえる枝を揺らしている。その様はどことなくお化けにおいでおいでされているみたいで、今すぐにでも回れ右したい気持ちで胸がいっぱいになっていたが、友人たちに、びびりと馬鹿にされていたのを思いだし、その悔しさを振り払うべく、一歩を踏みだした。

 まるで怪物の腹の中にいるような心地になりながら、硬くなった足で歩こうとして、かえって動作がぎこちなくなっていくのがわかった。元より交通量の少ない道であるせいか、歩道と歩道の間にある車道を走りぬけていく車両はおらず、ただ枝葉が不自然に上下するだけだった。木と木の間には、日が落ち切っていないにもかかわらず小さくない影ができており、そこからなにがでてくるかを考えるだけで、気が気でなくなった。早く、通り過ぎたい。そう願って、できうるかぎり木々の方を見ないようにと、足元と道路の方に目を向けるよう心がける。しかし、彼方の願いとは裏腹に、森の脇の道路は延々と距離を伸ばしていっているように感じられた。時折、耳にはいってくる枝葉のざわめきは、得体のしれないなにものかが笑っているみたいで、心臓が早鐘をうつのがわかった。

 不意に、緩やかに曲がっている道の先になにものかのを影をみつけ、どきりする。まだ距離があるせいか、すぐ先にいるなにものかは後ろ姿しか見えなかったが、そのシルエットはどことなく幽霊じみていた。季節に似合わない涼風がランドセルとシャツの間を撫でるのとともに、彼方は恐怖に震える。

 早く、どこかへと行ってくれないかな。彼方はそう念じたが、幽霊らしき後ろ姿は立ち止まったまま動こうとしない。

 引き返そうかと思ったが、森の中をそれなりに進んできただけに、ここで戻って遠回りすれば日は落ちてしまい、母か父からお説教を食らいかねない。かといって、進めばあの影の主と対峙しなければならなかった。

 ……少しの間立ち尽し、どちらがいいかと両極端に揺れる心の天秤を見守っていた彼方は、微かな差で進もうと決めた。先に進むのも引き返すのも嫌なのには変わりがなかったが、かといってじっとしていても怖いものは怖くやむにやまれず覚悟を固めた。

 早く家に辿り着きたいが、あの幽霊じみた人影のところまでは行きたくないという思いからか、そのそばに辿りつくまでの時間は、酷く長く感じられた。着く前に人影にはいなくなってほしいが、消えたら消えたでまたどこから現れるのかわからずより不安になりそうだったため、彼方自身どうなってほしいかよくわからなくなりつつあった。

 徐々に大きくなっていく背中から目を瞑ったり逸らしたりしながら、着実に距離を詰めていく最中、思いのほか人影が小さいものだということに気付いた。幽鬼じみた人影は、一本の糸杉の傍に立っていて、背後にいる彼方に注意を払う様子は少しもなく、ただただ、背の高い木を見あげているようだった。

 そこで彼方は、後ろ姿に見覚えがあるのに気が付く。今にも消えてしまいそうな雰囲気によって覆い隠されていたせいか、近くにやってくるまでわからなかったが、一歩一歩、距離をつめていくにつれて、見覚えがあるどころか、ここのところ頻繁に接している人間の後ろ姿にそっくりだと思いあたり、あと少しというところで足を止めて、本人そのものだと確信した。

 お姉ちゃん。そう呼んでみせると、ゆったりとした動作で姉は振りむく。暗闇の中でその色白の肌と色素の少ない髪はやたらと目立ち、なぜ、こうまであからさまな特徴があったにもかかわらず気が付かなかったのだろうと、首を傾げてしまいそうだった。

 あんたか。いかにも見辛そうな様子で眼鏡越しに目を細める姉の姿をみて、彼方は、なぜ、自分がこうして近くにやってくるまで気が付けなかったのか、という理由をぼんやりとさっした。

 最初に会ってから何年か経って、姉の顔はほっそりとしたものに変わり、体の節々が今にも折れてしまいそうなものになったせいか、本来であれば人目を惹く外見であるにはずなのにもかかわらず、どことなく存在感が希薄だった。姉自身が口数の少ない子供であるのもあいまって、その印象はより強まっていた。

 だから、闇の中でその姿を見つけた時、姉を幽霊だと思ってしまったのだろう。そう考えてから、ほっと息を吐く。正直、怖がり損だと当たり散らしたくもあったが、なにを言っても、姉は多少眉を顰めるくらいで、適当な相槌を打つのが関の山だろう。普段、話しかけてもほとんど相手をしてくれないのもあり、彼方はこの姉の心情がよくわからず苦手にしていた。ここで顔を合わせてしまったのも運が悪かったと思い、先に引きあげようと決める。

 姉ちゃんは帰んなくていいの。反射的な問いかけはなかば形式的なものだった。なにも言わずに置いていくと、もしもあとで、途中で姉を見たと知られた時に、なぜ、一緒に連れてこなかったのかと怒られるおそれがあった。とりわけ、両親は姉の目が弱いのを気にしているため、彼方がその世話を焼かなかったとなれば大目玉は必死だった。

 姉は黙って首を横に振り、木を見上げ続ける。これで理由はつけられたと思い、それじゃあ、と一言告げて帰ろうとする。ふと、彼方は姉の横を通り際、その瞳がやけに熱心なのを見てとる。

 なにをそんなに必死に見ているのか。急に興味が湧いた彼方は、姉のすぐ横で立ち止まり、その視線の先を追ってみる。しかし、そこにあるのは葉を揺らす糸杉と、橙と紫が混じりあった空くらいで、面白そうなものはなにもない。せいぜい、森の上を鴉が飛び越えていっているのが時折、見受けられるくらいだろうか。

 なにを見てるの。彼方は自然とそう尋ねていた。彼方にとって目の前にあるものは、夕方になれば当たり前に転がっているものでしかなく、姉がこうした関心を寄せるのは妙に思えた。

 姉は何も答えないまま、ぼんやりと木を見上げていた。聞こえなかったのだろうか、と彼方は訝しがったあと、もう一度尋ねるべきかと考えたが、すぐに取りやめる。元々、少し気になっただけで、好き好んで姉と長い時間をともにしたいわけではない。答えが返ってこないのだったら返ってこないで別段かまわなかった。

 暗い、が見える。ぼそっとした答えを耳にした時、まず、そのか細さから誰の声かを認識できず、それがわかったあとはなんと姉がなんと言ったのかを理解するのに時間を費やし、その言葉を特定したあと、その意味をなんとなくではあるが察する。ただ、彼方にとって、暗い、を見るということに、そんなに熱心になるというのは、よくわからない感覚だった。

 それがどうしたのという気持ちのままぼんやりとしていると、姉が瞼を閉じ先んじて家の方へと歩きだした。

 もう、いいの。あとを追いながら、そう尋ねる。ややふらふらした足取りでどんどん先へ進んでいく姉は、なにもないから、などと口にしたきり黙りこんだ。

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