神様の縁結び〜台灣で挑む月下老人のおいしいミッション〜
いつきさと
§ 天空碧
冥婚
桃園空港から電車を乗り継ぎ、やっと辿り着いた語学学校の事務室。
職員から不慣れな中国語をまくし立てられ涙目になっていたわたしの目に飛び込んできた笑顔——それが、カイくんとの出会いだった。
その笑顔から目が離せない一方で、頭の片隅にいる冷静なわたしが、他人事のように感心する。
一目惚れって、本当にあるんだ。
もっとも、ほんの数分後には、あっけなく失恋と相成ったのだが。まあ、それはいいとして。
「きみが、日本人、だよね? 留学生?」
「えっ? はい……」
助かった。日本語だ。
「オレは、日本語が、できます。中国語、わかりますか?」
「あ、はい。少しわかります」
「そか。よかったです。オレは
「りん? しゅーはぁい? わたしの名前は……」
「ぶっ! しゅーはぁい? 変な発音!」
しゅーはぁい、しゅーはぁいだって、と、繰り返しながら、わたしより頭ひとつ分長身の彼が、がっしりした体躯を折り曲げ、ひーひー笑う。
仕方がないじゃない。初心者なんだから。
あなたの日本語だって、大概おかしいでしょう?
あのときからわたしは、旭海を『カイくん』と呼んでいる。
いまはもう『
ボランティアで留学生向けのチューターをしていたカイくんは、わたしの怪しげな中国語をからかう。そればかりか、出身地、年齢、職業、家族構成、果ては恋人の有無にいたるまで、これでもかと根掘り葉掘り質問を浴びせてきた。
初対面なのに。遠慮ってものはないのかしら?
なぜここまで訊かれなければならないのかと、内心警戒しつつもそこは、日本人の性。親切にされれば、ついつい愛想よくしてしまうわけで。
作り笑顔で仕方なく質問に答えているうちに、カイくんは入学からアパート入居の手続きまで、手際よく済ませていき——さらに、家族や友人をも巻き込んだ。
狼狽えるわたしをよそに、携帯電話の契約を友だちに依頼する。
生活用品は、カイくんのお母さんである
そして、最後の仕上げはなんと、林媽媽が経営する食堂での引越祝い。
勧められるまま、はじめて口にする台湾の味に舌鼓を打ち、カイくんをはじめとしたみんなの優しさに驚くやら感動するやら。
台北到着第一日目にして、自分が育った日本とは違う、現地の濃い人間関係にどっぷりと嵌まってしまった。
そしてあの日を境に、家族同様に接してくれるカイくん一家の温かさは、幼いころ、突然父母に先立たれ、唯一の身内である叔母の家にやっかいになっているわたしにとって、掛け替えのないものとなった。
「あ!」
「
わたしの両側を歩く
「小鈴、大丈夫?」
「うん、ごめん。大丈夫」
足元を確認し、緊張に震える足を踏みしめた。
頭を上げればそこに見えるのは、淡いピンク色のアレンジメントフラワーで飾りつけられた美しい祭壇。その向こう、正面の壁には、同系色の薔薇で縁取られたカイくんとわたしのウエディングフォトが見える。
祭壇の前に安置されている白い棺。その中で、純白のタキシードを身に纏った新郎のカイくんが、わたしを待っている。
ウエディングドレス姿のわたしは、すすり泣く人々に見守られながら、祭壇までの道程をゆっくりと進んだ。
棺の真横で足を止め、眠るカイくんを覗き込む。その寝顔は、いま行われているこの儀式の意味を理解しているかのように、微笑んでいた。
そっと手を伸ばし、その頬に触れてみる。ひんやり冷たいその温度に、わたしは否応なしにこの現実を思い知らされる。
わたしの首元で揺れるペンダントトップが、体の動きに合わせてチリチリと音を立てた。
カイくんの遺品を整理していた林媽媽が、彼が最後に着ていたジャケットの内ポケットからこのペンダントを見つけたのは、事故から二週間ほどのちのことだった。
華奢な長方形のケースの中で艶めく、澄み切った青空色のペンダントトップ。
添えられていたカードに書かれた文字を読んだ林媽媽は、カイくんがかわいそうで涙が止まらなかった、と、わたしを抱き締めて泣いた。
知らなかった。カイくんが、わたしを好きだったなんて。
林媽媽からカイくんの気持ちを告げられるまで、カイくんは曉慧と付き合っているのだと思っていた。まさか、とっくの昔に振られていただなんて。信じられない。あんなに仲よしだったのに。
「カイくん、ごめんね」
——あきらめが早くて。
わたしがもっと早くカイくんの気持ちを知っていたら、現在も未来も変わっていたのだろうか。
大雨のときは、バイクに乗らないでって、あれほど言ったのに。
誕生日のプレゼントなんて、要らなかったのに。
あの日、約束なんてしていなければ。
迎えを断っていれば。
どんなに後悔しても、カイくんの笑顔は、もう二度と見られない。
一呼吸置いて背筋を伸ばし、祭壇に一礼して振り返る。
ハート型の風船を手に集う人々に、深々と頭を下げ、ゆっくりと顔を上げた。
最前列に座っている林媽媽が、真っ赤に泣き腫らした目元をハンカチで押さえ、泣き笑いしながら、うんうんとわたしに何度も頷いている。
林媽媽に頷き返し、姿勢を正した。
「みなさま、本日は、お集まりくださり、ありがとうございます。みなさまのご祝福のもと、林旭海と、わたし、
指輪も婚姻証も無い形だけの儀式だけれど、わたしやみんなの気持ちはきっと、カイくんに届いているはずだ。
宣誓を終えて結んだ唇が震え、堪えていた涙が溢れる。
曉慧もわたしの首にすがりついて嗚咽を漏らし、声を上げて泣くわたしたちふたりを、アマンダが泣きながら抱き締めてくれた。
冥婚——。
それは、若くして亡くなった独身の死者が、あの世で寂しい思いをしないよう、生者、あるいは死者との婚礼儀式を執り行う、華人世界に古くから伝わる風習であるという。
通常は、恋人が。恋人がいない、または、事情がある場合には、親しい友人有志。それをも叶わないときにはなんと、お金を入れた紅い封筒を道端に置き、拾った人が伴侶役となるのだそう。
そんなことが本当に行われているのか。
少なくともわたしがこちらへ来て以降、実際に見たことも聞いたこともなかった。
カイくんのわたしへの想い。それは、家族の希望でもあったのだと聞かされてしまったわたしは、林媽媽の「形だけでも成就させてやりたいから、協力してほしい」との願いを二つ返事で引き受けた。そうして、葬儀は急遽、婚姻儀式へと様変わりしたのだった。
わたしの向かい側、林媽媽の隣には、大きなお腹を庇いつつ林媽媽の肩を抱くカイくんのお姉さん、
みんなが棺を囲み、泣き、笑い、口々に祝福し、永遠の別れを惜しんでいる。
「カイくん、ありがとう——どうか安らかに」
わたしもそっと最後のお別れを囁いた。
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