【WEB版】幼少期に捨てられた身代わり令嬢は神様の敵を許しません(書籍タイトル:元シスター令嬢の身代わりお妃候補生活 ~神様に無礼な人はこの私が許しません~)
狭山ひびき
一か月目
プロローグ
「んー! 今日もいいお天気!」
青空の下でパンッと洗ったばかりのシーツを広げると、何とも言えない爽快感を感じる。
シーツを干した縄の端っこはオレンジの大木の枝に括りつけられていて、洗濯ものをかけるたびに小さな葉擦れの音を立てる。
オレンジの木の奥には、大人の背丈よりも高い分厚い灰色の壁があり、それはエルシーが五歳の時から十一年間すごしている修道院を、まるで外界から遮断するかのように取り囲んでいる。
決して広くはない庭では、四歳から十歳までの子供が笑い声をあげながら走り回っていた。
「あなたたち、ボール遊びはいいけど、洗濯ものにぶつけたらだめよ?」
その子らの手に土汚れた古いボールが握られているのを見て、エルシーは腰に手を当てて注意をする。
子供たちは「はーい!」と元気な声をあげたけれど、あの反応は、理解しているのかしていないのか少々怪しいところだった。
おとといも洗ったばかりの洗濯物を泥だらけにされたエルシーは、洗濯物を干す場所を移動した方がいいかしらと考えが、修道院の裏はここよりもずっと日当たりが悪い。
「院長先生に相談かしらね」
子供たちに遊びを我慢させるのも忍びない。幼い子供たちは夢中になったら言いつけられたこともうっかり忘れてしまうので、洗濯物を本気で守りたければ彼らに遊びを我慢させるしかないのだ。
十一歳より上の子らは、この時間は近くの学校に通っている。
修道院で面倒を見ている子らは、それぞれの理由から親が育てられなくなって預けられている子がほとんどだ。中にはエルシーのように、幼いころに親から捨てられた子供もいる。そんな子らを分別ある大人に育て上げ、時が来たら社会の送り出すのがこの修道院の役目だった。
エルシーのように、十六歳になっても居残って、シスターを目指す子供がいないわけではないが、多くはここを出て独り立ちしていく。
この春にも一人、十六歳になったエルシーの友人が、貴族の邸の使用人として働くことが決まって出て行った。
それを淋しいなと思ってしまうのは、エルシーにはここから出て行くという選択肢がないからだろうか。
(って、わたしは神様のお嫁さんになるって決めたんだから! それはとても名誉なことなのよ!)
シスターになることを、俗に「神様のお嫁さんになる」と言う。シスターは生涯独身ですごすことが義務づけられているからである。
洗濯物を干し終えたエルシーは、子供たちがボールをぶつけないか心配しつつも、いつまでもここで子供たちの監視をしているわけにもいかないので、建物の中へ戻った。
シスター見習いであるエルシーは、このあとシスターたちとともに礼拝堂の掃除をしなければならない。
シスター見習いも、ほかのシスターと同じように、禁欲的な露出のない修道服を着せられる。
修道服はくるぶしまで丈があるので、走ろうと思ってもろくに走れない。エルシーは洗濯籠を洗い場に置くと、できるだけ急ぎ足で礼拝堂へ向かった。
ひんやりとした礼拝堂の中に入ると、すでにシスターたちが掃除をはじめている。
遅れたことを詫びると、一番近くにいたイレーネがおっとりと微笑んで首を横に振った。
「いいのですよ。エルシーは毎朝洗濯物を干してくださっているのですもの」
修道院の仕事は、シスターやシスター見習いが当番制で行っている。時には子供たちも手伝ってくれるけれど、洗濯だけはここ何年もずっとエルシーが担当していた。
それは、エルシーが誰よりも早起きで、洗濯の仕事が好きだからに他ならない。汚れた服を洗って、青く晴れた空の下に干すあの爽快感を味わいたくて、自ら率先してやっているのだ。
「ほんと、エルシーって変わってるわよね」
「見習いだけど、わたくしたちの中で一番シスターらしいんじゃないかしら」
「たまにドジだけど」
「ま、そこがエルシーのいいところよ」
「でも、洗濯物を汚されたからって、修道服の裾をたくし上げて子供たちを追いかけるのはどうかと思うわ」
「洗い直しになった悔しさはわからないでもないけど、そんなことをするからあの子たちに舐められるのよ」
ここにいるシスターたちは、エルシーが五歳の時から知っているので、みんな姉や母のような存在だ。
くすくす笑いながら雑巾がけの手を止めてからかってくる。
エルシーは肩をすくめた。
子供たちがエルシーに怒られても怖がらないことはよく知っている。シスターたちはみな穏やかで優しいが、おっとりしているイレーネですら怒るととても怖いことで有名で、子供たちは全員シスターの言うことはきちんと聞くのだ。エルシーの注意も聞いていないことはないのだが、恐れられていない分、耳半分でしか聞いていない。
「だから洗濯物の干す場所を変えられないかと思って」
エルシーが言えば、シスターたちはそろって首を傾げた。
「あら、でもあそこが一番日当たりがいいのよ?」
「あの木が一番縄を括りつけるのにちょうどいい高さだし」
「洗い場からも近いから、干すのも楽でしょう?」
シスターたちの言う通りだ。しかし、こうも頻繁に洗濯物を泥んこにされてはたまったものではない。唸っていると、ギィッと礼拝堂の扉が開いた音がした。
全員が一斉に振り返り、慌てて頭を下げる。院長のシスター・カリスタだ。
シスター・カリスタは今年で六十になる。穏やかで優しい性格で、エルシーがここに入れられた時からずっと院長だった。かつては、没落した子爵家の令嬢だったらしく、立ち振る舞いはここにいる誰よりも気品がある。
「盛り上がっているわね。何のお話?」
カリスタは無駄話をしていることを咎めたりせず、目尻に皺を寄せて微笑んだ。
「洗濯物の干し場を変えられないかと相談していたんです」
エルシーが答えると、子供たちが頻繁に洗濯物を汚すことを知っているカリスタは、「そうねえ」と頬に手を当てて考えてから言った。
「洗濯物の干し場を変えるよりも、子供たちが遊ぶ場所を変える方がいいかもしれないわね。いらなくなった梨園を自由にしていいと言ってくださる方がいるから、今度からそこで遊ばせましょう。庭よりも広いからちょうどいいでしょう」
梨園は、修道院の調度右手側にある。
梨園を営んでいる老夫婦が引退を決めて、後継ぎもいないから、よかったら修道院で活用してくれないかと申しでくれたらしい。
梨の実は貴重な食料になるし、多くとれた分はバザーで売れば収入にもなる。断る理由はないと、カリスタは二つ返事で了承したそうだ。
梨の木と木の間は広めに間隔がとられているので、子供たちが走り回る分も問題ない。
「これで洗濯物の件は解決ね」
さすがカリスタ。ちょうど申し出があったこともあるが、問題が一瞬で片づいてしまった。
「それはそうとエルシー。わたくしはあなたを呼び来たのですよ。お客様がいらしていてね」
「お客様ですか? ……わたくしに?」
エルシーが驚くのも無理はない。五歳の時にとある理由からここに捨てられて、十六歳の今日まで、エルシーに会いに来た人間は誰一人もいなかった。
「ええっと……どなたでしょう?」
もしかしたら、この春に就職先が決まって出て行った、ここで共に育った友人だろうか。ちょっぴり期待しながら訊ねると、カリスタは困った顔をして言った。
「それがねえ……、ケイフォード伯爵なのですよ。あなたのお父様の……」
エルシーは思わず、素っ頓狂な声をあげた。
「はい?」
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