第65話 ハチ公、ライバルのせいで苦労する

「そこを、退いて、もらえるかしら? あたし、教室に戻りたいの」


「いいじゃないか。少しだけでいいから、俺と話をしてくれよ。よければこの後、二人っきりでどこか遊びに行くっていうのも――」


「お断りするわ。女子トイレの前で人を出待ちするような変態と二人っきりだなんて、鳥肌が立つもの」


 女子トイレの真ん前で話すこだまと正義だが、話を聞く限りはどうにも一方的な付きまとい以外のなにものでもない気がしてならない。

 どれだけ格好いい男子が相手であろうとも、用を足す間、ずっとトイレの前で待っていられたりなんかしたら、女子としては怖い以外の感想が出てこないだろう。


「そんな、出待ちだなんてしてないよ。偶然、たまたま、ここを通りがかったらこだまくんがトイレから出てくる姿を見かけて、声をかけただけさ」


「そう。でもあんたの事情なんてどうだっていいの。とりあえず、そこを退いて。あたしが言いたいのはそれだけよ」


「おっと、そうはいかない。俺だってこのチャンスは逃したくないからね、少しでいいから話をしようよ」


 見え透いた嘘を言いながら、この場から退散しようとするこだまをブロックする正義。

 そんな彼の態度に苛立ちを募らせているこだまの姿を目にした狛哉は、流石にもう黙っていられないと二人の前に飛び出し、声をかけた。


「あ、あのっ! 鎌谷くん、もう止めなよ。森本さん、困ってるじゃないか」


「うん……? なんだ、誰かと思えば駄犬のハチ公じゃあないか。帰ってくれるかな? 俺は今、君のご主人様と話をしている最中なんだ」


 突如として現れた狛哉を一瞥した正義が吐き捨てるように言う。

 その際、さり気なくこだまとの距離を詰めようとした彼であったが、苛立ちの表情を浮かべた彼女はさっと身を翻してその手を避けてみせた。


「森本さんが望んで鎌谷くんと話がしたいっていうなら、僕も止めないさ。でも、どう見たってそうじゃないでしょう? トイレ前で話しかけられても迷惑だろうし、今はもう止めてよ。ねっ?」


「……ふん、わかったよ。確かにまあ、今回は俺もデリカシーの無い真似をしてしまった。次は森本さんに気持ち良く話してもらえるようなシチュエーションを作って、リベンジさせてもらうよ」


 興が覚めた、とばかりに鼻を鳴らした正義は、忌々し気な表情を浮かべて狛哉を睨んだ後、ようやくこの場から立ち去ってくれた。

 脅威が去ったことにほっと胸を撫で下ろした狛哉であったが、その耳にこだまの低い声が響く。


「来るのが遅いのよ、ハチ! ご主人様のピンチをもっと機敏に感じ取れるようになりなさい!」


「え、ええっ!? そ、そんなこと言われても……」


 若干八つ当たりされている気がしなくもない無茶苦茶なこだまの要求に狼狽する狛哉は、それでも彼女からの叱責を受け入れた。

 もうこういうのも慣れっこだな……と彼が考える中、不意に言葉を区切った彼女がぶすっとした表情のまま、下を指差してみせる。


「んっ……!」


「えっ? あ、しゃがめってことであってる……?」


「そうよ。いいから早くしなさい」


 今度は声のトーンを落とし、静かな声で命令するこだま。

 言われるがままに腰を落とししゃがんだ狛哉は、手を伸ばしてきた彼女に頭を優しく撫でられて、驚きに目を見開いた。


「……来るのが遅くはあったけど、よく来てくれたわ。褒めてあげるわよ、ハチ」


「わ、わふぅ……」


 周囲に人がいないことを確認しつつ、気恥ずかしさにまともに喋ることもできなくなりつつ、こだまからのご褒美に狛哉が小さく呻く。

 やがて手を止めた彼女は、しゃがんでいた狛哉の尻を蹴って彼を立たせると、下から彼の眼を見つめながら口を開いた。


「帰るからとっとと支度をしなさい。それと、次の休日に新入生キャンプに必要な物を買いに行くから、予定を空けておきなさいよね」


「は、はいっ! ……野口くんと赤留さんにも言っておくね。必要な物、買い物に行く前にリストアップしておかないと」


 そういうのは任せる、とばかりに手をひらひらと振って狛哉に応えるこだまが足早に教室へと戻っていく。

 正義のせいでどうにも気が抜けない日々を送る羽目になっているなと本気で困りながら、狛哉もまたご主人様の後を追って大股で教室へと戻るのであった。

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