第52話 ハチ公とご主人様とこれからの二人

 保健室での事件からおよそ一週間後、傷も癒え、後遺症もないと判断された狛哉は無事に退院し、日常生活へと戻ってきた。

 一週間ぶりに登校したその日はクラスメイトたちからの質問攻めにあったが、こだまが上手いこと彼らの相手をし、適当に誤魔化してくれたようだ。


 全ての事情を完全に理解したわけではないが、クラスメイトたちも諸々の事情を汲んであまり狛哉たちを問い詰めないよう方向転換してくれた。

 そのせいで自分に対する妙な噂が広まっている様子でもあったが……そんなことを知る由もない狛哉は、今日も今日とてご主人様であるこだまに振り回されている。


 教室に向かって階段を上る最中、前を歩く彼女に自分の右手を掴まれ、引っ張られている狛哉は、感じている気恥ずかしさを訴えるためにこだまへと声をかけた。


「あの、森本さん? わざわざ僕の手を掴んで引っ張る理由ってあるの? 恥ずかしいし、別にこんなことしなくてもいいんじゃない?」


「だめよ。無事に退院したとはいえ、いつ何が起きるかわからないじゃない。飼い犬がふらふらとどこかに行かないように手綱を握っておくのもご主人様の役目なんだから、あんたは素直にそれに従っていい子にしてなさい」


 ぎゅっ、と小さな手に力を籠め、狛哉の右手を握り締めるこだま。

 これはリードの代わりなのかと、それにしたって他にいい方法があるのではないかと、そう思いながらも言われた通りにしていた狛哉は、誰もいない二人だけの踊り場で不意に彼女からこんなことを言われた。


「それと、ね……この前、病院であんたに言ったことだけど……」


「ああ、あれ? ありがとうって言った時のことでしょ?」


「そう、それよ。いや、大事なのはその後っていうか、大事って言う程のことでもないけど……ああ、もうっ!」


 顔を赤くし、苛立ったように地団駄を踏んだ後、振り返ったこだまが狛哉へと向き合う。

 ほんのりと染まった頬と若干涙ぐんでいる瞳をこちらへと向け、上目遣いで狛哉を見つめる彼女は、多少の脅しを含めた言葉を彼へと投げかけた。


「あの時に言ったっていうのは、犬としてって意味だからね!? ご主人様が愛玩用のペットをかわいがるのと同じで、別にあたしが女の子としてあんたのことがその、好き……ってわけじゃあないんだから!! その辺のことをよ~く理解して、勘違いしないようにしなさいよ! わかった!?」


「あ、はい。大丈夫、わかってるよ。勘違いなんてしない、しない」


「むぐ……っ!? どうしてそんなに余裕なのよ。ハチの癖に……!!」


「あはは、僕だってそこまで馬鹿じゃあないよ。ああいう時、思っていた以上の言葉を口にしちゃうってことも……も、よくわかってるから」


「~~~っ!?」


 少しだけ意味深なその発言は、狛哉にとってはそう深い意味を持つ言葉というわけではなかった。

 あの時のこだまは感情が上手く制御できず、心の内側にある想いを必要以上に増幅して言葉にしてしまったのだろうというある種の気遣いを込めた発言であったのだが……彼女はそれを、こう受け取ったようだ。


 お前は素直になれないだけで、犬である僕のことが大好きなのはわかってる。

 今も正直にその気持ちを伝えるのが恥ずかしいから、敢えてひねくれた言い方をしているんだろう……と。


 それはとんでもない思い違いで、本当に狛哉はこだまが自分をともだちとして好いてくれていると考えていることも含めて、両者の間には結構な大きさの認知の差が存在しているのだが、今回の被害者はこだまの方であるようだ。

 一気に顔を赤くした彼女は、繋いでいた手を振りほどくと、きゃんきゃんと吼えるような声で叫ぶ。


「む、ムカつくっ! ハチのくせに、あたしに飼われてる犬のくせに、なんでそんなに上から目線なのよっ!?」


「ええっ!? ぼ、僕、そんなつもりないんだけど……!?」


「嘘つくんじゃないわよ! 今現在もそうやってあたしのことを上から見下してるじゃない!」


「いや、それは僕と森本さんに身長差がある以上、仕方がないことでしょ!?」


 何故だか一気に不機嫌になり、理不尽にも程がある物言いをつけてきたこだまへと狼狽しながらもツッコミを入れる狛哉。

 そんな彼の言葉に何も言えなくなったこだまは、む~っと肩を震わせながら怒りを示した後、唐突に階段を駆け上がり始めた。


「ほらっ! これでどう? あんたよりも背が高くなったわよ!?」


 一段、二段、三弾……と、一気に階段を半分以上駆け上がったこだまが振り返り、得意気に腕を組みながら狛哉へと言う。

 堂々と仁王立ちし、階段の段差を利用して彼との身長差を覆してみせた彼女であったが……それが生み出す弊害には気が付いていないようだ。


「あ、あの、森本さん……」 


「何よ!? っていうか、目を逸らしてないでこっちを見なさい! あんたよりも上にいるご主人様の姿を見て、敬意を深め――」


「……、その、あれが」


「――は? ~~~っ!?」


 自分の言葉を遮るようにして絞り出した狛哉の呟きを耳にしたこだまは、自分が履いている短いスカートと、階段の上にいる自分を見上げる状態になっている狛哉との位置関係を確認してその発言の意味を理解すると共に再び顔を真っ赤にした。

 そして、自分と同じく顔を赤くしている狛哉へと鋭い視線を向けると、羞恥と怒りの感情を込めた声で彼を問い詰めていく。


「ハ~チ~……! あんた、見たわね?」


「いや、だってしょうがないじゃない! ほぼ不意打ちだったし、別に見ようと思って見たわけじゃあ……!!」


「うっさい、エロハチ! 毎回毎回デリカシーがないってその都度注意してるのに、あんたって駄犬はまた今回も、きゃあっ!?」


「あ、危ないっ!!」


 下着を見られた恥ずかしさを誤魔化すように強く狛哉に当たっていたこだまであったが、その怒気を強め過ぎたせいか階段を降りる最中に足を滑らせてしまった。

 前のめりに倒れ、階段から落下しそうになった彼女を素早い動きで受け止めた狛哉は、そのままこだまを抱き締めながら数歩後退っていく。


「おっ、とと……!」


 とん、とん……と足踏みをして、バランスを整える狛哉。

 倒れることもなく、お互いに怪我をすることもなく自分を助けてくれた彼へと、落ち着きを取り戻したこだまが小声で言う。


「あ、ありがと、ハチ……」


「どういたしまして、森本さん」


 少し口ごもりながらも素直に感謝の言葉を述べたこだまが恥ずかしそうに視線を逸らす。

 彼女の小さな体を抱き締めたまま、その表情を見つめていた狛哉は、この数週間で作り上げたこだまとの不思議な関係を想いながら小さく笑みを浮かべる。


 あの日、登校中のバスの中で痴漢に遭っていた彼女を助けた時、こんな未来が待ち受けているだなんて想像もしていなかった。

 その後で奇跡的な再会を果たして、いつの間にか犬として彼女の命令に従う立場になって、二人で下校したり、デートをしたりして距離を縮めて、彼女の弱い部分を受け止められる存在になった。

 そして今、素直になれないこだまから素直に感謝をしてもらえる相手になった狛哉は、それが一か月にも満たない期間で構築された関係であることを思い出して苦笑する。


 もう少ししたら、もっと沢山の人たちと関わるようになって、こだまが自分なんかよりも格好いい男子と出会ったりしたら終わりを迎える関係だと思っていたが……どうやらそれは勘違いだったようだ。

 多分、きっと、絶対……この小さくて我がままなご主人様との関係はこれからも続いていく。

 自分が彼女に相応しい名犬になれるかどうかは狛哉のこれからにかかっているのだと考える彼へと、顔を赤く染めながらこちらを向いたこだまが普段通りの口調で言った。


「いつまであたしを抱き締めてるつもりよ? さっきからずっとお尻を触ってるし、いい加減に放しなさいって」


「あっ!? ご、ごめんっ! わざとじゃあないんだ!」


「わかってるからぶっ飛ばさないで注意してあげたんでしょう? その辺のことも踏まえて発言しなさいよ、バカハチ」


 自分を抱き締めながらデリケートな部分を触り続けていた狛哉を叱責するこだま。

 慌てて彼女を放した狛哉は、改めて手で触れていた丸くて大きなお尻だとか、密着していた際に感じたこだまの胸の感触を思い返すと共に不埒なその考えを大急ぎで頭の中から弾き飛ばす。


 彼と同じく、諸々の恥ずかしさや自分のやらかしを上手いこと脳内から消去したこだまは、ずいっと狛哉へと詰め寄ると威厳ある(と本人は思っている)振る舞いと口調で愛犬へと躾のための言い聞かせを行った。


「パンツを見たことも、あたしを抱き締めたことも、お尻を思いっきり揉んだことも、今回はあんたの働きに免じて許してあげる。だけど、本来ならばどれか一つでもやらかしたらボッコボコにされるくらいの行為だってことは覚えておきなさい。次はただじゃおかないからね! わかった!?」


「は、はいっ!」


 主の寛大な処置に感謝しつつ、背筋を伸ばして返事をする狛哉。

 こだまはそんな彼の反応にふんっ、と鼻を鳴らした後……そっと、右手を掴んで歩き出した。


「……優しくて心の広いご主人様に感謝しなさいよね、ハチ。それで、その……これからも、あたしから離れるんじゃないわよ。ずっとずっと、あたしの傍に居続けなさい。わかった?」


 繋いだ手からこだまの不安気な感情が伝わってくる。

 不器用でかわいい主からの言葉を受け、その胸中にある想いを汲み取った狛哉は、こちらを振り向かない彼女へといつも通りの返事をしてみせた。


「わんっ!」


「……そうよ、それでいいの。あんたはあたしの犬、あたしだけのハチなんだから。これからもあたしの命令にははいかYESかワンで返事をし続けなさいよね」


 強気で、我がままで、傍若無人な口振り。

 だけどその背中は口よりもものを言っていて、彼女の左手もまた嬉しそうに自分の手を握る力を強めている。


 こんなふうに必要とされて、大切に想ってもらえるのならば、犬になるのも悪くない。

 もう暫く……いや、命令に従うのであれば、こだまが望む限り、自分は彼女の犬として傍に居続けよう。


 ありがとうと、大好き。その二つの言葉をこだまに言ってもらえるだけで、自分は何だってできるような気がする。


 友人とも恋人とも少し違う、飼い犬とご主人様という不思議な関係……これから先、自分たちはどうなっていくのだろうか?

 未来にちょっとだけ期待して胸を膨らませながら、嬉しそうに自分の手を握るこだまの後ろ姿を見つめながら、彼女の愛犬であるハチ公こと狛哉は、静かに笑みを浮かべて自分たちのこれからの思いを馳せるのであった。




―――――――――――――――


ここまでこの小説を読んでくださり、本当にありがとうございます。

『(自称)ご主人様は僕にだけデレてくれる』(一応)完結です。


十万文字くらいのラブコメを書く、と決めて数か月かけて書き上げた本作ですが、新しいジャンルに挑戦する難しさを実感しました。

色んな人からのアドバイスのお陰で何とか形にはなりましたが、やっぱり難しいものですね。


感想返信もまともにできず申し訳ない気持ちでいっぱいではありましたが、頂いた感想は全て目を通させていただいております。

「キャラクターが魅力的に書けているかな?」とか、「ラブコメとしての甘さはどうかな?」といった不安もありましたが、そういった部分に関しての参考となる意見を沢山いただけて嬉しかったです。


改めて、本当にありがとうございました。


完結とは言っていますがまだ書きたいネタなんかもありますし、続きが書きたくなるような気もするので完全なる終わりにはしないでおこうと思います。

曲がりなりにも長編のラブコメを一つの区切りになるまで書きあげられたことで得たものもあったでしょうし、それを本作だけでなく他の小説にも活かしていけたらなと思っております。


よろしければですが、こんな展開のお話が見たい! というご要望があれば感想欄でお聞かせいただけると幸いです。

ラブコメも異世界・現代ファンタジーもまだまだ手探りで書いている状態なので、読者さんからの声というのはとても参考になります。


長々とあとがきを書いてしまいましたが、一番言いたいのは最初に書いた通りのことです。

ここまでこの小説を読んでくださってありがとうございました。

また次もよろしくお願いいたします。

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