第49話 ご主人様、ハチ公のお見舞いに行く
……それからの出来事を、こだまははっきりと覚えてはいない。
彼女が自分の状況や事件の概要についてを理解し始めたのは、全てが終わって少し経った頃だった。
保健室での事件の後、犯人である保険医は警察に引き渡され、即座に逮捕された。
彼女もまた件の掲示板サイトの利用者であり、こだまの写真をサイトにアップしたのは、他ならぬ彼女であったそうだ。
こだまが体操服を借りに保健室を訪れたあの日、彼女はこだまに一目惚れしてしまったという。
元々、若い女性に対して劣情を抱く性格であった保険医は、自身の好みそのものである少女であるこだまに対しての興奮が押さえられなくなり、衝動的に帰宅中の彼女の写真を盗撮してしまった。
それだけに飽き足らず、欲望の歯止めが利かなくなった彼女は、この写真と学校周辺で起きている盗撮事件を利用し、こだまを我が物にするための計画を立案し実行に移し始めた。
サイトのこだまの写真をアップし、サイト住人たちの興味を向けさせ、彼らの熱を煽ることで盗撮の被害を横行させる。
そうしたら後は待つだけだ。彼女は、警察や学校が動いて変態たちの動きが沈静化するまで事態を静観していればいい。
サイトが閉鎖され、盗撮犯たちが捕まったとなれば、その標的となっていた女子生徒たちは安堵すると共に警戒を緩める。
そうして安心しきったところでこだまを呼び出し、彼女の弱味を握ることで強引に事に及んでしまおうという、
あの時、狛哉が保健室に飛び込んで来なければ、全てが上手くいっていたかもしれない。
こだまの下着姿を盗撮し、それをネタに彼女を脅して……そうやって自分があの女の言いなりになってしまった末路を想像したこだまは、身震いするような恐怖を覚えると共にその考えを頭の中から追い出した。
当然ながら、保険医は学校側からクビを言い渡され、今は警察に身柄を拘束されている。
突然の事態と学校にやって来たパトカーを見た生徒たちは、いったい何があったのかと話し合っているようだが……こだまには、そんなことどうだってよかった。
彼女が気にしているのは自身の恩人であり、自分を守るために保険医から苛烈な暴力を受けた狛哉の容態で、担ぎ込まれた病院で命に別状はないという報告を受けた時には、安堵のあまり腰が抜けてしまったことを覚えている。
どうやら、彼の容態はこだまが思っているよりも軽傷で、頭から流れていた傷も額を少し切っただけで何も心配いらないくらいのものらしい。
一応、頭を強く打ったことを不安視されていることや、全身の打撲の治療もあるということで入院措置が取られたが、今はすっかり意識を取り戻して元気になっている。
事件から数日が経ち、それに巻き込まれた人々が少しずつ日常を取り戻し始めた頃……こだまは、狛哉が入院している病院を訪れていた。
理由は当然、彼のお見舞い。ここ数日は事情聴取やらなんやらで彼女も忙しく、事件で受けた精神的なショックも大きかったために意識を回復させた彼と話をできずにいたが、気にしていないなんてことはなく、むしろその逆だ。
狛哉は今、どうしているだろうか? 後遺症の心配もなく、順調に回復してくれているだろうか?
色んなことを考えながら歩き続けたこだまは、気が付くと彼に割り当てられた個室の扉の前に立っていた。
白く、大きく、綺麗な扉。それを目の前にしたこだまが、自分を落ち着かせるように深呼吸を行う。
大きく息を吸い、吐いて……顔を上げた彼女は、意を決し、右手を上げ、汚れのない清潔な扉をノックする。
ややあって、扉の向こう側から聞こえてきた狛哉の返事を聞いた彼女は、ドアの取っ手を掴むとそれをスライドさせ、部屋の中へと入っていった。
「……お邪魔します」
「ああ、森本さん。わざわざお見舞いに来てくれたんだ、ありがとう」
「……来るに決まってんじゃない、バカハチ。あんなことがあって、あたしが一切心配しないとでも思ってるの?」
ぺたりと額に大きなガーゼを貼った狛哉は、事件当時の姿が嘘であるかのように元気で明るい姿を見せている。
そんな彼の姿を見て、安心するやら腹が立つやらの複雑な感情を抱えたこだまは吐き捨てるようにしてそう言うと、彼が寝ているベッドの横にある椅子へと腰を下ろした。
「学校、どうなってる? 結構な騒ぎになってるんじゃない?」
「あたしもよくはわからないわよ。ただ、やっぱり噂にはなってるわね。詳しい事件の内容は広まってないみたいだけど……あの保険医がクビになるような犯罪に手を染めたってことだけは学校の連中もわかってるみたい」
そっか、とこだまの話に軽い反応を見せる狛哉。
こだまの方もそれ以上は学校の状況を語ろうとはせず、押し黙ってしまう。
夕日が差し込む病室に、暫し無言の空気が流れる中……こだまは、何よりも気にしていたことを狛哉へと問いかけた。
「怪我は大丈夫なの? 変な気分になったりとか、具合が悪くなったりしてない?」
「平気だよ、何ともない。血がいっぱい出てたように見えたけど、傷自体は全然浅かったしさ。蹴られた体も打撲だけで、骨折とかまではいってなかったから。病院とか学校の人がうるさいから入院してるだけで、今すぐに退院しても大丈夫なくらいだよ」
「ダメよ、そんなの! 頭を思いっきり殴られたのよ? いつ、どんな影響が出るかわからないじゃない! 今は病院の先生の指示に従って、安静にしてなさい! これ以上、あたしを心配させないでよ……!」
からからと笑いながら、彼女を心配させないように明るい口調でそう答える狛哉であったが、こだまはそんな彼の回答に悲痛な表情を浮かべて叫ぶようにして抗議する。
今にも泣き出しそうなこだまの顔を見た狛哉は、彼女が自分のことを強く心配してくれていることを感じ取ると、目を伏せながら謝罪の言葉を口にした。
「……ごめん。ちょっと、デリカシーがなかった」
「本当に、その通りよ……! ずっとずっとそう叱ってるじゃない、バカ……!!」
彼を叱る際についつい立ち上がってしまったこだまが、力なく椅子へと身を預ける。
再び、気まずい沈黙が流れる中、顔を伏せていたこだまがぽつりともう一つの気になっていたことを狛哉へと尋ねた。
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