第二章 勝利の先へ

 サンブールの戦いから数週間。グラーセン国内は喜びの声に満ちていた。サンブールでのグラーセン軍の勝利は、それまでの暗い空気を一掃し、人々の間に戸惑いや恐怖といったものはなくなっていた。


 サンブールでの戦いの後、グラーセン軍はさらに進軍を続けた。その間も小規模ではあるが、アンネル軍との間で戦闘が起き、その全てでグラーセン軍は勝利を重ねた。


 連戦連勝。その報せに国内は大きく沸いた。新聞は大げさなほどに軍の勝利を称賛し、国民はその新聞を我先にと争うように買い求めた。


 それらは戦局にはほとんど影響のない戦いだが、勝利という言葉ほど甘美な響きはない。国民からはさらなる勝利を求める声が上がり、軍はそれに応えるように進軍を続けた。


 グラーセンは今、世界で一番幸福な国となっていた。



「少し前まで意気消沈していたのに、大衆というのは不思議なものだな」


 そんなことを呟きながら、クラウスは呆れ笑いを浮かべていた。机を挟んで対面に座っていたユリカも、クラウスに同意するように微笑みを浮かべた。


 その日、いつものように朝食を共にするクラウスたち。その間、クラウスは手元の新聞に目を通していた。新聞には軍の勝利を称賛する言葉が躍り、国民は新聞が伝える軍の活躍に胸躍らせていた。


 この数週間、クラウスたちが街に出ると、市民の誰もが歓呼の声を上げていた。我がグラーセンに敵なし。グラーセンこそ世界最強と、歌うように歓声を上げる姿が見られた。


 その大人たちに混じって、子供たちが可愛い声で行進曲を歌い、街を練り歩く姿もあった。


 そんな街の熱狂をクラウスは複雑な気分で見ていた。


「海軍の敗北でみんな戦いを恐れていたのに、それが一回の勝利で大きく変わるんだ。ありがたいことだが、少し複雑な気分だな」


「いいことじゃない。暗い気分でいるより、嬉しい方がいいに決まっているわ」


 ユリカの言う通りではあるが、やはりクラウスは複雑な心境だった。軍の勝利は彼にとっても嬉しいことだが、こんな簡単に風向きが変わる世論というものに、クラウスは呆れてしまうのだった。


 しかも大衆からはさらなる勝利を求める声が上がっているという。勝利がどれほど貴重で難しいものか、それがわからない大衆は簡単に勝利を求める。軍や政府の苦労を思うと、クラウスは苦笑いを浮かべるのだった。


「世論や大衆を相手にするのは、骨が折れるものなのだな」


 クラウスがそう呟くと、ユリカも苦笑いを浮かべた。


「仕方ないわよ。誰だって嫌なニュースよりも嬉しいニュースの方が聞きたいに決まっているわ」


 ユリカはそう言って、ナイフを手元に置いた。


「どうした? もう食べないのか?」


「ええ、もうお腹いっぱいだわ」


 ユリカの様子に首を傾げるクラウス。食欲がないのか、ユリカならもう少し食べてもいいはずだ。ユリカの様子がクラウスは気になるのだった。


 その時、ドアをノックする音が響いた。ユリカが返事をすると、将校が一人入ってきた。


「失礼します。クラビッツ少将がお二人をお呼びです。お食事が済んだら部屋まで来るようにとのことです」


「少将が?」


 クラビッツから直々に呼ばれるというのも珍しかった。最近はクラビッツも忙しく、話す機会もなかった。そんなクラビッツからの呼び出し。ユリカが伝令に来た将校にお礼を伝えた。


「ありがとうございます。後ほど閣下の部屋まで行きますわ」


 ユリカに敬礼を示し、将校は部屋から退室していく。後に残された二人はお互いに顔を見合わせた。


「閣下から呼び出し、か」


「何か用かしらね?」


 何か危険な任務でも言い渡されるのではないかと、クラウスはつい身構えてしまう。


 そんなクラウスの心配を察したのか、ユリカがクスクスと笑った。


「あら、どうしたの? 閣下がそんなに怖いのかしら?」


「いや、そういうわけではないが……」


 あのクラビッツを相手にするのだ。緊張しない方が無理な話だ。


 しかし、考えても仕方のないことだった。クラビッツを待たせるわけにもいかない。クラウスたちは食事を済ませて、そのままクラビッツの所まで向かうのだった。



「急に呼び出してすまない。よく来てくれた」


 二人を迎えたクラビッツはそんな風に呟いた。本当に申し訳ないと思っているのか、無機質な表情はいつものこと。もう慣れてしまったクラウスたちも挨拶を返した。


「いえ、大丈夫です。何か我々に命令でもあるのでしょうか?」


 つい身構えてしまうクラウス。その問いにクラビッツは首を横に振った。


「いや、そういうわけではない。実はスタール宰相が君たちに、屋敷に来てほしいと連絡が来たのだ」


「スタール閣下が?」


 思わず訊き返すクラウス。意外な人物の名前に首を傾げるクラウス。何か特別な用事でもあるのだろうか?


「君は何か心当たりはあるか?」


 クラウスは横にいたユリカに問いかけた。ただ彼女にもその問いに答えることは出来なかった。


「さあ? もしかしたら、サンブールの勝利を一緒にお祝いしたいんじゃないかしら?」


 ユリカが軽口を返す。あのスタールのことを考えると、あり得ない話ではなかった。クラウスはつい苦笑いを浮かべた。


「少将もあの後、勝利の美酒を楽しまれたのではないですか?」


 ユリカがクラビッツに声をかけると、そのクラビッツは特に笑いもせず、ただ静かに口を開いた。


「まあ、確かに若い奴らはパーティーを開いたりハメを外したりしていたな。だが、浮かれてばかりもいられない、というのが私の本音だ」


 粛々と語るクラビッツの言葉。それは賢者の言葉であり、重みのある言葉だった。


「それは、どういう意味でしょうか?」


「確かにサンブールの戦いは、我が軍の勝利に終わった。ただ、あの戦いで敵軍を殲滅することは叶わず、ただ撃退しただけというのが真実だ。我々はあそこで敵軍を包囲殲滅することが目標だった。だが敵は殲滅を免れ、戦力を保持したまま後方への撤退に成功した。掴み取った勝利というより、敵が落とした勝利を拾い上げたというのが正しいだろう」


 クラビッツの言うとおり、あの戦いはグラーセン軍の勝利で終わったが、敵軍を殲滅することは出来なかった。あの戦いは敵の攻撃を跳ね返しただけであり、依然として敵が脅威であることに変わりはなかった。


「それに、この戦いで数百人の将兵を失った。負傷者も合わせれば千人以上の死傷者だ。果たしてこの勝利は、その数字に見合う価値があるのか、甚だ疑問だ」


 クラビッツの言葉にクラウスは押し黙ってしまった。


 サンブールの戦いは敵味方合わせて数千の死傷者を出した。大規模な戦いとしては、この数字は決して大きなものではない。


 しかし、サンブールでは数時間の戦いで、それだけの数の人間が死んだのだ。一人の人間の死は誰にとっても悲劇だ。サンブールでの数時間は、それだけの数の悲劇を生み出したのだ。


 だが、世間はそんな悲劇を悲しむよりも、勝利を喜ぶ声に満ちていた。


「普段は誰もが戦争を恐れているのに、戦争が始まれば誰かが死ぬのが当たり前になる。世界というのは不思議なものだな」


 やれやれと首を振るクラビッツ。きっと彼のような者しかわからぬ境地なのだろう。多くの命を預かる者として、これほど世界の矛盾を目の当たりにしては、色々思うところもあるに違いない。


 その時、クラウスが横を見ると、ユリカがじっと押し黙っていた。


 いや、押し黙っているというより、何かをこらえているような、そんな雰囲気を出していた。


 その顔はどこか苦しそうで、何かに耐えているような表情だった。


 クラビッツの話を聞いて、彼女も思うところがあるのだろうか。クラウスはそんな風に思った。


「どちらにせよ、この戦いで一番利益を得たのは、我らが政府と新聞社だろうな。この小さな勝利を大々的に称賛することで、新聞は売り上げを記録的に伸ばし、政府は国民世論の支持を取り付けることに成功した。これで晴れて我が軍も、国民と政府の期待に応えることに成功したわけだ」


 皮肉交じりに語るクラビッツ。軍事を預かる者としては、そんなことを言いたくなる現実なのだろう。世論が勝利に沸く中で、その横では多くの将兵の命が散っている。彼の目に見える世界は、どんな色をしているのだろうか。


 しばらく押し黙った後、クラビッツが顔を上げた。


「次はあまり損害を出さずに勝ちたいものだな」


 すでに意識を切り替えたのか、いつもと同じ無機質な表情のクラビッツがそこにいた。その顔に何故かホッとするクラウスだった。


「そういえば陸軍はこれからどのような作戦を? やはり最終的には首都・マールの占領が目標でしょうか?」


 戦争において陸軍の最大の目標は、敵国首都の占領であることが多い。歴史的に首都を陥落されて敗北した国は少なくない。グラーセン軍の目標もそうだろうとクラウスは思っていた。だがクラビッツはそうではないと首を横に振った。


「いや、確かに最終的にはマールの占領が目標となる。しかしその前に我が軍は、ロレーヌ要塞を攻略することが必要だ。すでに前線部隊にはロレーヌ要塞へ進軍を命じてある」


 ロレーヌ要塞。それはアンネルの首都・マールに至る街道に設置された要塞であり、難攻不落とされた絶対の守護者であった。


 ロレーヌ要塞はアンネルが経験した戦争で幾度も戦場となった。かつて皇帝戦争での戦いでも、グラーセンやクロイツ帝国もこの要塞を攻略しようとしたが、要塞はその全てを撃退して見せた。


「なるほど、ロレーヌ要塞ですか……」


 クラビッツの説明にクラウスも頷く。


 ロレーヌにある街道は首都・マールに伸びており、ここを守り通すことができなければ、マールを守るものがなくなることになる。


 大げなことを言えば、ロレーヌ要塞を攻略すれば戦争に勝利できるとも言えた。


「そうだ。さらに言えば、サンブールで戦った敵部隊は、どうやらロレーヌ要塞に向かって後退していると報告があった」


「敵軍が要塞へ?」


「そうだ。我が軍としては要塞に籠られるのを黙って見ているわけにはいかない。敵が要塞に入り込む前にこれを追撃・補足して野戦で殲滅しなければならない。そのまま要塞の攻略に向かうのが我々の計画だ」


 確かに要塞に逃げ込まれれば、それだけ敵を攻略するのは難しくなる。グラーセン軍は後退した敵が要塞に入る前に野戦でこれを撃破しないといけなかった。


 その時、ユリカが疑問を投げかけた。


「閣下。その後退した敵部隊を要塞に入る前に捕捉することは可能なのでしょうか? それに要塞側から援軍が来るのではないでしょうか?」


「問題ない。我が軍の進軍速度なら、敵が要塞に入る前に野戦を仕掛けることができるだろう。その戦闘が予定される地域ならば、要塞側から援軍が出ても距離的に間に合うことはないはずだ。我々の進軍速度なら各個撃破が可能だろう」


 実際グラーセン軍の進軍速度は驚異的であり、それまでの軍事常識を覆す速さで進攻していた。その速度をもってすれば、敵軍の捕捉は可能だった。


 クラビッツの話を聞いて、クラウスは感心したように頷いた。これほどまでに洗練された作戦計画。それを可能とする軍の統率と練度。史上最強の軍隊と言ってもいいかもしれなかった。


「なるほど、上手くいけば我々は勝利できますね」


 そんなことを浮かれ気味に呟くクラウス。すると、クラビッツが小さく溜息を吐いた。


「上手くいけば、だがな」


 その呟きにクラウスは首を傾げる。まだクラビッツには不安要素があるのだろうか?


「閣下には何か、懸念とする事があるのでしょうか?」


「懸念など、数えればキリがない。どれだけ完璧な作戦を立てても、どれだけ戦いが上手くいっても、世界は容易にこちらの思惑を踏みにじってくるものだ。神の非情な采配か、もしくは運命と呼ぶべきか。戦争というのは、必ずどこかで躓くものだ。私が考える作戦など、児戯にも等しいのかもしれないな」


 クラビッツにしては珍しく、自嘲気味な呟きだった。


 どれほど強大な軍隊であっても、世界を変えた英雄であっても、彼らは戦場で予想できない事態に躓いたことがある。そのことを歴史は証明している。


「あのゲトリクス皇帝ですら無敗ではいられなかったのだ。私ごときが戦争を手玉に取るなど、あり得んことだ」


 世界を制覇したゲトリクス皇帝も、最後には敗北を喫し、皇帝の座から降りることになった。当時は誰もが信じられなかっただろう。


 クラビッツの呟きを前に、クラウスは何も言うことができなかった。


 それは隣にいたユリカも同じだった。



「少将ほどの御方でも、あのようなことを仰るのだな」


 廊下を歩きながら、クラウスはそんなことを呟いた。世界の全てを駒として数え、利用できるものは全て利用する。そんな印象を持つクラビッツが、自らの無力さを自覚していた。それはクラウスにとって不思議な光景であった。


「あら? そうかしら?」


 そんなクラウスの呟きを聞いていたユリカは、彼の言葉に異を唱えた。


「むしろ少将らしいって私は思うわよ。閣下は過大評価も過小評価もしない。あの人はあるがままを、目の前の真実を正確に把握する。そのためなら自分の力が及ばないことも認め、その上でどうするべきかを考えることができる人よ。だからこそ、閣下を敵に回すのは恐ろしいのよ」


 ユリカの言葉になるほどと、クラウスは頷いた。


 クラビッツもユリカたちと同じ人間であり、万能ではないのだ。クラビッツが他と違うのは、誰よりもそのことを自覚し、それを計算した上で現実を書き換えようとするところだ。


 クラビッツが敵でなくてよかった。改めてそう思うクラウスだった。


「それより、早くおじい様の所へ急ぎましょう。どんな用事かわからないけど、わざわざ呼び出すくらいだから、何か特別な用事かも知れないわ」


 スタールから呼び出されたクラウスたち。戦争が始まっている状況なのだ。何か特別な任務でも言われるのかもしれない。


「どうしたの? また何か無理難題を言われると思っているのかしら?」


 クラウスの不安を察したのか、ユリカがいつもの意地悪な笑みを向けてきた。


「まあな。不安にもなるさ。特に戦争が始まっている状況だ。危険な任務とかあるかもしれない。あまり乗り気になれるものではないさ」


 今までも色々なことがあった。命の危険さえあった。そのことを思うと、クラウスもつい不安になってしまうのだ。


 すると、そんな彼を見て、ユリカがニンマリと笑った。


「そう? 私はむしろ楽しみだわ。またあなたと冒険ができると思うと、ワクワクするもの」


 クラウスが隣にいるユリカを見た。ユリカは満面の笑みを浮かべており、どこか楽しそうな雰囲気を出していた。


「今まで一緒に冒険をしてきたけど、どれも素敵な冒険だったわ。今度はどんな任務があるのか、楽しみで仕方ないわ」


「おいおい。危険な任務かも知れないんだぞ」


 呆れ気味に語り掛けるクラウスだが、そんな彼にユリカはにっこりと笑みを向けてきた。


「そうね。でも、どんなに危険なことがあっても、あなたと一緒なら大丈夫。自分でも不思議だけど、そんな風に思えるのよ」


 クラウスがユリカを見つめる。そこには嘘やお世辞はない。ユリカは本当にそう思っているのだとわかった。


 どうして自分にそこまでの信頼を抱けるのか? クラウスは疑問に思った。


 しかし、それ以上にクラウスは誇らしく思った。彼女にこれほどの信頼を持ってもらえるというのは、それだけで自分に自信が持てた。


 ただ、それを言葉にするのは悔しいので、彼は笑いながら呟いた。


「お嬢様の信頼をいただけるとは、身に余る名誉だよ」


 その言葉にユリカはただ微笑みを浮かべた。


 この名誉に恥じぬよう、彼女の隣を歩き続けなければならない。クラウスはそんな風に考えるのだった。



 参謀本部を出た二人は、そのままスタールの屋敷へ向かった。屋敷は相変わらずの威容を見せつけながら、クラウスたちを迎えてくれた。


 すっかり顔馴染みになった女給に案内され、クラウスたちは一番奥の部屋に案内された。


 クラウスがドアをノックすると、奥から入室を促す声が聞こえた。クラウスはそれに応えるようにドアを開いた。


「失礼します。閣下」


 クラウスとユリカが中に入る。その二人を屋敷の主人が笑顔で迎えてくれた。


「やあ、クラウスくん。それにユリカもよく来てくれた」


 大きく手を広げて迎えてくれるスタール。その姿にクラウスたちもほっとするのだった。


「おじい様。今日は何か用事があるようですが、何かありましたの?」


「ああ。実は今日は大事な商談があってね。君たちにも来てほしくて呼んだのだよ」


「商談、ですか?」


 首を傾げるクラウス。自分たちに用事があると思っていたのに、それがスタールの商談に立ち会ってほしいというのは、腑に落ちない話だ。ユリカも不思議そうな顔をしていた。


「閣下。どんな商談かわかりませんが、私たちがいても意味がないと思いますが?」


「いや、実はその商談相手は君たちもよく知る人で、ぜひ君たちと会いたいと願っていてね。せっかくの機会だし、再会を楽しんでもらいたくてね」


「私たちも知っている、ですか?」


 一体誰だろうか? クラウスには心当たりがなかった。怪訝に思っていると、誰かがドアをノックしてきた。


「やあ、入ってくれ」


 スタールの声に応じてドアが開かれる。そうしてそこに表れた人物の姿を見て、クラウスもユリカも口を開いて驚いた。


「お久しゅうございます。クラウス様にユリカ様」


 そう言って、仮面のメイドが凛とした声で挨拶してきた。その横では一人の紳士が微笑みを浮かべながら、二人の顔を見つめてきた。


「お久しぶりです。クラウスさんにユリカさん。アスタボ以来ですね」


 そこにいたのは武器商人・シチョフと、彼に仕える仮面のメイド、サンドラだった。



 以前クラウスとユリカは、東の大国・アスタボ帝国へ行ったことがある。目的はアンネルとの戦争に備え、グラーセンとアスタボとの間に不可侵条約を結ぶためだった。その時、クラウスたちはアスタボ皇帝暗殺未遂事件に巻き込まれ、皇帝フォードルに中立を取り付けるために事件の解決を申し出た。


 その時、事件解決に協力してくれたのが、目の前にいるアスタボの武器商人・シチョフと、彼に仕えるメイドのサンドラだった。


 その二人がスタールの屋敷に来ている。想像もしていなかった相手の姿に、クラウスたちは大いに驚いた。


 椅子に座るシチョフと彼の横に控えるサンドラ。シチョフは宰相・スタールに笑みを向けながら口を開いた。


「失礼。こちらのサンドラは事情により仮面を着けさせております。職業柄、素顔を晒させたくないのです。閣下を前に無礼とは思いますが、ご容赦願います」


 シチョフの横で一礼するサンドラ。確かに武器商人という危険な仕事をしていれば、顔を晒すのは安全とは言えないだろう。


 そんなシチョフの言葉に、スタールは嫌な顔せず笑みを返した。


「かまわないよ。あのジョミニ商会の当主が直々に会いに来てくれたのだ。お会いできて光栄だ」


 シチョフに会えたのが本当に嬉しいのだろう。スタールが大きな体を揺すって笑った。そんな彼の反応にシチョフも愉快そうに笑った。


「噂には聞いていましたが、宰相閣下は本当に面白い御方ですね。まさか私のような一介の武器商人を屋敷に招いてくれるとは、驚きましたよ。我が商会、我が一族にとって歴史に残る瞬間となるでしょう」


 宰相府に呼べないのは仕方ないにせよ、スタールの邸宅に武器商人が招かれるというのも、考えられないことだろう。ジョミニ商会も大規模な商会とは言え、それでもスタールと直接会うことができるというのは、シチョフ自身も信じられないことだった。


「君にはユリカたちが世話になったと聞いている。恩人に対して礼を尽くすのは当然のことだ。それに宰相府のような殺風景な場所で友人と語り合うのはつまらないだろう? 久しぶりの再会なのだ。楽しんでほしい」


 そう言ってユリカたちに視線を送るスタール。彼はクラウスたちとシチョフたちに再会を楽しんでほしいと思い、邸宅にシチョフたちを招いたようだった。


 その心遣いがありがたいのか、シチョフは静かに笑った。


「あの、それでどうしてお二人はグラーセンに来たのですか?」


 その時、クラウスが話に入ってきた。シチョフたちがここに来た理由を問いかけると、シチョフが胸元から一枚の手紙を取り出した。


「アスタボでお嬢様と交わした取引を履行しに来ました。我がジョミニ商会とグラーセン政府による独占契約。約束通り契約しに来ましたよ」


 シチョフが手にしている手紙には、ハルトブルク家の家紋入りの印があった。その家紋を見て、クラウスはアスタボでの出来事を思い出した。


 皇帝暗殺未遂事件のためにシチョフの協力を得たクラウスたち。その時、ユリカはグラーセンとジョミニ商会との間に、武器の独占売買契約を持ち掛けた。グラーセンとアンネルとの間に戦争が起きた時、ジョミニ商会にグラーセンへの武器供与をしてもらうこと。さらにジョミニ商会にはアンネルに武器を売らないよう持ちかけたのだ。その時、ユリカが手渡したのが、シチョフが手にしている家紋入りの手紙だった。


 シチョフはその申し出を快諾し、こうしてスタールの屋敷へ商談にやって来たわけである。


「約束通り戦争が起きたので、こうして取引に来ました。もちろんアンネルには武器は売らず、グラーセンとのみ取引する所存です」


 ユリカとの約束を守ることを宣言するシチョフ。その堂々とした態度にスタールは満足そうに笑った。


「ありがたい。我が軍も大量の兵器を必要としている。あればあるだけ買い取らせてほしい」


「こちらもありがたい話です。サンブールの勝利で戦時国債も売れていることでしょう。遠慮はしませんよ」


 ニヤリと笑うシチョフ。狼みたいな商人の笑みに、スタールも似たような笑みを向けてきた。


「いいだろう。楽しい商談になりそうで嬉しいよ」


 そんな風に笑みを交わすスタールとシチョフ。それをユリカも愉快そうに見つめていた。


 ただクラウスだけは別だった。そんな大事な商談を前に自分たちがここにいていいのか、心臓が締め付けれている気分だった。


「あの、閣下。私たちを呼んでくれてありがたいですが、そんな大事な商談に私たちがいては邪魔ではないですか?」


 そんなことを問いかけるクラウスだが、しかしスタールは首を横に振った。


「いや、君たちにはぜひここにいてほしい。というより、君たちにも話を聞いてほしいのだよ」


 スタールの答えに首を傾げるクラウス。話を聞いてほしいとは、何かあるのだろうか? 真意を測りかねるクラウスだが、そんな彼にユリカが声をかけた。


「クラウス。言うとおりにしましょう」


 ユリカは何かを察したのか、その場に留まるようクラウスに伝える。


 きっと何か大事なことなのだろう。そう考えたクラウスは、彼女の言う通りその場に留まることにした。


「わかりました。ぜひお話を聞かせてください」


 クラウスの言葉に頷いたスタールは、その視線をシチョフに向けた。


「さて、シチョフくん。我がグラーセンはジョミニ商会に対し、大量の兵器を求めている。商会はどれだけの兵器を準備できるかね?」


 スタールの質問に、シチョフは宝石を売るかのような優雅さで口を開いて見せた。


「兵器となるものなら全てです。刀剣、爆薬、銃器、それに医薬品も。戦争で売れるものはどんなものでも取り扱っております。取り扱わないものがあるとすれば、葬儀用の棺桶くらいなものです」


 あまり笑えない冗談だが、実際武器商人であるシチョフなら兵器類は全て取り扱っているだろう。ジョミニ商会ほどの相手と取引できるのは、確かに大きなことだった。


 シチョフの答えを聞いていたスタールは、さらに質問を重ねた。


「なるほど。それなら我々が今、一番欲しいものも扱っているだろうか?」


 その言葉に怪訝な顔をするクラウス。スタールが言う一番欲しい物とは何だろうか? 大量の爆薬か、それとも輸送用の馬か。


「一番欲しいもの、ですか。それは一体なんでしょうか?」


 スタールに問いを返すシチョフ。その時のシチョフの顔はどこか楽しそうだった。それは問いかけをするというより、この会話を楽しんでいるような顔だった。スタールがその問いかけに答えた。


「君たち商会が掴んでいるアンネル軍の動向について、その情報を我々に売ってくれないだろうか?」


 スタールの言葉に驚愕するクラウス。それはグラーセン軍がもっとも必要とするもので、しかし手に掴むことのできないものだった。


 スタールの答えがわかっていたのか、シチョフは特に驚くことなく笑っていた。ユリカはクラウスの反応が面白いのか、静かに笑みを零していた。


「君たちジョミニ商会は、列強各国に人員を派遣し、彼らに兵器売買をやらせると同時に、情報収集の任務も与えているはずだ。その中には我が参謀本部では得られない情報もあると思う。君たちがアンネルで集めた情報を、我々に売ってほしいのだよ」


 参謀本部でも得られない情報。確かに組織によっては集められる情報に限界がある。特にシチョフたちならアンネルに潜入することは容易だし、彼らにしか集められない情報があるはずだ。


 情報は最大の武器だと言われる。スタールは最初から、彼らの集める情報が目的だったのだろうか?


 そう考えた時、クラウスは隣にいたユリカに視線を向けた。もしかしたら、ユリカは最初からこのことを想定して、シチョフと取引したのではないのか。


 勝手な想像だが、そう思えてしまうところが、この少女の恐ろしいところだった。


「なるほど。確かにあなたの言う通り、我が商会はアンネルの情報を集めています。しかしそれは私の部下たちが命の危険を晒して得た情報です。かなり高額になりますが、よろしいのですか?」


 シチョフが問いかける。するとスタールはにっこりと笑って見せた。


「必要とあれば、我がハルトブルク家を担保にしようではないか」


 その言葉にクラウスは驚愕のあまり、一瞬呼吸を止めてしまった。グラーセン最大の貴族であるハルトブルク家。その領地も、資産も、経済力はグラーセンのみならず、大陸でも指折りの規模だ。それを担保にするなど、あまりに大きな契約だ。


 もはやクラウスの手に余る商談だった。この場にいることに身体が震えていた。


 スタールの言葉にシチョフが質問した。


「ハルトブルク家を担保に、ですか。失礼ですが、貴方をそこまでさせる動機は何でしょうか?」


 その時、スタールはシチョフから視線を外した。その視線は壁に飾られているグラーセン国旗に注がれていた。


「愛、かな?」


 たった一言。その一言が全てを物語っていた。


 愛する祖国のため。そのためならハルトブルクの家名も利用して見せる。彼の愛とはそれほどの物なのだ。


 そしてそれは同じように国旗を見つめるユリカも同様で、彼女は静かに微笑んでいた。スタールと想いを同じくし、祖国のために戦う少女の、力強い微笑みだった。


 シチョフはその答えに満足したように頷き、スタールに向けて語り掛けた。


「閣下と取引を商売を行えることは、末代までの自慢となるでしょう。ぜひ、契約させてください」


 一方は国家を背負う宰相。一方は大陸を股にかける武器商人。本来なら交わることのない二人が、歴史を変えるであろう商談を行っている。


 こんなこと、後世の歴史家に伝えても信じてもらえるとは思えない。今、目の前にいるクラウスでさえ、夢を見ている気分なのだから。


 政治家と商人。背負うものや立場も違う二人。だが二人はお互いに語り合うこと。商談できることを心底から楽しんでいるようでさえあった。


「さて、閣下の言うとおり、我が商会は大陸各国で情報収集を行っております。貴方たちの敵であるアンネルにもです。もちろん貴方たちとの独占契約をしているので兵器は売っていません。商人や旅行者など、身分を偽って潜入しております。ある程度予想は出来ますが、閣下が求めている情報はどのような情報でしょうか?」


 シチョフの問いかけにスタールは明確に答えた。


「サンブールで撃退した敵部隊の動向と、彼らが向かっているロレーヌ要塞に駐留している敵部隊の状況について教えてほしい」


 スタールの話を聞いて、クラウスはクラビッツとの会話を思い出す。クラビッツの話では、グラーセン軍はサンブールで撃退した敵軍がロレーヌ要塞に逃げ込む前に、野戦でこれを撃破。そのまま進軍し、ロレーヌ要塞を攻略するのがグラーセン軍の作戦計画となっている。クラビッツの話では、敵が要塞に到着する前に接敵することができるという。


 今のスタールの話は、明らかにグラーセン軍の作戦計画に関係するものだった。確かに重要な情報だが、何か別の意図があるようにクラウスには感じられた。


「やはり、そこが焦点となりますか」


 そのスタールの問いかけを予想していたのだろう。シチョフが納得した様子で頷き、そしてスタールに質問を返した。


「閣下。やはり要塞に逃げ込もうとしている敵部隊の動きを、グラーセン軍は罠だと考えているのですか?」


 シチョフの言葉に声を上げずに驚愕するクラウス。横にいるユリカも口を手で押さえて驚いていた。ただひとり、スタールだけは驚くこともなく、シチョフを見つめ返していた。


 驚愕したままのクラウスは、シチョフに問いを投げかけた。


「シチョフさん。敵の動きは罠というのは、本当ですか?」


「真実はわかりません。ですが、アンネル軍の動きを監視している部下からは、陽動作戦の可能性を指摘しています。撃退された割には、特に混乱も見られず要塞に向かっている。まるで元々計画されていたように見えると」


 その指摘には心当たりがあった。クラビッツはサンブールで敵部隊を殲滅することが目的だったが、達成することができなかったと言っていた。


 もしかしたら、それは達成できなかったのではなく、敵が最初から計画していた後退だったのではないか? クラウスにそんな思考が浮かび上がっていた。


 クラウスがそんなことを考えていると、シチョフがさらに言葉を重ねてきた。


「閣下。貴方がその情報を求めているということは、グラーセン軍も罠の可能性を感じていると思うのですが、違いますか?」


 え? とはクラウスの声。シチョフの意外な言葉にスタールが静かに答えを返す。


「君の言うとおり、軍部からは敵軍の罠の可能性があると報告を受けている。それで君たちからアンネル軍の情報を聞かせてほしいと思っているのだよ」


「ちょ、ちょっと待ってください」


 思わずクラウスが話に割って入る。クラビッツの話では、グラーセン軍はこのまま作戦計画を進め、ロレーヌ要塞の攻略、さらには敵首都・マールまで進軍させるつもりらしい。


 しかし、スタールの話ではグラーセン軍は罠の可能性があると考えている。にも関わらず、軍は作戦を変更することなく、このまま進軍を続けていることになる。


「閣下。それでは軍は罠かも知れないのに進軍を続けているということですか?」


「うん。参謀本部からも作戦の変更はないと報告を受けている。ロレーヌ要塞の攻略まで進軍を続けるそうだよ」


 淡々と語られるスタールの言葉に、クラウスは信じられないといった様子だった。罠の可能性に気付いているのに、それでも軍は作戦を変えないという。それでいいのだろうかと、クラウスの中に疑問が浮かんだ。


「まあ、君の気持ちもわからなくもない。本当に敵の罠だとすれば、このまま進軍するのは確かに危険だ。だけど、我々もここで進軍を止めるわけにはいかないのだよ」


 その時、珍しくスタールが苦笑いを浮かべた。本当に困ったというような笑みだった。


「戦争は始めるよりも終わらせることが難しい。特に勝ち戦が続いている時はね」


 クラウスも聞いたことがある。戦争が始まってしまえば、この激流を止めるのは困難であると。そして、その困難さをスタールは身をもって教えてくれた。


「サンブールの勝利と、その後に続くいくつかの勝ち戦は、国民の戦意を大きく高めることに成功した。その結果、国民は戦時国債を買い取ってくれるようになり、また海外にも売り込むことに成功している。クラウスくん、戦時国債が売れるというのは、どういうことかわかるかね?」


 スタールの問いかけに首を傾げるクラウス。真意がわからないクラウスに、スタールはその答えを口にした。


「国民が国債を買うということは、政府や軍はさらなる勝利を重ねないといけないのだよ。言い方を変えると『国債を買う代わりに、もっと勝利を』と国民が言っているんだ」


 サンブールの勝利に沸き立つ国民。新聞は軍の勝利を称賛し、その記事が載った新聞を国民は争うように手に取った。


 軍の活躍と祖国の勝利に酔いしれる国民。新聞にはそんな国民の声が載せられるようになっていた。このままさらなる勝利を。敵に圧倒的な勝利をと。


「国民が勝利に酔っている間は政府を支持し、戦争に協力してくれる。だが一回その心地良さを知ってしまうと、国民は戦争が終わることを拒むことさえある。国民の支持というのは、ありがたい反面扱いが難しいのだよ」


 世論とは風見鶏のようなものであり、政府や議会の思い通りに動くことはない。同時に世論が必要以上に熱を帯びてしまえば、これを扱うのは容易ではなくなる。


 勝っている戦争を終わらせるのが難しいのは、そういう側面もあるようだった。


「話を戻そう。シチョフくん、我が軍はロレーヌ要塞にいる敵軍がサンブールの敵部隊と合流することを懸念しているのだが、ロレーヌ要塞の敵部隊に動きはないだろうか? それを確認したいのだが、どうだろう?」


 確かにロレーヌ要塞の敵部隊が合流すれば、前線にいるグラーセン軍との兵力差はなくなり、もしかしたらグラーセン軍が不利になる可能性もあった。おそらくそのシナリオが、敵の仕掛ける罠だと軍部は考えているようだ。


 するとシチョフからは次のような答えが出てきた。


「部下からもたらされた情報では、ロレーヌ要塞の部隊に動きはないとのことです。常に要塞を監視しているのですが、駐留している部隊が要塞を出る様子はないとのことです。時折物資を運び込む荷馬車が大量に入るのを見るくらいで、それ以外にアンネル軍が要塞から出て行くのを見ていないとのことです」


 ロレーヌ要塞の部隊は大規模な兵力だ。その部隊が要塞から出て行けば人目を避けることはできないはずだ。シチョフの部下が常に監視しているのであれば、敵部隊が要塞から出ていないのは確かな情報なのだろう。


「ですので、ロレーヌの部隊が救援に向かったということは、今のところないようです。ただ……」


 そこでシチョフの顔が曇る。


「味方部隊が敗走している状況で救援に向かわないというのは、あまり考えにくい話です。やはり罠の可能性があるように思います」


 シチョフの言うとおり、アンネル軍の動きはどこか不自然に思えた。計画されたかのような後退。救援に動かない要塞部隊。罠と疑われてもおかしくはなかった。


「とはいえ、要塞部隊が動いていないのは事実です。このまま監視を続け、何かあれば私に連絡するように部下には伝えてあります」


「なるほど。了解した」


 シチョフの言葉にスタールは納得したように頷く。それから少し考えてからスタールは顔を上げた。


「敵が動かない以上、軍部も計画を変更することはないだろう。政府も注視はするが、戦いは軍に任せてある。今は見守ることにしよう」


 スタールはそう言ってから。さらにシチョフに語り掛けた。


「シチョフくん。君さえよければ、アンネルにいるという商会の人間と、グラーセン軍の情報部との間で連絡を取り合ってほしい。現地で接触したいがいいだろうか?」


「わかりました。その代わり、グラーセン軍には現地にいる部下たちの護衛をお願いできますか? 何かあれば、部下たちの保護を約束していただきたい。それが条件です」


 確かに現地での情報収集は命の危険がある。彼らを守ってもらいたい気持ちはわかるし、それに彼らの身の安全を保障できれば、情報収集も迅速に進めることもできるだろう。


「いいだろう。軍部には君の要求を伝えておこう。クラウスくん」


 スタールがクラウスに顔を向けた。


「君は今の話を参謀本部に伝えてほしい。情報部にはジョミニ商会の人間との間に連絡手段を設けること。また彼らに護衛を付けることを伝えてくれ」


「わかりました」


 命令を下した後、スタールが一言呟いた。


「まあ、このまま何事もないのが一番なのだけどね」



 それからいくらか話をした後、参謀本部に戻ることにしたクラウスたち。館から出て行こうとするクラウスたちを、シチョフが見送りに来た。


「それではシチョフさん。落ち着いたらまたお会いしましょう」


 シチョフはこのままスタールの屋敷に泊ることになった。スタールからの提案で、彼らを守るにはここが一番だからというのが理由だった。まさか宰相の屋敷に泊まれるとは思っていなかったようで、シチョフはその大胆さに呆れるくらいだった。


「ありがとうございます。こちらにいる間は、ここでの生活を楽しむことにしますよ」


 宰相の屋敷での生活など、普通に生きていれば体験できないことだ。存分に羽を伸ばしてほしいと思った。


 その横ではユリカとサンドラが言葉を交わしていた。


「またお会いできて嬉しいですわ」


「私もです。こうして約束を果たすことができて、嬉しゅうございます」


 アスタボでは再会することを約束した二人。こうして顔を合わせることができるのは、やはり嬉しい事なのだろう。


「しばらくはこちらの屋敷で休んでください。おじい様はああいう人だから、不自由はさせないと思いますわ」


「それは先ほどの会話でよくわかりました。宰相となる人は一味違いますね」


「よろしければ本人に言ってあげてください。変わり者と言われるのは、本人にとって誉め言葉ですから」


 そんな風に楽し気な会話を交わすユリカたち。名残惜しく思いながら、ユリカたちは馬車に乗って屋敷を後にするのだった。


 二人を乗せて走る馬車。その中でユリカがニマニマと笑みを零す。そんな彼女にクラウスも楽しげに声をかけた。


「何だか、楽しそうだな」


「ええ。だってサンドラさんと再会できるなんて、思ってもいなかったんだもの。嬉しくてたまらないわ」


 その言葉にはクラウスも同意するしかなかった。アスタボでほんの少し言葉を交わしただけなのに、そこには確かな絆が生まれていた。それがこうして、彼らに素敵なものをもたらしてくれた。


 改めて思う。彼らがこれまで旅して得たものは、決して無駄なものではなかったのだと。


 仲間がいる。それがどれほど心強いものかを、クラウスは思い知ったのだった。


 心地良い気持ちのまま、彼らは参謀本部への帰路を急ぐのだった。




 参謀本部に戻ったクラウスたちは、その足でクラビッツの所へ赴いた。彼らはシチョフから得た罠の情報をクラビッツに報告した。


「なるほど。あのジョミニ商会からもたらされた情報か」


 納得したように頷くクラビッツ。やはりジョミニ商会の名は軍部の中でも大きな存在のようだった。


「閣下。陸軍でも罠の可能性に気付いているはずですが、それでも作戦に変更はないと聞いています。本当ですか?」


 スタールの話だと、軍でも罠の指摘はあるが、それでも作戦に変更はないと報告されているという。クラウスがそのことを質問すると、クラビッツはその通りだと頷いた。


「ああ。参謀本部でも罠の可能性は指摘されているが、作戦計画に変更はない。軍は計画通りロレーヌ要塞の攻略に向かわせている」


「閣下。罠の可能性に気付きながら、それでも進軍を続けても大丈夫なのですか? 警戒するべきではないでしょうか?」


「警戒して、それで戦争に勝てるのならそうしている」


 クラウスの問いかけに鋭さを返すクラウス。その鋭さにクラウスもびくりとしてしまった。


「すまんな。君の指摘も当然ではある。だが、どんな組織もそうであるように、軍隊は一度作戦行動を起こしてしまえば、それを修正するのが難しい組織なのだ。特に今のように勝っている状況ではな。勝っている状況で消極的な行動をさせるというのは、将兵たちの士気低下にもつながりかねんからな」


 クラビッツの言葉ももっともだ。勝ち戦で勢いに乗っている状況で、消極的な姿勢を見せるのは味方にとってもよろしくなかった。


「それに国民はさらなる勝利を求めている。政府がそうであるように、軍も国民の支持を得るためには、勝ち続ける必要があるのだよ」


 スタールも同じようなことを言っていたのを思い出す。国民の支持は、さらなる勝利の要求だと。そして、勝っている時ほど戦争を終わらせるのが難しくなるとも。


「それにな、罠の可能性があるからこそ、進軍を急がせているというのもあるのだ」


「それは、どういうことですか?」


 ユリカが問い返す。そこには作戦を主導するクラビッツの考えがあった。


「相手がどのような罠を仕掛けているかわからないが、我が軍はそれより先にサンブールで戦った敵軍を追撃し、これを殲滅する。要塞に逃げ込まれたり、敵の援軍と合流される前に捕捉することで撃破することを目指している。敵の罠に意味がなくなるようにだ」


 その時、クラビッツが一枚の地図を取り出す。それは戦場となっているアンネル領の地図で、そこにアンネル軍とグラーセン軍の進軍ルート。さらに遠くにロレーヌ要塞の位置も描かれていた。


「今の進軍速度ならロレーヌ要塞に逃げ込まれる前に敵と接敵できる予定だ。ここならロレーヌ要塞から離れおり、敵の援軍も合流できない位置になる。そのこともあり、参謀本部はこのまま進軍することに決定したのだ」


 クラビッツの説明に唸るクラウス。確かに敵を捕捉できれば、兵力の差でグラーセン軍は優位になり、敵軍の殲滅が可能となる。参謀本部の考えも至極真っ当なものだ。


「なるほど……確かにこれなら、罠も関係なくなりますね」


「ああ、理論上はな」


 クラビッツが少し冷めた声を発した。そのことが気になったクラウスはつい質問した。


「閣下。何か懸念でも?」


「なに、懸念というほどのことではない。ただ、戦争というのは理論と現実が乖離することが多いのだ。理論上はうまくいっても、現実は容赦なく人間の思惑を突き崩してくる。我々の前にはいつだって、戦場の霧が漂っているものなのだよ」


 クラビッツの言葉に黙り込むクラウスたち。歴史において、人間は世界の容赦ない荒波に翻弄されてきた。世界を制覇した帝国も滅亡し、世界最強の軍隊も敗北する。これがこの世界の現実なのだ。


「まあ、今のは年取った人間が無駄に心配しているだけ。そう思うといい」


 そう呟くクラビッツだが、それを一笑に付すことは出来なかった。多くの知識を蓄えた賢者は、まるで予知者のように未来を見通すことがある。


 クラビッツの言葉は、あまりにも重いものであった。


「まあ、今は勝ち続けているのも現実だ。もたらされた勝利に我々は感謝し、これを最大限利用する。それが参謀本部の役目だ」


 力強く答えるクラビッツ。彼はそれから、クラウスたちに言葉をかけた。


「クラウスくん、ユリカ大尉。ジョミニ商会からの要請は了解した。我々も彼らがもたらす情報はありがたい。彼らの求めに応じ、護衛を何人か派遣させる。情報部にも彼らと協力するよう連絡してくれ」


「了解しました」



 報告を終えて部屋に戻るクラウスたち。戻る途中で二人は言葉を交わした。


「とりあえず、これでジョミニ商会とも協力ができそうね」


「ああ。情報部も協力してくれるというし、悪くない流れだ」


 実際ここまでは順調だった。海軍の敗戦を取り戻すような陸軍の連勝。シチョフたちジョミニ商会の協力。申し分ない流れだ。


 だというのに、クラウスには少しの不安があった。


「少将の話、どう思う?」


 その不安が口から漏れ出たのだろう。クラウスは並んで歩くユリカに問いかけた。


「どうって、少将の懸念のことかしら?」


 クラウスの不安を察していたのか、まるでその質問が来るのがわかっていたような雰囲気だった。


「そうね。確かに少将の言うとおり、懸念は残るわ。どれだけ完璧な作戦に思えても、ほんの少しのズレで全てが崩れることもある。特にこれは戦争。意思を持った敵との戦いよ。相手の意思次第で現実は大きく変わるわ。だけどね」


 そこまで言って、ユリカはその場で立ち止まり、クラウスを見つめた。その瞳には強い意志が込められていた。


「それはこちらも同じよ。私たちも意思を持って戦いを挑み、私たちの願いを叶えるために相手に立ち向かっているのよ。敵がどれだけ強大でも、世界がどれだけ容赦なかったとしても、私たちにも譲れない願いがあり、それを叶えるために戦っているの」


 ユリカはこれまで、帝国統一のために走り続けてきた。その願いに多くの人の想いが集まり、関わり、そして共に同じ夢に向かって戦っている。


 それはとても強い、大きな意思の塊なのだ。


「この意思の強さは、何にも負けない。負けないのよ」


 そう言って、ユリカは自らの胸に手を当てた。そこに意思が宿っているかのように。それを大切にするかのように。


 ユリカの言葉にクラウスは微笑みを返した。彼女の言葉にクラウスはそれまでの不安が消えるのを感じた。


 本当に彼女には思い知らされる。彼女の言葉を聞くと、まるで全てがうまくいくように思えてしまうのだから、彼女の言葉は不思議なのだと。


「ああ、君の言うとおりだ」


 クラウスはそれだけ答えて、笑みを返すのだった。


 その言葉を受けて、ユリカも嬉しそうに笑って見せた。




 翌日。参謀本部に起床ラッパが鳴り響く、まるで腹の底から揺らされるような感覚で、クラウスは目を覚ました。


 いつものように深呼吸して、意識を覚醒させて、身支度を整える。今日も自分の格好におかしなところはないか確認する。それがいつもの彼の日課だった。


 ただ、この日はいつもと違った。彼が準備を終えた頃、ノックの音が聞こえてきた。


「クラウス、いいかしら?」


 相手はユリカだった。彼女の声に首を傾げるクラウス。いつもは彼がユリカの部屋に行くのに、珍しく彼女からクラウスに部屋にやって来た。何か起きたのだろうかとクラウスは声を上げた。


「どうぞ。何かあったのか?」


 クラウスの声に反応してユリカが部屋に入ってくる。そこにはどこか困惑した様子のユリカの顔があった。


「どうした? 何かおかしなことでもあったのか?」


「いえね。実はルシアナさんが今朝は来てないのよ。いつもなら食事の準備が終わっているはずなのに」


 ユリカの話にクラウスも不思議そうな顔をする。女給であるルシアナは、いつもユリカの部屋に朝食を運んでくれる。準備が終わった頃にクラウスが部屋にやって来て、ユリカと二人で朝食を共にするのが日常となっていた。


 それが今日、ルシアナがユリカの部屋にやって来ていないという。これまでルシアナは遅刻や休んだりしたことがないので、珍しいことだとクラウスたちは思っていた。


「もしかしたら、体調が悪くて休んでいるのかしら?」


 ユリカが不安そうにする。そう言われるとクラウスにも不安が伝染してしまう。彼もルシアナが心配になった。


「大丈夫とは思うが……せっかくだし、今日は食堂まで行かないか? ルシアナさんが気になるし、何でもなかったら、そのまま食堂で食事にすればいいだけだし」


「……そうね。せっかくだし、行ってみましょうか」


 ユリカは何か思うところがあったのか、少し考えこんだが、クラウスの提案に頷いてくれた。



 参謀本部の食堂は宿舎からはそれなりの距離があった。空は少し曇っており、どこか不安な色をしていた。


 周りには幾人かの兵士や将校がいた。それぞれの朝を過ごし、静かな時間を享受していた。


「ん・・・・・・?」


 そんな中、クラウスは見慣れないものを見つけた。彼らが向かう先にある食堂。その入り口に何人かの将兵が整列していた。全員正装していて、誰かを待っているかのようだった。しかも彼らの前には馬車が一台停まっていた。


「何かしら?」


 その光景にユリカが不安そうにしていた。


 その時、食堂の入り口から女給と思しき女性が一人、顔を伏せて出てきた。将校に連れられて出てきた彼女に、整列していた兵士たちが敬礼をする。彼女はそのまま顔を上げることなく、馬車に乗り込んだ。


 彼女を載せた馬車が走り出す。周りにいる将兵たちはそれを粛々と見送った。その光景にクラウスたちは何が起きているのか、理解できずにいた。


 その時、食堂の入り口にルシアナたち女給がいるのが見えた。彼女たちは馬車をじっと見つめ、辛そうにしていた。


「ルシアナさん」


 クラウスたちはルシアナに近づいて声をかけた。二人に気付いたルシアナは、気まずそうに笑みを向けてきた。


「おはよう。食事でしょう? ごめんなさい、ちょっとそれどころじゃなくって」


 どこか疲労しているような顔だった。周りにいる他の女給たちも、どこか悲しげでさえあった。


「いえ、それはいいのですが……一体何があったのですか? さっき出て行った女性は?」


 クラウスが問いかける。ルシアナは答えるべきかどうか迷っていたが、意を決して口を開いた。


「実はあの人、親戚の人が前線に行ってるんだけど、その人が戦死したって連絡が来たんだ」


 ルシアナの言葉を聞いた瞬間、クラウスは心臓が止まったかのような錯覚を覚えた。


「……戦死…………ですか?」


「うん……さすがに厨房が静かになったよ。あの人も戦死したのが信じられなかったのか、呆然というか立ち尽くしていたというのか。どうしていいかわからない感じだったよ」


 ルシアナが何かを話していた。ただ、耳には入るが心に入ってこなかった。いや、本当は全て受け入れているのに、クラウスはそれを理解するのを拒んでいたのかもしれない。


 これは戦争であって、必ず誰かが死ぬ。それはわかっていたことだ。


 ただ、わかっていただけであって、クラウスは本当の意味で理解はしていなかったのだ。


 それは誰かの大切な人が死ぬことで、それはすぐ隣で起き得ることなのだ。


 そのことをクラウスは今、初めて突き付けられていた。


 クラウスもまた、どうしていいのかわからず、その場に立ち尽くしていた。


「さすがに私も声をかけられなかったよ。何を言っても慰めにはならないから」


「……そう、ですか」


 ルシアナの気持ちもわかる。大切な人が亡くなった悲しみをどうやって癒せるというのか。何も言えないのではなく、言うべき言葉が見つからないのだ。


 その時、クラウスは横でじっと黙り込んでいるユリカに気付いた。彼女は何も言わず、ただその場に立っていた。彼女もこの状況に戸惑っているのだろう。クラウスはそんな風に思った。


 その時だった。ユリカの身体がふらつくのが見えた。


「お嬢様?」


 ルシアナが怪訝な顔で声をかける。それがきっかけとなったかはわからない。


 声をかけられたユリカは何も答えなかった。彼女の身体はそのまま横に倒れ、地面に伏してしまった。


 まるで時間の流れが遅くなったように、彼女はゆっくりと倒れた。


「ユリカ!」


 クラウスが彼女に近寄り、身体を抱き起す。眠るように目を閉じる彼女の顔を、クラウスは必死に見つめる。


 クラウスは何度も彼女の名前を叫び続けた。それでも起きない彼女に、クラウスは必死で声をかけ続けた。


 異変に気付いた周りの将兵が集まり始めても、クラウスは彼女に呼びかけるのだった。

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