第一章 前夜
グラーセン王国・王都オデルンは、不思議な雰囲気に包まれていた。
それは不安なのか、それとも昂揚感なのか。色々な感情の入り混じった空気に満たされていた。
そのオデルンに久しぶりに帰って来たクラウスとユリカ。街の雰囲気を目の当たりにし、二人も変な感覚を覚えた。
「なんだか、オデルンとは思えないわね。不思議な空気だわ」
そう呟くユリカ。その呟きにクラウスも頷いた。
「無理もない。戦争が近いんだからな」
その一言にユリカは静かに頷いた。
グラーセン、そしてユースティア大陸に一つのニュースが流れた。グラーセンの西に位置する大国・アンネル共和国が、さらに西にあるエスコリアル王国と同盟を締結したと発表された。
それは間違いなく、グラーセンに対する戦争準備であった。かつてのクロイツ帝国の復活を目指すグラーセン。そのクロイツ帝国の復活に反発するアンネルは、グラーセンとの戦争に備え、エスコリアルとの同盟に踏み切ったのだ。
それは最後通牒にも似た知らせであり、大陸を揺るがせるのに十分な衝撃を持っていた。
もはや戦争は避けられない。誰もが同じことを考えたはずである。
戦争の気配を前に、人々はそれぞれの気持ちで歴史の行く末を見守っていた。
ある者は戦争を前に武者震いし、ある者は戦火の香りに恐れを抱き、またある者は少年のような冒険心を震わせ、ある者は見えない不安に恐怖を覚えていた。
それらが入り混じった空気が、オデルンに溢れていた。
一人の紳士が新聞を読んでいた。新聞には戦争が間近であることを告げていた。
かつての皇帝戦争以来、長らく戦争の起きることのなかったこの大陸に、数十年ぶりに戦火の匂いが漂い始めていた。この時代、ほとんどの人間に戦争の記憶はない。
そんな正体不明の恐怖を前に、多くの人が戸惑いを見せていた。
「本当に、戦争が近いんだな」
街の光景を見て、クラウスは戦争が近づいていることを実感した。覚悟していたことだが、やはりその空気を肌で感じると、言い表せない感情が胸に溢れ出すのだった。
それがどんな感情かわからない。不安なのか恐怖なのか。それとも昂揚感なのか。
その時、ユリカが大きく息を吸い込んだ。戦火の香り漂う街の空気を力いっぱい吸い込んで、彼女は大きく笑った。
「さあ、行きましょう!」
そう言ってクラウスの手を握るユリカ。全ての不安を吹き飛ばすような彼女の笑顔を見て、クラウスは先ほどまで感じていた不安のようなものが、霧のように溶けてなくなるような気がした。
呆気に取られているクラウスを見て、彼女が面白そうに笑った。
「あら、どうしたの? 戦争が近くなって、怖いのかしら?」
からかうように笑いかけるユリカ。まるで戦争なんて怖くないとばかりのその顔を見て、クラウスも不思議と笑い出した。
「そうだな。怖くないと言えば嘘になるな」
戦争が怖くない者はいない。お伽話や英雄譚では、少年の冒険のような物語が繰り広げられるものだ。
だけど現実の戦争は違う。後世の作家がどれだけ戦争を美しく彩ろうとも、そこでは殺し合いが行われ、誰もが等しく運命に翻弄されるのだ。
誰も死なない戦争などありはしない。少しの運があるかないかだけで、人の運命が分かたれてしまう世界なのだ。
クラウスだって例外ではない。戦争を前に彼も恐れを感じる人間なのだ。
しかし、クラウスは隣のユリカに顔を向ける。
「だけど、今までの君との旅を思うと、それほど怖くはないよ」
クラウスもまた、からかうように呟いて見せた。
はじめてアンネルで出会った時から、彼らは多くの冒険を繰り広げてきた。歴史を動かすほどの冒険。命の危険も感じた旅。祖国を守るための戦い。これまで多くの冒険をしてきた。
そんな旅を今まで二人で乗り越えてきたのだ。今さら戦争が起きたとしても、きっと大丈夫だと。クラウスは根拠のない確信を抱いていた。
それはきっと、自分の手を握るユリカの手が、彼に力を与えてくれているからだった。
「戦争が起きても、君は一緒にいてくれるんだろう?」
そんな風に呟くと、ユリカもニンマリと笑った。
「ええ。あなたが寂しくないように、一緒にいてあげるわ」
そんな笑顔を見て、クラウスは悔しくなった。結局は彼女のその笑顔で、彼は不思議と安心してしまうのだ。悔しいけれど、やはり彼女がいるから、自分は大丈夫なのだと思えるのだ。
「よし! 行こう!」
クラウスの言葉を合図に、二人は歩き出した。その足取りにはもう不安はなかった。
二人は王都にあるスタールの屋敷に向かっていた。すでに屋敷の近くまで来ており、久しぶりに帰って来たことに二人はホッとしていた。
「……あら?」
その時、ユリカが何かを見つける。屋敷の前に一台の馬車が停まっていた。
「お客様が来てるわ」
「え? そうなのか?」
クラウスも馬車を見た。確かに立派な馬車がそこにいた。
宰相の屋敷を訪れるのだ。大物政治家か、それとも資本家か。かなりの大物が訪れているに違いなかった。
「ふむ……邪魔をしてもいけないし、時間を改めるか?」
戦争を前にスタールも忙しいはずだ。客との応対を邪魔するのもクラウスは気が引けた。
「ああ、大丈夫よ。私も会ったことのある人だと思うから、きっと歓迎してくれるはずよ。それにあなたにも会わせたいって前から思っていたの。ちょうどいいから行きましょう」
「そうなのか? まあそれなら行ってみようか。相手は誰なんだ?」
「おじい様の仕事の関係者よ。紳士的な人だから、きっとクラウスも気に入るわ」
「そうか。わかった」
そう言って屋敷に向かうクラウス。その時、クラウスは気付いていなかった。彼の後ろを歩くユリカが『何故か』ニヤニヤしながら笑っていたのを。
屋敷の奥にあるスタールの執務室。そのドアをユリカが小気味よくノックした。
「おじい様。ユリカですわ。入ってもよろしくて?」
「おお、ユリカか。入りなさい」
向こうからスタールの声が聞こえてくる。その声に応えてユリカがドアを開いた。
中に入ると、スタールともう一人、例の客人が並んでいた。
「ただいま帰りました。おじい様」
そう挨拶するユリカ。それに続いてクラウスも声を上げる。
「クラウス。ただいま帰還しました」
「おお、よく帰ってきてくれた。二人とも。」
スタールが嬉しそうに声を上げる。すると、スタールの横に並ぶ客人が、クラウスたちの方に向き直った。
「……え?」
そんな間抜けな声がクラウスの口から出てきた。スタールの横にいる人物の顔を見て、頭が白くなっていた。
無理もないことだった。目の前に国王がいれば、彼のような反応でも不思議ではなかった。
そこにいたのは、グラーセン国王。フリード・フォン・グローセだった。
「へ……陛下?」
それに反応するように、フリードがクラウスに視線を向けた。その視線の鋭さに、クラウスが思わず身震いした。
フリードはまるで、国王というよりは軍人といった雰囲気の男だった。背筋をピンと伸ばし、きびきびとした振る舞い。そして、全てを射抜くような鋭い視線。軍人のような研ぎ澄まされた空気を纏っていた。
その場に立ち尽くすクラウス。すると彼の横でユリカが膝を折るようにして礼を示した。
「お久しぶりです。陛下。スタールの孫娘、ユリカにございます」
国王を前に見事な振る舞いだった。その美しい仕草に見惚れるクラウス。それからすぐに彼も国王に向き直った。
「し、失礼しました! クラウス・フォン・シャルンストと申します!」
ぎこちない挨拶だった。不格好な挨拶だったが、しかしフリードはそれよりも、『シャルンスト』の名に反応を示した。
「ほう? あの武門の一族であるシャルンスト家の?」
するとフリードはそのままクラウスに近寄り、彼に右手を差し出した。
「フリード・フォン・グローセだ。会えて光栄に思う」
差し出された右手を前に固まるクラウス。いくらなんでも国王の手を握るなど、畏れ多いことだ。かと言って国王の握手を拒否するのはもっ
てのほかだ。彼は震えながらその手を握った。
フリードがその手に力を込めた。その手から伝わってくる力強さに、クラウスは圧倒された。
「それに、ユリカ殿か。久しぶりだ。その様子だと元気そうだな」
「はい。陛下もお元気そうで何よりです。馬車が見えたので、すぐに会いに来ましたわ」
そんなことを話し合う二人。その会話を聞いて、クラウスはやられたと思った。ユリカはここに誰が来ていたのかわかっていたのだ。だがその相手が国王であることを彼女は隠していたのだ。きっとクラウスがどんな反応を見せるのか、悪戯を考えたに違いない。
この時ほど、クラウスは自分の迂闊さを呪ったことはなかった。
その時、フリードが呟いた。
「ふむ……そうか。君たちが噂になっている二人組のことか。なるほど」
噂とは何のことかと、クラウスが怪訝に思っていると、スタールの方から口を開いてきた。
「はい。陛下。二人は帝国統一のために、大陸を走り回ってくれているのです。以前もお話したように、大活躍を見せております」
スタールの言葉に納得するようにフリードが頷いた。
「なるほど。以前から宰相に話を聞いていた。一度顔を合わせたいと思っていたのだ。本当なら勲章の一つでも与えるべきなのだろう。君たちの働きに感謝する」
国王からの直々の御言葉。あまりのことにクラウスはよくわからない汗が噴き出していた。
「さて、そろそろ私は帰らせてもらう。それでは宰相、いずれまた会おう」
そう言って部屋から退室していくフリード。その後ろ姿をじっと見送るクラウス。もはや自分が何を言っていたのか、頭が真っ白になるのを感じていた。
「どう? 素敵な人だったでしょう?」
そう言ってクラウスの顔を覗き込むユリカ。悪戯が成功して彼女はニヤニヤしていた。
「ああ。素敵すぎて、心臓がドクドク鳴っているよ。寿命がだいぶ減った気分だ」
クラウスがそう答えると、ユリカもスタールも面白そうに笑った。
「全く、本当に心臓に悪いぞ。君は本当に意地が悪いな」
「あら? 嘘はついていないでしょう。おじい様の仕事の関係者なのだから」
確かに仕事の関係者と言えなくもないが、そこから国王がいるなどと、想像できるはずもなかった。
「まあいいじゃないか。いい刺激になっただろう? それに陛下も君たちと会ってみたいと以前から仰っていたよ。特にクラウスくんとは一度話をしたがっていたよ」
「陛下が自分と?」
陛下が自分に興味を持っている。その事実に首を傾げるクラウス。何故陛下が自分に興味を持つのか? その疑問に答えるようにスタールが話を続けた。
「陛下は軍をとても大事に思っているのだよ。軍がいるからこそ国家は安泰でいられると。シャルンスト家は武門の一族だから、特に気になっておいでなのだろう」
シャルンスト家はグラーセンが経験してきた戦争で、多くの武勲を立ててきたし、それと同じくらい血を流してきた。剣で王国に仕えてきた武門の一族である。
軍を大事に思うフリードにとって、シャルンスト家は特別なものなのかもしれない。
それはそれで、クラウスは複雑な気分になった。武門の一族に生まれておきながら、彼自身は軍に入らず、文官になるための勉強をしてきた。今でこそ参謀本部にいるが、身分は軍属であり、純粋な軍人ではなかった。
シャルンスト家に生まれたことを誇りに思うと同時に、武官にならなかった自分をクラウスは恥じるような気持ちになった。
「そうですか……そうなると軍に入らなかった自分は、陛下の不興を買うかもしれませんね」
ついそんなことを呟くクラウス。そんな彼の心情を察したのか、ユリカが口を開いた。
「そんなことはないわ。わかりにくいけど、あなたに会った時、陛下は嬉しそうにしていたわよ」
「嬉しそう?」
フリードはクラウスたちと会っている時、ずっと堅い顔のままだった。嬉しそうにしているようには見えなかったのだが、ユリカが言うのならそうかもしれないと、クラウスは思った。
「まあ、陛下とはいずれまた会えるだろうし、その時にお話をするといい」
果たして、そんな簡単に君主と何度も会えるものだろうか? クラウスの中にある常識が崩れそうだった。
「まあ、とりあえずは座りなさい」
そう言ってスタールが席に座るよう促す。それに従うようにクラウスたちも席に座った。
対面する形でスタールが席に座ると、クラウスたちに向かって口を開いた。
「さて、まずはアスタボでの任務、ご苦労だった。アスタボと中立を取り付けてくれて、大いに感謝する」
スタールが王国宰相として、二人にお礼を伝えた。
「アスタボとの間に中立を取り付けたことは、政府としても大いに助かる。まさかフォードル陛下から直接中立を取り付けるとは想像できなかったがね」
からかい気味に話すスタールの言葉にクラウスも苦笑いを浮かべた。クラウスたちはアスタボの皇帝・フォードルと直接言葉を交わし、彼から中立を取り付けることに成功した。アスタボでは皇帝暗殺未遂など、国を揺るがす大騒動に巻き込まれていた。その騒動を何とか解決したことで、フォードルから信頼を勝ち取ったのだ。
「ありがとうございます。今回もお嬢様やアイゼン大使に助けられました。お礼なら私ではなく、お二人に伝えください」
あくまで自分一人の功績ではなく、ユリカたちの功績であることを伝えるクラウス。そんなクラウスの言葉にスタールも笑った。
「それより閣下。アンネルのことですが」
クラウスがそう口を開くと、スタールの目に鋭い光が見えた。クラウスたちにも緊張感が滲み出た。
「ああ、聞いていると思うが、アンネルとエスコリアル王国との間で同盟が結ばれた。間違いなく我が国との戦争に向けての同盟だ」
かつてのクロイツ帝国の復活を目指すグラーセン。その帝国が復活することに反発するアンネル。両国の対立は激化の一途を辿り、誰もが戦争は避けられないと思っていた。そんな中、アンネルとエスコリアルとの間に締結された同盟の報せは、人々を驚かせるのに十分な衝撃を持っていた。
戦争は間違いなく起きる。後は誰かが導火線に火を点けるだけだった。
「しかし、同盟の報せには驚きましたが、ずいぶん急な情報でしたね。以前からアンネルとエスコリアルとの間で密談でも交わされていたのでしょうか?」
クラウスの言うとおり、アンネルとエスコリアルの同盟はかなり急な報せだった。あり得ない話ではないが、アンネルに同盟の動きはほとんどなかったはずだ。クラウスはその予兆すら感じていなかった。
「うむ。政府や軍部でも同じような意見が相次いだ。あまりに急なことに外務省も大慌てだったよ。ただ、どうもこれは急ごしらえの同盟のようなのだ」
急ごしらえという言葉に怪訝な顔を見せるクラウス。スタールはその言葉の真意を話し始めた。
「アンネルも本来は入念な準備をかけて戦争に臨みたいはずだった。だが、彼らにはどうしても早く開戦に踏み切りたい事情があるのだ」
「事情ですか?」
その事情とは一体何なのか? そんなことを考えるクラウスをスタールが指差した。
「君たちが南部のビュルテンに行って、鉄道敷設の約束を交わしただろう? それが原因だよ」
クラウスとユリカは以前、帝国の構成国の一つである、南部のビュルテンに行ったことがある。彼らはグラーセンとビュルテンとの間に鉄道を繋げるための交渉を行い、見事に鉄道敷設の約束を交わしていた。
「えっと、閣下。それがどうしてアンネルとエスコリアルの同盟に繋がるのです?」
「まあ簡単に言うと、グラーセンとビュルテンの間で鉄道が開通する前に、アンネルは戦争を始めたいのだよ。そうしないと、アンネルの勝ち目が薄くなるからね」
スタールの説明にクラウスは納得の表情を浮かべた。
グラーセンとビュルテンとの間に鉄道を繋げる。もし鉄道が開通すれば、グラーセンはビュルテンのある南部からもアンネルへ進撃することが可能になる。それはアンネルにとっては避けたい状況だった。
「なるほど。それでアンネルは鉄道が完成する前に、我が国との戦争に踏み切るつもりということですか」
「ああ。ビュルテンからは鉄道の敷設はまだ未完成だと報告を受けている。南からの進撃は難しいだろうと言われたよ」
クラウスたちがビュルテンで遂行した任務が、結果的に開戦を早める結果を生んでしまった。アンネルへのプレッシャーをかけるという意味では仕事は成功とも言えるが、その鉄道が完成する前に戦争が近づいている。この状況にクラウスは複雑な気分になった。
「とはいえ、さっきも言ったようにアンネルの戦争準備は少し急ぎすぎている。アンネル軍の準備も厳しいものになっているはずだ。君たちの働きは決して無駄ではないはずだ」
スタールの言うとおり、アンネル軍の戦争準備は急すぎる。おそらくどこかで無理をしているはずなのだ。動員計画や補給計画に無理が生じてもおかしくはなかった。
「逆にこちらの戦争準備はほぼ完成しているという。参謀本部では遅くなるよりはすぐに開戦するべきだと言っていたよ」
開戦の時期を逸してしまっては、勝てる戦争も難しくなってしまう。今この時こそ、開戦すべきだと軍部は考えているようだった。
「あとはタイミングの問題だ。そのために陛下とも話を続けているのだよ」
先ほどフリードがここにいたのも、開戦に向けての話し合いだったのだろう。陛下自らがここに来るくらいだ。重要な話し合いだったに違いない。
「私も政府も戦争に向けて準備を急ぐつもりだ。君たちも参謀本部でがんばってほしい」
スタールがにっこり微笑む。きっとこの国では、誰も彼もが戦争に向けて奔走しているはずだ。
自分たちも共に走り抜く。その想いを強くして、クラウスとユリカが力強く頷いて見せた。
それから数日、参謀本部に戻ったクラウスたちは、前にも増して激務に奔走した。戦争が近いということで、参謀本部の将校たちは急いで戦争準備を進めていた。
その働きぶりは人の限界を超えているように見え、いつ誰かが倒れても不思議ではなかった。それなのに、彼らは誰一人として倒れたりはしなかった。
倒れている暇などない。そう言わんばかりに彼らは自分たちに課せられた仕事を遂行し続けた。
クラウスたちも彼らと共に仕事を続けた。いつ戦争が起きるかわからない。いつでも戦いに行けるように。
そんな日々を繰り返していたある日のことだった。
「クラウス? ちょっといいかしら?」
昼過ぎの頃、自室で休憩中だったクラウスの部屋にユリカがやって来た。その声はどこか嬉しそうで、少しはしゃいでいるように聞こえた。
「どうした? 何かあったのか?」
「あなたにお客様よ」
客という言葉に怪訝そうにするクラウス。自分を訪ねる人物に心当たりのないクラウス。一体誰なのだろうか?
「失礼、どちら様ですか?」
そう答えながらドアを開くクラウス。その瞬間、クラウスは何も言えなかった。
ユリカの横にいる人物。それはかつての戦友であり、共に冒険した仲間だった。クラウスはその戦友の名を口にした。
「フェリックス大尉……」
クラウスに名を告げられて、フェリックスが嬉しそうに笑みを浮かべた。
「お久しぶりです。クラウスさん」
懐かしい微笑み、懐かしい声だった。いつの間にか、クラウスにこびりついていた疲労は、どこかへ吹き飛んでいた。
フェリックス・クライン大尉。彼は参謀本部鉄道課に所属する軍人であり、かつてクラウスたちと共に冒険した仲間だった。
クラウスとユリカは以前、グラーセンとビュルテンとの間に鉄道を繋ぐために、ビュルテンへ派遣されたことがあった。その時、すでにビュルテンに派遣されていたのがフェリックスだった。フェリックスは現地でのクラウスたちの活動を助け、またクラウスたちもフェリックスの仕事を手助けした。
結果的に彼らの働きにより、ビュルテンはグラーセンとの間に鉄道を敷設することに同意し、帝国統一に参加することが決定したのだ。
様々な困難とぶつかり、それを共に乗り越えた仲間だった。その戦友との久しぶりの再会にクラウスもフェリックスも大いに喜んでいた。彼らはそのまま、クラウスの部屋で歓談を始めた。
「本当にお久しぶりです。いつオデルンに戻られたのですか?」
「今朝の始発に乗って、先ほどオデルンに到着しました。クラウスさんたちがここにると聞いて、会いたくなって来ましたよ」
話を聞くと、参謀本部からフェリックスに帰還命令が伝えられたらしく、今日グラーセンに戻って来たという。
「あちらでもお二人の噂は耳にしましたよ。大活躍だったそうですね」
笑いながら語るフェリックス。一体どんな風に話が伝わっているのか、少し恥ずかしそうにするクラウスだった。
「フェリックス大尉もビュルテンでの仕事、お疲れ様ですわ」
ユリカもフェリックスに労いの言葉を伝える。しかし、その言葉を受けてフェリックスは何故か困ったように笑った。
「いえ、ありがたい御言葉ですが、私の力不足で鉄道の開通は間に合いませんでした。本当に申し訳ありません」
グラーセンとビュルテンを鉄道で繋ぐというのは、単純に経済的な問題だけでなく、軍事的な意味でも重要な問題だった。ビュルテンとの間に鉄道が開通すれば、軍は鉄道によって南方への部隊の展開が容易になる。それはつまり、アンネルを南から進撃することが可能になるということだった。
開戦までに間に合わせたかったグラーセンだったが、その鉄道もまだ開通させることは出来なかった。それはビュルテンで働いてきたフェリックスにとっても悔しいことだった。
「ラコルトさんも申し訳なさそうにしていましたよ。お二人に謝っておいてほしいと言っていました」
ラコルトはビュルテンの鉱山労働者たちを束ねてきた人物だった。ラコルトはクラウスたちに頼まれて、ビュルテンでの鉄道敷設のために、鉄道会社の運営を任されていた。
「お二人のためにも開通させたかったのに、申し訳ありませんでした」
申し訳なさそうに謝罪するフェリックス。しかしユリカは首を横に振った。
「そんなことはありませんわ。フェリックス大尉たちがビュルテンで働いてくれたことで、アンネルに脅威を与えることができました。アンネルも完全に準備ができているわけではありません。きっとこれも布石となりますわ」
実際開戦が近づいたのも、ビュルテンの鉄道が完成する前にアンネルが開戦に踏み切ろうとしているからだ。アンネルはおそらく、完全な戦争準備はできていないはずだ。
そういう意味では、フェリックスたちの働きは無駄にはならないはずだ。
「大丈夫。大尉の仕事は決して無駄にはなりませんわ」
そう伝えるユリカを見て、フェリックスはホッとしたように笑みを零した。きっと誰かに言ってほしかった言葉なのだろう。それを伝えてあ
げたのがユリカだったのが、クラウスには良いことだと思えた。
「今日はこれからどうなさいますの? せっかくの再会ですし、よろしければ夕食はご一緒しませんこと?」
ユリカがそう提案すると、フェリックスは首を横に振った。
「いえ、ありがたい申し出ですが、今日は行かなければならない場所がありますので」
そう語るフェリックスを見て、クラウスはピンと来た。
「もしかして、婚約者に会いに行かれるので?」
クラウスの問いかけにフェリックスが微笑みで答えた。
「はい。ビュルテンに派遣されて以来、久しぶりに会いに行きます」
少し恥ずかしそうにするフェリックス。その様子をユリカが嬉しそうに見ていた。
フェリックスには婚約者がいた。ビュルテンに派遣されて以来、久方ぶりの再会となるのだ。きっと語りたいことがたくさんあるはずだ。
「失礼しました。せっかくの逢瀬のお邪魔をしてしまいましたわね」
どこか楽しそうに語るユリカ。やはり女の子は色恋話が好きなようだった。
「いえ、申し訳ありません。いつか時間ができたら、その時は一緒に食べましょう。お二人とも色々話がしたいですし」
「わかりました。その時は婚約者の方もお呼びくださいませ。ぜひお会いしたいですわ」
ユリカが面白そうに語り掛ける。その言葉にフェリックスも楽しそうに返した。
「お話が好きな人だから、きっと気が合うと思いますよ」
参謀本部を出ていくフェリックス。それを見送るクラウスたち。
フェリックスの背中を見つめながら、クラウスはビュルテンでの夜を思い出す。
ビュルテンの夜。クラウスはフェリックスと語り合った。婚約者のこと。フェリックスが語る夢。いつか家族となった婚約者と歩むであろう未来。
それを語るフェリックスはとても輝いていた。今日、その婚約者と会いに行くフェリックスは、その夜と同じように笑っていた。
そのことが嬉しくて、つい笑ってしまうクラウス。そんな彼の顔をユリカがニヤニヤ見つめていた。
「何が面白いのかしら?」
「いや、あの真面目なフェリックス大尉も、恋人の話をすると、あんな風に笑うんだと思ってな」
恋は人を変えると言われている。それは魔法なのか、それとも呪いなのか。 そう考えると、恋とは不思議なものだと思えた。
「あら? あなたはあんな風に笑ったりはしないのかしら?」
その時、意地悪そうに問いかけるユリカ。その問いかけにクラウスは一瞬考えこんだ。
「……どうだろう? 今まで誰かと付き合ったことがないからな。そもそも私は愛想が悪いし、笑っている自分なんて想像できないな」
冷静に自分を分析しての言葉だった。だが、それが彼女にどう伝わったのかわからないが、ユリカは何故か苦笑いを浮かべた。
「そうね。それは残念だわ」
その答えにクラウスが首を傾げる。何故彼女が残念がるのか、理解できずにいた。
「さ、戻りましょう。まだまだ仕事はあるわよ」
「ああ、そうだな」
そう言って二人は参謀本部に戻り、仕事を続けた。
フェリックスとの再会はクラウスの疲れを癒したのか、その日はとてもよく眠れたのであった。
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