第一章 東へ

 クロイツ帝国の再統一。グラーセン王国が目指すかつての帝国の復活。グラーセンは統一事業に邁進していた。


 スタール宰相の鉄血演説以降、グラーセンをはじめとする、かつての帝国の構成国は統一に向けて動き始めていた。


 グラーセン国民も、その他多くの国が、統一に胸を躍らせていた。帝国が消滅して数十年。歴史用語でしかなかったクロイツ帝国。それをもう一度復活させようと語るスタールの演説は、多くの人々を突き動かした。


 グラーセン国民も、そしてその他多くの人々が、忘れかけていたものを思い出した。


 人々は思い出す。『クロイツ国民』という言葉を。人々の魂に刻まれ、そして忘れられようとしていた想いが、スタールの言葉で掘り起こされたのだ。


 それまで分かたれていた国が、再び帝国に戻ろうとしていた。


 そしてそれは、大陸の歴史を大きく動かそうとしていた。


 かつての帝国の復活。その言葉に多くの国が動き始めていた。


 ある国は静観し、ある国は賛同し、ある国は反発を覚えた。


 大陸にもう一度、戦火の香りが漂い始めていた。


 グラーセン陸軍参謀本部。陸軍の知の結晶であり、グラーセン軍の最高司令部とも言える機関である。その参謀本部も、帝国統一に向けて動いていた。


 参謀本部は以前にも増して、緊張感が漂っていた。それはもちろん、統一という事業に関わるという責任もあるが、それ以上に彼らは戦火の匂いを敏感に感じ取っていたからだ。


 参謀本部の宿舎。その一室に彼らはいた。



 

 ぐったりとした様子でソファに横になるクラウス。疲労困憊といった様子で横たわる彼は、うなされるように眉間にしわを寄せていた。元々無愛想だった顔が、より険悪なモノに変わっていた。


「あらあら、すごい顔ね」


 そんな彼の様子を面白そうに笑う声。クラウスが顔を向けると、そこにユリカがいた。クラウスの様子がおかしいのか、コロコロと笑っていた。


「人間って寝てもいないのに悪夢にうなされることがあるのね? 初めて知ったわ」


「……いや、それは正確ではないな。『悪夢などなくても、うなされることがある』ということだ」


 険しい顔をしながらも、クラウスも軽口を返す。その軽口が楽しいのか、ユリカがさらに笑った。


「さすがに疲れているわね」


「ああ。あっちで書類の山と格闘しているからな。おかげで頭がガンガンする。今日だけで会ったことのない人の名前を百人くらい知ったよ。こんな経験、初めてだ」


 その一言が面白かったのか、ユリカが笑いを返した。  


 今、グラーセンではある懸念が広がっていた。それはグラーセンの西の大国・アンネル共和国のことだった。


 かつての帝国の復活を掲げるスタール宰相の鉄血演説。歴史に残るこの演説にもっとも反発したのがアンネルだった。クロイツ帝国が復活すれば国境を接することになるであろうアンネル。国防上、帝国の復活は看過できないことで、アンネルはすぐに帝国の復活に懸念を発表した。


 いや、それははっきりとした敵対声明であった。


 元々グラーセンもアンネルに対しては懸念を持っていた。アンネルは統一に関して最大の障害であると考えられていた。それが決定的になったのが、スパイ事件だった。


 アンネルのスパイであるジョルジュ・デオン。彼女はグラーセン参謀本部が策定していた『対アンネル作戦計画』を盗み出そうとしたのだ。


 結果として作戦計画は盗まれることはなかったのだが、この事件で、グラーセン軍の間でアンネルとの戦争は不可避であることが決定的となったのだ。


 今まで以上にアンネルに対する睨みが厳しくなり、一層警戒が強くなっていた。


 それはクラウスたちが所属する情報部でも同じで、情報部はアンネルに人員を派遣し、あらゆる情報を収集していた。


 それら情報の分析に、クラウスが駆り出されたわけである。アンネルへの留学経験を買われて、情報部が集めたアンネルの情報を分析する役目を言い渡されたのだ。


 さっそくクラウスは仕事に取り掛かったわけだが、その情報量は予想をはるかに超えるものだった。


 軍事機密はもちろん、情報と呼ばれるものは何でも集まった。中にはバカバカしいと思えるような情報さえ集まる。クラウスたちの仕事は、そうした全ての情報を分析するのだ。


 クラウスはそれら書類に目を通す。アンネルに留学していたこともあり、彼の経験は大いに役立ったようで、情報将校たちはクラウスに意見を求めるほどだった。


 クラウスも役に立てるのは嬉しかったし、求められた仕事はできるかぎりこなそうとした。


 ただ、扱う情報があまりに多かった。ずっと文字を見ていたせいで、彼の頭脳が悲鳴を上げ始めたのだ。


 書類の中には軍人や政治家、資本家など、アンネルの主だった人物や、その親戚や関係者など、多くの人間についての情報が載っていた。会ったことのない百人の名前を知ったというのは、決して比喩ではなかった。


 ここしばらくはこんな毎日だった。仕事が終われば頭痛を抱えたまま部屋に戻り、そのままソファで横になった。


 そのまま眠ることができればいいのだが、しかし頭痛がそれを許さなかった。寝ようとは思うのだが、頭痛がしたまま寝ることもできるわけもなく、まるで起きたままうなされている気分だった。


 充実しつつも疲労の極致にある日々。それがずっと続いていた。



「少しは落ち着いたかしら?」


 ユリカが語り掛ける。それに反応するようにクラウスが体を起こした。


「……ああ、さっきよりは落ち着いた。まだ頭の中が熱く感じるがね」


「それは大変ね。これでも飲んで落ち着いたら?」


 そう言ってユリカが机にコップを置き、そこに白ワインとレモネードを注いでくれた。ユリカが好んでいるカクテルで、クラウスも時々飲んでいた。


「頭を冷やすにはちょうどいいでしょう?」


「……そうだな。いただくとしよう」


 実際冷たい飲み物が欲しいと思っていたのだ。クラウスは素直に甘えることにした。


 クラウスがカクテルを口に含む。甘酸っぱい味が口いっぱいに広がっていく。その感覚にほっとするクラウス。その様子を見てユリカがニンマリと笑った。


「よかったわね。私がいて」


「ん? 何の話だ?」


「頭痛を抱えたまま、部屋で一人でいるのは寂しいでしょう? 傍にいてくれる相棒がいて、助かったんじゃないかしら?」


 そんなことをニヤニヤしながら話すユリカ。それについてはクラウスは何も答えない。しかし彼女がいて助かるのも事実だった。


 仕事して沸騰する頭を冷やすには、誰かと言葉を交わすのが一番のようだった。実際彼女と軽口を交わすことで、クラウスも幾分か調子が戻っていた。


 彼女がいなければ、この部屋で寂しくうなされるままだっただろう。そういう意味では、彼女がいてくれて助かったのは事実だ。


 だが、それを素直に認めるのも悔しいので、クラウスは何も言わなかった。そんな彼の内心をユリカもわかっているのだろう。彼女はそんなクラウスの様子をニヤニヤ見つめるのだった。


 その時、彼女は唐突に呟いた。


「ジョルジュも今頃は、エスプレッソでも飲んでいるのかしらね?」


 なんて事のない呟きのはずだった。気を抜けば聞き逃しそうな小さな言葉。だが、クラウスが聞き逃すはずがなかった。ジョルジュという名前に彼の意識が叩き起こされた。


 今も忘れられない一人の少女。多くの人間を手玉に取り、国家さえも出し抜いたアンネルの黒狼。きっと彼女は、今も世界を相手に暗躍しているに違いない。


 改めて思い知らされる。戦争が近づいていることを。今もアンネルでは、グラーセンとの戦争に備えているはずなのだ。


 いつの間にか頭痛は消えていた。アンネルと、そしてジョルジュのことを考えると、クラウスの意識はそのことでいっぱいになった。恐るべき敵の存在が、クラウスの心を奪うのだった。


 今も彼女はどこかで笑っている。そのことがクラウスには恐ろしかった。


「こら」


 その時、ユリカがクラウスの頭を小突いた。クラウスが見ると、ユリカが不満顔で彼を睨んでいた。


「誰のことを考えているかわかるけど、私の前で他の女の子のことを考えるのは、失礼ではなくて?」


 そんなことを言われるクラウスだが、しかしそれも仕方のない事だった。あれほど鮮烈で、そして彼らを振り回したジョルジュのことを、忘れるはずがないのだ。


「いや、仕方ないだろう。ジョルジュのことを忘れるなんて、できるはずがないだろう」


「そうね。ほっぺにキスまでされたわけだし?」


 思わず咳き込むクラウス。クラウスはジョルジュにキスされて、しかもその場面をユリカに目撃されていた。それからというもの、ユリカはクラウスをからかう時があった。


「いや、別にそういうわけではないのだが……」


「あら? ひどい人ね」


 ひどい人、という言葉にクラウスは首を傾げる。今の流れでどうしてひどい人だと言われないといけないのか? クラウスのそんな疑問にユリカが答える。


「女の子から大事なキスをもらっておきながら、キスのことは忘れちゃうのかしら?」


 意地悪そうに語るユリカ。そこにはいつもの悪戯好きの笑みがあった。


「それだと、私のキスのことも忘れたのかしら?」


 思わずクラウスが沈黙した。確かにユリカからもキスをされていた。ただキスされた場所は手の甲だった。クラウスの左手が無意識にキスされた右手を握っていた。


「いや、そんなことはないが……」


 クラウスはそれだけ答えるのがやっとだった。どう答えるべきか迷っていた。その様子が面白いのか、ユリカはクスクスと笑った。


「今度は口紅でもつけてみようかしら? あなたが忘れないように」


「頼むから絶対にやめてくれ」


 そんなことされたらどうなるか、想像するだけで恐ろしかった。周りからどんな風に言われるか、たまったものではない。


「ふふ、そうね。あなたがカッコよくなるまでは、キスはおあずけね」


 そんな犬みたいな扱い方をされてクラウスも変な気分だった。だが、彼女とこんな軽口を交わせるのは、心地よい気分だった。


 戦争が近いはずなのに、こんな会話を交わせるのは、贅沢なことだ。いや、むしろ今だからこそできるのかもしれない。こんな何気ないことが大事なことなのだから。


「さ、今日はもう寝なさい。明日も仕事でしょう?」


「……そうだな。そうさせてもらおう」


 そう言えばいつの間にか頭痛もなくなっていた。程よい眠気がクラウスをベッドに誘っていた。これなら今日は気持ちよく眠れそうだった。


「それじゃあ、私も寝るわ。お休みなさい」


 そう言ってその場を立ち去ろうとするユリカ。すると、彼女は数歩歩いたところでクラウスに振り向いた。


「そういえば、おやすみのキスはいるかしら?」


「……カッコよくなるまで、おあずけなんだろう?」


 その返しにユリカはニッコリ笑うのだった。




 翌朝。起床ラッパで目覚めるクラウス。ベッドで身を起こし、そのまま伸びをする。


 久しぶりに心地よい目覚めだった。最近は寝ても疲れが残っていたのだが、昨日のユリカとの会話がよかったのか、良い睡眠ができたようだった。


 窓を開けて大きく息を吸う。意識が覚醒する。気持ちのいい空気だった。


 それからクラウスは顔を洗い、身支度を整え、おかしなところがないかを確認してから部屋を出た。


 宿舎内を歩き、彼はそのままユリカの部屋まで向かった。いつもなら食事の用意ができているはずだ。


 ユリカの部屋まで来たところで、ドアの前で立ち止まる。すると、この日はいつもと違うことに気付いた。部屋の中から笑い声が聞こえてきたのだ。ユリカだけでなく、もう一人誰かがいるみたいだ。


 誰かいるのか? 友人でも来ているのだろうか?


 考えても仕方ないと、クラウスはドアを叩いた。


「どうぞ。開いてるわよ」


 入室を促されてドアを開くと、そこには見知った人物がいた。


「ああ、誰かと思ったら、ルシアナさんでしたか」


「どうも、おはようございます」


 ルシアナはいつもの笑みでクラウスに挨拶を寄越した。ルシアナは参謀本部の食堂で働く女給で、参謀本部でもそれなりに有名人だった。ジョルジュのスパイ事件の時はクラウスもお世話になっていた。


「珍しいですね。ここにいるなんて」


「ええ。いつも食事を運んでくる人が今日はお休みなんですよ。それでお願いして私が運んできたんですよ。お嬢様とも久しぶりにお話したかったし」


「ああ、そういうことでしたか。楽しそうに話してましたけど、何を話してたんですか?」


 クラウスが問いかけると、ユリカとルシアナはお互いに見つめ合って、それから二人同時に口を開いた。

「「それは乙女の秘密」」


 楽しそうに笑うユリカとルシアナ。秘密というのは気になるが、それ以上問い詰めるのも野暮だというのもクラウスはわかっていた。


「む……そうか」


 それだけ答えるクラウスはユリカたちがクスクスと笑うのだった。


「それじゃあそろそろ行きますね。お兄さんも今度お話ししましょうね」


「はい。その時はよろしくお願いします」


 そういってパタパタと部屋を出ていくルシアナ。やはり彼女は楽しそうに笑うなと、クラウスは見ていて思った。


「本当に楽しそうだったが、何かいいことでもあったのか?」


 クラウスがそう言うと、ユリカはニンマリと笑った。


「ええ、そうね。とても素敵なことだわ」


 その一言にますます首を傾げるクラウス。一体何を話していたのか、気になってしまう。


「さ、それより食事にしましょう。今度は私とお話ししましょう」


「……それもそうだな。いただくとしよう」


 後ろ髪を引かれる気分だったが、気にしても仕方なかった。クラウスは席に座り、そのまま目の前のパンを口に運ぼうとした。


「それでさっそくだけど、仕事の話よ」


 そんなユリカの一言にクラウスの手が止まった。仕事という言葉にクラウスの意識が切り替わる。


「また何か、任務の話か?」


「私も詳しくはわからないわ。まだ呼び出しを受けただけだから、内容までは聞いていないわ」


「呼び出し? 誰からだ?」


「おじい様よ」


 今度こそクラウスの手が止まった。ユリカの『おじい様』という言葉に一瞬呆けてしまった。


 ユリカがおじい様と呼ぶスタールという男。それは王国の宰相を任される男だった。


「閣下が私たちを? どういうことだ?」


「何か私たちにお願いしたいことがあるそうよ」


 宰相からの直々の呼び出し。一体何事だろうか? クラウスは思案する。


「よかったわね。これで悪夢から解放されるわね」


 そんなことを呟くユリカ。確かにこれで書類の山から下山できることになる。だがクラウスは手放しに喜ぶことは出来なかった。


 以前もスタールから仕事の依頼を受けて、二人はシェイエルンに向かった。そこで二人は命の危険にさらされているのだ。今回も同じことにならないかと、クラウスは不安に思った。


「あら? どうしたの? おじい様からのお誘いは嬉しくないのかしら?」


 クラウスの心情を察したのか、ユリカがおかしそうに問いかける。わかって訊いているのだから、クラウスも厳しい顔を向けた。


「さすがに不安にもなるさ。どんな依頼をされるか、もう不安だよ」


 そんな彼の言葉をクツクツと笑うユリカ。


「あら、ひどい。おじい様もあなたに会いたがっていたのに」


「それは光栄だ。よかったら仕事の愚痴でも聞いてもらおうかな」


 きっとスタールなら愚痴の一つや二つは楽しそうに聞いてくれるだろう。何せ王国の人々の言葉全てを受け止めるのだ。クラウスの愚痴など、挨拶くらい軽いに違いない。


「ま、そんなわけだから、ご飯を食べたら行くわよ。身支度は整えてちょうだいね」


「わかった」


 さて、一体どんな依頼が来るのだろうか?


 悪夢から目覚めてこの目にするのは、喜劇か悲劇か。クラウスはそんなことを考えていた。




 クラウスたちが馬車から降りると、そこは王都・オデルンの郊外にある屋敷だった。


 参謀本部から馬車に乗り込み、しばらく走った場所にそれはあった。そこはスタールの個人的な邸宅だった。


 宰相府とは別に置かれている彼個人の屋敷で、仕事以外はここで生活しているらしかった。


 ただ、そこはハルトブルク家の当主。やはり立派な威容を誇るその建物を前に、クラウスは思わず溜息を吐いた。


「さすがだな。話には聞いていたが、立派なものだな」


「そうね。私もここに来るのは久しぶりだわ。いいところでしょう?」


 そんなことを語るユリカだが、立派なのは当然と言えば当然だった。個人の屋敷とは言え、それでも宰相の住む屋敷に変わりはなかった。きっとここで賓客を招いて、色々な話をするに違いないのだ。そんな客人を招くのに威厳を損なうような屋敷ではいけないのだ。


 逆に言えば、それほどの重要な場所に自分が呼ばれるということに、クラウスは足が重くなった。


 そんな彼の手を引いて、ユリカは軽い足取りで歩き出した。


「さ、行きましょう。おじい様がお待ちよ」


「あ、ああ……」


 楽しそうに歩き出すユリカ。その後に続くクラウス。そんな二人を出迎えるように屋敷の門が開かれた。




「どうぞ、こちらです」


 女中に案内されて二人が向かったのは、屋敷の一番奥にある応接間だった。扉を開くと、件の人物がいた。


「やあ、ようこそクラウスくん。ユリカもよく来てくれた」


 大きく手を広げて歓迎してくれるスタール。体格がいいので、余計に大きく感じられた。


「お久しぶりです。閣下。お元気そうで何よりです」


「ああ、すこぶる元気だよ。君も元気そうで何よりだ」


 お互いに握手を交わすクラウスたち。ユリカも祖父との久しぶりの再会に顔をほころばせた。


「お久しぶりです。おじい様。お変わりはなくて?」


「ああ、大丈夫だ。逆にお前はまた可愛くなったな」


「あら? 口のうまさは相変わらずですわね」


 楽しそうに会話が弾む二人。やはり似た者同士、会話も盛り上がりやすいのだろう。あまり人との会話が得意でないクラウスには不思議な光景だった。


「まあ、まずは席に座りなさい。すぐに食事にしようじゃないか」


 そう言って応接間にあるテーブルに誘うスタール。すでに美味しそうな匂いが漂っており、ユリカが嬉しそうに笑った。


 テーブルに着席する三人。テーブルに女中たちが食事を運び、最後にビールが運ばれたところで、三人がグラスを掲げた。


「再会を祝して、乾杯」


 スタールの音頭で乾杯を交わす三人。口に運ぶと、程よい苦みとさわやかな酸味が喉を潤した。


「やはり誰かと飲むビールは美味い。久しぶりに気持ちがいい」


「え? 閣下は普段はビールを飲まれないのですか?」


 クラウスの言葉に苦笑いを浮かべるスタール。


「飲むには飲むのだがね。基本的に一人で飲むことが多いのだよ。誰かと飲むにしても大体は会合や仕事の席だし、そこではワインしか出ないからね。誰かとビールを飲むことは意外と少ないのだよ」


 スタールの言葉に納得するクラウス。スタールのような人物は仕事で食事をすることの方が多いのだろう。そういう席ではワインが出るのが普通だ。政治家たちがビールを注いだコップを掲げながら乱痴気騒ぎするというのは、想像できなかった。


「だから君たちが来るのはありがたい。こうして一緒にビールを飲む口実ができるのだからね」


「あら? 孫娘を呼んでおいてビールに浮気をするだなんて。ひどい人だわ」


「ははは。そう言わないでくれ。その孫娘と一緒に飲むという、老人の数少ない楽しみなのだから」


 ビールの魔力も相まってか、スタールがますます饒舌になる。きっと一人で飲むより、誰かと一緒にビールを飲むのが好きなのだろう。彼らしいとも思えた。


「そういえばクラウスくんは、ハルトブルクのビールは飲んだことはあるのかな?」


「あ、いえ。まだ飲んだことはありません。お嬢様からはよくお話をされるのですが……」


「ほう、そうか。ハルトブルクには腕のいい職人がいるからね。いつか遊びに来る時は飲んでみるといい。きっと気に入ると思うよ」


「わかりました。いつか伺いたいと思います」


 よくユリカからも自慢の醸造所があると話を聞いている。時々その味が恋しいとも言っている。そこまで言われると、クラウスも気になるのだった。


「クラウスくんはビール以外にも酒は飲むのかな?」


「あ、はい。アンネルにいた頃、あちらのワインをよく飲んでいました。留学生仲間とよく飲みましたよ」


 当時のことを思い出す。あちらのワインも美味しかったのを思い出す。久しぶりに飲んでみたいなどと考えていると、スタールが頷きながら口を開く。


「そうかそうか。それはよかった。それなら、ウォッカも大丈夫かな?」


「……え? ウォッカ?」


 いきなりのことに間抜けな声を上げるクラウス。そんな彼を面白そうに見つめながらスタールが言った。


「ああ、アスタボで仕事をするのなら、ウォッカとも付き合ってもらわないといけないからね」


 スタールの一言に思わずグラスを持つ手が止まった。そんなクラウスの様子をユリカがクスクスと笑っていた。


 クラウスはビールをテーブルにおいて、静かに口を開いた。


「閣下。次に私たちが向かうのは、アスタボ帝国ですか?」


 その問いかけに何も答えず、ただ微笑みを返すスタールだった。


 アスタボ帝国とは、グラーセンの東に位置する国であり、大陸を睨み続ける東の大国だった。


「ああ、アスタボはウォッカだけじゃなく、他にもビールがあるからね。色々楽しめると思うよ」


「……それは旅行という意味ではありませんよね?」


 それならどれだけよかったか。だが、これは間違いなく任務なのだ。一体どんな任務なのか、クラウスは単刀直入に質問した。


「閣下。私たちにアスタボに行ってもらいたいというのはわかりましたが、一体何をすればいいのですか?」


「ああ、一言で言えば、外交交渉の手伝いをしてほしいのだよ」


「外交、ですか?」


 思わず首を傾げるクラウス。言葉の真意がわからないクラウスにスタールがさらに続けた。


「君たちもわかっていると思うが、アンネルとの戦争が近づいているのは知っているね」


「……はい。それは知っています」


 それはジョルジュとの邂逅で嫌というほど思い知らされていた。彼女との出会いが、まさにアンネルとの戦いだったのだから。思わず身震いするクラウス。


「政府も軍もアンネルとの戦争に備え、準備を進めている。そこで我々がどうしてもやっておきたいのが、アスタボとの間に不可侵条約を結ぶことなのだ」


「……なるほど、二正面作戦を避けるためですか」



 かつてのクロイツ帝国はどうしても避けられない問題を抱えていた。大陸の中央に位置するグラーセンは西はアンネル。東にアスタボ帝国がいる。さらには北のドッガー海にはローグ王国もいる。地政学的に周囲を列強に囲まれた状況にあり、常に挟撃の可能性を孕んでいた。


 事実、過去の大戦において、アンネルとアスタボに同時に攻め込まれたこともあり、滅亡の危機さえあったのだ。


 それはグラーセン王国も同じであり、グラーセン軍は常にこの問題に頭を痛めていた。




「政府はアスタボとの対決を避けたいと、そう考えているのですか」


「ああ、これは軍からの依頼でもあるんだ。アンネルとの戦争はもう避けられないだろう。これはもう外交では解決不可能な問題だ。だから軍としてはアンネルとの戦争に全力を注ぐために、アスタボとの間に不可侵条約を結ぶよう政府に提言があったのだよ」


 軍の考えも理解できる。アンネルとの戦いだけでも大変なのに、アスタボまで相手にするようなことがあれば、それだけで兵力を分散させなければならないのだ。それは避けるべき事態だった。


 悪魔に備えれば、死神が背後から近づいてい来るという状況だ。政府と軍は、死神だけでも眠らせておきたいのだ。


 と、ここまで考えたところでクラウスに疑問が生じる。何故その交渉に自分たちが派遣されるのか。彼はその疑問をぶつけた。


「閣下。私たちは外交官ではありません。私たちに手伝えることなどないように思うのですが?」


「ふむ。君の疑問ももっともだが、あちらに派遣している大使の話だと、アスタボからいい返事をもらえていないようなのだ」


 やれやれといった様子で肩をすくめるスタール。


「交渉が難航しているということですか?」


「そうらしい。しかしその割にはアスタボが我が国に対決する姿勢を見せているわけでもない。どうやらグラーセンとアンネルの戦争にどう対処するのか、はっきりと決められていないようなのだ」


「なるほど。つまりグラーセンにつくか、アンネルにつくか。悩んでいるということかしら?」


 ユリカの言葉にクラウスも頷く。実際アスタボにとっては難しい判断だった。もしグラーセンによるクロイツ帝国の復活が成し遂げられれば、アスタボにとっても強大な大国が出現することになる。彼らにとっても避けたい事態だ。しかしかといってアンネルに利する形を取れば、彼らも戦争に巻き込まれる可能性があった。


 グラーセンに味方するか、アンネルに味方するか。アスタボは内部で揺れているのだ。


「なるほど。アスタボもだいぶ悩んでいるようですね」


「だろうね。だから最後の決定の時まで判断を待っているのだろう。我々としてはむず痒いというのが本音なのだがね」


 スタールがビールを飲む。それから彼はクラウスに向き直った。


「そういうわけで、君たちにはその交渉の手伝いをしてほしいのだ。ぐらぐらと揺らいでいるアスタボの心を、君の力で射止めてほしいのだよ」


「はあ……しかし、何故私なのです。他にも適任がいるのではないですか?」


 そんなことを呟くクラウス。するとスタールとユリカが見つめ合ったかと思うと、二人はニンマリを笑い出した。


「ユリカ。彼はアンネルでローグ王国の大使と見事な交渉を演じていると聞いているが、本当かね?」


「はい。おじい様。本当に惚れ惚れとする態度で、今も思い出に残っておりますわ。最後には大使からスカウトまでされていましたわ。本当なら今頃は、ローグの女王陛下の側近になっていたのではないでしょうか?」


「ほお。それはそれは。素晴らしいことだ」


 そんなことをは面白そうに語るユリカたち。対してクラウスは背中に生ぬるい汗が流れるのを感じていた。


 ユリカと出会った時、彼はアンネルの陰謀を阻止するために、ローグ王国の大使に協力を依頼していた。クラウスは大使に交渉を挑み、見事成功させていた。ユリカたちはそのことを言っているようだった。


「……閣下。その話は忘れてほしいのですが」


 そんな彼の反応に笑い出すスタール。ユリカもにこにこと笑っていた。


「ははは。そう言わないでくれ。他にも色々と君の話は聞いているからね。それらの話を聞いた上で、私は君こそが適任だと考えたんだ。君ならアスタボとの交渉も成功させてくれるとね」


 微笑みを浮かべるスタール。それが絶対の信頼を示すものだとわかるので、思わず目を背けるクラウス。


「それにこの任務は、アスタボに派遣している大使からの頼みでもあるのだよ。ぜひ、君たちに来てほしいとね」


「え? 大使がですか?」


 何故その大使が自分たち指名するというのか? クラウスが不思議がっていると、スタールが懐かしい名前を口にした。


「アンネルで世話になったアイゼンくんだよ」


「え? アイゼン大使がアスタボに行っているのですか?」


 クラウスたちがアンネルにいた時、その時アンネルで大使をしていたのがアイゼンだった。ユリカとの仕事の時も、アイゼンの協力があったのだ。


「あら。アイゼン大使があちらにいらっしゃるのね?」


 アイゼンの名前にユリカも嬉しそうに笑った。彼女にとってもいい思い出なのだろう。


「ああ。アンネルで君の交渉を見ていたからね。ぜひ君を呼んでほしいと行ってきたんだ」


「そうでしたか……」


 クラウスは複雑な気分だった。高く評価されるというのは嬉しいが、しかし過大評価ではないかと恥ずかしい気持ちもあった。


 とはいえ、頼られるというのは素直に喜ばしいことだった。思わずにやけるのが止められなかった。


「そういうわけで、私としても信頼できる人間を派遣したいと思っている。アイゼンくんも君たちがいれば仕事がしやすいだろうからね。どうだろう? 行ってくれるかね?」


 ニンマリとお願いしてくるスタール。それを受け止めるクラウス。断る理由などなかった。


「わかりました。行かせてください」


 真っ直ぐに言葉を紡ぐクラウス。彼がそう答えると最初から予想していたのだろう。ユリカもスタールも微笑みながら見つめていた。


「きっとアイゼンくんも喜ぶだろう。久しぶりに会いたいとも言っていたからね」


「そうですね。私もお会いするのが楽しみだわ」


 楽しそうに語るユリカ。確かにアイゼンとの再会を思うと、クラウスも再会するのが楽しみだった。


「でも、アスタボなんて初めてだわ。あっちのビールなんて飲んだことないから、今から楽しみだわ」


 唐突にそんなことを呟くユリカ。もう今から旅行気分のようだった。


「おい。任務に行くのであって、旅行に行くんじゃないぞ」


「あら。いいじゃない。私は行ったことがないから、とても楽しみだわ。食べたことのない料理もいっぱいあるでしょうし、わくわくするわ」


 いつもどおりのことに呆れるクラウスだったが、逆にスタールは笑いながら口を開いた。


「確かにアスタボにも美味しい料理があるからね。楽しんでくるといい」


 そんなスタールの呟きに呆気に取られるクラウス。自分だけが真剣に考えているようで、仲間外れになっている気がした。そんな彼の心情を察してか、スタールが声をかける。


「クラウスくんも真剣なのはいいが、少し肩の力を抜きなさい。少し楽しんでくるくらいがちょうどいい。特に今回は外交も関わって来るからね」


「はあ。そういうものでしょうか?」


 クラウスの反応にスタールがビールを掲げて見せた。


「君は自分の友達が遊びも知らない堅物だと、つまらないとは思わないかね?」


 いきなり何を言い出すのかとクラウスが怪訝に思っていると、スタールはさらに続けた。


「相手と交渉を成功させるには、自分との会話が楽しいものだと思わせるのが一番だ」


 スタールの言葉にクラウスが感心して頷いた。


 なるほど。確かに交渉する相手がユーモアのない人間だと、話も弾まないものだ。そういう意味では、スタールやユリカのようなタイプは、外交にはうってつけかも知れなかった。


「わかりました。ご指導、ありがとうございます」


 クラウスの言葉に満足したのか、スタールはもう一度ビールを口に運んだ。


「不可侵条約を結べれば一番いいが、中立の約束を取り付けるだけでもいい。要はグラーセンとアンネルとの戦争で、アンネル側につかないようにすればいいのだ。いいかな?」


 了解して頷くクラウス。それを認めたスタールはグラスを掲げた。


「それでは、前祝いに任務の成功を祝して」


「あらあら。気が早いこと」


 そんな風に笑いつつ、ユリカもグラスを持ち上げた。


「ほら、クラウスも持って」


「あ、ああ」


 ユリカに促されて、クラウスもグラスを持った。三人がグラスを持ったことを確認して、スタールが音頭を取った。


「任務の成功を祝して」


 三人は乾杯と叫んで、ビールを飲み干した。三人とも、気持ちよさそうに飲み干した。





「次はアスタボへの旅か。今度は長くなりそうだな」


 参謀本部の宿舎でそんな風に呟くクラウス。そんな彼の横では、ユリカが楽しそうにしていた。


「ええ、本当に楽しみだわ。何があるのかワクワクするわ」


 すでに彼女の中では旅行の計画が練られているようだ。クラウスは呆れるが、そんな彼女を見ていると、彼も少なからず楽しくなった。


「しかし、アスタボか。私はあの国については詳しくないが、君はアスタボについてどれくらい知っているんだ?」


「そうね。おじい様が何回か仕事とかで行ったことがあるらしいけど、不思議な国だって言っていたわ。同じ大陸なのに、同じ大陸の国とは思えないって言っていたのを覚えているわ」


 その言葉にはクラウスにもいくらか思い当たる節がある。アンネルに留学していた頃、大学の講義でアスタボについても講義を受けていた。話を聞く限り、グラーセンやアンネルとは変わった世界だと聞かされていた。


 例えばあちらで信仰されているのはウラル正教と呼ばれる宗教であり、こちらでは見られない宗派だ。暦ですら違うものが採用されていた頃があったらしく、今でも古い暦を使う人がいるらしい。


 しかし、それ以上にクラウスには気になることがあった。


「アスタボ、か。あの国と戦うというのは、想像したくないな」


 そんなクラウスの呟きにユリカは無言で同意した。


 かつて大陸全土を駆け抜けたアンネルの皇帝アレシア・ゲトリクス。皇帝戦争時代に大陸中の国を制圧してみせた英雄。彼は多くの国に勝利し、そのほとんどを占領して見せた。それはかつてのクロイツ帝国やグラーセン王国も同じで、グラーセンの王都・オデルンも占領されたことがあった。


 そんなゲトリクス皇帝が占領できなかった国があった。海を隔てたローグ王国と、東の大国・アスタボ帝国だった。


 アスタボ帝国も大陸での戦いで、ゲトリクス軍に大敗をしたことがあった。そんなアスタボ帝国が取った作戦が、アスタボ領内でゲトリクス軍を迎え撃つというものだった。


 ゲトリクス皇帝はアスタボを撃滅するためにアスタボ領内へ攻め込むが、アスタボ軍の頑強な守りと、そしてアスタボの厳しい冬に襲われ、皇帝にとってはじめての敗戦を喫することになった。


 この敗戦自体は小さなものだったが、しかしこの戦いが後の皇帝の失脚に繋がる最初の敗戦となった。


 そんなアスタボ帝国がグラーセンに攻め込む。あまり考えたくない事態だった。


 西のアンネルに東のアスタボ。この両大国に同時に攻め込まれれば、グラーセンもどうなるかわからなかった。


 軍や政府がアスタボとの不可侵条約を取り付けたい気持ちも十分理解できた。そういう意味では、クラウスの仕事は重大とも言えた。


「うまくいくだろうか……」


 心配そうな呟きに対し、ユリカはなんてことのないように返した。


「心配してもしょうがないわ。実際の交渉はアイゼン大使がするでしょうし、私たちはあくまで手伝いをするだけよ。必要以上に気負っても仕方ないわ」


 クラウスは何か言いかけたが、しかし事実ユリカの言う通りでもあった。自分たちはあくまで手伝いに行くだけなのだ。


 ならば、せめて邪魔にならないようにだけはしないといけなかった。


「それにせっかくアイゼン大使と再会できるのよ? 再会を楽しみにしましょうよ」


「……それもそうだな。何か手土産でも持っていくとしようか」


 クラウスの言葉にニッコリと微笑むユリカ。


「ああ、でもアスタボって確かとても寒い所だったわよね。どんな服を持っていくか、迷っちゃうわね」


 そんなことを言いながら楽しそうにするユリカ。そんな彼女を苦笑いしながら見つめるクラウスだった。






 人は赤ん坊の頃はゆりかごに揺られて眠るものだ。心地よいリズムの揺れに身体を委ね、母親の子守歌を聞きながら眠る。


 今、クラウスは横になっていた。しかし彼が横になっているのはゆりかごなんてものではない。世界丸ごと揺れる暗い部屋のベッド。それに子守歌などなく、絶え間ない波しぶきの響きが轟いていた。


 クラウスは今、アスタボへ向かう定期船に乗っていた。


 アスタボの首都・パブロフスクはドッガー海に面しており、陸路で向かうより船で向かうのが速かった。アスタボにむかうには、基本的に船を選択することになる。


 クラウスたちも船で向かうことになったのだが、クラウスは船旅というものはほとんど経験したことがなく、しかも運が悪いことにグラーセンを出発して二日目に海が荒れてしまい、船も大きく揺れたのだ。そのため船に慣れていないクラウスは船酔いに苦しめられることになった。


 いかに客船と言えど、大きな揺れにあっては船酔いになるのは仕方のないことだった。


 今は船もだいぶ落ち着いており、クラウスも回復しつつあった。しかしさすがに船酔いをしてしまったというのは、やはり情けない気持ちがあった。精神的にも気分は落ち込んでいた。


 そんな彼の部屋にコンコンと、ノックの音が響いた。誰なのかわかってはいるが、クラウスは入室を促した。


「どうぞ。開いているよ」


「はあい。気分はどうかしら?」


 そんな楽しそうな声と共にユリカが部屋に入ってきた。同じ船に乗っていたのに、何故か彼女は船酔いにはならず、むしろ船の揺れを楽しんでさえいた。その様子にはクラウスも目を見張っていた。


 ユリカが入ってくると、クラウスは気だるげな顔で体を起こした。


「ああ、少しは良くなったよ。すまなかった」


「仕方ないわよ。あの揺れだったのだもの」


 彼女はそう言って水差しを渡してきた。クラウスもありがたく受け取り、口に運んだ。寝ていても喉は乾いていたようで、とても美味しく感じられた。


「でも、そうね。申し訳ないと思うなら、今から付き合ってもらおうかしら?」


 彼女はそう言うと、笑顔で彼に近寄った。


「一緒に甲板に出ましょう? 外はきれいな景色よ」


 早く行きたいと、ユリカがワクワクしているのがわかった。元々旅好きな彼女のことだ。船旅というのも楽しいに違いないのだ。


 確かに船酔いで彼女の相手もしてやれなかった。それに外の空気を吸うのも身体には必要なことだった。


「わかった。一緒に行こう」


 クラウスがそう言うと、ユリカは彼の手を握った。


「さ、行きましょう。エスコートしてあげるから」


 そんな彼女に手を引っ張られるクラウス。恥ずかしい気もしたが、彼女の楽しそうな顔にクラウスも幾分か元気を取り戻していた。



「おお……」


 クラウスたちが甲板に出ると、確かに彼女の言うとおり、素晴らしい光景が広がっていた。


 昨日まで荒れていた海が嘘のように穏やかだった。海は美しく、遠く水平線が空に溶け込むように美しい青色を見せていた。


 一瞬で目を奪われた。さっきまでのモヤモヤした気分は吹き飛び、目の前の光景にクラウスは圧倒されていた。


「ね? 綺麗でしょう?」


 ユリカが横から覗き込んでくる。そんなもの、答えは決まり切っていた。


「ああ、とても綺麗だ。本当に、綺麗だ」


 その答えに満足したのか、ユリカが嬉しそうに微笑んだ。


 遠くでは沿岸が見えた。そこはすでにアスタボ領内のようで、街や建物が見えた。


 クラウスたちはアンネルの港町・ジズーでも海や船を見てきた。だがあちらとは雰囲気の違う海が広がっていた。ジズーがあるアルジェ海は

温暖な気候で、穏やかな印象があった。しかし彼らが今いるドッガー海は北にあり、どちらかといえば嵐吹き荒れる海という印象があった。


 しかし、それでも目の前に広がる美しさは本物だった。その事実を前に思わずクラウスが呟いた。


「世界は、本当に広いな。私が知らないだけで、こんな世界もあるのだな」


 その言葉にユリカが笑った。


「あら? 大学の図書館では、そんなことも教えてくれなかったのかしら?」


 そんなユリカの意地悪にクラウスも恥ずかしそうだった。


「そうだな。図書館の本は、私の手を引いてくれないからな」


 図書館の本を読んでも、誰も外に連れ出してはくれない。しかし今はユリカが彼の手を引っ張ってくれる。彼女がこの広い世界を教えてくれる。


 それはきっと、とても素敵なことなのだ。


 クラウスが空を見上げた。船は石炭を燃やして進む蒸気船で、船の甲板からは煙を吐くための煙突が空に伸びていた。その煙突からは元気よく煙が吐き出されていた。


 煙突から吐き出される煙は船の後方に流れていき、青空に一筋の線を描いていた。まるで、自分はここにいるんだぞと、世界に示しているようだった。


 甲板の上にはクラウスたち以外にも旅行客などが出ていた。目の前に広がる世界に子供たちが楽しそうにはしゃいでいた。


「あ、ほら見て」


 ユリカが空を指差す。空には船を追いかけるように白い鳥が飛んでいた。


「鉄道の旅も良いけど、船も悪くないわね」


 そんな彼女の呟きにクラウスが苦笑いを浮かべた。


 その時、潮風が二人の顔を撫でた。その冷たさにクラウスがくしゃみをした。


「寒いな……だいぶ北に来たみたいだな」


「そうね。明日にはパブロフスクに着くらしいから、北の冷たい風が流れているのかも」


 パブロフスクはグラーセンと比べてだいぶ北に位置しており、その分北の寒気がすぐそばにあった。今はまだ夏なのでマシだが、冬になれば海が流氷で埋め尽くされることも珍しくなかった。この海を冬に航行するのは、船乗りにとっても困難な航路であった。


 逆に言えば、その冷たい潮風が、パブロフスクが近いことを教えてくれた。


「そうか。明日には着くのか」


「よかったわね。これで船酔いには悩まされないわよ」


 クラウスの呟きに意地悪を返すユリカ。悔しいのでクラウスも一言返す。


「そうだな。君は寂しんじゃないのか? この綺麗な世界も見納めだぞ」


「あら? 大丈夫よ」


 ユリカはそう言うと、ポケットから本を取り出した。それは旅行ガイドブックだった。


「パブロフスクにも美味しいものがたくさんあるらしいわよ? 今から行くのが楽しみだわ」


 もう何度も読んだのだろう。クタクタになったガイドブックが彼女の手に握られていた。


「一緒に付き合ってちょうだいね」


 もう一緒に行くのは彼女の中で決定事項のようだった。


 クラウスは呆れつつも、ここで断るのも無粋であるとわかっていた。なので一言だけ答えるのだった。


「美味しいビールがあるとありがたいな」


 その言葉にユリカはニッコリと笑うのだった。




「うわあ……」


 船から降りたユリカが溜息を吐いた。目の前にあるパブロフスクの光景に目を丸くしていた。


 アスタボ帝国の首都・パブロフスクはグラーセンやアンネルとも一味違う、美しい街だった。北の寒い地域にあるためか、アンネルみたいに華やかな印象はない。しかし荘厳な建物が立ち並び、静かに佇むその光景は、静寂の美とも言うべき印象を見せていた。


 その光景にはクラウスも無言で見つめていた。


 パブロフスクはアスタボの長い歴史において、比較的新しい都市だ。アスタボ皇帝がここに遷都してからは飛躍的に発展し、文化や芸術分野も、西側諸国にも劣らぬものになっていた。


 特にこの街には、世界中の美術品が集められたミハイロ美術館があり、一目見ようと人々が集まっていた。


 この街を旅した歴史家は、この街を『北方のサファイア』と呼び、パブロフスクを称賛した。


「素敵な街ね」


「ああ、ちょっと寒くて震えるけどな」


 船から降りた二人は、いつも以上に着込んでいた。夏ではあるが、まだ肌寒く感じられた。


「さて、とりあえず大使館に行ってアイゼン大使と会わないと。どうやって行く?」


 クラウスが問いかけると、答えは決まっているとばかりにユリカが笑った。


「馬車で観光しながら」


 もうすでに街を見て回りたくてうずうずしているようだった。実際クラウスも街を見て見たいという気持ちはあった。二人は港にある馬車に乗り込んだ。


 馬車で街を走る間、ユリカは楽しそうに街を見ていた。アスタボは独特な建築様式をしており、グラーセンにはない建物が多くあった。それもまたユリカの好奇心を刺激していた。


「あ、見て。あれって教会かしら? 十字架があるわ」


 ユリカが指差す方には、十字架を飾った建物があった。ただグラーセンやアンネルにある教会とも違う様式で、少し不思議な形をしていた。


「ああ、あれは確かウラル正教の教会だ。信徒派や聖書派にはない建築様式らしい」


 アスタボで信仰されるウラル正教も独特の教義が信仰されており、グラーセンなどの西側諸国とは違う教会が信仰されていた。それは文化においても同じで、教会の建築様式も独特なものとなっていた。


「私も話だけは聞いていたが、実際に見るのは初めてだ。確かに面白い形をしているな」


 クラウスも大学や書物などで勉強はしていたが、実際に見るのはこれが初めてだ。彼も興味深く見つめていた。


「あ、見てあれ」


 またユリカが声を上げる。彼女の視線の先には、荘厳な建物があった。


「あれってミハイロ美術館じゃないかしら?」


「ああ、確かそうだな。世界中の美術品があるらしいな」


 川のほとりにある美術館を見つめる二人。まるで宮殿と思しきその建物に、二人とも目を離せなくなっていた。


 それから二人を乗せた馬車は街を適当に走った。途中、人が集まる広場を通った。広場の周りにあるレストランを見ると、美味しそうな料理が湯気を立てているのが見えた。ユリカがそれを見ているのがクラウスには面白かった。


「そろそろ大使館に行かないか?」


 しばらく走ったところでクラウスが提案する。確かに時間的にもそろそろ行かないといけなかった。


「そうね。アイゼン大使にお土産を渡したいしね」


 そう言って、ユリカがクラウスの手元にある荷物を見つめた。


 クラウスたちは出発の前、スタールから荷物を手渡されていた。アイゼン大使へのお土産らしく、彼に渡してほしいと言われていた。


「そうだな。しかし中身は何だろうな? 結局閣下も教えてくれなかったし」


 スタールからは仕事に使うのに役立つものとしか言われなかった。気になるのは、その時のスタールがにこやかだったことだ。


「何でしょうね。まあ、アイゼン大使へのお土産だもの。きっと貴重な物だわ」


「そうか……どちらにせよ、早く渡さないとな」


 そう呟くクラウス。その時、彼は気付いていなかった。ユリカがいつもの笑みを浮かべていたことに。




 パブロフスクの官庁街。そこにグラーセン大使館があった。二人が馬車を下りると、彼らを出迎えるようにグラーセン国旗がたなびいていた。


 祖国の御旗。それを見るだけでほっとするのだから、不思議なものだ。クラウスたちはしばらく見つめていた。


「さ、行きましょう。アイゼン大使も待っているわ」


「ああ、そうだな」


 二人はそう言って、大使館の門を潜った。その二人を職員が出迎え、二人を使館の一番奥の部屋に案内してくれた。


「どうぞ、こちらです」


 職員がドアを開く。それに続いて二人も部屋に入った。懐かしい人がそこにいた。


「お久しぶりです」


 アイゼンが二人を嬉しそうに迎える。そのアイゼンに二人も笑顔を返した。


「お久しぶりです。アイゼン大使。お元気そうで何よりです」


「アンネルでお世話になって以来ですわね」


「あの時は色々ありましたね」


 お互いに暖かな笑顔を交わす三人。アンネルのことを思い出し、三人とも楽しそうに笑った。


「もう街は見て回りましたか?」


「ええ。馬車で見て回りましたが、とても素敵な街ですわ。早く歩いてみたいですわ」


「それはいい。美味しい料理も色々ありますから、時間ができたら食べに行くといいでしょう」


 そんな二人を見つめながら、クラウスは自分の手に握られている鞄を思い出した。スタールから渡されたアイゼンへのお土産だった。


「そうだ。アイゼン大使。スタール閣下からお土産を預かっております。どうぞ」


「おお。そうでしたか。ありがとうございます」


 鞄をアイゼンに手渡す。アイゼンはその場で鞄を開けると、中から何かを取り出した。何かの手紙のようだった。


 中身が気になっていたクラウスは、何気なく質問した。


「アイゼン大使。中身は何ですか? 何か貴重なものと伺っていますが?」


「ああ、これですか? 親書ですよ」


「……は?」


 思わず固まるクラウス。そんな彼をユリカが面白そうに笑っていた。


 親書とは国家元首や政府首脳が相手国の元首・首脳に送る外交文書である。間違っても『お土産』などという扱いをしていいものではなかった。


「えっと……親書って、本当に?」


「ええ。我らが国王陛下の署名も入ってますよ。見ますか?」


「……いえ、やめておきます」


 そんな畏れ多いもの、興味本位で見るものではない。そんな貴重なものを軽い感じで扱うアイゼンの姿が信じられなかった。


「というか、親書なんて大事なものを何も言わずに持たせるなんて、閣下は何か間違いでも?」


「いえいえ。いつもの閣下の悪戯ですよ。こういうことがお好きな人ですから」


「悪戯?」


 その時、クラウスは横にいるユリカを見た。彼女は面白そうに笑っていた。


「……そうなのか?」


 クラウスの問いかけにユリカはいつもの笑みを浮かべた。


「今のあなたの顔、おじい様が見たら喜ぶでしょうね」


 どうやらユリカは気が付いていたらしい。思わず頭を抱えるクラウスだった。


「ははは。でも本当に助かります。少なくとも交渉の道具として、これ以上のものはありませんからね。ありがとうございます」


 アイゼンはそう言って、親書を金庫に入れた。


「さて、もうすぐ夕食の時間ですね。よろしければご一緒しませんか? お二人の冒険譚も聞かせていただければありがたいのですが」


 大使館の食事。それは一流ホテルのシェフにも劣らぬもの。他国の賓客にも振舞う料理を作る大使館の料理人たち。絶対に美味しいに違いなかった。


「あら。それなら御言葉に甘えましょうかしら? ねえあなた?」


「あ、ああそうだな」


 アイゼンの誘いを断るのも悪い気がした。それに正直クラウスも、大使館で振舞われる食事というものに興味があった。


「我が大使館自慢の料理人たちですよ。何かご要望はありますか?」


「そうですわね……」


 少し考えこんだ後、ユリカが答えた。


「アスタボの美味しい料理と、こちらのビールをお願いできますか?」


 その言葉にアイゼンはニンマリと笑った。





 大使館の食卓に暖かな料理が運ばれた。アスタボの伝統料理、そしてアスタボで作られたビールなど、一言で言えば『ユリカが好きそうな料理』がテーブルに並べられた。


 アスタボは寒い気候のためか、体を温める料理が多い。特にスープ料理が豊富で、テープルの上に温かそうなスープが並んでいた。スープから昇る湯気まで食べられそうだった。


 また、甘いソースで煮込んだ肉料理もあり、とろけるように柔らかい肉が、口全体に広がっていった。その隣に並ぶライ麦パンは真黒で、これも癖になる美味しさだった。


 それらを肴に飲むビールは、確かに美味しかった。グラーセンとは違う味わいが、クラウスたちを楽しませた。


「ほう、お二人はビュルテンにも行かれたのですか?」


「はい。他にはシェイエルンにも行きました。そこで色々な仕事をしてきましたよ」


 クラウスたちの土産話をアイゼンが楽しそうに聞いていた。酒が入っていたこともあるのか、他愛ない話も弾んだ。


「色々なところに行きましたが、そこで出会った人はみんな素晴らしい人たちでした。彼らの協力もあって、統一事業もここまで進めることができました。幸運な出会いでしたよ」


 ビュルテンでもシェイエルンでも、色々な人と出会ってきた。彼らとの出会いがなければ、統一事業もここまで進んだかどうか、わからなかった。


 人脈は資産であるとよく言われるが、それが大事であることがよくわかった。


 そんなクラウスの言葉にアイゼンが笑った。


「きっとあっちの方も同じことを考えていますよ。クラウスさんと出会えたことは幸運だったと」


「そうだと嬉しいですね」


 軽いお世辞なのだろうと思い、微笑みを返すクラウスだが、そんな彼にアイゼンがさらに続けた。


「私も貴方に出会えたことは、幸運だと思っていますから」


 真っ直ぐに向き合うアイゼン。その顔がお世辞ではないと語っていた。そんなアイゼンを真っ直ぐに見ることができず、クラウスはビールを飲んで誤魔化した。


「あ、ああ。ありがとうございます」


 クラウスの反応が面白いのか、アイゼンの笑みがますます深くなる。


「あら、それは嫌だわ」


 すると、ユリカが口を開いた。意外な言葉にクラウスが思わず驚く。怪訝な顔をしていると、ユリカが笑顔で答えた。


「この人と出会えた幸運は、私が独り占めしたいと願ってますのよ? 取らないでくださいます?」


 悪戯な笑みを浮かべるユリカ。その言葉に乗っかるようにアイゼンも口を開いた。


「おやおや。これは失礼。気をつけましょう。あまりにクラウスさんが魅力的なので、つい口説きたくなるのですよ。男の私から見ても、魅力的ですから」


「ふふ、それは否定しませんわ」


 そんな軽口を交わすユリカとアイゼン。それを横で聞かされていたクラウスは耳が熱くなりそうだった。


「お二人とも、そういう冗談はやめてほしいのですが」


「あら、もちろん冗談じゃないわ。全部本当だもの」


「ええ、全部本当ですよ」


 クラウスの言葉にも二人同時に返してくる。アイゼンの意外な一面にクラウスも戸惑いを見せていた。


「ははは、失礼。つい楽しくて。お酒のせいということにしておいてください。それにクラウスさんと出会えたというのは、本当に幸運だと思っているのですよ」


 アイゼンはそう言ってビールを飲んだ。それから、彼はその顔を外交官のものに変えていた。


「貴方とこうして、また一緒にお仕事できるというのは、本当に助かりますから」


 その瞬間、ぴりっとした空気が広がった。その空気に反応したのか、ユリカから口を開いた。


「ふふ、私たちにどんな仕事をお任せするおつもりかしら?」


 楽しそうに会話をする二人。対してクラウスは緊張を覚える。一体どんな仕事を言い渡されるのか、緊張が増した。


「お二人も聞いていると思いますが、私の任務は、我がグラーセンとアスタボとの間に不可侵条約を結ぶことなのです。仮に条約を結ぶことができなくても、アスタボに中立を確約するだけでもいいのです」


 それはスタールからも聞いた話だ。アンネルと戦争する時に、アスタボに背後を襲われないようにするための戦略であると。 


 そして、アスタボからはいい返事がもらえていないということも。


「アスタボは、アイゼン大使の口説き文句にもなびいてくれないらしいですわね?」


「ええ、その通りです。フラれてばかりですよ。どうも私には魅力がないようでしてね」


 苦笑いを浮かべるアイゼン。これまでアスタボと交渉してきたのだろうが、あまり色よい返事は買ってこないようだ。アイゼンの苦労がよくわかった。


「しかしアイゼン大使。実際アスタボはどう考えているのでしょう? グラーセンとアンネルとの戦争が起きたとして、アスタボはどちらに利するつもりなのでしょう?」


「いや、実を言うとそこが一番困っているところなのです」


 クラウスの問いかけにアイゼンが肩をすくめる。


「色々と交渉はしているのですが、アスタボの真意がわからないのです。グラーセンにつくのか、アンネルにつくのか。それとも中立を守るつもりでいるのか。アスタボ政府の真意がわからず、私もほとほと困っているのですよ」


 なるほど。それは確かに困りものだ。相手の真意がわからないというのは、それだけで不気味なものなのだ。だって、何をするつもりなのか、わからないからだ。


 もしかしたら何もしないと見せかけて、本当は背中に銃を隠し持っているのかもしれないのだ。


「ちなみに交渉は誰と?」


「主に大臣であるハープサル閣下としております。彼がこの国の政治を動かしておいでなのです。あと、皇帝陛下であるフォードル陛下ともお話をしておりますが、お二人とも腹の内を見せてくれません。二人とも、一筋縄ではいきませんよ」


「その二人はどのような御方なのでしょうか?」


「フォードル陛下は帝位に就かれてから、この国の近代化を推し進めております。御父上から帝位を継いでから、積極的に改革を進めております。大臣はそんな陛下の政治をよく助け、同じように改革に尽力しておられます。陛下が国を治めるようになってから、アスタボは大きく発展しているようです」


 アスタボはアンネルやローグと比較して、近代化が遅れている。数年前までは鉄道の敷設も進んでいなかったらしい。ここまで発展したのも、フォードルが帝位に就いてからだという。


「ですので、他国の外交に関わることなく、内政に力を注ぎたいというのが、本音なのかもしれません」


「なるほど。それなら彼らの態度も納得できますね」


 今は他国との争いより、国内の安定と発展を望んでいる。それがアスタボの真意かも知れなかった。


「どちらのせよ、皇帝陛下をはじめ、アスタボ政府がグラーセンとアンネルとの戦争にどう動くのか、態度を決めかねているのは本当のようです」


 そこまで言い終えたところで、アイゼンは二人に向き直った。


「お二人には彼らの真意を探っていただきたいのです。彼らの腹の内がわかれば、こちらも交渉しやすくなります。お願いできますか?」


 その言葉にクラウスが緊張する。今度は情報部のような仕事ではなく、外交のテーブルなのだ。本当の意味で国家を動かす仕事になる。今までとは比較にならないくらい大きな規模の仕事だ。


 その重さを肌で感じたクラウスは、思わず問いかける。


「そのような大きな仕事、私にできるとお思いですか?」


 その問いかけを受けたアイゼンは笑みを浮かべた。


「アンネルでローグのドストン大使を唸らせたクラウスさんなら、お任せできます」


 クラウスはかつて、アンネルでローグ王国のドストン大使との交渉で、見事に交渉を成功させている。それを間近で見ていたアイゼンの言葉。その言葉は信頼に満ちていた。


「クラウスさんにできないなら、他の誰にもできないでしょう」


 それはある意味最高の誉め言葉であり、同時に意地悪な謳い文句でもあった。他の誰にもできない。そう言われて断れる人間など、そうはいないだろう。


 この言葉にどう反応するかで、その人物の才覚が試される。少なくとも、クラウスは手放しで喜べる人間ではなかった。


「……正直、難しいとは思います。相手は国を背負う人間です。私のような人間に上手く渡り合えるのか、不安です」


 相手は長く国家を支えてきた人物だ。対して少し前まで普通の留学生だったクラウス。その経験も立場も大いに差があった。馬鹿にされても仕方のない立場だ。


 しかし、と思う。そんな自分を信頼してくれる人がいる。その信頼を前に首を横に振ることができないのも、クラウスという人物だった。


「そんな私でよければ、せめて邪魔にならないようにだけは、がんばります」


 その言葉ににっこりと笑うアイゼン。そんな二人を微笑みながら見つめるユリカ。


「期待していますよ。クラウスさん」


 アイゼンが信頼の言葉を返してくれた。その言葉が助けになったのか、クラウスの不安も幾分か消えるのだった。

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