第一章 宰相閣下

 頭脳労働の集団と言えど、参謀本部もやはり軍隊である。基本は戦闘集団であり、常に体を鍛えることに余念がない。当然のことながら、参謀本部には、体を鍛えるための施設があった。


 そこにクラウスがいた。彼は体を鍛えるべく、この施設で訓練に励んでいた。


 ビュルテンでの仕事を終えたクラウスたちは、それから三か月ほど任務から遠ざかっていた。俗に言う休暇と、溜まっている事務処理を命じられたのだ。


 書類の山を前にするのは辛い所だが、しかし任務のように騒動に巻き込まれないのは喜ばしいことだった。ユリカと一緒に平和な時間を享受することにした。


 さらに彼は空いた時間を見つけると、こうして体を鍛えるようになった。ビュルテンで自分の体力が衰えていることを自覚した彼は、こうして体を鍛えることを自分に課すようになった。


 彼の体から蒸気が上がっていた。まるで自分が石炭になったような気分だった。それくらい彼は自分の体が熱くなるのを感じていた。


 それだけ自分を鍛えているのだと思うと、成長に実感が持てるのだった。


「それくらいにしたら? 鍛えすぎると大事な脳まで筋肉になってしまうわよ」


 そんな声が聞こえてきた。クラウスが振り向くと、ドアからユリカが入ってくるのが見えた。


「珍しいな。君がここに来るなんて」


 お互いに笑みを交わす。


「君こそ、最近は夜遅くまで書類を片付けているだろう? 夜更かしは体に悪いだろうに」


「あら。大丈夫よ。ちゃんと夜は寝ているわ。このきれいな肌を大事にしたいから」


 そう言って自分の頬を指差すユリカ。柔らかそうなほっぺを自慢そうに示した。


 確かに彼女が寝不足になったのを見たことがなかった。夜遅くまで働いているはずだが、よほど良い睡眠の仕方をしているのか、それとも夢の精霊に愛されているのか。どちらにせよ、心配しなくとも彼女は健康そのもののようだ。


 その時、彼女がクラウスを見つめる。彼の顔というより、彼の体を観察するように見ていた。


「少し、体が大きくなったかしら?」


 彼女のそんな呟きにクラウスが面食らった。


「ん? そうか?」


「ええ。少し腕も太くなったと思うわ。やっぱり鍛えると違ってくるわね」


 人よりも観察眼が鋭い彼女の言葉だ。間違いはないだろう。クラウスには自覚はなかったが、訓練の成果が出ていると思うと、素直に嬉しかった。思わずクラウスはにやけた。そんな彼を見てユリカもニヤニヤ笑っていた。


「やっぱり男の子なのね。自分が強くなるのがそんなに嬉しい?」


「そうだな。他の兵士と比べると、まだまだだがね」


 クラウスはよく、周りにいる兵士や若手将校と混じって訓練をしていた。自分より二回りも大きい兵士たちを前にすると、自分の体の細さに恥ずかしさすら感じていた。


 元々の差があるのは仕方のないことだ。ただ同じ男としては、やはり負けたくないというのが本音だった。


 兵士に混じって訓練に励むクラウス。そんな彼の姿に周りの兵士、それに将校も好印象を持ってくれた。代々軍人を出したシャルンスト家の人間であることも手伝ったのだろう。彼に対して一定の尊敬を持ってくれるのがわかった。


 今では歓談する仲になり、時々彼らとフットボールに興じたりしている。そんな彼らと肩を並べるのは、彼には心地よかった。


「でも意外ね。あなたって人付き合いが苦手だから、あの人たちと上手くいきそうにないのに。結構仲がいいわね」


 ユリカが不思議そうに指摘する。それには彼も同意した。元々人付き合いは苦手なのに、彼らとは楽しい時間を過ごすことができる。クラウスにも不思議だった。


「やっぱり、シャルンスト家の血がそうさせるのかしらね?」


「……シャルンスト家、か」


 その一言にクラウスが何かを考えこむようにじっと黙り込んだ。


「どうしたの? 何を考えているの?」


「……いやな、私ももしかしたら、軍人になっていたかもしれないと思うと、今この状況が不思議に思えてな」


 シャルンスト家は代々軍人を輩出してきた一族だ。中には歴史書に載っている会戦で武勲を立てた英雄もいた。そんな家に生まれた彼にも、軍人になる道があった。


 ただ、時代が軍人を必要としなくなり、父親から言われたこともあって、彼は武官になることより、文官になる道を選んだ。


 今でこそ軍属として参謀本部に身を置いているが、もしかしたら最初から軍人となる人生もあったのかもしれない。


「もし軍人になっていたら、今みたいな生活を送っていたのかもしれない。そう思うと、こうして軍属としてここにいるのが、不思議だと思ってな」


 彼も軍人になることを夢見たことがある。そんな彼が一度は諦めた夢を、こうして軍属という形で不完全ながらも叶えたのだ。彼は人生の、神の采配というものを不思議に思うのだ。


「やっぱり、軍人になりたいのかしら?」


 そんな質問をユリカが投げかけた。


「……どうだろう? でも、軍人になった自分というのも、存外悪くなさそうな気がするよ」


 ここでの生活は彼にとっても悪くないものだ。もし軍人になっていたら、違う人生になっていただろう。そんな人生も歩んでみたかったと、そう思うのだった。


「私は嫌だわ」


 すると、ユリカが不満そうに頬を膨らませた。いきなり何を言い出すのかと、クラウスは驚いた。


「嫌って、何がだ?」


「だって、あなたが軍人になっていたら、私とあなたは出会えなかったかもしれないわ」


 そんな彼女の一言にクラウスがふと気付く。確かに軍人になっていたら、彼女に出会えなかったかもしれない。そもそも彼女と出会ったのは留学先のマールの街だった。軍人になっていたら留学などできなかっただろうし、彼女と出会うことはなかっただろう。


 確かにその可能性は考えていなかった。しかしそのことをユリカが不満に思っているというのが、クラウスには意外だった。


「そんなに嫌なことか?」


「だってそうじゃない? あの夜の素敵な出会いは神様からの贈り物だって、今でも思っているのよ。その後のあなたとの冒険だって、忘れられないほど素敵なものだったじゃない?」


 楽しそうに語るユリカ。その時、彼女がいつもの悪戯な笑みを彼に向けた。


「あの時、私を助けるために言ってくれた言葉だって、今でも魂に刻まれているのよ」


 彼女の笑みにクラウスは思わず顔をしかめた。彼女が言っているのは、マールで彼女を助けるために警察署で叫んだ彼の言葉のことだ。今でも思い出すと恥ずかしさで胃が熱くなるのだった。


「それ、絶対に周りに言わないでくれよ」


 思わず苦い顔になるクラウス。彼はここではユリカの補佐官という立場にいるが、周りから見ればどうしたって『男女の仲』なのだ。クラウスとユリカが一緒にいるのを見て、周りの兵士たちは面白半分、クラウスをからかうのだ。


 クラウス自身は否定はしておくのだが、それは逆効果のようで、むしろ彼らを楽しませるだけなのだ。もしあの時の言葉が広まれば、からかうだけでは済まないだろう。


 そんなことになればここにはいられない。苦い顔のクラウスに彼女は悪戯が成功したとばかりに笑うのだった。


 しかし、とクラウスは考える。軍人にはなれなかったが、こうして彼はユリカと共に歩いている。彼女の言うとおり、素敵な冒険をしてきた。今でもこうして、他愛ない歓談をしたりしている。


 そんなことを考えていると、クラウスはふと笑った。


「あら? どうしたの?」


「いや……そうだな。確かに君と出会ったことも、そう悪いことではないなと、そう思えるよ」


 そんな彼の言葉にユリカが呆れ笑いを浮かべた。


「そこはお世辞でも、君と出会ってよかったって、言ってほしかったわ」


 む、と口ごもるクラウス。それが面白いのか、ユリカがもう一度笑った。


「そういえば、何か用でもあったんじゃないか?」


「ああ、そうだったわ。仕事の話よ」


 仕事という言葉にクラウスの意識が変わった。つまり、軍から任務が言い渡されたということだ。


「今度はどんな任務だ?」


「詳しい話は私の部屋でしましょう。そこで人を待たせているから、そこまで来てちょうだい」


「人を? 一体誰なんだ?」


「さる高貴な方よ。ちょっとここでは話せないから、部屋で紹介するわ」


 一体誰だろうか? もしや軍の上層部か、もしくは政府の要人であろうか? どちらにせよ、それなりの階級であることは間違いないようだ。


「わかった。準備ができたら部屋に行く」


「ええ。それとそれなりの身分の人だから、身なりはきちんと整えてちょうだいね」


「ああ。心得た」


 そう言って部屋から出ていくクラウス。きっと彼の頭脳は、任務について一杯だったに違いない。そのせいで彼は気付かなかった。ユリカが悪戯好きの微笑みを浮かべていたのを。



 


 クラウスはユリカの部屋の前で立ち止まった。彼が持っている中で、一番身なりのいい衣服だった。軍属なので軍服ではないのは仕方ないが、それでも紳士として最低限の身なりを彼は守っていた。


 彼は衣服にシワがないことを確認してから、ドアをノックした。


 どうぞと、中からユリカが答えた。クラウスはドアを開き、中に入った。


 中に入ると、脇に立っているユリカと、部屋の奥で背中を向けている紳士の姿が目に入った。軍服ではないことから、政府の要人かもしれない。


「ユリカ大尉の補佐官をしているクラウス・フォン・シャルンストです」


 名乗りを上げるクラウス。その言葉を受けて、目の前の紳士が彼に振り向いた。


「やあ『婿殿』。はじめまして」


「……は?」


 クラウスが口をあんぐりと開いた。間抜けそうなその顔をユリカがクスクスと笑って見ていた。


 彼は思考が停止していた。驚愕を通り越して何も考えられなかった。だってそれも仕方のない事。目の前にいる人物を前にすれば、驚くしかなかった。彼は震える声を絞り出した。


「さ……宰相閣下?」


 目の前にいる人物。それは国王から信任を受けたこの国の宰相だった。


 スタール・フォン・ハルトブルク。グラーセン王国の宰相を務め、国家をまとめ、議会で戦う政治家。


 そして何より、ハルトブルク家の当主であり、つまりはユリカの祖父であった。


 要人と言えば要人だが、もはや格の違う存在だ。少なくともクラウスが会えるような存在ではないはずだ。そのスタールが、彼の前で片手を上げて軽く挨拶してくるのだ。クラウスでなくとも驚くしかないだろう。


 そんな様子のクラウスを横から見ていたユリカが、満足そうに笑っていた。


「あら? どうしたの? そんなに驚いた顔をして。天使が空から降ってきたのかしら?」


「い、いや。何で、閣下がここに?」


 混乱するクラウスが面白いのか、ユリカがますます笑みを深めた。


「あら、いやだわ。閣下だなんて。私のおじい様がここにいるのが、そんなに不思議かしら?」


 宰相を務める人物をおじい様と呼んでいる。その事実が、改めて彼女がハルトブルクの人間であることを教えてくれた。


 すると、そんな二人の様子を眺めていたスタールが大きく笑った。


「予想通りの反応で嬉しいよ。ユリカの言うとおり、婿殿は面白い人だな」


 大きな体を揺すって気持ちよさそうに笑うスタール。白い口秀の奥で彼の笑い声が響いてきた。


 ただクラウスには気になることがあった。彼はそのことを指摘した。


「あの、それより閣下。婿殿、とは?」


「ん? 君はユリカと将来を誓い合ったのだろう? そう聞いているが?」


 クラウスは背中に変な汗が流れるのを感じた。ユリカからどんな話が伝わっているのか、考えたくなかった。すると横で聞いていたユリカが悲しそうな声を出した。


「申し訳ありません。おじい様。私に魅力がないばかりに、彼の心を繋ぎ止めることができないのです。ハルトブルクの人間として、申し訳ない想いで一杯です。何と言えばいいのか」


 まるで踊るように演技するユリカ。するとスタールもわざとらしく彼女を抱き止めた。


「おお。ユリカよ。私こそ謝らなければ。彼にはハルトブルク家はあまり魅力的ではないようだ。そのせいでお前の恋を成就させられないなんて。私は当主失格だ。許しておくれ」


「おじい様……!」


 そう言って、感動の名場面を演じる二人。その二人を眺めて、クラウスは確信した。


 ユリカの悪戯好きは、スタールから受け継いだのだと。


 そんな呆れた顔をしているクラウスを、スタールはもう一度笑った。


「どうやら悪戯は成功したようだ」


「ええ、そうね。楽しかったわね」


「……閣下。戯れはよしてください」


 そう答えるので精一杯なクラウス。スタールは尚も面白そうに笑い続ける。


「すまないね。いや、ユリカからは色々と聞いている。孫をよく助けてくれていると。改めてお礼を言わせてもらう。本当なら勲章の一つでも持ってくるべきなのだが」


「あ、いや。そんなことは……いつもお嬢様についていくので精一杯です」


 スタールからのお褒めの言葉に、戸惑いつつも応じるクラウス。話せば話すほど、どこにでもいる気のいい紳士にしか見えないのだから、クラウスには不思議だ。それとも、これくらいの人物でなければ、宰相などは務まらないのだろうか?


「この悪戯もユリカから提案されたものでね。君の面白い反応が見られるということで、つい協力してしまった。想像の通り面白い人物のようだ」


「ね? 言った通りでしょう」


 二人が笑みを交わす。一体彼らの間で自分がどんな風に語られているのか? そこは気になるクラウス。


 すると、スタールの視線がクラウスを捉える。彼の顔を、瞳を、彼の全てをじっくり眺めた。一体なんだろうかと、クラウスは怪訝に思った。


「……うん。なるほど。報告では有能だと聞いているが、どうやら間違いないようだな」


 いきなりそんなことを呟くスタール。言葉の真意がわからないクラウスは思わず訊き返した。


「あの、閣下。それはどういう意味でしょうか?」


「言葉通りの意味だ。話だけは聞いていたが、実際に会ってみると、なかなか優秀なようだ」


 首を傾げるクラウス。一体何を見てそんな評価に繋がるのだろうか? そんなクラウスの疑問に答えるようにスタールが話を続けた。


「宰相なんてしていると、いろんな人物と会ったりする。自然と相手を見るだけで大体のことがわかってくるものだ。その経験から言って、君はとても優秀だと判断した」


「……閣下。さすがにそれは過大評価では? 自分はそれほど有能な人間ではありませんよ」


 本当はありがたい気持ちが大きかったが、はしゃぐわけにもいかないので、クラウスは静かにそれだけ伝えた。するとスタールは不思議そうに首を傾げた。


「君は自己評価が低いのだな。もし君が本当に有能ではないのなら、私の見る目が濁ったということになるな。できればそうでないことを願いたいところだ」


「あ、いや。そういうわけでは……」


 さすがに謙虚すぎただろうか。宰相にそこまで言わせては申し訳なかった。


「……ところで何か任務があると伺っているのですが、何か大事なお話があるのでは?」


 半分誤魔化す形で本題に入ろうとするクラウス。するとスタールの空気が一瞬変わった。


「おお、そうだ。実は君たちに仕事をしてもらいたいんだ」


 そう語るスタールの目は、政治家特有の鋭さが見え隠れしていた。思わずクラウスが姿勢を正した。


「クラウスくん。もう知っていると思うが、我がグラーセンはクロイツ帝国の復活。帝国の再統合を目指しているというのは知っているかな?」


「はい。政府と軍はそのために活動していると伺っています」


 そもそもクラウスはユリカと共に、その統一事業のために活動しているのだ。


「そこまで知っているならよろしい。もう隠す必要もないから言っておこう。実は近いうちに、政府は今まで内密に進めていた統一事業を、公式に発表することを決定した」


 クラウスの心臓がドクンと高鳴る。ユリカもニンマリと笑みを深めた。


 今までは諜報活動など、表に出ない形での活動がほとんどだった。いくらか感づいている人間はいるだろうが、政府は公式にこの計画を認めてはいなかった。


 それを公式見解として発表するのだ。統一事業が加速することは間違いない。


「そうですか……ついに動き出すのですね」


「そうだ。より一層忙しくなるだろう。君の頭脳に期待させてもらう」


 本格的に歴史が、世界が動き出そうとしている。その一端を自分が担う。そのことを思うと、クラウスは静かに興奮した。


「ただ……発表する前にある問題を取り除きたいと思っている」


「問題、ですか?」


 スタールほどの男が懸念とする問題。それは一体何であろうか? 


「君たちにはシェイエルンに向かってほしい」


「シェイエルンですか?」


 シェイエルン。それはグラーセン王国の南に位置する国だった。


 まだクロイツ帝国が存在した時代。グラーセンと共にシェイエルンも帝国の構成国の一つだった。帝国にあって、その国力はグラーセンにも劣らぬもので、ある意味ではこの大陸の隠れた列強とも言うべき存在だった。


「やはりシェイエルンも帝国に引き入れるおつもりですか?」


 帝国を復活させるというのであれば、シェイエルンを引き込むのは当然のことだった。


 しかし、さっきスタールは懸念と口にしていた。


「閣下。シェイエルンに何か問題でもあるのでしょうか?」


 この前のビュルテンみたいに、シェイエルン側に反発でもあるのだろうか? クラウスが不安に思っていると、スタールが口髭をなでながら口を開いた。


「ふむ……時にクラウスくん。君は宗教を信仰しているかね?」


 いきなりの質問に面食らうクラウス。意図のわからない問いかけに一瞬思考が停止した。


「それほど熱心というほどではありません。教会には時々行きますが……」


「宗派はやはり、信徒派か?」


「え、ええ。家が代々信徒派なので、自分も信徒派ではありますが……」


 ますます話が見えてこない。スタールが何を言いたいのか、クラウスには見当もつかなかった。そんな困惑気味のクラウスに、スタールがその答えを教えた。


「実はシェイエルンでは、『信徒派』と『聖書派』との間で、対立が起きているらしいのだ」


 信徒派と聖書派の対立。それは同じ神を戴く者同士の、長きに渡る対立の話だった。





 今までにこのユースティア大陸では、多くの戦争が起きた。その中で中世に起きた最大の戦争が、宗教による戦争だった。


 それまで大陸では、教会を頂点とした世界を作っており、世界は宗教によって統治されていた。


 クロイツ帝国が健在だった頃、教会も同じように強大な力を持っていた。かつては皇帝よりも教皇こそが、世界の覇者だった時代があった。


 大陸の全ての人々が神の信徒となり、教会は国境や民族を超えて、人々を統治し、人々は神の福音に安らぎを得ていた。


 しかし、長く支配するということは、次第に腐敗することに繋がる。神を戴く教会も結局は人の集まりであり、そこに人の思惑が介在する以上、どうしても腐敗が起きるものだ。


 教会の腐敗により大陸では人々の間に不満が生じた。不公平な課税や聖職者による散財。さらには政治的腐敗など。そうした問題は、人々の生活を圧迫するようになった。


 自浄機能を失った教会に対し、人々は失望と憤りを覚えた。そんな状態から人々は教会からの離脱を宣言した。ここに宗教革命が起きたのである。


 それまでの教会から離脱した人々は、自らを信徒派と称し、新しい宗派として大陸に生まれ落ちた。一方、古くからある教会にそのまま残った人々は、聖書派として教会に残った。


 ここに同じ神を戴く二大宗派が誕生した。その後に起こるのは、宗派による対立だった。


 クロイツ帝国で生まれた信徒派は、瞬く間に大陸に広まった。その結果、大陸の国々は聖書派と信徒派に分かれ、それぞれの陣営に分かれて対立するようになった。


 最後には中世における最後の宗教戦争を引き起こし、大陸に大きな傷跡を残すことになる。


 それから長い時が経った。宗教革命は教科書の用語となり、人々が『神のために』戦う時代は終わった。それでもその後も聖書派と信徒派の対立は残り、今も人々の間で揺れ動いていた。



 


 グラーセンは国民のほとんどが信徒派を信仰している。国教と言っても差し支えないほどだ。クラウスのシャルンスト家も、そしてユリカのハルトブルク家も信徒派だ。


 それとは相対するように、南のシェイエルンは聖書派の割合が多く、信徒派と二分する勢力となっていた。


 そうなると、程度の差はあれシェイエルンでは二つの宗派による対立が起こることも珍しくなかった。


「なるほど。宗派対立ですか……最近は対立もなく、穏やかだと聞いていましたが」


「ふむ。私もそう思っていたが、その対立もここ最近のことのようだ。ただ対立が問題ではない。そもそも聖書派という存在が問題なのだ」


 同じ神を戴く異なる宗派。それは関係ないようでいて、とても大きな問題だった。


「シェイエルンは元々が大きな国だ。帝国だった時代もそれなりの地位を持っていた。だから彼らはクロイツ帝国の人間であるより、シェイエルン国民であることの方に意識が傾いている。聖書派を信仰する彼らが信徒派との対立を深めれば、我がグラーセンと共に帝国を構成することに難色を示す可能性もあるのだ」


 確かに難しい問題だ。シェイエルンも帝国に招き入れたいグラーセンとしては、宗派を超えて帝国に入ってほしいところだが、聖書派であるシェイエルン国民から拒否されてもおかしくはなかった。


「それに彼らが聖書派というのも、我々にとっては別の意味で脅威なのだ」


「別の意味、とは?」


「もし彼らが帝国に来なかった場合、シェイエルンは他の聖書派の国と結びつきを強くする可能性がある。それはグラーセンにとっては好ましくない状況となる」


 わかりやすい懸念だった。シェイエルンが聖書派の国ならば、当然彼らは同じ聖書派の国と手を組む可能性がある。それはグラーセンにとっては脅威になりかねなかった。


 そして、その『他の国』という言葉にクラウスには見当がついていた。それはグラーセンにとって最も厄介な相手だった。


「閣下。閣下が本当に恐れているのは、シェイエルンがアンネルと同盟を組むこと、ということでしょうか?」


 スタールは何も言わなかった。それは肯定を示す沈黙だった。


 アンネルは聖書派の最も大きな国だった。国民のほとんどは聖書派を信仰しているし、今でも教会との結びつきは強かった。


 グラーセンが本当に恐れていること。それはシェイエルンがアンネルと手を組むことなのだ。もしこの二つの国が手を結んだとすれば、グラーセンは二正面から挟み撃ちにされることになる。何としても避けたいシナリオだった。


 クラウスの話を聞いていたスタールは、静かに笑い出した。


「なるほど。そこまですぐに答えを導き出すというのは、やはり君は末恐ろしい男だな。さすがはローグ大使を惚れさせた男だ」


 感心するようにスタールは頷いた。どうやらアンネルでのローグ大使との会談のことも聞いているらしく、そのことを評価しているようだ。クラウスは少し照れ臭かった。


「ね? この人とのお話は楽しいでしょう?」


「ああ。聞いていた通りだ。老いぼれた頭脳には良い刺激になる。話していて楽しい気分だ」


 ユリカとスタールは二人して笑い出した。二人の間でクラウスのことがどんな風に話されているのか? 少し不安になるクラウスだった。


「まあ、さっきも言ったように政府は帝国の再統一事業を正式に発表することになる。その時にシェイエルンが統一に賛同するかどうかは、今後の政策に大きく影響することになる。シェイエルンの動向ひとつで、帝国の地図が大きく変わることになるだろう」


 グラーセンが目指す帝国統一。その統一された帝国にシェイエルンが参加するか否か。それは大きな問題だった。シェイエルンが統一に賛同すれば、それだけ他の国も統一に参加してくれる可能性が高くなる。逆にシェイエルンが参加しなければ、シェイエルン以外にも不参加を表明する国が出てくる可能性がある。


 いずれ誕生する帝国の地図が変わるかもしれない。それどころか最悪、この大陸の地図に帝国の名前が載ることがなくなるかもしれない。このまま歴史の教科書でしか、クロイツ帝国の名を見られないかもしれなかった。


 その時、スタールの視線がクラウスに注がれた。それはこの国を治める宰相の顔だった。


「クラウスくん。君たち二人にはこの問題を解決するために、シェイエルンに向かってほしい。参謀本部にはすでに話を付けてある。どうか政府が統一事業の発表をする前に、シェイエルンをこちら側に傾けてほしい。やってくれるか?」


 宰相からの直々の命令だった。まさか宰相ほどの人物から直接言葉を受けるとは、去年までのクラウスなら想像もしていなかっただろう。


 しかし、今自分は歴史が動く場面に立ち会っている。そのことを考えると、クラウスは自然と昂揚していた。それは少年が抱くような冒険心のような、一言で言えば『情熱』が熱を帯び始めていた。


 クラウスはその情熱を原動力とし、力強く答えた。


「わかりました。やらせてください」


 そんなクラウスの顔を見て、彼はどう思っただろうか。スタールはただ頷くのみ。一方、それを横で見ていたユリカは、ただ静かに笑みを零すのだった。

 


 

「君たちは似た者同士なのだな」


 クラウスの唐突な呟きを、ユリカはニンマリとした顔で受け止めた。


「一体何のことかしら?」


「まさか閣下まで巻き込むなんて、想像もしてなかった。閣下も面白そうに悪だくみに協力するとは。君のその性格は、閣下から受け継いだようだな」


 先ほどのクラウスへの悪戯のことを言っているのだろう。呆れるようにぼやくクラウスを、ユリカは今さらという風に笑っていた。


「あら? それはおじい様の素敵なところを受け継いだと、誉めているのかしら?」


「ああ、そうだな。素敵すぎて開いた口がふさがらないよ」


 そんなことを言うクラウスだが、それすらも楽しいのか、ユリカはコロコロと笑うのだった。クラウスにとって悔しいのは、そんな風に笑う彼女も悪くないと思ってしまうことだった。


「しかし、シェイエルンか。今度は長旅になりそうだな」


 そう言ってカバンに荷物を入れ込むクラウス。二人はクラウスの部屋で出発の準備をしていた。何度目かの旅だが、さすがに準備も手慣れたものになっていた。


「そうね。今度も楽しい旅になるといいわね」


 ニヤリと笑うユリカ。本当に楽しいだけの旅になるのであればよいが、これは任務なのだ。また何か危険なことに巻き込まれないかと、クラウスはつい不安になる。


 特に今回は信徒派と聖書派による宗派対立が起きているのだ。聖書派の多いシェイエルンに行けば、対立に巻き込まれないとも限らない。警戒心が強くなる。


「シェイエルンに行くのは久しぶりだわ。あそこも素敵な街だから、とても楽しみだわ」


「ほう? 君はシェイエルンに行ったことがあるのか? やはり閣下と一緒に?」


「ええ、そうよ。首都のベッケンに行ったことがあるわ。中世に建てられた大聖堂が残っていて、魅力的な街だったわ」


 シェイエルンの首都・ベッケンは聖書派の中心地となっている。中世に建てられた大聖堂が今もその姿を残していた。


 しかしクラウスにはそれ以上に気になることがあった。


「ユリカ。一応聞いておくが、君たちハルトブルク家も信徒派だよな? シェイエルンに行って、何か言われたりしなかったのか?」


 今とは状況も違うだろうが、信徒派の人間が聖書派の街に行って、何もなかったとは思えなかった。実際に行ってきたユリカたちは何もなかったのだろうか?


 クラウスの問いかけにユリカは少し考えた後、何でもないという風に答えた。


「特に何も? そもそもおじい様が言っているみたいに、対立みたいなこともなかったわよ? ベッケンには聖書派も信徒派も同じ街にいたし、聖書派の人たちも私たちのことは歓迎してくれたわ。外から来た旅行者ってのもあったかもしれないけど、街の中でケンカみたいなこともなかったわ」


 意外な答えにクラウスも戸惑いを見せた。さっきスタールが言っていたことと真逆の答えだった。


「日曜日の礼拝は、街に一つしかない聖書派の大聖堂に行ったわ。そこには聖書派も信徒派も集まって礼拝していたわ。それぞれ細かい作法は異なっていたけど、みんなで同じ賛美歌を歌ったわ。だから、さっきのおじい様の話も正直驚いたわ」


「そうなのか……」


 クラウスが一瞬思考する。スタールの言う対立も、ここ最近のことだという。何か対立の起きる原因でもあったのかもしれない。昔とは時代も違うのだ。何かがあったとしてもおかしくはなかった。


「そういえば、もうすぐ降臨祭ね」


 ユリカが唐突に呟いた。降臨祭とは神が世界に降り立った日を祝う日のことで、宗派の区別なく、教会にとって最も重要な祭日だった。


「そういえばそうだな。できれば降臨祭までに帰りたいところだが……」


「あら? 早く帰りたいの?」


 クラウスの一言にユリカが不服そうな顔を見せた。


「せっかくの降臨祭よ? せっかくだからあっちで祝いましょう? 絶対その方が楽しいわ」


 まるで駄々をこねる子供みたいな言い草だった。


「遊びに行くわけではないぞ? 早く終わるのなら、それに越したことはないだろう?」


 呆れるように語るクラウスに、ユリカは溜息を返した。


「あなたって本当に無粋ね。せっかくの降臨祭よ? 神は言われたわ。『貴方たちに祝い事があるのなら、隣に住む人とも一緒に祝いなさい』と。あなたは楽しみを一人で独占するタイプなの?」


 聖書を引用したユリカの言葉にクラウスも反論できなかった。それほど熱心ではないとはいえ、彼にも少なからず信仰心はあった。神の言葉に反するのもいい気分ではない。


 それに彼も顔には出さなかったが、聖書派の街で降臨祭を迎えるというのも、多少なりとも興味はあった。好奇心が熱を帯び始めていた。


 そんな彼の顔に、ユリカは自分の顔を近づけて言った。


「ね? 行きましょうよ」


 クラウスは思わず声を上げそうになった。整った顔立ちだとは思っていたが、そんな彼女の顔をここまで間近で見たのは初めてだった。特徴的な大きな瞳で見つめられて、さすがに戸惑うしかなかった。クラウスは顔を横に向けた。


「……まあ、そうだな。君の言うとおり、あっちで降臨祭を楽しむのも悪くはないな」


 実際興味がないわけではないのだ。神の御言葉に従って、あちらで祝うのもいいだろう。


 そんな彼の言葉を受けて、ユリカが嬉しそうに笑った。


「そうと決まったら、私も準備しないといけないわね」


 そう言って彼女は踵を返し、ドアに向かって行った。


「私も準備をしてくるわ。降臨祭用の素敵なドレスを用意してくるから。それじゃ」


 そんなことを言って、楽しそうに彼女は部屋から出て行った。


 そんな彼女をやれやれといった様子で見送るクラウス。どうやら今回も、楽しい旅になりそうだと思った。



 



 一週間後。二人はシェイエルンの首都・ベッケンに降り立った。


 かつてクロイツ帝国内でも大国として発展した国。その首都であるベッケンも、やはり大都市と呼ぶにふさわしい都市だった。


 グラーセンと違い南に位置する国だからか、グラーセンとは少し違った雰囲気があった。歴史的・文化的にも南の国々と接してきたためだろう。


「ここがベッケンか……」


 白い息を吐きながら、クラウスが興味深そうに眺めていた。中央駅から見たベッケンも帝国だった頃の名残は残しているが、やはり独特の空気が感じられた。


「やっぱり、素敵な街だわ」


 後ろからユリカの声が届いた。クラウスが振り向くと、冬の装いをしたユリカがこちらに歩いてきた。グラーセンで流行している女性用のコートを見事に着こなしており、周りにいる人々が何度も振り向いて、彼女を見ていた。


 彼女の口からも白い息が吐き出される。シェイエルンは南の方にあるので、グラーセンよりは温暖なのだが、それでも冬の気配を忘れさせることはなかった。


「さて、これからどうする?」


「とりあえず宿に向かうわ。もう泊るところは決めているから、今から行きましょう」


 ユリカがそう言うと、二人はすぐ近くにある馬車に乗り込んだ。


 街を走る間、ユリカは車内から外を眺めていた。もうすぐ降臨祭も近いからか、街中が降臨祭の準備をしていた。お店や飲食店は降臨祭のための装いをしていたし、人々も降臨祭を間近にして、少し興奮した様子で街を歩いていた。


「あ、ほら見て。あそこのお店、降臨祭のパンケーキを焼いているわ。美味しそうだわ」


 そんなことを言いながら、彼女は鼻歌を歌いながら街を眺めていた。降臨祭が楽しみなのだろうか、無邪気に笑っていた。


 クラウスも子供の頃は降臨祭が楽しみだった。シャルンスト家の屋敷でも祝い事をしたし、その日は家族だけでなく、メイドたちも一緒になって楽しんだものだ。正直、今でも降臨祭が来ると楽しい気持ちになれた。


「あ、見て」


 ユリカが声をかける。クラウスが外を眺めると、この街の主人とも言うべきものが見えてきた。


「あれが、大聖堂か……」


 それはベッケンの信仰の結晶、ヴィッテルス大聖堂だった。建設は中世と呼ばれる時代に始まり、二百年もの時間と人々の信仰を投じて完成された、教会建築の傑作のひとつだった。


 今も多くの信者が大聖堂に足を踏み入れている。観光客もいるのだろうが、やはりその大多数はこの街に住む信者たちだ。中に入れない者は大聖堂を前に膝をつき、祈りを捧げていた。


 クラウスも熱心ではないが、大聖堂を前にして、色々思うところがあった。

「素敵ね」


「……ああ、そうだな」


 クラウスは馬車の中で、静かに祈りを捧げた。信徒派である自分の祈りが通じるかはわからなかったが、それでも祈らずにはいられなかった。



 しばらく走ると、馬車は大きな橋を渡り始めた。


「この橋の向こうが信徒派の街よ」


 ユリカがそう言って、橋の向こう側の街を指差した。


 ベッケンという街は、大きく川を挟んで東と西に分かれていた。西側は聖書派が住む街で、今彼らが向かっているのが、信徒派が住む東側の街だった。


 街を分断する川にはいくつか橋が架けられているが、今渡っている橋が一番大きく、この街の中心となっていた。


 どの世界でもそうだが、同じ集団は同じ場所に集まってひとつのコミュニティを作る。そんな癖が人間にはあるようだ。それは信仰の世界も同じらしく、信徒派と聖書派はそれぞれ同じ場所で集まってい生活していた。この街ではそれが顕著に現れていた。


 この街で特殊なのは、それぞれの街で行政区が置かれていることだった。聖書派の西側と信徒派の東側は、それぞれが独自に政治を行っている。それぞれで市長がいるし、議会もある。警察署もそれぞれが持っていて、お互いに独自の行政権を持っていた。


 言い換えれば、一つの街に川を挟んで、二つの市があるようなものだった。


 ユリカが言うには、信徒派の街にホテルがあるらしく、そこで寝泊まりをすることになるという。


「街の中心から離れているが、いいのか?」


 今から向かう街も不便というわけではないが、中心からは少し外れている。もう少し良い場所に泊まっても良いとも思えたが、これも仕方ない事情があった。


「仕方ないわ。あっちは聖書派の街でしょう? 本当に対立があるかはわからないけど、話が本当なら信徒派の私たちが滞在するのはまずいでしょう?」


 なるほどと思う。話では信徒派と聖書派で対立が起きているのだ。話が本当なら信徒派の自分たちがあちらに滞在するのは確かに危険だ。


「本当はあっちの大聖堂が見えるホテルに泊まりたかったのだけどね。残念だわ」


 本当に残念そうに言うものだから、きっと本気でホテルを探していたに違いない。あれほどの大聖堂なのだ。クラウスも気持ちはわからなくもなかった。


「あなたがグラーセンにいた頃は、教会には行っていたの?」


「ん? そうだな……熱心というほどではないが、やっぱり教会の集まりには参加していたな。降臨祭もそうだし、故郷にある教会には親と一緒に通っていたよ」


 シャルンスト家も代々軍人という家系だからなのか、神への信仰心は強かった。やはり戦場で命のやり取りをするというのは、自然と神への

祈りが強くなるものかもしれない。


「君はどうだった? やはり降臨祭などは楽しみにしていたのか?」


「それはそうよ。一年に一度のお祝いなんだもの。子供の頃は大好きだったわ」


 昔を懐かしむように語るユリカ。まるで子供のように笑っていた。


「ハルトブルクの街全部が飾り付けられて、とてもわくわくしたわ。降臨祭になると、屋敷で家族全員で御馳走を食べるの。いつもは途中で止められるケーキも、その日は好きなだけ食べられたの。他にも滅多に出てこない料理があって、どれを食べようか迷うところから始まるの」


 降臨祭は神が世界に降り立った日を祝う祭日だ。その日は街は彩られ、人々は一年の最後を締めくくるお祝いをする。誰も彼もがお祭りに参加するのだ。


「食事を食べ終えたら、今度はみんなで教会に行くの。そこで降臨祭の祈りを捧げたわ。私は子供の頃、教会で聖歌隊に選ばれて、降臨祭の讃美歌を歌ったこともあるのよ」


「ほう。そうなのか?」


 ユリカの意外な一面に感心するクラウス。そんな彼の反応にユリカも得意気になる。


「教会で他の子たちと並んで、みんなで賛美歌を歌ったわ。お父様とお母様。それにまだ宰相になっていなかったおじい様もいて、私を誇らしげに見てくれたわ。まだ幼かったけれど、あの時は人生で一番の晴れ舞台だって思ったわ」


 そう語るユリカの顔も、とても誇らしそうに輝いていた。彼女の中でも数少ない自慢話なのだろう。実際クラウスは感心していた。


 クラウスにとって、彼が知っているのはアンネルで出会ってからのユリカであって、彼女の過去のことはあまり知らない。だから今みたいに彼女の過去を知るというのはとても面白かった。


「ねえ? よかったら今度の降臨祭で、讃美歌を歌ってあげましょうか? 上手くできるかわからないけど」


 その提案に少し驚くクラウス。ユリカに賛美歌を歌ってもらうというのは、あまり想像できないことだった。しかし逆に彼女がどんな歌を歌うのか、興味があるのも事実だった。


「……そうだな。せっかくの降臨祭だ。ぜひ聞かせてもらおうか」


 クラウスの言葉にユリカがにんまりと笑う。楽しみで仕方がないと言った様子だった。


「ねえ。せっかくだから歌のお返しに、何かしてくれないかしら?」


「ん? お返し?」


 いきなりの言葉にクラウスが戸惑いを見せた。


「そうよ。せっかくの降臨祭なんだもの。私だけが賛美歌を歌うのも不公平だわ。あなたからも何かしてくれてもいいんじゃない?」


 ユリカを見る。キラキラと目を輝かせる彼女を見ると、とても断れる雰囲気ではなかった。


「まあ、別にかまわないが、何をしてほしいんだ?」


 クラウスの問いかけにユリカが少し考えた後、にっこりと笑って答えた。


「今はまだ秘密。降臨祭までに考えておくから、その時お願いするわ」


 にっこりと笑うその姿に何を要求されるのか、不安を覚えるクラウス。少し早まったのではないかと、後悔し始めていた。そんなことを知らないユリカは、すでに楽しそうに笑っていた。

 


 馬車は信徒派の街を走っていた。信徒派と言えど、やはり同じように降臨祭の準備に忙しく、こちらでも街は色鮮やかに飾られていた。


 その時、馬車に衝撃が走った。


 何かに乗り上げてしまったのか、馬車が大きく揺れて、車内で荷物などが大きく跳ね上がった。


「きゃ!」「わ!」


 車内にいた二人の体も大きく揺れた。ユリカが体を大きく打ち付ける。その前でクラウスの体に二人分の荷物が飛んできた。


 揺れが収まると、外から御者が顔を見せてきた。


「大丈夫ですか! お客様!」


「あ……はい。なんとか」


 ユリカがなんとか答える。少し体は痛いが、骨が折れたりはしていないようだった。


「申し訳ありません。段差に乗り上げてしまったようでして。お怪我は?」


 ユリカがクラウスを見た。一気に血の気が引いた。頭に荷物がぶつかったためか、頭部から少し血が流れていた。


「大丈夫!? 血が出てるわ!」


「ん……大丈夫だ。血が流れているだけで、他は何ともない」


 そうは言うがさすがに心配になるユリカ。御者も顔を青くした。


「すいません。どこか診てくれる病院まで連れて行ってくださいませんか?」


「ああ、それならすぐ近くに病院があります。そこに行きましょう」


 御者はそう言って、もう一度手綱を握った。とにかく急ごうと馬を走らせた。車内ではユリカがハンカチを取って、クラウスの頭に押し当てていた。


 少し走ってから、馬車は目的の地に辿り着いた。クラウスたちは馬車から降りるのだが、やはり頭への一撃が重かったのか、クラウスの足取りはふらついていた。


「先生! 怪我人です! 先生!」


 御車が御者がドアを叩く。すると中から女性が一人、姿を現した。


「……どうか、されましたか?」


 クラウスたちが女性を見た。その雰囲気に二人は息を飲んだ。


 不思議な女性だった。美しい刺繍を施したヴェールを被り、そのヴェールからは美しい顔と綺麗な瞳が見え隠れしていた。


 何より印象的だったのは、彼女からまっすぐに向けられる瞳だった。とても綺麗な瞳だ。しかし、まるで全てを見通すかのようなその瞳は、クラウスたちを捉えて放さなかった。思わずクラウスは身じろぎした。


 女性を前に御者も一瞬戸惑うが、すぐに事情を説明した。


「ああ、失礼奥さん。実は私の馬車でお客様に怪我をさせてしまったんです。先生はいらっしゃいますか?」


「そうですか……申し訳ありません。今主人は出かけていますの」


 女性がもう一度クラウスたちを見た。ユリカが握るハンカチはクラウスの血で真っ赤に染まっていた。


「……とりあえず、中へどうぞ。私も簡単な処置はできますので、主人が来るまで休んでください」


「あ、ありがとうございます」


 少し戸惑いつつも、クラウスたちは中に入ることにした。




 クラウスが椅子に座ると、すぐに簡単な処置が始まった。ユリカがクラウスの怪我を見た。


「傷は小さいけど、まだ血が流れているわね。まず止血しないと」


 すると部屋の奥から先ほどの女性がやってきた。その手には救急用具が握られていた。


「こちらをどうぞ。使えるものがあれば何でも使ってください」


「ありがとうございます。助かりますわ」


 ユリカは救急用具を受け取り、すぐにクラウスの傷に押し当てた。清潔な布がすぐに赤く汚れた。


「申し訳ない。勝手に道具を使わせてもらって」


 クラウスが謝罪するが、女性は特に気にした様子もなく、首を横に振った。


「大丈夫です。ここにある道具はそのためにありますから。主人には伝えておきますので」


 相変わらず不思議な雰囲気だった。クラウスは彼女について色々気になっていたが、聞いておきたいことがあった。


「失礼。先ほどから主人と仰っているようですが。それにあなたのことを奥さんと言っていたし、もしかして……」


 すると女性はぼんやりとした様子で、クラウスに応えた。


「はい。マイスは……ここのマイス先生は私の主人です」


 主人と言った瞬間、女性の顔が少し変化したように思えた。気のせいか、顔が紅くなっているようにも見える。


 その時、女性があ、と声を上げた。


「主人が帰ってきました。すぐに呼んできますので、待っていてください」


 そう言って彼女はその場から退室していった。


「よかったわ。私では本格的な治療はできないから、医者に診てもらわないと。他にも痛いところはない?」


 ユリカが問いかける。しかしその問いかけにクラウスは何も答えず、考え込むように黙り込んでいた。


「どうしたの? やっぱりどこか痛むのかしら?」


「おい。気付いていたか?」


「……? なんのこと?」


 首を傾げるユリカ。そんな彼女にクラウスは口を開いた。


「あの女の人。聖書派の信者だったよな?」


「……あ」


 ユリカも思わず声を上げてしまった。クラウスの言うとおり、あの女の人は聖書派の信者だった。


「あの人が被っているヴェール。あれは聖書派が被る伝統的なものだ。首元にも聖書派の人が持つ十字架があった。たぶん間違いない」


「そういえばそうね……あっちの聖書派の街でも何人か被っていたわね」


 聖書派には独特の風習がある。彼女が被っているヴェールも聖書派の伝統文化であり、ロザリオも聖書派でしか持つことがないものだった。


 別に彼女が聖書派であることはおかしくはない。ベッケンには多くの聖書派の信者が住んでいるのだから。問題は、『信徒派の街』に聖書派の人間がいるということだった。


「何か、あるんだろうか……?」


 思案する二人。すると部屋の向こうから二人分の足音が聞こえてきた。


「遅れてしまって申し訳ありません。貴方が患者様ですか?」


 やって来たのは眼鏡をかけた温和そうな青年だった。見た目はクラウスと同じくらいで、医者でその若さというのも、クラウスたちは驚かされていた。そんな彼の後ろには、彼の妻が立っていた。


「頭から出血してますね。ちょっといいですか?」


 医者はそう言うと、クラウスの頭部を診た。傷を一通り見終えると、他にも怪我がないか観察した。


「どうやら他に怪我はなさそうですね。他に痛みはないですか?」


「大丈夫です。血の匂いで少しぼんやりとしているくらいです」


「わかりました。それではすぐに治療を始めましょう。そちらの方。少し退室してもらってもいいですか?」


「あ、はい。お願いします」


 退室を促され、部屋の外に出るユリカ。外では先ほどの女性が立っていた。


「あ、えっと……奥様、でいいのかしら?」


 どう呼んでいいかわからないユリカは、とりあえずそう呼ぶことにした。


「奥様もありがとうございます。助かりましたわ」


「……いいえ、私は道具を持ってきただけです。特に何もしていません」


「そんなことありませんわ。どこに道具があるかわからないから、とても助かりました。お名前を伺っても?」


 すると女性はヴェールを脱いだ。顔を露わにして、ユリカに顔を向けた。


「……ヨハンナ。ヨハンナと言います」


 ユリカは初めて、同性に見惚れていた。シルクのような漆黒の髪。大人びた涼しい顔立ち。全てを見通すような瞳。その全てが、美しいと感じていた。


 ユリカはヨハンナに膝を曲げ、礼を尽くして名を告げた。


「私はユリカ。ユリカ・フォン・ハルトブルク。改めて、お礼申し上げます」


 それをどう受け取ったのか、ヨハンナは何も答えず、再びヴェールを被るのだった。



 


 ユリカが部屋に入ると、頭に包帯を巻いたクラウスがいた。その横には医者もいた。


「終わりました。出血も止まりましたので、包帯で押さえています。他に痛みが出るようでしたら、申し出てください」


 その光景にほっとしたユリカは、医者に向かって頭を下げた。


「ありがとうございます。心よりお礼申し上げます」


「先生。自分からもお礼を」


 ユリカとクラウスが揃って頭を下げる。すると医者は軽く笑った。


「いえ、とんでもない。こちらこそお礼をお伝えしたいくらいです」


 そう言って、医者はユリカの方へ顔を向けた。


「そちらが応急処置をしてくれたのですか?」


「あ、はい。簡単な処置ですけど」


「いやあ、見事なものです。手際が良く、無駄がない処置でした。ああいった処置をしてくれるだけでも、医者としてはありがたいものです。どこかで勉強を? 少なくとも家庭で教えられるようなものではないと思いますが?」


「あら、とんでもない。親戚に医者がいましたので、簡単な処置方法を教えられましたの。あまり自信はありませんでしたが、お医者様に誉められたのであれば、自慢できますわね」


「ははは。一番自慢できるのは、あなたに教えたお医者様でしょうね」


 さすがに軍で訓練を受けたなどと言えたわけもなく、ユリカがとっさに言い繕った。クラウスもドキリとしたが、できる限り平静を装った。


「改めて、私はマイス・ハーネマンと言います。ここで医者をやっています。見たところ、グラーセンからの旅行者ですか?」


「ええ、よくわかりましたね」


「この街では見知らぬ人間は目立ちますからね。特に今の時期は、グラーセンからの旅行者が多いですから。でも、懐かしいですね。自分も昔は、グラーセンで医学を学んでいましたよ」


「あら、そうでしたか。これも何かのご縁ですわね」


 お互いに和やかな雰囲気で会話が進んだ。不幸な怪我ではあったが、これもある意味では幸運なことかもしれない。クラウスはそんな風に思った。


 その時、部屋にヨハンナが入ってきた。


「……どうぞ」


 彼女はそう言って、ユリカとクラウスにコップを差し出した。


「ああ、ありがとうございます」


 そう言って、彼女はまた部屋から退室した。


「あちらは奥様ですの?」


「ええ。そうです。そういえば私がいない間、彼女が相手してくれたと。何かご不便おかけしませんでしたか?」


「とんでもない。あの方がいてとても助かりましたわ。奥様にもお礼を」


「そう言ってくれてありがたいです。少し愛想がないので、失礼をしてないか心配ですが、何事もなければよかったです」


 そんな風に困ったように笑うマイス。きっとヨハンナはいつもあんな感じなのだろう。きっと悪い人ではないはずだ。 


 それを一番わかっているマイスは、彼女のことが心配なのだ。それは見てわかることだった。


 きっといい夫婦なのだろう。ユリカはそんな風に思っていた。


 


「怪我が痛むようでしたら、我慢せずにいらしてください。できることでしたら、定期的に来ていただきたいですが、旅行の邪魔はできません。気が向いたらでいいですので、またいらしてください」


「わかりました。怪我が旅行の邪魔をするようでしたら、またお願いします」


 そう言って、お互いに握手を交わすクラウスとマイス。気が合うのか、クラウスは彼と話すのが心地よかった、これなら怪我でなくても、遊びに来たいくらいだった。


 握手を終えると、クラウスとユリカは待たせてあった馬車に乗り込もうとした。


「お待ちください」


 その時、病院からヨハンナが姿を現した。その手には小さな箱が握られていた。


「これをお渡しします。必要になったら使ってください」


 ユリカが箱を受け取る。中を開けてみると、それは包帯などが入れられた救急箱になっていた。


「どうか、良い旅を」


 そう言ってヨハンナが両手を組んで、二人の旅の安全を祈ってくれた。


 クラウスたちはその様子に見惚れていた。その姿がまるで、聖書に出てくる聖母のように思えたからだ。


「……ありがとうございます。大事に使わせていただきますわ」


 ユリカはそう言って、救急箱を大事に受け取った。


「それでは、いずれまた」


 クラウスたちはそう言って、馬車に乗り込んだ。馬車は静かに走り出す。


 クラウスたちが後ろを見ると、マイスとヨハンナがずっと手を振ってくれるのが見えた。



 


 目的のホテルに到着した。クラウスが御者に代金を払おうとすると、御者はとんでもないと言い出した。


「お怪我をさせてしまったのに、代金を頂くなんてできません。そのままお納めください」


「いや、それほど大きな怪我でもないし、それにこれは正当な代金です。受け取っていただきたい」


「しかし、本来なら治療費だってこちらが支払うべきなのに、出さない上に代金まで受け取るなんて、それこそできません。信用にも関わります。どうか」


 言われてみれば確かにその通りだ。彼らにも事情はあるのだろうが、かと言って支払わないのも悪い気がする。どうしたものかと悩んでいると、ユリカが横から入ってきた。


「それでしたら、また私たちを乗せて馬車を走らせていただきませんか? 明日から街を回りたいの。見知った方が運んでくれるのが安心できますし、どうでしょう?」


「ああ、それでしたらお安い御用です。それならお二人が滞在中はいつでもお声をかけてください。馬車を空けておきますので」


 これもこれで御者に悪い気もするが、いつでも使える移動手段というのは確かにありがたいものだ。ここは好意に甘えることにした。


「そうそう。私たち、グラーセンからの旅行なんですけど、あっちの大聖堂にも行ってみたいと思ってますの。私たち信徒派ですけど、教会は受け入れてくれますかしら?」


 いきなりユリカがそんなことを言い出した。どうやら御者からこの街の内情を探ろうとしているらしい。彼女らしい機転だった。


「ああ、そうでしたか。それなら大丈夫と思いますよ。大聖堂は街の名物ですし、よく観光客も来ます。外国からも礼拝に来る人はいますからね。ただ……」


 そこまで言いかけて御者の顔が曇った。言うべきかどうか迷っているようだ。


「何か、ありました?」


「いえね。最近どうも聖書派の間で、信徒派に対する風当たりが強くなってましてね。時折聖書派と信徒派の間で小競り合いなんかが起きているんですよ」


 御者は苦い顔をしていた。せっかくの旅行客に街の悪い印象を話すのが辛いようだ。


「そうでしたか……でも、そちらは聖書派ですよね? 信徒派の我々と話をして大丈夫なんですか?」


「変な対立をしているのは一部の人たちでね。よくわからないが、自分たち教えを守ろうとか騒いでいるんですよ。私はこの街は長いし、信徒派の人たちとも良くやってきました。同じ神の子である人たちを悪く思うことはありませんよ」


 困ったように笑う御者。変な騒ぎを起こしている彼らを、苦く思っているようだ。


「ただ、時々小競り合いが起きているのは本当のことです。そちらも街を歩く時は気を付けてください。騒ぎに巻き込まれないとも限りませんので」


「なるほど。わかりました。貴重なお話、ありがとうございます」


「必要な時はまた呼んでください。良い旅のお手伝いをさせていただければ幸いです。それでは」


 御者はそう言って、馬車に乗り込んで走り出した。


 残された二人はそのままホテルに入った。部屋に入ったところで、ユリカがクラウスを見た。彼の頭に巻いた包帯に手をやった。


「大丈夫? 痛むかしら?」


「ああ、大丈夫だ。マイス先生はいい腕をしているよ。それに君も治療してくれたからな。ありがとう」


「痛むならすぐに言いなさいね」


 本当に心配そうに語り掛けてくる。いつもは悪戯ばかりしてくるが、こういう時は真剣に心配してくれるのだ。そのギャップがクラウスに戸惑いを生じさせた。


「どうしたの? 変な顔をして?」


「……いや、なんでもない。そういえば、さっきのマイス先生とヨハンナさん。信徒派と聖書派で結婚されているんだな。少し驚いたな」


「そうね。そういう人もいるとは思っていたけど、実際に見るとさすがに驚くわね」


 クラウスは思い起こす。自分たちに向かって祈りを捧げてくれたヨハンナの姿を。彼女は自分たちが信徒派の人間であることを知っていたのだろうか? その上で彼女は自分たちに祈りを捧げてくれたのだろうか?


「あの人たちも、神様に祝福されたのかな?」


 いきなりクラウスはそんなことを呟いた。あまり宗教に関心のない自分の呟きとは思えなかった。あの大聖堂を前にして、自分の中の信仰心が刺激されたのかと、クラウスはそんな風に思った。

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