第六章 偽りであっても

 下宿に向かって歩くクラウス。マールは今日も喧騒に包まれ、いつもの笑顔に溢れた街だった。


 途中、クラウスを怪訝そうに見つめる人がいた。指差す者までいた。


 酒臭かったか、それともどこかおかしくなっていたのか、思わず不安になった。


 特にどこもおかしくはない。もしかしたら一晩飲み明かしたことで、人相が一層悪くなっていたのかもしれない。見れば警官たちが街を巡回していた。不審者扱いされるのも面倒なので、彼は足早に下宿に向かった。


 そうして下宿に辿り着いたクラウス。そこは昨晩、クラウスが国を動かした場所。歴史書には残らないし、誰も記憶しないことだ。でも、確かにここでクラウスは歴史を動かしたのだ。


 正直信じられないことだった。でも、先ほど彼女と握手した時に感じたぬくもりは、確かに現実のものだった。


 そのぬくもりは、ユリカと過ごした数日間が夢ではないことを教えてくれる。誰に話しても信じてもらえないだろう話。自分だけの思い出になる数日間だ。


 それでいい。これはそれだけの話なのだと、クラウスはそう思うことにした。


「クラウスさん! クラウスさん!」


 そんな乱暴なノックがクラウスを現実に引き戻した。それは聞いたことのある声だった。クラウスは振り向いて、ドアを開いた。そこには血相を変えたタウルスがいた。


「あ! クラウスさん! 今までどこにいたんですか! 心配しましたよ!」


 挨拶もおざなりに非難するようなタウルスの言葉。そういえば数日間ここにいなかったことを思い出す。きっと行方不明ということで心配をかけていたのだろう。さすがにクラウスも迷惑をかけたと思った。


「すまない。ちょっと急用ができてしまったんだ。連絡もせずにすまなかった」

「そうでしたか。今までどこにいたんですか? 警察に捕まったのかと思いましたよ」

「警察?」


 警察という言葉にクラウスは嫌なものを感じた。どうしてそこで警察が出てくる? 不安を覚えたクラウスは怪訝な顔のまま問いかけた。


「おい。警察がどうしたんだ?」

「知らないんですか? 最近警察が大きな事件の捜査をしているらしくて、怪しい人物を次々と警察署に連れて行っているらしいんです」


 クラウスは話の内容を理解できずにいた。どうしてそんなことになっている? そんな疑問が彼の中に渦巻くが、答えなどわかりきっている。理解することを無意識に拒否していた。


 事件とはユリカのことを言っているに違いなかった。夜の駅に侵入して、彼女はそのまま捕まることなく逃走した。まだ解決していない事件なのだから、捜査が続いているのは当たり前だ。


 それでもクラウスは質問した。それは自分を落ち着かせるための問いかけだった。


「事件て何だ? 警察は何を調べているだ?」

「さすがに僕も知りません。ただ警察はアンネル国民はもちろん、外国人も捜査をしているみたいで、警察はこの街にいる外国人を全て捜査の対象にしているみたいです」


 ドクンと、心臓が嫌な鼓動を始めた。タウルスの話はどうしても、クラウスに嫌な想像を抱かせた。


「今日も街で捜査が行われていて、外国人は一旦警察署に連れて行かれるみたいです。僕も昨日は聴取を受けましたよ」

「おい。聞きたいことがあるんだが、街で外国人が連行されているんだよな? グラーセン国民も?」

「ええ、もちろん。他の留学生たちも連れて行かれたみたいです」


 クラウスはもう一つ質問した。それは否定されることを期待しての質問であり、そんなことはないと答えてほしかった。彼はその質問を投げかけた。


「なあ、今日警察に連れて行かれた人の中に、女性はいなかったか? 青いドレスを着た長い金髪の女性なんだ。見ていたらわかると思うんだが」


 タウルスは不思議そうに首を傾げた。


「その人かはわかりませんけど、確かに青いドレスを着た女性が連れて行かれるのを見ましたよ。駅で警察に聴取されて、そのまま連れて行かれました。お知合いですか?」


 聞きたくない答えにクラウスは天を仰いだ。


 もはや明白だ。連れて行かれたのはユリカだ。きっと警察は彼女を犯人だと考えているはずだ。さすがに拷問をされることはないだろうが、あまりいい想像もできない。


 彼女を救い出さないといけない。しかしどうすれば? 考えを巡らせたクラウスは、さっき脱いだコートをもう一度手に取った。


「クラウスさん?」

「悪い。また出かける」


 そう言って彼が向かった先は、グラーセン大使館だった。



「アイゼン大使!」


 クラウスが執務室に入ると、そこには暗い顔をしている大使の姿があった。彼はクラウスに顔を向けると、全てを察したように言葉をかけた。


「その様子だとお聞きになったようですね。お嬢様のことを」


 アイゼンがそう言うことは、やはり連れて行かれたのはユリカで間違いなかった。


「やはりユリカは連行されたのですね」

「そうです。ただ逮捕されたわけではないので、危害が加えられることはありません。もちろんそんなことをすれば、正式に抗議はしますけど」

「ではユリカの身の安全は保障されているのですね?」


 アイゼンのうなずきにクラウスは胸を撫で下ろす。


「しかし、どうしてユリカは連れて行かれたのですか? 捜査が行われているとは聞いていますが、どうして連行までされるのですか?」

「簡単に言えば、人質ですよ」


 その時、アイゼンが初めて冷酷な感情を見せた。思わずゾクリとするクラウス。アイゼンは人質という言葉の意味を説明した。


「アンネルは今回の自分たちの計画が漏れたことを察したのだと思います。我々がローグに協力を要請したことも含めて。しかしアンネルとしては今更計画を止めたくはない。計画を遂行するために、お嬢様を人質として利用しようと考えたのでしょう」

「待ってください。どうしてそこでユリカが出てくるのですか? 確かにユリカは事件の当事者ですが、人質とは一体?」


「おそらくアンネルはお嬢様がハルトブルク家の人間であることを知っています。その上でお嬢様の身柄を確保することで、人質として交渉材料にするつもりです。つまり、お嬢様を解放してほしければ、ローグとの協力を中止せよ。とね」


 唖然とするクラウス。一人の人間を外交交渉に使うなど、そんなことあり得るのだろうか?


「そんなの、交渉として成立するのですか? 人の命を使ってまで国家間の交渉に用いるなど、許されることですか?」


「許す許されぬはともかく、お嬢様はハルトブルク家の御令嬢。人質としては大いに価値のある人間です。お嬢様の解放を条件にこちらの思惑を中止させるのは、交渉としては十分に成立します。むしろ人質一人で自分たちの計画を成功させようとしているのです。アンネルからすれば十分に採算の取れる行いです」


 クラウスは絶句した。人の命を使ってまで国家の繁栄に利用しようとするその精神性に。クラウスは外交官、そして政治家というものの本性を見せられた気分だった。


 国家の大事の前に個人の小事が考慮される余地はない。そんなことはクラウスにもわかっていたことだ。


 だが、勘違いしていた。わかっていたと誤解していた。クラウスは今、真の意味で言葉の意味を理解した。こんなにも簡単に人の命と国家の命運が天秤にかけられるのだ。彼は目の前で起きていることを信じたくなかった。


 ただ、今はそんなことを考える時ではない。クラウスはアイゼンに詰め寄った。


「大使館からは抗議できないのですか? ハルトブルク家の人間が連行されたのです。グラーセンとしては抗議する理由は十分にあると思いますが?」


「もちろん大使館からも抗議はしました。しかし外国人に対する捜査権はお互いに認められた権利です。捜査や連行をそのものは非難できません。それにお嬢様に危害を加えているわけでもないので、こちらとしては抗議する理由はありません。むしろ余計な干渉として非難される可能性もあります」


 アイゼンの言うとおり、今のところアンネルがやっていることに違法性はなかった。抗議しようにもアンネルに非はないのだ。


「それなら身分を証明すればいいのでは? ハルトブルク家の人間であることを証明すれば解放されるのでは?」


「その通りです。ですが警察はもう一つ、解放に必要な条件として、アンネルでの滞在理由と所在の証明が必要であることを提示してきました。それができなければ釈放できないと」


「アリバイということですか……」


 アンネルの言うことも最もだ。女性が一人で異国を旅する。怪しまれてもおかしくない。仮にユリカが一人旅であることを証明しても、それなら滞在中はどこで何をしていたか? その証明が必要になる。


 当然スパイ活動のために駅や港にいたなどと、言えるはずもない。だが所在証明ができなければ、ユリカはこのまま拘留されることになる。


 つまりユリカを解放するには、ローグへの要請を取り下げるか、アンネル滞在中の所在証明をしなければならないのだ


 どうするべきか? クラウスは自問を繰り返すが、誰かが答えてくれるはずもなかった。リンゴが木から落ちてくるように、答えが降ってくることなどないのだ。


「どうしたらいいんですか?」

 自分を苦しめる問いをアイゼンに投げかけてみた。その言葉にアイゼンは冷酷な表情を消すことはない。彼はその胸の内の冷酷さを言葉にした。それは言葉にするのも吐き気を催すものだった。


「我々は本国に対して一つの問いかけをしました。もし本国の許可が下りれば、お嬢様の身の安全を無視してでも、我々はアンネルの計画を阻止するべきなのか? と」


 一瞬の静寂が部屋を包んだ。本当に時間が止まったかのように、クラウスは全ての思考を停止させた。アイゼンが言い放った言葉を受け止めたくなかったからだ。


 それでもアイゼンは冷徹な言葉を口にし続けた。


「グラーセンがお嬢様の命より、アンネルとの対立に勝利することに利益があると考えるなら、本国はお嬢様を見捨てるでしょう」

「何故ですか!」


 クラウスの拳が机を殴りつけた。その怒りはアイゼンに対するものではなく、ユリカを切り捨てようとする祖国に向けられたもの。彼はその怒りをアイゼンにぶつけた。


「大使もご存知でしょう? あの子は祖国を愛し、祖国のために働いているのです。それなのに、そのユリカを祖国が裏切るというのですか? それがグラーセンの答えだと?」


 ユリカは祖国への愛を。クロイツ統一という夢を語っていた。その輝く瞳は、祖国への愛に満ちていた。


 彼女は間違いなく国を愛していた。その愛国心が彼女の原動力、生きる力、グラーセン国民であることの誇りが、彼女の血液なのだ。


 そんな彼女を祖国は裏切るというのか? そんなことがあっていいのか? そんなことはあってはいけないと、クラウスは憤った。


「クラウス様。これはお嬢様の言葉です。もし自分と祖国、どちらかを選ぶ時が来れば、その時は迷うことなく祖国を選んでほしいと」


 憤りに狂いそうなクラウスにアイゼンの落ち着いた言葉が届いた。その言葉にクラウスは冷静さを取り戻し、もう一度アイゼンに向き直った。

「ユリカが?」

「クラウス様。この数日、お嬢様と同行されたあなたならわかると思います。あの方は愛国心の塊のような人。そんなお嬢様が祖国と自分を天秤にかけた時、何を選ぶのか? 想像できませんか?」


 そんなこと、わかりきったことだ。この仕事を続けてきたユリカのことだ。こういう状況を想定していないはずがない。そしてそうなった時、彼女が何を選ぶのか。簡単な話だった。

 逆にもしユリカの意思とは裏腹に彼女を助けたとしよう。彼女はきっと悲しみと憎しみを抱くに違いない。祖国へ貢献できなかった自分に対しての悲しみと憎しみを。


 その時、クラウスの右手に痛みが走った。知らないうちに強く握りしめてしまい、少し血が滲んでいるのが見えた。


 ユリカを助けられない悔しさで、力が入ったのだ。


 息も絶え絶えになっていた。それでもかろうじてクラウスは声を発した。


「助けることを、諦めろと?」


 何とか発した言葉も途切れがちだった。自分の思考が正常なのか、彼自身にもわからなかった。自分の力の無さを嘆き、嫌悪すら沸き起こっていた。


「いえ、諦めません。グラーセンもお嬢様も、最後まであきらめません」


 自己嫌悪で死に至りそうなクラウスをアイゼンが救った。さっきまで俯いていたクラウスは顔を上げた。そこには毅然としたアイゼンの顔があった。


「クラウス様。我々外交官が何のためにいるのかご存知ですか? 我々は銃ではなく、言葉で他国と戦い、我が国民を守ることを責務としています。私はこの国で、グラーセン国民が不利益を被らないよう尽力してきました。私も、そしてグラーセンも国民が不幸にならないことを約束するものです。それが外交官としての私の立場なのです」


 そこには外交官としてのアイゼンの矜持があった。外交官は駐在国において、自国民を守るために活動している。アイゼンはアンネルに滞在するグラーセン国民の守護者なのだ。


 彼は守護者としての使命に誇りと責任を持っているのだ。彼はクラウスに告げた。


「少女一人を救えずして何が強い国ですか。グラーセンを、私を信じてください」


 必ず救うと、彼は言ってくれた。ただそれだけの言葉を、クラウスは心強く感じた。


「とにかく落ち着きましょう。本国にも問い合わせています。必ずお嬢様を助けましょう」


 クラウスは先ほどまでの自分を恥じた。これほど強い味方がいながら、うろたえていたことが、アイゼンに対する不敬であると思った。クラウスは素直に詫びた。


「失礼しました。お見苦しいところをお見せして」


 ユリカが助からないと決まったわけではない。必ず何か方法があるはずだ。


 クラウスは頭脳に血を巡らせる。何か知恵が生まれてくれないかと、必死で考え始めた。


 すると、彼は自分のポケットの中に何かが入っているのに気付いた。取り出してみると、それはジズーで買ったユリカとお揃いのペンダントだった。


 貝殻を二つ重ねたペンダント。クラウスはそれを持ち上げて苦笑した。ユリカと恋人としてお揃いを買ったのを思い出した。偽りで恋人になったというのに。


「……え?」


 その瞬間、クラウスは何かが沸き起こるのを感じた。それは知恵の泉から浮かび上がる、一筋の光だった。


「待て、確かにそれなら証明になる……」


 クラウスはその場を歩き回った。円を描くように思考と共に回転を始めた。


「クラウス様。どうしました?」


 クラウスの行動に怪訝そうに問いかけるアイゼンだが、その声も彼には届いてない。彼はその頭脳を稼働させていた。


 彼が今考えていることは、逆転の一手になるかもしれない。正直勝算は低い。失敗するかもしれない。


 しかし、これに賭けるしかない。できることをしなければならない。


 彼はその手に握られたペンダントを強く握りしめ、その強い決意を胸にアイゼンに向き直った。


「大使。お願いしたいことがあります」



 窓から差し込む光だけが頼りだった。薄暗い個室はホコリ臭く、息苦しかった。


 その部屋にユリカはいた。その彼女の目の前には、陰気臭い男が彼女を見ていた。


 生きているのか疑うほどに男の目は無機質だった。その目をユリカに向けながら、男は彼女に質問を投げかけてくる。


「もう一度質問します。貴方はこの国に来て何をしていたのですか? 旅の目的を教えていただけませんか?」

「先ほどから何度も答えております。この国には観光に来たのだと」

「女性がお一人で?」


 もう何度目になるかわからない会話。男の反応にユリカは内心で溜息を漏らしていた。白々しいと、苛立ちを越えて呆れてさえいた。


 ユリカを連行したのもこの男だった。男は捜査だと言いがかりをつけて、そのまま彼女を警察署に連れてきたのだ。


 男は自分を警察だと名乗っていたが、ユリカは直感していた。男は警察ではなく、おそらく自分と同じ軍の情報部か、もしくは秘密警察の類だと。


 男の生気を感じさせない無機質な目。スパイをする人間特有の匂いが漂っていた。


 おそらくアンネルは自分たちの計画が漏れていることを察知したのだ。そしてユリカたちがそれを阻止しようと動いていることも。


 ユリカを捕まえたのも、計画を成功させるために起こしたこと。自分はそのための人質であり、交渉の材料にされたのだとユリカは推測した。


 その推測が正しいことを、目の前の男が証明していた。男はユリカに向かって切り出した。


「グラーセン王国のハルトブルク家の御令嬢。そんなあなたがアンネルに一人で観光旅行に一人で来た。貴方はそう仰るのですね?」


 妙に粘着性のある声に嫌悪を覚えるユリカ。それも相手の精神を揺さぶるための話術かと思うと、いっそ感心すらしてしまいそうだった。


「そうです。疑っておいででしたら、大使館かグラーセン本国に確認してください。それで私の身分は証明されます」


 語気を強めるユリカだが、男は慣れた様子で彼女の言葉を受け流した。


「失礼。観光旅行に来たと仰いますが、それならこの数日間の貴方の所在を証明していただけないでしょうか? 私たちが捜査している事件と無関係であることを証明してくれなければ、我々としても釈放できないのです。もちろん、貴方が無関係であることを前提としておりますが、それには貴方の協力が必要なのです。お互いのためと思ってください」


 ユリカにはわかっていた、所在や身分の証明など無意味であることを。


 彼らは最初からユリカがスパイであることを把握しているのだ。だから彼女が事件の関係者であると疑っているし、ハルトブルク家の人間であることもわかっているのだ。


 すでに問題はアンネル政府の計画が遂行できるかどうかに切り替わっているのだ。彼らは計画を遂行させるために、ユリカを人質にすることにしたのだ。


 正直、ユリカは自分の迂闊さに苛立っていた。あとは本国に帰るだけと考えていたのが慢心だった。アンネルが自分を利用しようとすることなど、予想できることだったのに。


 苛立ちを抱えるユリカに男の無慈悲な言葉が突き刺さる。


「どちらにせよ、グラーセンへの確認には時間がかかります。それまではここでお待ちください」


 きっと男の胸中はいやらしい笑みを零していることだろう。もしかしたら昇進や褒章をちらつかされたのかもしれない。事実、アンネルの国策を左右する仕事なのだ。それくらいの貢献はしたと評価されるだろう。


 ユリカは怒りで震えていた。その怒りは目の前の男に対するものではなく、アンネルに対するものでもない。彼女の怒りは彼女自身に向けられていた。


 自分は祖国のために戦うことを決意したのだ。それがどうだ? 自分は今、祖国の足手まといではないか。


 女の身に生まれた。ただそれだけの理由で軍人になれず、なんとか参謀本部に入ってスパイになれば、こうして拘束されている。


 不名誉以外の何物でもなかった。自分が祖国の足枷になるなど、彼女には耐えられない苦しみだ。


 ユリカは自分のスカートに手を伸ばした。クラウスには伝えていないが、彼女はスカートの中にナイフを隠し持っていた。


 護身用という意味もあるが、もっと別の理由で持たされたナイフ。このまま祖国の邪魔になるようなら、死を選ぼう。そう考えた。本国でもそう学んでいたし、その覚悟もしていた。


 この小さな胸にナイフを突き立てて、微笑みながら死の床に就こう。目の前の男がどんな顔をするのか。その顔を見ながら笑ってやろうと、そんな風に思った。


 さあ、どのタイミングで実行しようか? 目の前を男を出し抜こうと思うと、悪戯好きな彼女の本性がうずき始めていた。


 その時、部屋の外から何かが聞こえてきた。誰かが騒いでいるのか、ざわめきみたいな騒々しさが聞こえてくる。すると、一人の警官が部屋に入ってきた。


「何事だ?」


 舌打ちする男に警官が耳打ちをしてくる。男は立ち上がると、ユリカに伝えた。


「このままここにいてください。少し席を外します」


 男はそう言って、ユリカを一人置いて部屋から出て行った。


 一人残されたユリカは、そこでやっと一息ついた。疲労を深い溜息と共に吐き出し、肩の凝りをほぐした。


 さて、どうしよう。冷静になった頭が思考を巡らせる。何か解決策を見つけないと。このままではアンネルの思惑通りになってしまう。


 焦ってはいけない。きっと仲間が助けてくれる。そう思った瞬間、彼女はクラウスのことを思い出した。


 何故かクラウスの顔が離れなかった。あの不愛想でしかめ面で、陰鬱な哲学者のような若者の数少ない笑顔が、彼女の頭から離れることがなかった。


 その笑顔が彼女を安心させる。そのことがユリカには不思議でならなかった。


 部屋の外では今もざわめきが聞こえてきた。



 そこは治安の番人。秩序の守護者。太陽の都・マールを犯罪から守る神殿。いつもは静かなマール警察署も、今は別の顔を見せていた。


 警察署に突如一人の青年が乗り込んできたのだ。言うまでもなくクラウスだった。


 彼は失礼しますとだけ伝えて、堂々と正面から警察署に入って行った。


 あまりに堂々とした侵入に警備の人間も動揺した。慌ててクラウスを制止しようとするが、クラウスは逆に歩みを強めた。


 門を潜り、中に入り、そうして多くの警官が集まる場所まで来た。クラウスの姿にざわめきが起こる。そんな彼らに対してクラウスは大きな声で叫んだ。


「ここにユリカ・フォン・ハルトブルクがいると聞いております! 即刻釈放していただきたい!」


 毅然とした態度に不愛想な表情なので、余計に迫力が出ていた。周りの警官もクラウスの圧力に戸惑いを見せる。この時ばかりは自分の愛想の悪さに感謝した。クラウスはもう一度叫んだ。


「聞こえませんでしたか? ここに連れてこられたユリカお嬢様の釈放を要求します」


 何度も同じことを叫んでいると、奥の方から数人の警官が出てきた。その雰囲気から高位の刑事たちのようだった。彼らの目が真っ直ぐにクラウスを射抜いた。


「失礼。何か騒がれているようですが、どのようなご用件でしょうか?」


 いかにもインテリ特有の不遜な態度。自分の方が立場が上なのだと、その前提で人と接するような人間だとわかった。クラウスもそれには構わず、同じ言葉をぶつけた。


「こちらにユリカお嬢様が連れて行かれたとお聞きしました。どのような事情か聞かされておらず、連れて行かれた理由も明らかにされておりません。何があったかは知りませんが、彼女が何か罪を犯したとは思えません。すぐに解放していただきたい」


 刑事たちは何を言われているのか、すぐに理解できなかったようだ。男は機嫌を悪くしたようで、クラウスを見る目が露骨に嫌なものに変わった。


「それはできません。機密によりお話はできませんが、我々は重大な事件を捜査しております。もしかしたらあの女性は何かを知っている可能性があるのです。この数日間、彼女がどこで何をしていたのか? その証明をしていただかないと、釈放することはできません」


 予想できていた答え。そもそも彼らはユリカが無実かどうかなど、そんなことはどうでもいいのだ。彼らの目的はグラーセンからの干渉を阻止することであり、ユリカはその人質だ。彼らはあの手この手で言いがかりをつけて、ユリカの拘留を長引かせるだろう。


 だがクラウスは引き下がらない。静かな言葉の中に怒りを織り交ぜながら、男に食い下がった。


「それは警察権の不当な行使ではないでしょうか? 少なくともお嬢様がどうして連れて行かれたのか、事件とどう関わっているのか、その説明が必要ではないのですか? 説明もなく機密だからと取り次ぎもできない。これは明らかに警察権の乱用です」


 これは交渉だった。こちらの要求を飲ませるための言葉という銃弾の撃ち合い。少しでも隙を見せてはいけない。一切の逆襲を許すことなく、逆転の一発を叩きこむ。今は我慢の時だ。


 クラウスの不当という言葉に苛立ちを感じたのだろう。刑事はもはや怒りを隠す気もなかった。純粋な敵意を見せ始めた。


「不当とは心外な。我々はこの国を犯罪から守る義務を負っています。それがたとえ相手が外国人であっても、その責務を遂行しなければなりません。それはアンネルと貴国との間でも取り決められたルール。一切の例外はありません。そもそも貴方は何者ですか? あの女性とどのような関係なのですか?」


 もしクラウスが何かを言えば、その瞬間に逮捕されるかもしれない。それくらい男の導火線は真っ赤に燃えていた。


 しかし、この瞬間こそクラウスが待っていた時だった。彼は待ち望んでいた逆転の一撃を男に叩き込んだ。


「私はクラウス・フォン・シャルンスト。祖国グラーセンのシャルンスト家の人間です。私とお嬢様とは、将来を約束した恋人という関係です」


 その一発はクラウスを取り囲んでいた警官たちの間にざわめきを引き起こした。


 クラウスの言葉を真っ直ぐに受け止めた男は、明らかに狼狽していた。何かを言い返したいようだが、思考がうまくまとまらず、何を言うべきか考えが浮かばない様子だった。


 しかしクラウスはその隙を見逃さない。相手が狼狽えたのなら、さらに畳み掛ける。相手に反撃させる気はなかった。


「私とお嬢様は恋人であり、将来を誓い合いました。私はこのアンネルに留学しており、お嬢様はそんな自分を訪ねてきたのです。私たちは昨日までジズーに行っておりました。お嬢様がジズーを見たいと仰ったので、それに同行したのです。この数日間のお嬢様の所在が必要なら、ジズーに行くといいでしょう。街の人々と話をしてきましたから、彼らも証明してくれるはずです」


 あの日あの場所。二人は偽りの恋人だった。街を二人で散策し、一緒に食事をして、一緒に笑い合った。本当の恋人ではないけれど、街の人々はそんな二人を、本物の恋人のように笑ってくれた。


 だったら、その偽りを押し通してやる。それがクラウスが考えた、ユリカを助け出すための方法だった。恋人と偽ることで身元保証人となり、さらにジズーでの所在証明をすることで、警察がユリカを拘留する理由がなくなる。そうすることで彼女を助け出せると考えたのだ。


 最初はユリカから提案された偽りの恋人という関係。まさかそれを自分が利用することになるとは、クラウスは想像もしていなかった。今も顔が熱くなるのを感じている。相手に気取られないか心配だった。


 クラウスの言葉があまりに衝撃的だったのか、刑事たちの間に衝撃が走っていた。クラウスと話していた男に至っては、うめき声すら上げていた。


 それでもかろうじて落ち着きを取り戻した彼は、必死に抵抗を試みた。


「あ、貴方が彼女と恋人というのであれば、それを証明することはできますか? あの人との関係を確実に証明できる何かをお見せできますか? それができなければ認めることはできません!」


 するとクラウスはポケットに手を突っ込んだ。その手に握られているのは、美しい貝殻で作られたペンダントだった。


「これはジズーで買ったペンダント。お嬢様と買ったお揃いの物です。お嬢様も同じペンダントを持っています。こちらにお嬢様を連れて来ていただければ、それを証明できます」


 クラウスの手に握られているペンダントを、男は雷に打たれたように見つめた。


 ここまで来ると惨めでさえあった。男には抵抗するだけの力はなく、もはやクラウスの勝利は明らかだった。


 しかしクラウスは同情しない。彼は最後にとどめの一撃を加えた。


「ここアンネル、そしてマールは微笑みに満ち溢れ、恋人たちは愛を育み、夫婦は共に未来を見つめる場所だと聞きました。故に『太陽が人々を祝福する街』なのだと。そのアンネルは他国の恋人たちの幸せを奪うというのですか? この街に降り注ぐ太陽の祝福は、外国人は例外だと?」


 それはアンネルの誇りを叩き潰す一言。その誇りを傷つけられるのは、彼らには耐えがたいことだろう。より効果的で、心に響く言葉だった。


「もしそうだというのであれば、我がシャルンスト家とハルトブルク家はアンネル政府に対し、両家の未来を侮辱されたとして、本国政府を通じて正式に抗議をさせていただきますが、どうしますか?」


 男にはもうどうしようもなかった。完全敗北した彼は少し待つように言うと、ふらふらした足取りでその場を後にした。


 それから少ししてから、ユリカが姿を現した。別れた時と同じ青いドレスと、もう見慣れてしまった笑顔がそこにはあった。


 その姿にホッとするクラウス。するとユリカが微笑みを浮かべながら、クラウスに抱きついた。


「待っていたわ。クラウス」

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