第四章 少女の呟き
ジズーに来てから数日が経っていた。その間にも街を歩き回り、色々な場所で情報を集めるも、特に有益な情報は集まらず、大きな進展がないまま日々が過ぎていた。
ユリカは各国で活動している諜報員の報告書を読んではいるが、そこにも有力な情報は見つからなかった。
そうこうしていると、例のクルノー社の貨物船が出港の準備を始めたと耳にした。乗組員たちは荷物の積み込みで大忙しだという。
アンネルの陰謀を探るための捜査だったが、もしかしたらこの活動に意味はないのかもしれない。
アンネルは何も企んではおらず、グラーセンにも大きな影響はないのではないか?
それでもいい。それで徒労に終わるであればその方が喜ばしい。ユリカが本国に送る報告書に『異常なし』と記載するだけで済むのだから。
しかしクラウスには言い表せない不安があった。このまま見過ごしてしまえば、何か大きな災いが起きてしまうのではないか? そんな確信のない不安がクラウスにはあった。
おそらくそれはユリカも同じだった。彼女にいつもの笑みはなく、深く考え込むことが多くなっていた。
二人分の沈黙が部屋に満ちていた。しかし、沈黙から何かが生まれるはずもなく、生まれるの焦りと苛立ちだけ。
深い深い思考の渦に飲み込まれるクラウスたち。沈黙だけがその部屋を支配していた。
だからだろうか? 沈黙に満ちた部屋にぐぐぐうぅ~、と腹の虫の泣き声が大きく聞こえた。
ユリカが顔を上げる。そこには腹を抑えて顔を背けるクラウスの姿。
「すまない」
彼はそれだけ呟いた。昔から考え事をすると食事も忘れることもあったが、腹の虫が鳴るのを聞くのは久しぶりだった。
ユリカの顔が数舜固まった。その直後、彼女は大きな声で笑い出した。
「まあ。とても大きな胃袋なのね? そんな大きな虫を飼っているなんて。さぞ食費がかさむのでしょうね」
さすがにクラウスも恥ずかしさに顔を赤くする。その様子が余計におかしかったのか、ユリカの笑いがさらに止まらなくなった。
しばらく笑った後、彼女はその笑みのままクラウスに声をかけた。
「ねえ、今から外に出ない? 何か食べに行きましょう」
「は、はあ?」
そんな気軽さで提案するユリカ。いきなりのことに戸惑うクラウスだが、彼の返事も聞かずにユリカは外出の準備を始めた。
「ほら、早く準備してちょうだいな」
「いや待ってくれ。本当に出るのか?」
「だからそう言っているでしょう? 頭に栄養が届いていないの?」
戸惑うクラウスをからかうユリカ。準備を済ませた彼女はクラウスの手を取ると、早く外に出ようと急かすのだった。
「さ、行きましょう。私、食べたいものがたくさんあるの」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
手を引っ張られてよろめきながら歩くクラウスを楽しそうに引っ張るユリカ。そんな彼らをホテルの従業員が微笑ましく見つめていた。
彼らはその光景をどんな風に思っただろうか? お転婆なお姫様に振り回される若者。きっと誰が見ても笑う光景に違いなかった。
通りに出て太陽の光を楽しむように歩くユリカ。彼女は後ろに続くクラウスに振り向いた。
「何か食べたいものはあるかしら?」
笑みを見せるユリカ。それに対してクラウスは戸惑うしかなかった。食事をするとは言っているが、何か任務のために考えがあるのではないか? 彼はユリカに耳打ちをした。
「何を考えている? 今から何をするんだ?」
その問いかけにユリカはきょとんとした。質問の意味を計りかねている様子だった。
「さっきも言ったでしょう? 何か食べに行きましょうって」
「確かにそう言っているが、任務はどうする? そのために外に出たんじゃないのか?」
クラウスが問いかけると、ユリカはそんなことは知らないとばかりに笑い出した。
「今日くらいは仕事のことは忘れましょう。どれだけ考えても上手くいかない時は、どうしてもう上手くいかないものだわ。それなら仕事は忘れて、遊ぶのが一番いいわ」
ユリカは余裕の笑みを浮かべるが、それに反発するようにクラウスは焦りを覚えた。わずかな猶予も許されない状況のはずだ。ここで遊んでいていいものか、悩み始めていた。
そんなクラウスの焦りを感じ取ったのか、ユリカは微笑みながら見つめてきた。
「大丈夫。がんばっているのは私たちだけではないわ。他にも多くの人が統一のために、同じ未来を目指して頑張っているわ。多くの人が同じ未来を見つめている。だから心配しないで。一人で無理しないで」
それにね、とユリカは怒った顔になって詰め寄った。
「あなた、私を置いて外出したわよね? 一人でおいしいものを食べて街を見て回って。とても悔しかったんだから。私だって街を散策したかったのよ?」
あれは郵便局に用事があったのであって、散策したわけではない。クラウスはそう言いたかったが、彼女が聞く耳を持つとは思えなかった。実際彼女を置いて外出したのは事実だ。クラウスは反論を諦めた。
「それにせっかく素敵な街に来たんだもの。楽しまないのはもったいないわ。さ、エスコートしてちょうだいな」
そう言って再びクラウスの手を取るユリカ。何を言っても彼女は止まらなかった。
仕方ないとクラウスは小さく溜息を吐くのだった。
「あの時から気になっていたの」
そう言ってユリカが向かったのは、例の船乗りたちが集まっていたレストランだった。彼女は船乗りたちが食べていた料理が気になっていたらしく、改めて同じ店に足を運んでいた。
今日も幾人かの客が料理を食べていた。店の外にもテーブルを用意しており、潮風を感じながら料理を楽しめるようにしていた。
ユリカはそのテーブルに着席すると、さっそく料理を頼んでいた。ジズーは海に面していることもあり、海産物が豊富だった。彼女が頼んだのは大きな貝柱を三つ、バターで味付けして串に刺したものだった。この街の名物でもあるらしく、持ってきたウェイトレスも自慢していた。
「さ、食べましょう」
言うや否やすぐに噛みつくユリカ。その様子は淑女というよりは、無邪気な少女という方がしっくりきていた。
口にした途端、彼女は目を丸くした。それだけで絶品であることが伺えた。
「おいしい! こんなにおいしいのは初めてだわ!」
周りには船乗りと思われる男たちもいた。彼らは串焼きを手にはしゃぐユリカを見て、いいものを見たとばかりに笑ってくれた。
そんなユリカを見つめるクラウス。普通なら淑女として恥ずかしい姿だ。普段のクラウスなら苦言の一つでも投げかけていただろう。
しかし無邪気にはしゃぐユリカを見ていると、注意する気も失せていた。
こんなにおいしそうに食べる彼女を止めるなど、空気を読まないにも程がある。
「ほら、あなたも食べなさいな。本当においしいわよ」
「あ、ああ。ありがとう」
クラウスも串焼きを口に運んだ。確かにユリカがはしゃぐ気持ちがわかった。料理はおいしく、その舌に忘れられない味を刻みつけていた。
「ね? おいしいでしょう?」
そう言って笑いかけてくるユリカ。彼女が楽しそうに食べている姿も、料理をおいしくさせる調味料になっているのは間違いなかった。
あまりにおいしそうに食べるので、店主からオマケまでもらってしまった。やはり美人であることは得なのだと思わせる場面だった。
料理を食べ終わると、ユリカは先ほどのウェイトレスにお勧めのレストランを教えてもらった。そこは貴族が行くようなレストランではなく、街の人々が慣れ親しんでいる食堂だった。
その店もお洒落なテラス席が設けられており、多くの人がそこで料理を食べていた。
ユリカはテラス席に座ると、すぐに料理を注文した。しばらくして二人の前に大きなエビを盛り付けた皿が運ばれてきた。それ以外にも海産物がふんだんに使われた料理がテーブルに並んだ。
アンネルも元々料理がおいしい国ではあるが、ジズーはアルジェ海の恵みが豊富に取れる街だ。おいしくないはずがない。
所狭しと並ぶ料理を前にさすがのクラウスも不安になる。
「おい。全部食べ切れるのか?」
クラウスが心配する程の量の料理を前にして、ユリカはむしろその瞳を輝かせていた。まるで宝物を前にした子供のようだった。
彼女は手にフォークとナイフを握り、きれいな形に切り分けた料理を口に運んだ。どれほど美味しかったかは、彼女の顔を見れば一目瞭然だった。
それほど大柄でもないユリカ。その口も小さく、一口に運ぶ量も少ないものだった。だというのに、その食べる量とスピードは人一倍のようで、並べられていた料理を次から次に口に運んでいった。
その食べっぷりに食欲を刺激された周りの人々が、同じ料理を注文する程だった。
「あら? どうしたの? お腹いっぱいだった?」
あまり食べていない様子のクラウスを心配するユリカ。彼を心配する余裕まであるようだ。
「いや、大丈夫だ」
「だったら食べましょう。おいしいのに食べないのはもったいないわ」
ほら、と食べるように促すユリカ。本当は気持ちのいい食べっぷりに目を奪われていただけなのだが、そんなことを口にできるはずもなく、彼は促されるままに料理を一口食べた。
食べ応えのあるエビは、彼女の言葉通りにおいしかった。
お腹一杯になったユリカはご満悦の様子で街を歩き始めた。クラウスもそれに続くように一緒に歩く。
ユリカは街のものが珍しいのか、キョロキョロと周りを見ながら歩き続ける。彼女にとっては魅力的な街に映っているのだろう。
そうして歩き続けていると、唐突にユリカが立ち止まった。
「ねえ。ここに入りましょう」
そう言って彼女が指差したのは、小さな雑貨屋だった。彼女の好奇心を刺激したのか、早く行こうと促してくる。ユリカがクラウスの手を引っ張ると、そのまま店の中に入って行った。
「わあ!」
感嘆の声を上げるユリカ。クラウスは無言ではあったが、それはつまらないからではない。店に入った瞬間、その素晴らしさを言い表す言葉が見つからなかったのだ。
棚には様々な装飾品が並んでいた。しかもそれは貝殻を加工して作ったものだった。
どうやらこの店は貝殻を使った雑貨が名物のようだった。少し歩いたところには海水浴場もある。もしかしたらそこで拾ってきた貝殻を使っているのかもしれない。
棚には様々な貝殻が並んでいた。ユリカの顔くらいの大きな貝殻や、宝石のように輝く貝殻もある。磨かれたり、穴を開けてひもを通したりして、ネックレスや髪飾りのように加工されていた。
「グラーセンでは見たことがないわ。ねえ? すごいと思わない?」
「ああ、確かに面白い」
ユリカは棚に並べられている貝殻を一つ一つ、じっくりと見つめていた。時折いくつかをその手に取り、目の前に掲げたりした。その瞳に貝殻が映り込み、その瞳が輝きを増していた。
クラウスはそんなユリカを横から見つめた。とても楽しそうにしている彼女を、クラウスは意外そうに見ていた。あまりこういうことに興味がないだろうと思い込んでいたので、逆に戸惑うくらいだった。
その時、ユリカが何かを差し出した。それは二枚の貝殻を重ねた小さなペンダントだった。二つあるそれは一組のペンダントのようで、つまりはお揃いというものだった。
「ねえ。これ買いましょう」
そんなことを提案してくるユリカ。二人でお揃いにしようということだった。
さすがにクラウスは戸惑う。彼が動けずにいると、ユリカが怪訝そうにしていた。
「何? どうしたの? 嫌だった?」
「い、いや。そういうわけではない。それは構わないのだが、それは……」
お揃いの物を買うということに躊躇いを見せるクラウス。だってそれではまるで、本当に恋人みたいではないか。そんな思いが彼の中に駆け巡った。
そんなクラウスの心情を察したのか、ユリカは柔らかく微笑みを浮かべた。
「難しく考える必要はないわ。記念に何かを買おうってだけの話よ。それにどうせなら、お揃いを買った方が素敵だと思わない?」
ユリカはにんまりと笑った。確かに難しく考えすぎたとクラウスも思った。
「そうだな。買うのはそれでいいのか?」
小さくうなずくユリカ。その様子はとても嬉しそうで、買ってくれることをとても喜んでいるようだった。
「どうせだったら、恋人みたいに甘えてみた方がよかったかしら?」
「頼むからそれはやめてくれ」
クラウスの答えにクスクスと笑うユリカだった。
その後も二人は一緒に街を歩き回った。というよりは、ユリカが行きたい場所にクラウスが連れ回されると言った方が正しかった。
元々父親から注意されるほどの陰鬱な雰囲気を持つクラウスだ。本人もそのことを自覚している。そんな彼がジズーのような街を歩くのは、本人も場違いであると思っていた。
そんな陰鬱な男を連れ回す無邪気な少女。周りからどんな風に見られているのか、クラウスは必要のない心配を抱いてしまう。
でも、嫌な気分ではなかった。彼女と街を歩くのは確かに楽しかった。本来は外出するタイプではないクラウスだが、外出そのものが目的の外出など、今までしたことがなかった。
そんな彼にとってユリカとの街の散策は、新鮮で心地よい時間だった。
何より、ユリカが楽しそうに笑うのが彼には一番楽しかった。
思えばユリカに出会ってから、彼女には驚かされてばかりだった。夜の闇と共にであった少女。その正体はハルトブルク家の令嬢という驚愕。その少女が語るのは、クロイツ帝国の再興という計画。そのためにスパイ活動を行っていること。
彼女が話すこと全てが信じられなかった。
それに彼女は賢かった。行動力、洞察力、知識。それはクラウスが今までに出会った女性にはなかったもので、もしかしたらマールの学生の中にも、彼女ほどの人間はいなかったのかもしれない。
そんな不思議な少女が、今は無邪気に笑っている。その事実がクラウスには心地よかった。
クロイツ統一という未来を本気で信じ、そのために異国の地を奔走する少女。本来なら故郷で友人とお茶を楽しんだり、観劇に行ってもいいはずだ。そんな自分より幼い少女が、祖国と家族から離れて、スパイ活動に身を投じている。
だからだろうか? ユリカが年相応に笑う姿に、クラウスが安堵するのは。
そんなことを考えながら散策するうちに。時刻は夕刻となっていた。夕陽がジズーを染め上げ、海も茜色に輝いていた。まるで黄金色の絨毯が海に広がっているように見えた。
「ねえ。あそこに行ってみない?」
ユリカが指差す方に視線を向けると、そこはヨットを係留している桟橋があった。たくさんのヨットが並ぶ横に、遊歩道があった。そこを家族連れや恋人たちが歩いているのが見えた。
「ああ、わかった。ちょっと待ってくれ」
早く早くと急かすユリカを追いかけるクラウス。そんなクラウスを見て笑うユリカ。
二人は並んで歩く。すぐ横には海があり、そのすぐ先にはヨットが並んでいた。ヨットの帆が並ぶ光景は、まるで海の並木道に見えた。その光景を眺めながら、二人は海沿いの道を歩いた。
何も語らず、静かに歩く二人。ゆっくりと歩くことで、この時間を楽しんでいた。
「ありがとう」
その時、そんな呟きが聞こえた。一瞬誰の言葉かわからなかった。それがユリカから発せられた言葉だと気付くのに、クラウスは少し時間を要した。
「……? それは何に対して?」
クラウスが訊き返す。ユリカが微笑みを返す。
「今日付き合ってくれたことによ」
それは付き人に向けられる労いの言葉ではなく、契約者への謝辞でもない。彼女の本心から生まれた言葉だった。
唐突な感謝の言葉にクラウスも面食らった。
「いや、別にかまわない。貴方が楽しかったのなら、それでいい」
「それでもお礼を言いたかったの。とても楽しかった」
微笑みを向けるユリカ。彼女は今日一日を本気で楽しんだのだ。それは彼女の微笑みを見ればわかることだった。
「だから、ありがとう、と。あなたはどうだった? 楽しかったかしら?」
そんなこと、答えは決まっている。クラウスは即答した。
「ああ、楽しかった。こちらこそ、お礼を言いたい」
「本当に?」
「ああ、本当だ」
じっとクラウスを見つめる。しばらくそうしてから、ユリカはまた笑顔になった。
「そう。それならよかった」
彼女は嬉しそうに笑った。きっと彼女は心配だったのだろう。自分のわがままで連れ回すことを、迷惑に思っていないか? きっと不安だったに違いない。
だが、クラウスも一緒に楽しんでくれたと知って、そのことがとても嬉しいみたいだった。
楽しいことは全身で楽しんで、面白いことには無邪気に笑い、嬉しいことは全力で喜ぶ。そんなユリカの姿をクラウスはずっと見続けてきた。
彼は思う。今目の前にしている彼女こそ、本当の姿なのだと。
だからこの時、クラウスに疑念が生じた。何故彼女はクロイツ統一のために、諜報員として活動しているのだろうか?
本当ならハルトブルク家の立派な屋敷で優雅な生活を送ってもいいのに。家族と共に食事をして、友人と笑い合い、いつか恋人ができて、結婚して、家族を作る。そんな幸せを手にしてもいいはずなのだ。
それなのにどうして彼女はここにいるのだろうか? ついクラウスはその疑問を口にしてしまった。
「何故あなたは、このようなことをしているのだ?」
その言葉をどう受け取ったのか、彼女はクラウスの顔を見た。その時、クラウスは自分がどんな顔をしているのか、彼自身わかっていなかった。
しかし、クラウスの顔を見たユリカは、彼が何を言いたいのかを察したのだろう。さっきまでの無邪気な笑顔ではなく、柔らかくてふんわりとした微笑みを浮かべていた。
「優しいのね。あなたは」
ユリカはそれだけ答えてから、また歩き出した。彼女はそのまま振り向くこともせず、歩きながら語り始めた。
「ハルトブルクの領地はとても美しいわ。一面緑の広い草原には優しい風が吹いていて、どれだけ歩いても飽きることがなかった。少し歩けば森があって、そこは静かで綺麗な世界があるわ。その領地を馬で走るのは、とても心地よかったわ」
それは彼女にとって宝物だった。とても大切なものであり、それを語る彼女の顔は、秘密の宝物を見せる子供のように輝いていた。
「立派なお屋敷には色んな人が集まったわ。お手伝いさんたちは優しくて、仲のいいお友達にも恵まれたわ。時々パーティーを開くと、素敵な人たちが来るの。その人たちとの会話は面白かったわ。中には面倒くさい人もいたけど、とても大切なことを学んだわ」
その時、ユリカはクラウスに振り向いた。
「あのお屋敷も、領地も、全てが宝物。そこで手に入れたものは、宝石箱のように輝いているの。ちょうど、このあたりに」
そう言って彼女は、自分の胸に手を当てた。そこには彼女を形作る宝物が輝いているのだ。
彼女の故郷は、彼女に素敵なものをもたらした。多くの人が、多く世界が彼女を愛した。とても大事な人として。
それを知ったクラウスは、だからこそ問わずにいられなかった。
「ならば、どうして故郷に残らなかった? 貴方にとって、大切なものがたくさんあるはずなのに」
大切なものを置いて旅立った彼女の心がわからなかった。どうして彼女が異国の地を走り回らなければならないのか? どうしてもクラウスには理解できなかった。
「私がそうしたいからよ」
とても難しい問いのはずなのに、彼女は簡単な一言で答えた。そしてそれで正解なのだ。彼女にとってそれくらい簡単な話なのだ。
「お屋敷に籠って静かにお茶を飲んで、優しい旦那様を待つ。そんな生活が私に似合うのかしら?」
そう言われると、確かにその通りとも思えた。短い間だが、彼女と行動を共にしてきたクラウスは、物静かな彼女の生活は想像できなかった。さっきみたいに思い切り料理を食べて、お腹の底から笑うユリカの姿こそ、彼女らしいと思うのだ。
ただ、そうですねと答えるのも失礼だと思い、答えに惑うクラウスだった。
彼の思考を読み取ったのだろう。ユリカはまた意地悪な笑みを浮かべてクラウスに詰め寄った。
「それとも、あなたが私にそんな生活を提供してくれるのかしら? 偽りだけど、このまま恋人として帰国すれば、いずれは本物の夫婦になれるかもしれないわね?」
冗談とわかっていても、笑えない冗談にクラウスの顔は渋くなるだけだった。それが彼の答えであると知っているユリカは、また無邪気に笑った。
「さ、そろそろ帰りましょう。今日はゆっくり休んで、また明日から働きましょう」
それでこの話は終わりだと言わんばかりにユリカは切り上げた。
さっさと歩き出すユリカの背中をじっと見つめるクラウス。ただ見つめるだけで、彼には何も言うべき言葉は見つからなかった。
クラウスはホテルの部屋にあるソファに一人横になっていた。何をするでもない。じっと考え事を続けていた。
彼の頭の中を占めるのは、ユリカのことだった。
この日、街で見せたユリカの顔。彼女は心の底から笑っていた。彼の手を引いて、行きたいところがあれば連れ回し、食べたい物があれば一緒に食べようと誘ってくる。
街の散策を楽しむ姿も、美味しい食べ物に喜ぶ顔も、彼女は本気で笑っていた。それは歳相応の少女が見せる笑顔であり、それは彼女によく似合っていた。
だからクラウスには不思議だった。クロイツ統一という理想を謳う彼女の姿は少女と呼べるものではない。祖国を背負う人間の姿だ。
そのユリカが少女のように笑い、はしゃいでいたのだ。クラウスはそのギャップに整理をつけることができずにいた。
それ以上にクラウスはもっと別のことを考えていた。果たして、どちらの姿が本当のユリカの姿だろうか?
祖国を愛するユリカか。それとも街で見せた無邪気に笑うユリカか。
クラウスにはわからなかった。ただ彼は一つ願うことがあった。
少女のように笑うユリカこそ、彼女の本当の姿であってほしいと。
そんなのは自分勝手な女性幻想であることは彼も自覚していた。それでも願わずにいられないのだ。
我ながら馬鹿な考えだと溜息を吐くクラウス。嫌な考えから逃れようとするように、そのまま眠りに入るのだった。
翌日のクラウスの目覚めは最悪だった。ベッドの上で体を起こすと、脳が重くなったように感じた。
色々と考え過ぎたせいか、寝ている間も脳が思考を繰り返していたのかもしれない。
もしかしたら、眠りの妖精が仕事をしてくれなかったのかもしれない。いつもなら考えそうにないことまで頭に浮かんでいた。
窓から太陽の光が差し込む。いつもより目に染みるように感じる。
一回頭を振り回してから、ベッドから身を起こすクラウス。すぐに窓を開けて外の空気を吸う。こんなだらしない姿を見せれば、ユリカはきっとからかうに違いないのだ。
洗面台に行き、いつもより念入りに顔を洗った。それから着替えを済ませ、身だしなみを整えてから、ユリカの部屋に向かった。
ドアを開けると、そこにはいつものように笑みを浮かべるユリカがいた。
「おはよう。もう準備はできているわ」
テーブルにはおいしそうな朝食が並んでいた。どうやらクラウスが来るまで待っていたらしい。
「待っていたのか? 先に食べてもいいのに」
「食事は大切な人と一緒に食べたいの」
挨拶代わりの軽口。するとユリカの視線がクラウスに釘付けになった。じっと見つめてくるユリカにクラウスは身構えた。そうしているとユリカの顔が少しずつ意地悪なものに変わっていくのがわかった。
「昨日は深酒をしていたのかしら? 私を待たせるくらい、目覚めが悪かったみたいね」
どうやらクラウスがいつもより遅く起床した理由を彼女は察したらしい。クラウスも何か言い返したかったが、ユリカの答えも大体当たっているので、返す言葉がなかった。
その様子に満足したのだろう。彼女はニッコリと笑った。
「さ、いただきましょう」
その小さな手にナイフを握るユリカ。クラウスも席に着いて、ナイフを握ろうとした。
「……ん? これは?」
その時、クラウスはテーブルに置かれている小瓶に目が留まった。
「ああ、カンミンから送られている調味料ですって。貴重なもので結構おいしいから、使ってみてくださいって」
確かにクラウスもその小瓶には見覚えがあった。一人で外出した見つけた調味料だ。
手元に置かれている小瓶を手に取る。遠く離れた異国から海を渡り、こうして彼の手にやって来た。言葉にすれば簡単だが、その言葉以上に不思議な出来事に感慨深くなる。
クラウスがそのまま横に目をやると、ある物に目が留まった。それは壁に飾られている世界地図だった。
世界地図を飾るというのも、港町らしいセンスだ。ジズーはもちろん、ユースティア大陸の主要都市の名前が刻まれていた。
見れば見るほど世界は広かった。その手に握られている小瓶も、この広い世界を渡って来たのだ。ある意味この小瓶はクラウスよりも世界を知っているのだ。少し悔しくなった。
地図を大きく東に行くと、例のシヴァ大陸があった。そこには大陸国のカンミンがあり、そこからさらに東の海に浮かぶ島国・ジンムがあった。
そのシヴァとユースティアの中間に位置するようにヴァルナがあった。
ヴァルナは西と東を結ぶ重要な国だ。極東に向かうには必ずヴァルナを通ることになる。必然的に極東との貿易にはヴァルナとの関係が重要になってくる。
今でこそカンミンはユースティア列強と部分的に貿易を結んでいるが、百年以上前までカンミンは極端な鎖国を敷いており、ユースティア列強と貿易することすらなかった。
そこで当時はカンミンと貿易を結んでいたヴァルナを仲介することで、ユースティアはカンミンと貿易を行っていた。
今でもカンミンとの貿易は部分的なもので、やはりヴァルナとの関係が列強には重要事項となっていた。
「……え?」
そんな呟きが部屋に響いた。呟きはクラウスのものだった。彼は立ち上がり、呆然と地図を見つめていた。
ヴァルナ、カンミン。それらを交互に見て、そこに一筋の線を見つけた。
線は繋がり、そこに隠された真実を描き出す。
クラウスはその真実を見つけ、呆然とした。
「どうしたの?」
相棒の異変にきょとんとするユリカ。その問いかけにもクラウスは応じない。彼はその時、思考の深淵に沈み込んでいた。
「いや……確かにそれなら辻褄は合う。しかし……」
独り言を繰り返すクラウス。それは自分の中の思考との語り合い。一体何が起きていて、何が真実なのか。彼の中で自問と回答が繰り返される。その様子をユリカは怪訝な表情で見つめる。
「ねえ? 何があったの?」
「ユリカ、聞きたいことがある」
問いに対して問いを返すクラウス。その勢いのままユリカに詰め寄った。
「ヴァルナに持ち込まれた物資にどんなものがあるのか、もう一度教えてくれ。それとカンミンについての情報も教えてくれ」
質問に戸惑うユリカ。彼女は壁際にある机を指差した。
「それなら、あそこに報告書があるわ」
「見てもいいか?」
「ええ、どうぞ」
クラウスは机に置かれている報告書を手に取り、その一枚一枚を貪るように読み込む。
クラウスの中でいくつかの点が一本の線で繋がった。彼は天を仰ぎ、その答えに衝撃を受けた。
その様子をじっと見つめるユリカ。何事かと訝しんでいると、クラウスは勢いよく振り返って彼女に言った。
「ユリカ、すぐにマールに戻るぞ。出来るだけ早い方がいい」
いきなりのことにさすがのユリカも驚く。目を白黒させつつも、クラウスに質問した。
「ねえ、落ち着いて。一体何があったというの?」
クラウスはその場に立ち止まり、深呼吸した。少しの落ち着きを取り戻した彼は、わずかに震える声を振り絞り、その答えを伝えた。
「戦争が起きるかもしれない」
それだけ伝えてから、彼はそのまま荷物をまとめ始めた。
ユリカはその真意を汲み取れないでいたが、彼の言う通り荷物をまとめ始めた。
ホテルを引き払い、そのまま一番早く帰れる汽車にそのまま飛び移るように乗り込む。急いでまとめたためか、ユリカの旅行用のドレスが少し乱れていた。
「それで? 貴方は何に気づいたの?」
個室に入ったところでユリカが改めてクラウスに問いかける。真っ直ぐに見つめてくるユリカの前に、彼はあるものを広げた。それは世界地図だった。
「ユリカ。君たちが捜査していたアンネルの企み。それは三角貿易を利用した戦争支援だ」
クラウスは世界地図を指差す。彼の指はヴァルナを示していた。
「アンネルから大量の物資がヴァルナに運ばれている。それはジズーでの調査でわかった。だが運ばれているというだけで、それだけならヴァルナに対する通常の貿易にしか思えず、そこに大きな計画があるとは思えなかった」
するとクラウスの指が地図の上を移動し始めた。
「だが、それはまやかしなんだ。アンネルの真の目的。それはカンミンだ」
クラウスの指がカンミンで止まった。
「つまりこれは三角貿易なんだ。最初はアンネルからヴァルナへ運ばれていた物資は、そのままカンミンへ運ばれていたんだ。ヴァルナはあくまで中継地であって、物資の目的地はカンミンなんだ」
三角貿易。それは三国間にまたがる貿易関係のこと。それぞれの国の特産品を取引し合う貿易構造である。過去、ユースティアとカンミンとの間に直接の貿易が行われていない時代。彼らは中継地としてヴァルナを仲介することで、三国間の貿易を実現していたのだ。
「報告書を読んでみたが、ヴァルナに運ばれていた物資の量と、カンミンがヴァルナから受け取っていた物資の量を見比べてみた。ほとんど同じ量で、おそらくヴァルナに運ばれた物資がそのままカンミンに流れていると考えることができる。ヴァルナにある貿易会社がアンネルからの指示で、そのままカンミンに流していたんだ」
ユリカも報告書を手に取る。確かにクラウスの言葉通りの情報になっていた。
「なるほど。ヴァルナは中継地であると同時に、カンミンが目的であることを隠すためのカモフラージュの役割をしていた、というわけね」
クラウスは無言でうなずく。だがユリカには、アンネルの真の目的まではわからなかった。
「でも、どうしてアンネルはカンミンに物資を送っているの? どんな目的があって?」
「言っただろう。戦争が起きかもしれないと」
クラウスはそう言うと、また指を動かした。彼の指は地図を東に移動していく。そうして彼の指が辿り着いたのは、島国・ジンムだった。
「カンミンとジンムとの間に戦争を起こさせること。それがアンネルの真の目的だ」
クラウスはカンミンとジンムの間にある小さな島を指差した。
「ここにジンムとカンミンとの国境線上にキリ島がある。ここは両国の間で領有権争いが起きているんだ」
キリ島はカンミンとジンムのちょうど中間点に位置する島だった。両国はこの島の領有権を主張し合っており、ここ数年で対立は激しくなっていた。戦争が起きる理由としては十分だった。
「でも、戦争を起こさせることでアンネルにどんな利益が? 得になるようなことはないと思うのだけど?」
「確かに直接の利益はない。だがさっき言ったように、これは秘密裏に行われる支援だ。密かに支援することでアンネルはカンミンから何か特権を得ようとしているのかもしれない。もしかしたら、カンミンとの間に自由貿易を結ぶとか」
カンミンはユースティア列強との間に自由貿易を結んでおらず、限定的な保護貿易を行っている。しかしカンミンが持っている資源は膨大であり、またその消費人口はユースティア諸国の比ではない。それは列強からすればのどから手が出るほど欲しい宝物だった。
アンネルはカンミンを支援することでカンミンとの間に強力な関係を作り、自由貿易をはじめとする特権を得ようとしている。それがクラウスが行き着いた真実だった。
まだカンミンとの間に自由貿易を結んでいる列強はいない。もし他国に先んじてそれを達成できれば、アンネルにとって大きな利益になることは間違いない。
クラウスの語る真実にユリカが唸る。
「なるほど。確かのその話の通りなら、全ての辻褄が合うわ」
最初ユリカの話を聞いたクラスは、まるで戦争みたいだと言っていた。まさか本当にその通りだと知ると、さすがに二人は身震いしてしまう。真実を知るというのは、こういうことを言うのかもしれない。
全てを知ったユリカはクラウスに向き直る。
「それで、どうするの? 推測ではあるけど、もし本当にそうだとするなら、私たちは何をするべきなの? 何ができるのかしら?」
事態があまりに大きくなりすぎている。もはや自分たちではどうしようもないことだった。
「とにかく、アンネルの計画を止める必要がある。まずはマールに戻って大使館に行こう。まずは本国に報告するべきだ」
ユリカが同意してうなずく。グラーセンにこのことを知らせないといけない。
極東で起きようとしている戦争。すでにその導火線には火が灯されている。あとどれくらいで爆発するのか? 爆発したら何が起きるのか? 想像もできなかった。
爆発するのが先か、自分たちが消火するのが先か。
汽車は速度を上げてマールに向かって走っていた。蒸気が生み出す脅威の速度すらも、今の彼らにはもどかしいものになっていた。
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