#5
その夜の閉店後、早速晶から猫のことを聞かされた住人たちは、二つ返事でOKした。
「ほら、大丈夫だったろ?」
昴が言うと、
「困ってたら助け合うのが、ここのモットーだからね」
と、七海氏もにこにこと笑顔を晶に向け、仁も頷いている。
「頼ってくれて、お姉さん嬉しいわ~」
那由多はそんなことを言って抱きついてくる。遠慮のない人だ。
誰にも頼れない。そう思って生きてきたけれど、一歩踏み出してみれば、違う世界があったのかもしれない。
なんだか目の奥がじわりと熱くなって、晶は慌てて顔を伏せた。
翌日はちょうど桜華堂の定休日だったので、急いでケージやトイレやベッドなどの猫グッズを買い込み、猫を迎える準備が整えられていった。店舗と居住スペースを仕切るドアや玄関にも柵を設置し、脱走対策も施された。
その後、猫は晶の手によっておとなしく捕獲されたものの、動物病院に連れて行かれる段階で不穏な気配を感じたのか、若干にゃあにゃあと騒いだ。
そして、生まれて初めての動物病院で、緊張しながら診察を受け、健康状態には特に問題がないことがわかった。幸いノミが少し付いていただけで、寄生虫も検出されず、駆虫薬をもらって帰路についた。
しばらくは定期的な通院が必要だが、猫は晴れて桜華堂の住人となった。
猫は普段はリビングに設置したケージで過ごし、少しずつ外に出る時間を増やしていくことになった。ケージから出ている間、猫は晶の部屋に入り浸っていた。那由多も暇を見つけてはやって来て、晶にやや鬱陶しがられつつ、猫に構っていた。
「その子の名前、決めたの?」
「うん。スペランツァ」
「イタリア語だっけ?」
「そう。〝希望〞」
多少強引なところのある那由多に根負けしたのか、2人は少しずつ打ち解けてきているようだった。今日も閉店後、那由多と晶はお茶を飲みながら猫と遊んでいた。
スペランツァと名付けられた猫は、那由多に撫でられて満足そうに喉をゴロゴロと鳴らしている。
「さて、そろそろケージに戻る時間だよ」
晶はそう言って、猫を抱き上げようとする。
しかし、いつもは素直に従う猫は、この時は晶の手をすり抜け、ベッドの下に隠れてしまった。
「あー、こら、出ておいで」
スペランツァは、晶がベッドの下にしまっていたあるものの上に乗って、どこうとしなかった。仕方なく、晶はそれごとスペランツァを引っ張り出す。
「あら、なあに、それ?」
晶が引っ張り出したのは、細長い台形のような形をした、革張りのケースだった。
「……バイオリン」
へえ、と那由多は興味津々といった様子で目を輝かせる。
「晶ちゃん、バイオリン弾けるんだ?」
「……ちょっとだけ。母親がやってるから……」
「へえ」
家族のことはどのくらい突っ込んでいいのかまだわからないので、那由多は適当に相槌を打つに止める。
晶はケースを開けて中身を確かめる。傍目に見ても、よく手入れされて、大事にしているのだとわかった。
「えー、聞きたい。弾いてよ」
「……もう夜だし、うるさくない?」
「いいんじゃない? 外までそんなに響かないと思うし」
那由多はにこにこと期待に満ちた子供のような目を晶に向ける。この人にはなんだか敵わない。
隠しておいて、どこかで弾けそうだったらこっそり弾こうと思っていたのに。
「何で見つけちゃうわけ?」
スペランツァは晶の言うことが分かっているのかどうか、素知らぬ顔でみゃあと鳴いた。
晶はふっと息を吐いた。周りに遠慮して弾けないことの方が多かったから、弾いていいと言われたら気持ちが動いてしまったのは事実だ。
「何かリクエスト、あります?」
バイオリンを構えると、晶は問うた。
「ん-、何でもいいよ」
そういうのが一番困るのだが。
少し考えて、晶は演奏を開始した。
瞬間、空気が変わる。
夜なのでボリュームは抑えているが、それでも滑らかで伸びやかな旋律は、胸の奥を優しく撫で、遠く天に昇っていくようだった。
最後の音が空気に溶けて消え、晶は満足気に息を吐いて構えを解く。那由多はパチパチと拍手を送った。
「この曲知ってる。『FLY ME TO THE MOON』だっけ?」
「正解」
アニメのエンディングテーマにも使われて有名になった、ジャズのスタンダードナンバーだ。
「すごいすごい。もっと聞きたい」
「……昼間になら」
晶は目を逸らしてぼそりと呟く。しかし、その頬が照れるように赤くなっているのを、那由多は見逃さなかった。
桜の花びらが舞い落ちる中で、晶は桜華堂の面々にバイオリンを披露していた。このところ、まともに弾けることがなかったが、腕前が大幅に落ちていなくて、晶は安堵した。
春休みが終わる直前、桜華堂はランチタイムだけの短縮営業をし、午後から花見を決行していた。裏庭の桜の木の下にレジャーシートを敷いて、それぞれくつろいでいた。スペランツァは家の中で留守番している。
晶のバイオリンをBGMに、それぞれ飲み物を空けたり、重箱に詰めた弁当をつついたりしていた。重箱の中身は、一体仕事の合間にいつ作ったのか、おにぎりやサンドウィッチ、卵焼きや唐揚げなど、立派な弁当だった。
「やっぱりお花見はいいわねえ」
那由多は缶ビールをあおりながら、上機嫌で言う。
「お前は酒が飲めれば何でもいいんだろ」
仁に冷たく言われても、那由多はめげずに昴に絡んでいく。
「昴君も飲もうよ~」
「俺はまだ19ですから飲めません!」
「えー。18歳で成人の仲間入りでしょ?」
「飲酒・喫煙が二十歳になってからなのは変わってません!」
彼らがわいわいやっているのを横目に、晶は2曲ほど演奏を終えると、バイオリンをケースにしまって腰を下ろした。
「上手いねえ。ありがとう」
七海氏に拍手を送られ、晶は少しはにかむ。那由多がまたしても、取り皿に料理を色々盛って、晶の手に押し付ける。
「来年も、お花見しましょうね。皆で」
晶は大人たちの会話には加わらず、渡された料理を口に運んでいたが、
「何自分には関係ねえみたいな顔してんだよ。お前も来るんだよ」
仁に言われて、桜を振り仰ぐ。
来年。来年も、ここにいていいのか。
先のことはまだわからないけれど、ここで暮らせたら幸せかもしれない。ここ数年で、初めてそう思った。
了
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