死を恋う神に花束を 短編集
永遠の冬〈名もなき猟犬〉
ふっと、焦点をどこへ当てるか迷い、空へ目線を
「ああ、もう秋も終わりか」
隣でぼそりと呟く声。
彼と同じ、開襟制服と厚い外套を着た同僚が、寒さに身を竦ませまいとしていたが、ぶるり、と震えてしまった。自動小銃が案外と大きく揺さぶられている。
玄関に配備された兵士が、言葉を交わすなど褒められた事ではないが、少し間抜けな同僚の台詞に、彼はつい大扉の対面に居る同僚へ顔を向けた。
「雪が降ったから冬なわけがないだろう。もう、冬だったんだよ」
「俺は雪が降るまで、冬だと思わない事にしているんだ」
「何だ、その変なこだわり」
「冬はなるべく短い方が良いだろう」
「まあ……な」
アメリア国の冬は長い、そして寒さも北ほどとはいかないが厳しいものだった。だが、意外な事に降雪量は多い方とはいえず、ただ切りつけるような寒さが冬の間に続くばかりだった。
「なら、大分冬は短くなったんじゃないのか?」
「いや、これがそうでもないんだ」
「どういうことだ」
「どんなにそうして自分へ言い聞かせても、実際に雪が降っていなくても、俺はいつでも冬が忘れられなくてな」
「冬が忘れられない……?」
「何気ない、本当に何気ない時に雪が降りしきるさまが脳裏に過る。そして俺は思うんだ。ああ、自分はまだ冬のうちで雪に降られているんだな、と」
彼は同僚の穏やかな声に口ごもってしまった。
「止めろ……口にしていい話だとは思えない」
同僚が何故、明らかに問題のありそうな話を彼へ、世間話のように振るのか理解出来なかった。彼は思わず眉を顰めていた。
「俺は猟犬である自分を一度も後悔したことは無い……それがカイム様に生涯お会い出来なくても、変わりはしない」
「余計な事を喋るな、許されないぞ!」
同僚はあまりにも気楽にくっくっと喉で笑い出した。彼はからかわれたのかと、眉根を寄せて、つい姿勢を崩してしまう。
「悪い、悪い。格好付けて、もっともらしい作り話を聞かせて驚かせたな。カイム様にも酷く失礼な事をした――何、大した話じゃ無いさ。本当のところを言うと、初めて長期
「女? まさか手を出してそのまま……」
「いや、先走るな。掟を破ったとか、そういう話じゃない。その女とはバーで出会ったんだが、なんとなく流れで一緒に飲み始めてさ。酔うに任せて身の上話を聞いたんだ――家族を亡くした事故だった」
同僚の面持ちは、言葉とは裏腹に穏やかだった。
「女には家族が居て、雪の降る冬の日に、事故を起こして家族全員亡くしたのだと。旦那に、幼い二人の子供……運転していた女だけが生き残った」
「そう、か……痛ましい話だな」
「いつまでも、雪が止まなくて、目をつむると白い闇が延々と続いている――それは、女を永遠の冬に閉じ込める」
「永遠の冬、か」
「でもな、女は言っていたんだ。それでいい。忘れたくないってな」
「他人がどうこう言える話ではないな。本人がそうして向き合っていたいのなら、聞いている方は頷いてやるしかない」
「お前もそう思うか、そうだよな。その女は、女なりに向き合っているんだろう」
同僚はそれ以上何も言わなくなってしまった。彼は聞き入るようにしていたから、正直、職場放棄をしているに近くて、気を取り直して威儀を正し、降りしきる雪を無感動で視界に収め始めた。
そうしていると、車寄せへ見慣れた高級車が手配されて来た。車寄せで対応する猟犬が、彼と同じように彫刻地味て佇んでいる。
大扉を開くとノヴェクの男が猟犬を引き連れて現れた。彼と同僚が礼を取っている間、車寄せの猟犬が手順通りに動いて、一切ノヴェクの手を煩わせずに乗車の道を開いた。ノヴェクは一片の雪さえ触れず、また、男自身も雪に何の関心も持たず、車で去って行った。
何の珍しくもない光景であった。こうして彼と同僚は、車で外出するノヴェクを送り出す。しかし、同僚は、もう既に見えなくなった車が、まるで今でも見えているかのように、遠くを眺め続けていた。
交代時刻が来ると、二頭の猟犬が顔を出した。
「お疲れさん!」
「うわ、雪が降ってんのか。これは夕方からは厳しいな」
声は嫌々なのに、妙に楽しそうで彼は笑ってしまった。
交代を済ませると、記録を付けて、もうその日の業務は終わりだった。彼に課された役目は果たした。もう、それでいい。明日も、同じ。明後日も、同じ。そうして、許されて生きている。
館の自室へ向かうと、扉の前で立ち止まって、わざわざインターホンを鳴らす。彼はにやけないように、職場での自分を思い出す。すると、ばたばた走って来る音が聞こえて来て、小さな娘が扉をいっぱいに開いた。
「パパ、お帰りなさい! 抱っこして、抱っこ」
彼は猟犬として鍛えられた身体で、娘を軽々と抱き上げた。娘は嬉しそうに首に手を回している。
「今日は保育所で何してたの?」
「お友達と絵を書いたの、パパの絵だよ」
「それはパパ、嬉しいな。見せてくれるかい」
娘は元気よく返事をすると、床に下りて自分の部屋へ走って行ってしまう。
妻がくすくすと笑いながら居間から顔を出す。既に職場へ行く用意をしていて、迷彩服を着ていた。
「お帰りなさい、今日は寒かったでしょう」
「そうだね、もう雪が降っているから。これからの離館仕事は結構辛いかもしれない」
「そうね、気合入れないと」
「行ってらっしゃい……どうか、気を付けて」
娘が嬉しそうに画用紙を持って走って来る。
「見て、パパだよ!」
画用紙にはクレヨンでぐるぐると塗り潰した、かろうじて顔と判る拙い絵が描かれている。正直、顔を見ても男女の区別さえつかないものだったが、色味で開襟制服を着ているのが解って、少し切なく笑う。
「上手に描けてるね。パパそっくりだ」
「私もパパみたいなお洋服が着たいの。
彼は言葉がみつからなくて、黙り込んでしまった。どう、答えるべきか考えても、正しいと思える選択肢がなかった。
妻が娘の元へやってくると、その小さな目線へと合わせる為に膝を折って、見つめ合った。
「いつかお話しましょう。パパやママみたいになるか……それとも絵描きさんになるのかしら? 本当にパパ、上手に描けてるもの」
「絵描きさん? そうか、絵描きさん……」
彼と妻は笑い合った。
電子端末のヴァイブレーションが小机を叩いている。熟睡していた彼は、半分目をつぶりながら、その仕事用に支給されている端末の着信を受けた。通話相手の第一声が大音声なものだから、彼は思わず端末を取り落とした。
急いでベッド下の端末を拾い耳に当てる。
『……死んだ』
彼は妻に危急があったのかと端末を握り締める。
「妻に何かあったんですか?」
『違う……お前の組相手が死んだ』
数時間前まで一緒に仕事をしていた同僚が死んだ。猟犬である同僚が死ぬというのは、本来珍しくは無い。だが、正面玄関警備の猟犬が死ぬ状況とは、あまりない事ではあった。
「使徒にでも襲われましたか?」
『自殺だ……いいか、誰にも言うな。これからカイム様がいらっしゃる。お前もお出迎えしろ』
本館に居る主人が、わざわざこの深夜帯に来るというのだ、尋常の事ではないのは明らかだった。
彼は現主人の代で自殺した猟犬など、聞いたことがないのだ。この状況では、主人に自殺を求められたとも思えない。
主人に会うために制服をまとい、呼び出された部屋へ向かう。
それは同僚の自室だった。
部屋の前には猟犬が居て、居間へ通されると上司の他に、自殺体を発見した猟犬が居た。同僚と恋人関係にある女性で、彼は彼女とも知り合いであり、同僚が長年付き合っていた事を知っていた。
彼女は泣いていた。
若い主人は今を持ってしてなおも、猟犬の心へ干渉しない。
彼は上司達と主人の到着を待っていると、自身でもよく判らないが、いつの間にか肉体的な緊張が現れ始めて、身体を強張らせ、歯を食いしばっていた。同僚の死に対する衝撃からのものではないと自覚していた。不安と恐怖が満ちている。だというのに裏腹な期待感と……場違いなはずの喜びが彼の背中を押して、直ぐにでも部屋から飛び出して行きたい心待ちになっていた。
彼は落ち着こうと部屋を見回していると、上司と顔を偶然合わせた。そうすると、上司は覚らせるのを恐れるかのような小ささで、彼へ首を振ってみせた。
上司は気付いている。
彼は目を伏せてじっと、己の変化を感じ続けていたが、衝動に似た何かに耐えられなくなって扉を見つめ始めてしまう。それから幾らもせずに、軽いノックの後、伺いも待たずに扉が開かれた。
褪せたような金髪の青年が、一人廊下を抜けて佇んでいた。青年ではあるのだが、まだ僅かに少年のような幼さが残る。深夜帯だというのに、その背広姿はあまりにも整っていて、部屋では浮いていた。後ろにかなり大型の猟犬が付き添っている。
「……ああ、お前達、不安にさせたね。広く知られるのは問題になるとは言え、亡くなった猟犬の側近くで待たせるのは酷だった」
彼はただその青年を見ている事しか出来なかった。上司が立ちなさいと言うまで、彼は固まっていた。そうした号令でようやく彼は立ち上がるのだが、同僚の恋人は泣き止む事が出来ず、足元もおぼつかない。そんな彼女へ青年は近付いて行った。
「いいんだよ、座っていなさい。泣いていても構わない、今は目をつむろう」
青年は彼女の背中を優しく撫でていた。その言葉に彼女が座り込むと、青年は側に寄り添い背中を撫で続けた。
状況が理解出来なくて、ただ寄り添い合う二人を見ているのでいっぱいいっぱいだった。
主人が来ると言われた。
最悪の自体ではあるが、正直、喜びもあったのは事実だ。猟犬ならばそれは仕方がないとも、自分で納得はさせていた。
そうして、目の前に現れた主人はあまりにも若く、いっそ幼いとまで言えるほどの容貌で、その猟犬へ対する接し方も穏やか過ぎた。
口調はさすがに普通の青年とは言えなかったが、彼が想像していた主人像とはかけ離れたものだった。
初めて会った喜びと衝撃に、無礼にも見つめ続けてしまう。
「……痛みを忘れたいかい?」主人は彼女の俯いた顔を、覗き込むようにすると囁いた。
顔を覆った彼女は、激しく首を振る。
「解った……でも、もし耐えられないと思ったら言いなさい」
主人が彼女から離れ、部屋を見渡す。何故か部屋の一点で視線を止めてしまった。
「こんな形で猟犬を喪うなんて……」
主人は誰の案内も無く部屋を進み、一室へ向かう。彼は薄情なものかもしれないが、それでようやく同僚の死を思い出した。
「あの! カイム様、俺も……いえ、私もご一緒させて頂けませんか」
「君が正面玄関の警備兵か。いいだろう、来なさい」
彼が主人の背後へ続くと同時に、開けられた扉から、ベッドの接する壁に寄りかかり、銃を咥えた同僚の射殺体が見えた。血と、脳や脳漿が僅かに壁を汚しているが、それ程醜い死体には見えなかった。
彼の前に居る主人は、遺体を見つめているようだった。主人は遺体へ近付いて行くと、もう動かない自分の猟犬に触れ、頭を撫で始めた。
「カイム様、何故、自殺したのかはご覧になられたのですか?」
「……そうだね、さすがに見ずにはいられなかった。ごめんよ」
「差し支え無ければ教えてくださいませんか」
「本当は知るべきでは無いものだが……帰る場所を見付けたのだと思いなさい。君もいつか解るから、それでいい」
「永遠の冬……」
主人は目を微かに伏せて、微笑んだ。
もう、それ以上、言ってはいけないのだと、言われた気がした。
了
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