男が拳を握った理由
イヤフォンを耳に突っ込み、大きめの音量でR&Bを聴いている。音漏れはない、はずだ。
コートを着た男は通勤する為に、今朝もこの停留所に並ぶ。
列に並ぶのはいつもと同じ顔ぶれ。
見知った中だが、他人は他人。名前も住んでいる場所も知らない、朝に同じバスに乗り込むだけの間柄だ。
やがて、いつもの時間にバスが来る。この前の通りに渡るのに時間がかかる混雑した交差点があり、バスが着くのは時刻表の五分遅れだ。
バスが着いた。
今日の運転手は見た事のない奴、と人の流れのままにバスに乗る。
カード入れの中に入れている障がい者用のパスを素早く運転手に見せ、バスの奥へ歩く。
座れない。ちょっと混雑したバスの中で男はいつもの様に吊り革に掴まった。
…………。
しばらく頭の中に響く音楽に気を取られ、ふとバスの中が不穏なのにようやく気がついた。
窓の外の景色が動いていない。
バスの乗客の視線が全て自分に集まっている。
何が起こっているか解らずにイヤフォンを外すと、運転席からの声が聴こえた。
「お客さん」オタクっぽい運転手だ。「料金を払うのを忘れてますよ」
乗り出し気味に振り返って男を見ている。
何だ。料金を払ってないと思って、バスを発車させてないのか。ちゃんと精神障がい者用の公式パスを見せたじゃないか。無料で乗れるはずだ。
「お客さん」運転手が繰り返す。苛立ちまじりに。
パスを見せたじゃないか!と男は叫びたくなった。ちゃんと見てなかったお前が悪いんじゃないか!
叫びたかったが騒ぎを大きくしたくなかった。
この出勤時間にいつまでもバスが発車しないのは全ての乗客の迷惑だ。ここで騒ぎを起こしてさらに発車を遅らせたくない。
それに障がい者だという事を周囲に知られたくない。黙っていれば解らないのだ。
男は吃音気味でコミュニケーションは苦手だ。
とにかく早くバスを発車させたかった。
「お客さん」運転手の声は大きかった。当たり前だが、男が料金を払わなければ発車させる気はない。
男は折れた。悔しかったが、パスをはっきり見せようと運転席の方へ行く。
見せた。ちゃんと解るように。
「お客さん」運転手は不満げな大きな声。「障がい者用のパスは持ってるだけじゃなくちゃんと見せてくださいね」
瞬間、男の顔は羞恥と怒りで真っ赤になった。
精神に障がいを持っているから、パスを持っているだけで見せなくてもバスに乗れると思い込んでいた、そんな口ぶり。
男は思いがけず運転手の制服の胸元を掴んでいた。
濡れ衣を着せられるのは男が最も大嫌いな事だった。
…………。
それから先の事を憶えていない。
気がつくと乗客達によって取り押さえられた男は、バスの近くに停められたパトカーに警官によって押し込められるところだった。
記憶をなくすほどキレてたのか……。
その精神状態は男にとって新鮮だった。
「あ、あの……」バックシートに乗せられ、男は警官に恐る恐る訊いた。「お、俺は運転手をな、殴ったんでしょうか」
「自分がやった事を憶えてないのか」
驚き気味の警官に、あ、やっちまったんだな、と失望した。
あの運転手を殴った事への罪悪感はない。むしろ殴った手応えがないのが残念だ。
ただ、この騒ぎでいつまでも発車しないバスに乗っていた全乗客への申し訳なさで、胸はいっぱいだった。
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