人形の首
音のない花火の様に白い光が輝いた。
暗い玄関のドアを閉めると同時に、照明システムが室内を照らしだしたのだ。
「ただいまー」
同居している妹はまだ帰っていないはずの時間帯だが、アキラは無人のアパートに帰宅の挨拶をした。
声は住み始めたばかりの部屋の奥へと吸い込まれていく。
靴を脱ぐ。その時、白く明るい光景の中でただ一つの濃い肌色の小さな塊が、不意討ち気味にアキラをぎょっとさせた。
玄関から始まるフローリングの短い廊下に立っていたそれと眼が合う。
黒く丸い眼をした小さな少女人形。子供が人形遊びに使う様な物。短い手足で小太りの体型をしたビキニ姿の人形は掌を前にしてちょこんと廊下に立っている。
「びっくりさせるなよ……」
アキラは呟きながら、デニムのバッグを床に下ろし、廊下で見覚えがない人形を手に取った。
軽い。よくこんな短い手足でバランスよく立っていたものだ。
「マスミの仕業だな」
妹の悪戯だ、とアキラは青い髪を掻いた。上京してすぐ妹の腕試しで染めた髪。
マスミは専門学校。今頃はちょうど終業時間のはず。昨日までと同じなら友達と遊んで遅くなる。
今日の朝はアキラが先に家を出た。その後で兄を玄関先で驚かせようとマスミが人形を置いたのだろう。
アキラは黒髪の人形に興味を持ち、あらゆる方向から観察しようと手の中でくるくる回す。
頭がデフォルメされて極端に大きい。
足の裏にマレーシア製と印刷。値が高い物ではない。
正面から顔を間近で観察する。妹に似ている。いや、人形の表情は何となく暗く、そこが似ていない。
塩化ビニール製の人形の首が取れそうになっているのに気がつく。
中空の胴体に首手足のパーツをはめ込んで作られている人形だが、首の付け根が歪んで三分の一ほど元がはみ出していた。
アキラは人形の首をきちんとはめようと力を込めた。
上手くいかない。
付け根のくびれている部分の歪みがひどい。このくびれを全て胴体の穴に納めればいいのだが、無理やりねじ込もうとすると逆に取れそうになってくる。
もう三分の二ほど首の付け根のくびれがはみ出ている状態になってしまった。
アキラは玄関からリビングに移動しながら人形の首をはめ込もうと苦戦した。
布地のソファに座ると本格的に首の矯正に取り組む。
五分ほど集中したが芳しくない。指に力を込めてねじ込むと勢い余って首が外れかかる。
難易度が高い無報酬の作業。アキラはだんだんと腹が立ってくる。
真剣なのに上手くいかない。何故、妹の悪戯の後始末に煩わされないといけないのかとアキラは感情を小爆発。
「ああーっ! もう!」
人形を見るアキラの視界に、悪戯っ気たっぷりのマスミの面影が重なった。
昨日、冷蔵庫に入れておいたアキラの高級プリンを妹が勝手に食べたのを思い出す。
子供の頃からいつもそうだ、と腹立ちが本格的になった。
人形の扱いがぞんざいになってきた。動作に怒りがこもってくる。
結局、一度、引き抜いてから丁寧に歪みを矯正してはめ直そうと人形を持ち直した。
力いっぱい抜く。もぎ取るかの様な力の込め方だ
首が取れた。
ひや~あ~あああぁぁ。
不気味な音が人形の首の穴から漏れて、リビングの風景に染み入った。
「うわっ。気持ちワリい」
人形の中空の胴体に詰まっていた空気が首が取れた拍子に漏れ出た音は、アキラの背筋を恐怖でぞわつかせた。
力強く引き抜いた勢いで人形の頭部は手から離れ、背側へ放り投げられて何処かへ飛んでいった。
ソファの背もたれを越して、後方の観葉植物の大きな鉢辺りを眺めたが頭部は見つからない。
本格的に捜そうとアキラがソファから腰を上げる。
リビングのテーブルに置いたスマホから着信メロディが流れてきた。
妹からだ。
首のない人形をテーブルの上に立たせて、スマホに出ると映像付きの通信。
「お兄ちゃん」スマホの画面の中で妹が焦った様な表情でアキラに語りかけた。「今、何処」
「家だよ」アキラはぶっきらぼうに返す。さきほどの怒りの残り火がある。「解ってるだろ、この時間は」
「今さ、友達と一緒なんだけど」マスミが慌てている。背景は駅前の大通り。見憶えのあるカラオケ屋が背後に映っている。「今さ、あたしん家の真相を教わったの」
「真相?」
「あれさ、不動産屋さんは家賃を安くしてくれてるじゃない」マスミはちょっとやつれている。朝に寝不足だと騒いでいたのを思い出す。今の顔はあの人形によく似ている。
「ああ、そうだよ」
「あたし達の家さ、事故物件なんだって。訳あり物件。殺人事件があったの」背景に妹と同じくらいの年齢の女がちらちらと映りこむ。マスミの友達らしい。
「事故物件? 殺人事件なんて不動産屋もオーナーも何も言わなかったじゃないか。告知義務があるだろ」
「事件から三年くらい経つと賃貸での告知義務はなくなるんだって。今さ、あたし達は三年目なのよ」
「マジかよ……」アキラは青い髪を苛立ち紛れに掻き混ぜた。リビングを見回す。「俺達、そんなに詳しく調べなかったからな……」家賃が安いのは微妙に陽当たりがよくないからだ、と勝手に納得していた。
「アサカが事件の事を教えてくれたのよ」アサカとは今一緒にいる友達らしい。「赤ちゃんを産んだばっかりのお母さんが、育児ノイローゼで、ギャンブルマニアの夫の首を包丁で刺したんだって。新聞にも出てたんだって」
「……俺達の部屋かよ」
「そうなんだって。……あれさ」マスミはばつが悪そうに一旦態度を落ちつけてから話し出す。「ごめん。変な悪戯しちゃって。その悪戯と殺人事件は無関係だから……」
アキラは人形の事か、と察した。自分の家が訳あり物件だと知った日によりによって不気味なドッキリを仕掛けていたなんて、タイミングが悪い。縁起でもない。
「悪趣味だったよね」
「悪趣味すぎだよ」
「でもさ……大体さ、お兄ちゃんがあんな気味の悪い人形を置いてくから……」
「置いてく? お前の人形だろ」
「人形はお兄ちゃんが私を驚かす為に持ってきたんでしょ」
「悪趣味すぎなんだよ。人形を玄関に立たせておくなんて」
「玄関? リビングのテーブルの上に立たせといたんだけど。来たらすぐ見つける様に」
「テーブルの上? 首がもげかけてる気味が悪い人形をテーブルに置いたのか」
「もげかけ? 最初から首なんかついてないでしょ」
「ついてなかった? ……この人形だろ」
アキラはテーブルの上に立つ、今は首が抜けてなくなっている人形をスマホのカメラに写す。
その瞬間、金切り声の様な物凄い金属破壊音がスマホのスピーカーからけたたましく鳴り響いた。
自動車の衝突音だとアキラは急いで画面を覗いたが、スマホの画面はめまぐるしく光景をかき混ぜ、妹の姿が解らなくなる。
衝撃。妹の持っていたスマホがその手の中から放り投げられ、画面を上にして地面に落下したようだ。
空を映すスマホを介して、妹がいる大通りの悲鳴と喧騒がこの自宅の空気へ響き渡る。
「どうしたんだ!? マスミ!? おい、マスミ!?」
空のみを映したスマホの画面が人の悲鳴の騒がしさをアキラの耳に届ける。
と、その画面が宙に持ち上げられた。
拾った人間の顔が通話画面の正面に映った。アサカというマスミの友達。
「おい! マスミはどうした!? 事故か!? 救急車は!?」
アサカは妹のスマホを持ったまま、ただ泣きじゃくっていた。
「……今、車が突っ込んできて……マスミの首が……首が……!」
何が起こったのかをアキラは察し、絶望的な思考停止でスマホを見つめた。
ゆっくりとスマホからテーブルの上に立たせている人形へと視線を移した。
人形には首がある。
青色の髪。
髪型から何までもアキラにそっくりだ。ただし雰囲気が不気味に暗い。
笑っていた。
少女人形はもげかけた新しい首を奇妙に傾けたまま、 テーブルの上に立っていた。
理解したくない事を理解した
呪われた人形。
ゾッとした。
「この野郎!」
アキラは理不尽な感情の爆発を人形にぶつけた。右手で掴みかかる。
次の瞬間、アキラの首がまるでねじ切られた様に斜めに突っ張った。
激痛。首の筋が攣る。
首の肌や骨がもげそうに痛い。そして、それは痛みだけの問題ではない。
テーブルに倒れ込んで、床でのたうち回る。
首のもげかけた人形は無言で笑っている。
アキラの首が段段とねじれ、顎が背の方へと回っていく。
涙が出る激痛。その涙は痛みだけでなく悔しさがあった。
この訳の分からない人形が妹にも何かをしたのは確実だ。
「これ……しきの痛みなんか……マスミに比べれ……ば……!」
アキラの両手が床に落ちた人形を必死に拾った。そして手を胴と首にかける。
人形の首ももげそうだ。
もげた時にはアキラの首も。想像が脳裏を走る。
アキラは人形の首を思いっきり胴の方へと押し込んだ。拷問を受けている様な苦悶の中で、人形の頭部を中空の胴へと無理やりねじ込む。
人形の表情がひしゃげた。
アキラの顔もひしゃげた。眼から血が流れる。
あと少しで首が、ちぎれる。
渾身の力を込めて人形の頭部を潰し、首の中へとねじ入れる。物理的には不可能なはずの事を兄はやった。
ぐふ、ふ、と穴の隙間を漏れる空気がくぐもった音を立てる。
首の穴から人形の胴が裂けた。それは腹の側と背の側の大きな亀裂になる。
頭部が首の穴を完全にくぐった時、塩化ビニールの胴体は容量に耐え切れず、盛大に裂けた。
人形の破裂。
格闘の終わりに、女の悲鳴を聞いた気がした。
首のねじれが直ったアキラは無我夢中から意識を取り戻した。
床に手と膝をつき、荒く速い呼吸をする。
首は死ぬほど痛いが無事だ。まだ引き攣りの痛みが残っている。
押されてずれたテーブルを見る。
人形はない。あるはずの残骸も。
散らかった部屋の中にただ兄だけがうずくまっていた。
床に落ちていたスマホを拾う。
通話画面は切れていなくて、まだアサカが泣きじゃくった顔で妹のスマホを持っていた。
「……今の聞こえたか……見てたか」
「……え、何が……」
アサカは眼から赤い血を流したアキラの様子を怖がっている。今の死闘は見えていない。
「マスミは……」口にしたくない言葉。「死んだのか……」
アサカはただ泣きじゃくっていた。救急車のサイレンが聞こえる。
アキラはどうしたらいいのか解らなかった。この通話を切るタイミングさえも。
一体、今の人形は何だったのか。
殺人を犯した前の住居人の魂でも宿っていたのか。
昨日までの日常を振り切った怪事は兄、そして多分、妹の想像を超えていた。
誰が信じてくれる。
呪われた部屋。
この部屋の賃貸契約を打ち切る。
とりあえずそれをすべきだと兄は決めていた。
妹の葬式。
考えたくない事を考えなければいけない。
アキラは長く溜息をつきながら青い髪を掻いた。
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