うずき
小学校の真上の雲が重い。
窓ガラスの向こうでは、雨は銀の一線になっていた。
エアコンが利いているはずなのに、鬱陶しい雨の日がよけいに鬱陶しい。
「全く……男子の仕業に決まってるわ。あいつら、まだまだお子ちゃまなんだから……」
六年一組の教室で、藪坂ひとみは黒板の右隅に書かれた『日直』を見ながら、ショートカットの髪を手でかき混ぜ、独り言の文句を垂れた。
今日の日直の名前が二人、チョークで書かれている。
尾坂きみ江。
笹矢信二。
そして、その男女二人の名前に描き加えられた『相合傘』の絵。
さっき、三時間目前に理科室へクラスの皆が移動した隙に、誰かがこっそり描いたのだろう。
教室に戻ってきた時に皆はそれを見つけ、男子は二人を囃し立てていた。
幼馴染のきみ江は大人しい少女だ。男子に対して何の反論もせずに、ただ赤い顔でうつむきながら教卓を拭いている。
笹矢の方は今、教室にいない。トイレに行ったのか。。
雑談に満ちた教室の中で、幾人かの男子女子がこの相合傘についての会話をしているのが解る。
そもそもの始まりは昨日だ。
今日と同じに一日中、雨だった昨日の放課後。
蒸し暑い玄関で開いたきみ江の傘が突然、骨が折れて壊れてしまった。長年使っていたので寿命だったのだろう。
雨の降りは強い。
仕方なく相傘を申し出ようとしたひとみより先に、きみ江に傘を差しだしたのがクラスメイトの笹谷信二だった。
彼が優しく親切なのは学校中の誰もが知っていた。
それでも笹矢が傘を差しだしたのには、何か思う所がある、とひとみは直感した。笹矢はきみ江に特別な感情を持っている。
きみ江と笹矢は帰る方角が同じだった。ちょっと寄り道すれば、途中できみ江を送り届けられる。
しかし、それだけではない、という直感だ。
二人は笹矢の傘で相傘して帰った。
それは周囲の注目の的となり、二人を巡るひそひそ話はそこから始まった。
雨の中、少なくとも二人は会話を交わす事はなかった。離れた所からひとみはこっそり見つめながら歩いていたが、何事もなくきみ江は家まで送られた。
「送ってくれてありがとう……。さようなら……」という小さなきみ江の声。
そこで道は分かれたのでひとみは彼の帰宅は見ていない。
そして、翌日である今日の日直は、何という運命の悪戯か、尾坂きみ江と笹矢信二の二人の番だったのだ。
同じ雨の日。
二人の名前にいつの間にか書き加えられた相合傘。
さっさと消せばいいのに。
きみ江がなかなかその相合傘を消そうとしないので、ひとみは黒板消しを手に歩き出した。
「待って……」赤面したボブカットの少女が服の裾をつまんで、ひとみの動きを止めた。
「きみ江。落書きを消すだけよ」
「消さないで……」きみ江には何となくのろいカタツムリみたいなイメージがある。「描いたのは私だから……」
「……え」ひとみは一瞬、何を言われたのか解らなかった。
「相合傘を描いたのは私だから……」小さな声による行為の告白。
「え、ええ。何で自分で」
「私、笹矢君の事が好き……」二人の会話は周囲に聞こえないように小さな声で行われる。「そして、多分、笹矢君も私の事が好き……」
「え、え、両想い? 告白したの?」
きみ江は小さく首を横に振った。「でも、多分、両想い……。だから笹矢君も相合傘を消さない」
「好き同士だって解ってるのに告白しないの」
「相手が自分の事を好きだって解ってるのに、告白しない……そのもどかしさ。互いに両想いでも告白しないでこういう風に周囲からからかわれたりする……そんな微妙な時期って素敵だと思わないかしら……?」
「好き合ってるならさっさと恋人になればいいじゃない」
「そういう直接的な事じゃないの……。相合傘を描かれて『あいつら好き合ってるんだぜ』、そんな風に噂されるのが甘酸っぱい快感に思えない……?」
「……解らないなぁ」
「笹矢君は解ってる……。だから、私達は今は片想い中の両想い……」きみ江はニヤ~、と陶酔する様な笑みを作った。。
ひとみはその笑みにちょっとゾッとする感覚を味わった。「あんたとは幼稚園から一緒だけど、今でも驚かされる事だらけだわ」
「告白したらこの時間が終わっちゃう……だから私達は互いに心の中を打ち明けない……。ずっと打ち明けない……。周囲から噂される……いじられる……この痛痒い『疼き』がいいの……」
どうもきみ江は妙な雰囲気だ。これは巷で言う『SM』的な感覚じゃないのか。ふと、ひとみはそう思い、ぶるぶると首を振った。「その為に自分で相合傘を描いたっていうの。あんたがこんなにめんどくさい子だなんて思わなかったわ。ともかく、消さなくていいのね」
きみ江はうなずいた。
その時、丁度、四時間目の開始を告げるチャイムが鳴り、同時に笹矢信二も教室に戻ってきた。
きみ江と笹矢の眼が一瞬、合う。
と、気まずさともどかしさを合わせた様なムードで笹矢は眼をそらし、自分の席に着く。
ひとみときみ江も席に着いた。相合傘について何やら噂話をしていたクラスメイトもめいめいの席に戻った。
やがて担任教師が前のドアから入ってきた。
そして、授業を始める前に日直の相合傘の落描きに気づき、何も言わずにさっさとそれを消した。
消されてしまった事に、きみ江も笹矢も何も感じていない様だが、もしかしたら心の中で『惜しさ』を感じているのかもしれない。
ひとみには、今のきみ江の心が解らなくなっていた。
大人とも子供とも言えない痛痒。
ややこしい両想いだわ。
ひとみは授業が上の空になる。
きみ江はもう大人になっているのか。
二人が恋人になったら、その時、二人は確かに大人なのだろう。子供の時間が終わりを告げる。
私も男の人を好きになる時、こんな想いを味わうのだろうか。
算数の授業を進める教師の声で、雨音は聞こえない。
エアコンの利いた小学校の窓の外では、昨日から蒸し暑い雨が降り続いていた。
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