明晰夢

 誰が「夢の中で頬をつねっても痛くない」と言い出したのだろう。

 今、頬をつねってみたが確かに痛かった。

 だが、これが久しぶりの明晰夢だという事はとっくに気づいている。

 元元、俺は夢の中でも、視覚も聴覚も味覚も嗅覚も触覚も全て感じる質なのだ。

 例えば夢の中で熱熱のステーキに齧りつけば、噛み応えと共に熱い肉汁が一緒に喉に流れ込んでとても美味い。火の通った肉の匂いは嗅覚を刺激して、食欲を増進させる。腹もしばし膨らむ。

 あまりにも自分の都合のいい事ばかり起こって「さすがにこれは夢なんじゃないか?」と疑って頬をつねって痛かったから「万歳! これは夢じゃない!」と喜んでいたら、やがて眼が醒めた、なんて事もあった。

 俺の見る夢は現実と区別がつかないほどリアルなのだ。他の人の夢もこれだけリアルなのかは、俺はその他人じゃないから主観的には解らない。

 そして実際、今、俺は肉体は眠って、意識は夢を見ている。そう考える自意識が俺にある。これが明晰夢であると気づいてるのだ。

 明晰夢。自分が夢を見ていると自己認識出来ている夢。

 今は確かに真夜中で、現実の一九歳の俺はタオルケットにくるまって、ベッドの上で寝ているはずだ。

 それなのに俺は夢の中で空間の広さも定かではない、霧に包まれた湿り気の多い黒い部屋の中にいる。見えないが外では雨が降っている。

 雨か。これはこの夢の中でもリアルでも同じだ。一週間もザアザアと降り続いている。

 気が滅入る。

 だが、夢の中だと気づいているなら、俺は自分の思うままに夢を変化させる事が出来る。それには少少のコツが必要だが、何度も明晰夢を見ている俺はそのコツを身につけていた。

 集中する。願う。この時、夢は意識の覚醒に引きずられて醒めてしまいそうになるが、それに意識を抗わせて、何とか眼醒めないように踏みとどまる。

 一旦、この夢操作モードに入れれば、後は俺は夢の世界の王様だ。

 自分が好きなように夢を支配し、世界を変える事が出来る。

 俺はこの夢の雨を消した。暗い部屋の外からの雨音が聞こえなくなる。霧も晴れた。

 黒い部屋に照明を点した。

 すると今まで考えついた事がなかった豪奢でリアルなシャンデリアが次次と天井で点き、この部屋がとてつもない広さである事が明らかになった。

 今まで想像もしなかった立派なテディベアなど、ぬいぐるみの類が明るいビビッドな体色で床を覆いつくしていた。

 色彩がはっきりした、サイケデリックな芸術空間だ。

 自分の意識の中の明晰夢でも、己の想像力の限界を超える展開をする事がたびたびある。

 新鮮な感動だ。だから明晰夢で遊ぶ事はやめられない。

 夢の中は一転して、明るく陽気なポジティブな空間となった。

 この中では夢は現実だ。

 そうだ。

 俺は二週間前に遠くの町に捨ててきた飼い猫を思い描いた。

 白と黒のぶち模様の、不細工な雑種の大きな愛猫。

 家族がこのアパートに引っ越す事になり、動物飼育が禁止なので十年飼っていたその猫を手放す事になった。

 初めは親戚か友人の誰かに引き取ってもらおうと思ったのだけれども、あまりに不細工なのとろくに躾が出来ていずあちこちに爪を立てる事、高級な餌ばかり食べさせすぎて口がおごり食費がかかる事、生活習慣病のせいで獣医に定期的にかからなねばならない事など厳しい条件が重なり、引き取り手が現れなかった。

 やむをえず保健所で処分しようという案も家族から出たが、二週間前、俺は勝手にそいつを連れ出し、原付で遠くの町まで運んで知らない公園に段ボール箱ととりあえずの餌だけおいて置き去りにしてきた。

 処分されるよりは誰か親切な人に拾われろ、そうでなくてもお前は野良として生きていけるだろうというのが俺の思いだった。

 それからブー太郎がどうなったかは俺は知らない。

 そのブー太郎を俺はこの明晰夢の中で思い描き、願った。

 すると、部屋の一点を埋め尽くしていたカラフルなぬいぐるみの山がモコモコと動いた。

 にゃあ、と一鳴きしてぬいぐるみをかきわけた中から、見覚えのある白と黒の大きな猫が姿を現した。

 ブー太郎。

 願った通りに、ブー太郎とあの別れた時の姿そのままで再会した。

 俺は感動した。嬉しかった。

 しゃがみこみ、手を叩いて、ブー太郎を呼び寄せた。

 ブー太郎は一声鳴き、こちらへまっしぐらに駆けてきた。

 俺は喜色満面の笑みでそいつを迎える。

 だが、おかしい事に気づいた。

 ブー太郎の顔は再会に喜ぶ表情ではない。険しかった。

 口を耳まで裂くような表情で、怒りの声を挙げながら全速力で走ってくる。

 猫は大きくジャンプして俺の顔にとびついた。

[newpage]

「これを事件だと思うか」

「何とも言えないね。事故とも事件とも思えない」

「じゃあ、何だね」

「何だろうね」

 デジカメで写真と動画を撮る。

 鑑識の人間達が、黄色いテープで規制線を張られて保全された現場で、捜査員が入ってくる前に資料物品を集めていた。

 アパートの一室。

 乱れたベッドの上でタオルケットを蹴散らし、一九歳の男が苦悶の果てにスウェット姿で死んでいた。

 今朝、起きてこないのを不審に思った母が自室に入ってきて息子の死体を発見した。

 異常な死体だった。

 開いた口が限界を超えて裂け、そこから大きな白黒のぶちの猫の下半身がとびだしていた。

 喉が裂けるほどに首が膨らみ、頸骨がメチャクチャなのは一見で解った。猫の上半身は男の死体の体内にあった。恐らく胃袋は破れているだろう。

 外は雨が降り続いていて、雨戸は閉められ、何処から猫が入り込んできたかはよく解らない。

 勿論、猫も死んでいた。

 というより猫の死骸は腐乱し、死後一週間は経っていると見られた。男の死体の体内に突っ込まれているのは泥だらけの腐乱した猫の死骸だった。

 家族によれば二週間ほど前まで飼っていた猫だという。このアパートに引っ越してくる直前に行方不明になっていた。

 猫の死骸の腐敗臭がひどかった。勿論、現場には猫の足跡は見つからなかった。泥の痕跡は他にもなしだ。

「窒息死。さもなければ体内がめちゃくちゃに破壊された事によるショック死、心不全か」

「まるで死んだ猫がいきなり体内で実体化したみたいな感じだ」

「猫の祟りか」

「化け猫に殺される夢でも見たのか……」

 鑑識達は非科学的な自分達の見解は胸に秘め、捜査員を現場に招き入れた。

 降りしきる雨の日。男の死体は死んだ猫を体内に込めたまま搬送された。

 誰もがこの事件の迷宮入りを予感していた。

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