「第8章 もう大丈夫」(4)

(4)


「――澄人、起きて」


 彩乃に体を揺さぶられて、澄人は現実へと回帰する。


「……ごめん。寝てた」


「いいよ。私も本が読めたし。仕事で疲れてるんでしょ? ぐっすり眠ってた」


 夢と現実の狭間にいる感覚が頭にまだ残っていた。加えて座って眠っていたから、体が固くなっている。両手を上げて背筋を伸ばして、欠伸をした。


 店内を見回すと、入っていた時のガヤガヤとした喧騒は失くなっていて、他に客の姿なかった。


 店内にあるアンティークの壁掛け時計を見ると、時間は閉店十分前。


 どうりで他に客がいない訳だと納得する。時間が飛んだ事とボーッとした頭のせいで、ワープしたような錯覚に陥る。


 カウンターでカップを拭いている香夏子をぼんやりと視界に捉えると、隣に来ていた彩乃が口を開く。


「そろそろ帰ろ? お金はさっき香夏子さんに払ったから」


「えっ? いくらだった?」


 鞄から財布を取り出すと、彩乃は首を横に振った。


「いいよ。久しぶりに奢ってあげる」


「いや、それは……」


「いいっていいって。今日は奢らせて?」


 そう言って彩乃は自分のソファに戻り、横に置いていたコートに腕を通す。その様子から彼女が頑として受け取らないのを察した。


「じゃあ、今度東京に行った時は何か奢らせてくれ」


「うん、楽しみにしてる」


 笑顔で頷く彩乃。澄人は自分も横に置いていたコートに腕を通す。


 忘れ物がない事を確認したら、二人はそのまま入口へと向かった。それに反応して、香夏子がカウンターから出てくる。


「おはよう、澄人くん。ぐっすり眠れた?」


「はい。ありがとうございます」


「うん。またいつでも来てね。勿論、彩乃ちゃんも」


「何か付け加えられた気分なんですけどぉー」


 添えられた事に頬を膨らませて不満を訴える彩乃。


「ゴメンゴメン。いつでもお越しください」


「はーい。分かりました」


 香夏子に言い直してもらって、機嫌を直した彩乃は、緑のドアに手を掛けた。カランコロンとカウベルの音が静かな店内に鳴り響く。その音が切っ掛けになったか後ろにいた澄人は、彼女の背中に向けて声を飛ばす。


「さっきの続きで聞きたいんだけどっ!」


 予想以上に喉元から大声が飛び出て自分自身でも驚いた。


 ドアを開けていた彩乃は澄人の大声に静かにドアを閉じてから振り返る。再びカランコロンとカウベルが鳴った。


「ん?」


 澄人は、足を前に出して彩乃との距離を詰める。


「今も彩乃は、自分の栞が見えてるの?」


 今度は声を小さくしたので香夏子には聞かれていない。目が合って堂々と正面から聞いてるから、そう簡単に沈黙に逃げる事も出来ない。


 だから、彩乃の本音が聞ける。


 彩乃は鞄を入口に置かれていた待ち合い用の椅子に置くと、スッと彼に向かって両腕を回して抱きしめた。洋服越しに彼女の柔らかい体の感触と体温が伝わってくる。


 彩乃は澄人の耳元に口を持っていくと、吐息を漏らしてから、こっそりと口を開いた。




「もう大丈夫。あの時、君のオレンジを救けて、本当に良かった」






 君のオレンジなんか救けなきゃ良かった(了)






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