「第8章 もう大丈夫」(2-2)
(2-2)
そんな事を考えて、つい彩乃に見惚れていると、彼女が「あっ」と声を上げてこちらを向いた。バレたかと思ったが、そんな事ではないようだ。
「最後の未練作りの事、覚えてる?」
「覚えてるよ」
彩乃の室温に澄人は真っ直ぐ頷く。彼からしたら、覚えてるかと聞かれるなんて愚問と言えるくらい強烈で、一生忘れられない。
激怒した昭彦や真っ青になった正弘。東京のとある高級ホテルのロビーで大人の男性二人が正反対の顔を見せた。まるで、映画のワンシーンのような光景。
「やっぱり? 私も忘れられない。正弘さんの事もそうだけど。その後の東京観光も楽しかった。そう言えばあれ以来、東京って行ってないなぁ」
「あっ、そうなんだ。俺は何度か行ってる」
友人との旅行や就活の際に何度か面接で訪れている。
「いいなぁ、中々機会に恵まれないんだよね」
「じゃあ今度、日程調整して行く?」
澄人が軽い気持ちで言うと、彩乃は目をパァッと輝かせた。
「行く! 行く! やった。いつ頃にする?」
思いの他、乗り気の彩乃にやや押されつつも、澄人はiPhoneを取り出して、スケジュールを確認する。
「うーん。そうだな、これから年末調整があるからなぁ。多分、三月が終わらないと厳しいかも」
「えぇー、かなり先じゃん」
スケジュールを伝えると、彩乃は口を尖らせる。
「ごめん。こればっかりはどうしようも……」
「しょうがない。取り敢えず行く事が決定しただけでも良しとしますか」
「ありがとう」
一先ず納得してくれた彩乃に澄人は礼を言う。
「三月が忙しいのは私の会社も同じだから。決算期だからね、毎年その時期は残業地獄な訳ですよ」
「三月ってやっぱりどこもそうだよな。学生の頃とすっかり印象変わっちゃったよ」
学生の頃、三月は四月になる前の最後の足掻きみたいな印象があったのに大人になると、強制的に設けられた最終締め切りのイメージへと変換された。これが価値感の変化なのだろう。
「だね」
澄人の意見に苦笑して同意する彩乃。
「色々変わっちゃたな。会ってない子も沢山いるし」
「俺もそんな連中沢山いるよ」
小さな無言が流れてから、互いに目の前のコーヒーを手に取る。口に含んだコーヒーの味は初めて来た時から何も変わらない。どんな時でも迎え入れてくれていた。
「グリーンドアのコーヒーの味は変わらないね。ううん、お店だけじゃなくて店の雰囲気も」
「俺も同じ事を考えてた。この店の雰囲気は変わらない。ずっと助けられてる」
「うん」
澄人の意見に彩乃は、ゆっくり頷いて同意した。頷いた彼女の頭部には、何色の栞も挟まっていない。
それは彩乃だけではなく、澄人の目に映る人間全員である。
彩乃と一緒にコーラを飲んで地下鉄から帰った時までは、栞は視界に映っていた。それが、いつからか栞が見えなくなった。当たり前のように見えていたので、消え始めは分からない。まるで自分に見つからないようにそっと溶けていった。
最後に見た彩乃の栞は夕焼けのようなオレンジに白のカバーを被せたような色だった。これから先、栞を白にしていくと決意したばかりなのに、見えないようでは話にならない。焦った澄人はすぐに叔母に連絡を取り、事情を説明した。
叔母は自分達の家系以外に栞が見える人間がいた事に驚いていたが、栞が見えなくなった事に関しては、当たり前のような対応をされた。
彼女の曰く、栞はある日突然、見えなくなるもの。更に一度、見えなくなったら、もう見える事はないという。少なくとも叔母は大学生の時に見えなくなってから、今日まで見えていないらしい。
見えてもらわないと、彩乃を助ける事が出来ない。そう強く訴え、何とか再び見える方法はないのかと尋ねた。
それに対して叔母は「方法はない。そもそも最初から栞なんてないのが当たり前。これからは栞なしで頑張るしかない」と言葉を返す。正論であり、彼女の言う事は何も間違っていない。その事に黙ってしまうと、叔母はため息を吐いた後、「栞が見えなくなったって事は、逆を言えば見る必要が無くなったと神様が判断したって事。だから、出来る事を精一杯頑張りなさい」と話した。
必要が無くなった? そんな事はないと即座に否定したかった澄人だったが、叔母はそう言い切って通話を切ってしまった。
それ以降、栞が見えない中で彩乃と今の関係を続けている。
彩乃は、昔に比べて大分明るくなった。
お金を雑に扱うような真似はしなくなり、物事をちゃんと考えるようになった。あまり勉強は得意ではなかったようで、大学に行く気はなかったらしいが、二年生の後半から進学を希望して、三年生の時には毎日遅くまで図書室で受験勉強を頑張っていた。
努力の甲斐もあって本人が希望する大学へ入学する事が決まり、卒業後は会社員として働いている。資格の勉強も続けており、将来的には転職も視野に入れていると聞いた。
そう、聞いているだけなら、とても彩乃がこの先自殺するようには思えない。
しかし油断してはいけない。
栞は見えないんだ。
またいつか急にいなくなる可能性だってあるんだ。
この十年、澄人の心の片隅には楔のようにその意識が滞留していた。
彩乃にはその事は言い出せず、あたかも栞が見えているように接していた。最初はとても苦痛で何度か言ってしまおうと考えていた時期があった。
栞が白くなった条件だって、分かっていない。あの夜、駅のホームで彩乃の栞の色が薄くなったのは、今でもハッキリ覚えているのに。
だけど、一度それを口にしてしまうと、全てが終わってしまうのではないか? その疑問が恐怖へと変換されて、澄人の口を重くさせる。
次第に時が経つと共にゆっくりと楔は小さくなっていく。彩乃がこうして息をして、元気に生きている。以前までの思いっ切り力を入れたら壊れてしまうような彼女ではない。
もう、大丈夫ではないのか?
楔が時をかけて少しずつ、形状を変化させていく。
ほんのついこの間、電話をしていた時にも言いかけた事があった。金曜日の深夜、お酒を飲んでいる。そのような事が弾みとなったのだろう。
実はもう栞が見えない。でも、きっと彩乃の栞は、白くなっているはずだから。
そう言おうとして、声が出かけた喉に急ブレーキがかかった。
彩乃には、まだ栞が見えているのではないか。
湧いた疑問は、一気に酔いを覚ます。
自分が見えていないからと言って、彩乃も同じとは限らない。
彩乃は今も変わらず栞が見えている可能性がある。高校三年の三月、毎週していた未練作りは最後を迎えた。
大学生になってからは友達として一緒に遊んだ。お互いの恋人の話や大学生活の話をした。二人とも大学が違うから、話は新鮮で、一回だけ講義に潜り込んだ事もあった。
就活が始まり、着慣れないスーツを着て社会人になった。
大学生の頃より、更に会う頻度が減っていく。メールでのやり取りが多くなった。予定を合わせて会う時は、自然とお酒が傍にいるようになる。
二人ともそれ程、強くはない。小さな居酒屋でちびちびとお酒を飲むだけ。
勿論、グリーンドアでも飲んだ。その時は、香夏子や巧とも一緒に飲んで楽しかった。
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