「第5章 未練作りの一環として」(7-2)

(7-2)

 

 澄人はすぐに我に返り、大袈裟に両手を振った。


「なしっ、なしっ。今のはなし。悪かった。変な事、聞いちゃった。ごめんっ、忘れて」


「うん……」


焦る澄人に彩乃は、小さく声を漏らす。


 一度出してしまった言葉は、もう戻せない。たった数秒でいいから時間を戻せたら、さっきの発言を無かった事にするのに。本気で澄人は後悔する。ありえない事を願ってしまった時、彩乃は「あー」と口火を切った。


「そっか。ごめんね、そりゃ三嶋君も困るよね」


「本当に大丈夫だから。それよりどこに行こうか」


 少々強引に話題を切り換えて、彩乃にどこに行くかを提案する。彼女は少しだけ心細い顔を見せた後、「うん、やっぱり東京かな」と笑顔を見せてくれた。


 彩乃の未練作りに関しては、正弘さんの問題をクリアした事で峠を越えた。その事実は揺らがないが、そこから先の事を考えるのは後でいい。

 今やりたいのは、それじゃない。


 二人で携帯を出して、小さな画面を見せ合いながら、行き先について盛り上がる。どこに行こう、何をしよう、何を食べよう、楽しみを話し合っていると、次第に携帯電話の小さな画面ではもどかしくなっていく。


 そこで彩乃がレジから戻ってきた香夏子に声をかけた。


「香夏子さん、ノートパソコン貸して」


「はいはい。ちょっと待っててね」


 香夏子はそう言って、カウンターの下に置かれていた銀色のノートパソコンを彩乃の前に置いた。


「ありがとー」


「レポートが途中だからワードは使わないでよ?」


「うん。ネットで調べるだけだから」


 香夏子の言い付けを守り、彩乃はワードを最小化したままでブラウザソフトを立ち上げる。慣れた手つきでトラックパッドを操作して、検索サイトを開くと、携帯電話で表示していたページまで飛んだ。


「おぉー。やっぱりパソコンだと綺麗に映る」


 ノートパソコンのディスプレイいっぱいに表示された東京タワーに彩乃が感想を言った。


「確かに。携帯電話よりも見やすい」


「そうでしょう、私に感謝するように」


 偉そうに彩乃が言うものだから、澄人はつい、「でも……」と口を開く。


「それって彩乃のパソコンじゃなくて、香夏子さんのパソコンじゃん」


「彩乃?」


 話の内容よりも名前で呼んだ事に彼女が首を傾ける。一方、澄人は言われて初めて自分の言った言葉を反芻する。


 今、自分は彼女を名前で呼んだ。


 その事実を脳が認識した途端、体中から汗が吹き出るのを感じる。顔が熱い。触らなくてもそれが分かるほどに。


 澄人が恥ずかしさに堪えていると、彩乃が首を傾ける。


「顔、真っ赤ですけど?」


「……ごめん」


 彩乃に指摘されて頂上まで届いたはずの恥ずかしさが更に上昇する。澄人本人も驚くその高度に対処すべく、手を挙げた。


「香夏子さん、お水ください」


「はいはーい」


 香夏子は慣れた手つきでピッチャーからグラスに水を注ぐ。入れてもらったらグラスを手に取り、すぐに喉に流し込んだ。物理的な冷たさが喉を伝わって、体全体を冷やしていく。


「おー。良い飲みっぷり。どうしたの? 顔赤いし、暖房強い?」


 お代わりを注ぎながら香夏子は尋ねる。


「あ、違うんです。ちょっと冷たい物が欲しかったので」


 澄人が言い訳していると、隣で彩乃がクスクスと笑う。何故、彼女が笑っているのか分からない香夏子は頭の上でハテナを作った。


「え? 何々? どういう状況なのこれ?」


「えっとねー。三嶋君が予期せぬ恥ずかしい事をして照れてるって感じ」


 彩乃が事情を説明すると、香夏子は「あぁ」と何かを察したような声を出した。


「なるほどね。まあ、男の子だし。しょうがないか」


「いや、それは何か勘違いしてますよ。単に名前で呼んだだけだから」


「はいはい。そうだねー、名前で呼んだねー」


 真実を話したのに香夏子には届かない。彼女の頭の中にいる自分は、一体何をした事になっているのだろうか。考えるだけで恥ずかしいが、真実より高い所に行ってしまった彼女には、何を言っても無駄だった。

 時間が解決してくれるのを大人しく待つしかない。


「ところで。彩乃ちゃんに澄人くん。二人とも夕食ってどうするか考えてる?」


「いや、何も考えてないです」


「私も別に」


 正直、作戦を遂行させる事に集中していて、夕食までは考えていなかった。祝賀会の話をしたので、グリーンドアにはいるがそこで止まっている。


「なんか食べる余裕が無かったから」


「そうそれ」


 二人が顔を見合わせて頷き合うと、香夏子が呆れたように両手を腰に当てる。


「ったく。それならココで食べていく?」


「えっ、香夏子さんが奢ってくれるの?」


 彩乃の言葉に負けず、背筋をピンと伸ばす香夏子。


「いいえ? 奢りません。ただの営業トークです」


「ちぇ、ケチ。じゃあココで食べますか。三嶋君は何が食べたい?」


 彩乃がフードメニューを手に取る。目の前に広げられたメニューにはカレーからパスタまで幾つかのメニューが記載されていた。ちゃんとメニューの横には写真が添えられており、見ていると食欲が刺激されていく。


 その中で今、一番食べたい物を澄人は口にした。


「ハヤシライスが食べたい」


「私はミートソースのパスタ。香夏子さん、お願い」


「はい。かしこまりました」


 注文を聞いて香夏子はカウンター奥にいる店主に伝える。注文を聞いた、店主は巨大な冷蔵庫から材料を取り出して、早速調理に取り掛かる。


 サンドイッチ程度の軽食の補助は香夏子や巧でも出来るが、それ以上の料理は基本的に店主が行っている。


 以前に訪れた時に香夏子本人がそう言っていた。


 しばらくするとハヤシライスと小さなサラダが木製のトレイに運ばれた。銀のスプーンを手に取り、ルーとライスを口に含む。


 今日一日で初めてまともに意識して食事。


 公園での彩乃じゃないけど、このハヤシライスの味はそう簡単には忘れられないだろうな。食べながらそんな事を考えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る