第70話 08月06日〜08月07日
「私は、貴方のことが好きです。
差し出された彼女の左手。その絹糸が如く美しい指先を見つめたまま、私は声を出せずに居た。
これほど素敵な女性に好意を寄せられるなど、今後の私の人生で二度とあるものだろうか。
少なからず、こんなにも真っ直ぐに「好きだ」と言われたことなど、生まれてから一度も無かった。
それに彼女は父も認めている優秀な医師だ。交際はおろか、結婚もすんなり認めてくれるだろう。父は寧ろそれを望んでいるはず。
彼女と歩む先に見えるのは間違いなく安寧と安息。
大きな障害もなく進む人生。それは容易に想像できる。
にも関わらず私の脳裏に移るのは、幸福な
気付けば私は拳を握りこみ視線を伏せて、
「すみません、
苦虫を噛んだように答えた。
すると彼女も少しだけ目線を下げた。
「そうですね。少々強引すぎました。
複雑に絡み合う私の胸中を察したかのように、
だが俯いたままの私と違い、彼女は直ぐに顔を上げると、優しい微笑みを返してくれた。
「返事、待っています。でも答えは必ず聞かせてください」
「……すみません」
「謝らないで下さい。それでは、断られたみたいです」
「……すみません」
優しさを享受できない私に、
「じゃあ、ひとつ交換条件です。返事を待つ代わりに、今度から私のことは『
「え…?」
私は顔を上げた。その視線の先では、
「駄目ですか?」
「い、いえ! わかりました。
ギロリ。微笑む
「――み、
言い淀みつつも名前を呼べば、
「では、今日はこれで失礼します。御返事は電話でも口頭でも構いません。焦ることなく、ゆっくり考えて下さい」
それだけ言い置けば、彼女は颯爽と身を翻して改札の向こう側に去っていった。
一度も振り返ることのない彼女の背中を、私はただ黙って見送ることしか出来ないでいた…。
※※※
「――
「……へっ?」
呆然と彼方に飛んでいた私の意識を、
隣を歩く彼女に、慌てて私は視線を向ける。
以前ホテルで見たような
「ご、ごめん
「もう! ボケッとしないで頂戴! 今日は本当に大事な面談なんだから! ほら、ネクタイも曲がっているじゃない」
足を止めて私を正面に構えると、
日曜日。私と
約束の時間丁度に院内へ入れば、奥から優しそうな女性の医師が出迎えてくれた。
聞いた話からどれほど気難しい方なのかと危惧していたが、意外にもその笑顔は軟らかく腰も低い。
挨拶もそこそこに、私達は奥にある休憩室へと案内された。
小さなテーブルを挟んで行われた話し合いは、面談と呼ぶにはフランクだった。
ドクターは楽しそうに開院時の話をされ、
後ろで控えていた私も共通の話題など考えていたのだが、
『こちらは私の縁者です。医師ではありませんが診療所に勤務しております。御開業された先生のお話を是非お伺いしたいと申しており、今回こちらにお伺いさせて頂いた次第です』
と、
だが院を出た
私にはあの女性ドクターが
ともあれ、上手く事が運んだのなら何よりか…。
「はー、それにしても喉が渇いたわね! そこの喫茶店で冷たいものでも飲みましょう。今日は特別に私が奢ってあげるわ!」
満面の笑みで
古めかしいドアを開くと、ノスタルジックなベルの音が響いた。
カフェと言うには場違いな、趣きと拘りある雰囲気のその喫茶店に入った瞬間、ふいに客席を見た私は息を呑んだ。
「
何故ならそこに、
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