染まる世界とかわいい女神

 今年初めて降った雪は、真っ赤だった。

 非日常の光景に、私は世界の破滅をせつに願う。


 鋼鉄より重いため息が、朱色のタイルに溺れて沈む。

 診療所の待合室で私はいま、審判のときを待つ。


 くれないに染まった壁を見つめ、思い出すのはあの日のこと。




 会社の健康診断で、初めて採血検査を受けた。

 止血バンドを巻いて診察室から出たとたん、私は意識を失う。


 原因は「血管迷走神経反射けっかんめいそうしんけいはんしゃ」。

 脳への血流減少と、体調不良・痛み・怖さが重なって、気絶してしまう現象だ。威力の高い必殺技にしか聞こえない。


 たしかに連日連夜の残業で、食事も睡眠も不足していた。

 採血が不慣れな看護師さんで、針の痛さに恐怖を植え付けられた。


 あと、前日に徹夜で新作ゲームをプレイしたけど……まあ、これはきっと関係ない。




 ともかく。


 あの日以来、私は採血が苦手になってしまった。

 健康診断当日は白い物がすべて赤く見えるほどの拒否反応。


 そして今年の転勤で、検査病院が変わってしまった。

 慣れない診療所での採血に『不安』のステータス異常は深度しんどを増す。


 痛かったら嫌だな……また倒れて介抱されると恥ずかしい……もういい大人なのに……。


 黒歴史をちぎっては投げていると、私の名前が呼ばれた。


 いよいよだ。


 私は乾いた唾を飲み込み、診察室に臨む。


 入室するとすぐに、ベッドでの採血を願い出る。

 横になることで気絶の確率を減らすためだ。


 腕を出して仰向けに寝ていると、やって来たのは若い看護師さん。

 手順を口に出しながら、ガチャガチャと器具を確認している。


 ……不安だ。


 私の腕を触りながら看護師さんが困惑し始めた。

 血管が見えない、どうしよう、というつぶやきが聞こえる。


 これ絶対に痛いやつだ……怖い……痛いのイヤだよぅ……!


 天井も、壁も、ベッドも、鮮やかな紅蓮が支配する。

 握ったシーツがぬるぬるしてきた。からくてねっとりした空気が喉に張り付く。心臓がドアをぶち破りたいと暴れまわる。


 でも無理ムリむりぃ……! もう私、いい歳の社会人だからぁ……!


「わたしが代わりましょうか」


 目じりの涙がこぼれそうになったとき、かわいい声が聞こえた。


 トマト色のカーテンを開けて入ってきたのは、背の小っちゃい、おばあちゃんの看護師さんだった。

 ベッドの横に立つと、私の顔を覗き込んで、にこにこと微笑む。


「大人でも注射が好きな人なんていないから、安心して」


 眼鏡の奥に浮かぶ優しい瞳が、こわばった身体をほぐしていく。


「冷えると思ったら、雪が降ってるのね」


 私のまぶたに浮かぶのは、この世の終わりを願った風景。


「孫が雪を見るとはしゃいでねえ。すごく楽しそうなの。わたしは冬が嫌いなんだけどね。だって寒いでしょ? 水が冷たいからお茶碗を洗うのも大変だし。暖房をつけても、部屋がなかなかあったかくならないから困っちゃう。はい、おしまい」


 …………えっ?


 気づくと、二の腕に四角い絆創膏。

 針の痛みも、血を抜かれる感覚も――エレベーターが落下するような、あの感じさえなかった。


 すべてが世間話を聞いているうちに終わっていた。

 まさに、神業……!


「大丈夫だと思うまで、横になってていいからね」


 そう言って、おばあちゃんはちょこちょこと部屋を出て行った。




 診療所を出ると、ほわぁと湯気みたいな息が洩れる。

 ミルク色の小さな建物に、私は希望を見出していた。


 呪いは解けた。きっと来年から世界は染まらない。

 なぜなら、ここには私の女神さまがいるから。


 祝福する白い雪に、私は思いきり両手を伸ばした。


<終>

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