第9話 逃げない理由
「母さん!遊月っ!」
夜空を飛ぶ無数の
ホウロウは緩やかな丘がいくつもある傾斜と山の合間にある。
その周囲の森と丘は、位置によっては街より高い場所があり、街が一望できた。隻はそばにある丘の中で一番高所へと駆け上がると、夜目を利かせた。北から南にかけて連なるラーラ山脈の左裾は森も街も闇と共に掻き抱いていた。ぽつりぽつりと浮かぶ灯りは家々や街頭の明かりのはずだ。
そうであってほしいと隻は思った。しかし、上空から吸い込まれるように街に入っていく影によって、希望は潰されていく。
響く異形の声と、遠くて聞こえぬはずの悲鳴が鼓膜を突く。どこかで何が崩れ落ちたような轟音が聞こえる。
咽がひどく渇き、言い知れぬものが胸の辺りを行き来するのが後か先かとにかく隻は再び走り出した。
自分の背の高さ以上の丘陵の崖を躊躇なく飛び降りる。剥き出しになった岩場に足をとられるが、構わず次の丘を駆け上がっては、また降りる。
向かう先はホウロウ郊外にある我が家だ。
丘を避けるように作られた道を無視すれば、ある意味、家までは直線の最短距離となる。
「隻っ!待て!行くな!」
「っ!」
行く手を阻む声が隻の腕を引いた。
声の主は雷だった。隻を追いかけてきたのだろう。勢いとは逆方向に力が加わり、後ろに倒れそうになった隻を、雷は支えた。
「お前、足が早すぎるぞ!」
そう言いながらも息を乱していない雷を隻は睨みつけた。本人はそんなつもりではないかも知れないが、その形相は焦燥かつ切羽詰まっており、そう捉えざる終えない。「邪魔をするな」と切実に訴える紅い瞳には、普段穏和な隻では滅多に見られぬ強い意思が籠っていた。
「隻、行っては駄目だ!」
「なんでっ!?早くしないと、みんなや街がっ!」
魔物に襲われている。
声に出すのも恐ろしい現実を前に息を詰める友に雷は顔をしかめた。なんとか束縛から逃れようと身体を動かす隻を雷は軽々と制する。
「駄目だ。街には行くな」
予想通りの言葉に隻は首を横に振る。青年にしては高音で、聞き取りやすい声は強く説得力を含んでいる。海を宿した瞳は意思が堅く、見つめれば足が竦むほどの強制力を孕んでいた。
「お前が行って、何になる。それよりも自分のことを考えろ。逃げるのが先決だ」
年齢の離れた友の言い分はもっともであった。魔物一頭倒すのがやっとの自分があの群れに飛び込んで何になるだろうか。
「
「だけどっ」
洪遺跡とは街の南に位置する古城のことだ。
数千年前に捨て去られた城は入口以外を神隠れの森に覆われても、内部には森の効力が届かず、未だに城としての機能を保つ、稀有な場所であった。城の他にも森の奥には城に関連する砦などの建物が残っているらしい。それらを統括して"遺跡"と、ホウロウの住民を含むメアの人々は認識している。
城本来の名前を、今はもう誰も知らない。
現在の呼称は、かつて暗黒時代に当時の王の圧政に反逆した民衆が籠城し、
逸話も本物で強固な作りの城遺跡は、避難が必要な有事の際は、ホウロウの民の避難場所の一つとなっている。
隻の家からは近く、女子供の足でもすぐに到着するだろう。
二人が避難している可能性は高い。そして、念のために隻の家や街の様子を見に行くという彼の提案は正しい。こういった状況に慣れていない隻より、雷が適任であることは先刻の戦いからも言うまでもない。
「でも、それじゃあ雷が危ない目に……」
「様子見て問題がなければ、遺跡に合流する。なに。魔物の群れに突撃する気もないし。な?」
雷が十分に強いのは分かっていても、友として心配する隻に雷はからかうよう肩をすくめた。
「でも」
それでも、あらゆる心配事を一心に整理しようと動揺をしている隻を、なだめるように頭を撫でる。赤み帯びた黒髪は思いの外、手触りがよかった。惜しむように手を放すと雷は微笑をした。
「俺じゃあ、頼りないか」
「そんなことない」
隻も雷もお互いを友と認め、相手の器量も互いの性格や長所、短所もよく分かっている。雷がこの事態に対応できない人間だとは、隻が思っていないのを、雷は重々承知していた。だが、あえて言うのは渋る隻への最後の説得だった。
気遣いができ素直な性格の隻が、親しい人間から出た、事実とは異なる否定の言葉をうまく拒否できないことを、雷は職業上の観察からも把握している。
いささか卑怯かもしれないと思う。
しかし、手段は選んでいられない。相手は己の事は省みないところがあり、一度決めたら意志が強い隻である。こうでも言わなければ、彼は下がらないだろう。
(隻、言うこと聞いてくれ……)
胸中で祈る。
こうしている内にもわずかでも時は流れ、ホウロウの方角からは爆音が再び轟いた。どこかでまた、建物が崩れ落ちる音がする。
両者焦りを感じたのか、二人が動くのは同時だった。
「隻……」
否、隻の方が少しだけ動きが早く、声が大きく強かった。
「雷の言うことは正しいよ。……けど、約束があるんだ」
「約束?」
「父さんとしたんだ。父さんや
隻は小さく頷くとまっすぐと雷を見た。再び、瞳が強い意志と紅色を持って光る。
幼さの残る顔立ちが一気に大人びたように見え、雷は心の奥底でひるむ。
「ごめんっ」
それは一瞬だった。
唐突な謝罪と共に隻は、雷の厚い胸板を強く押したのだ。意味深に止められた言葉に、雷が息をのんだ隙を突かれたのだ。
「うおっ!」
転びはしなかったものの、足場の悪さも手伝い、雷がよろめくのは容易かった。
「あっ!隻、待て!行くな!行っちゃだめだ!」
よろめく雷の脇を、隻は全力疾走で駆けだした。背後で友の声が響くが空気に紛れて届かない。ただ、一度だけ走りながら振り向いて叫んだ。
「家までだから!雷は先に行ってて!」
「隻……っ!」
呼ぶ声もむなしく、友はあっという間に、丘の向こうへと消えて行ってしまった。
運び屋という職業上か、隻の足の速さは尋常ではない上に、生まれ育った場所故に土地勘にも優れている。
二年ほどしか滞在歴のない雷と比べることはできないほどに、多くの近道を心得ており、一度見失えば、目的地は同じでも行き違う可能性がある。ましてや、異邦のモノがそこらに出現しないという保証は、雷と隻が何もない道中で襲われたことからも、当初からない。
これから予想される危険性を考えれば、雷は隻を追いたかった。だが、これ以上の猶予が雷にはなく、彼は夜闇がすっかり支配した野原の真ん中で立ちすくんだ。無駄に輝く満天の星が憎らしい程だった。
隻とて頼りないわけではない。
本人は自信が無さげだが、剣の腕は頼りになるし、経験の浅さを補えば背だって預けられる。他の者……例えば空路とか……なら、安直に任せていたかもしれない。ただ、ホウロウで初めてできた友人が大切だった。怪我をして欲しくない。悲しい想いをさせたくない。それだけだ。
隻も同じ気持ちでいることも知っている。考えれば考えるほど動けなくなっていく。
「くそっ」
雷は、隻の自分を考えない向こう見ずさが嫌いだった。一方で、とても羨ましくもあった。冷静に物事を判断する性分が邪魔をして、思うまま、先に進めない。雷は前髪をかき上げると、額を抑える。
「ばかやろう……」
我知れず漏れたつぶやきは西風にすぐに攫われた。
それは北国とは思えない生暖かい空気を孕み、雷の髪を撫でていった。
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