第1話 始まりの月
「では、これにて会議を終了する」
その声と共に静かに人々が部屋から退室していく。
その様子に気を止めることもなく青年…と言うには少し早いであろうか…少年は窓の外を眺めていた。
窓の外には闇夜の中、赤みがかった満月が浮かんでいた。
会議室として使うにはあまりにも広すぎる白磁の大部屋。
彼はそこに誰もいなくなるのを見計らってから、席を立った。
小脇には会議に使われた書類の束がある。
数十、数百枚にも及ぶ書類はこの国を左右するほどの最重要なものばかりであった。
だが、これの内容を見直す度に彼はこれを破り捨てたくなる衝動に襲われる。
はぁ。
小さくため息を吐くと彼は栗毛色の自分の髪を掻き上げながら、この部屋の唯一の扉へと向かった。
彼が歩くたびに長い前髪が揺れ、額の赤い刺青が彼の白い肌によく映えた。
人一人通るにはあまりにも大きく、重い、豪華な扉の取っ手に手を掛けた。
が、彼が開くより早く、扉が開いた。それに驚いて、彼は思わず後ずさりしてしまった。
「なんだ、
彼より先に扉を開けたのは彼…閑音がよく知る人物だった。思わず、閑音は彼の名をつぶやいた。
「
「もう先に帰ったのかと思っていたぞ」
少々訝しげに閑音が細い眉を上げたのに気がついたのか気がついていないのか、
気にせずに一条と呼ばれたその男は部屋の中に入ってきた。
色素の薄い、灰色の髪の間、長い先の尖った耳が揺れる。
緑を基調とした着物と真っ黒な袴と陣羽織をゆったりと着た四十歳前後のその男は片手には閑音と同じ書類を抱えていた。
白が基調の着物をきた閑音とは対象的だった。
増してや一条の耳先は丸みを帯びた閑音の耳と違い、尖っている。彼らの種族の違いを彷彿とさせた。
「あなたこそ、先に帰ったのかと」
声変わりをしている割には高く聞き取り易い声の閑音は一条の後ろ姿を眺め言った。
「私か?私は……」
形の良い顎に生えた無精髭を撫でながら、彼は先刻まで自分が座っていた席のあたりを探っていた。
時々、「確かここには持って来たはずだが…」などと呟く。
その言葉からすると彼が忘れ物を取りに来たことを閑音は悟った
「私はこれだ」
大理石を削って作られたテーブルの下から一条は這い出てくる。
その手には見るからに高価そうな煙管が握られていた。
「これを探しておったのだよ」
彼はそれを嬉しそうに閑音に見せると口をつける部分を袖で拭い、静かに煙草をふかしだす。
従来の者が使う煙草とは違った、お香と薬草の混じった独特の香りが漂ってくる。
「これがないと落ち着かん」
そう言い、閑音と同じように書類を小脇に抱え、空いた右手で煙管を操る一条に続いて閑音は会議室を後にした。
薄暗闇と所々にともる洋燈に包まれた渡り廊下を二人で歩いていると、ふいに一条が沈黙を破った。
「今回も何もないと良いのだがな」
「ん?……ああ、そうだな」
突然切り出された主語のない会話に閑音は疑問符をつけた。
が、彼の伏し目がちな青い瞳が先刻の会議書類に落とされているのに気が付いて、閑音はその意味を知った。
重いため息のように相槌をうつ。
「何もないで済む物なら、こんな重いため息をつく必要もないのだがな…」
諦めにも似た表情で苦笑いをする閑音に一条も苦笑いで返す。
「それもそうだ……」
煙管を再び銜え直し、一条は空を見上げた。
そこには天頂まで昇った満月が辺りの森を荘厳に照し、遠くからは夜鳥と獣の鳴き声が聞こえている。
「戦で何もないで終わるほうが不気味だな」
一条の“戦”と言う言葉に閑音は整った顔をゆがませる。
「戦いなんて起こす方が馬鹿げているんだ。一方が戦いを望めば、一方も黙ってはいられなくなるのは目に見えているのに…。それを強制されるこっちの身にもなってほしいですよ」
「はは、どこぞの“王様”がそれを聞いて耳を痛くしてくれればこっちも困らぬのだがな」
そして、小さく煙草の煙と共に息を吐く。
そうこう話をしているうちに長い渡り廊下が終わり、大きな神殿を思わせる建物へとたどり着いた。
この城で働く者のほとんどが住まう寮だ。そこには役職の地位に見合った広さと設備の部屋が割り振られている。
白い廊下には等間隔にいくつもの扉がある。
たった一つを除き、すべての扉の上には暖かな洋燈が灯っている。それはその部屋の住人が帰って来ていることを示していた。この時間帯なら、そのほとんどの者が夢の淵にいることだろう。
唯一この建物の一階で明かりの灯っていない一番奥の扉の前に二人はたどり着くと、閑音は洋燈の源をつけた。その下にはこの国の象徴である赤い翼がきざまれ、紅玉が填められていた。
「次は都市領王国メア…。明日には出発か」
先刻の会議での議題であった国の名を一条は呟く。
「ああ、反セレスレッド人を明らかに掲げている自由都市国家だ。平和にことが済むとはとても思えないだろう?」
閑音が悲しげに微笑を送ると一条は目を細め、一頭背の低い閑音の顔を真正面から見据えた。
「お主はまた国王のお守りだろう?気を付けていけよ。お主の相棒にもよろしく言っておいてくれ。
二人とも何があっても無事に帰って来てくれ。ああ、他の皆も…。生憎、私は城で留守番だ……」
「なぜだが妙な胸騒ぎを覚えてな…」
そう間を置いて呟いた一条に閑音は表情を曇らせた。
「一条、それは…占い師としての忠告か?それとも友達としてか?」
「両方だよ。閑音…。私だって何十年も伊達に王直属の占星術師をやっている訳じゃない。それに“お前たち”との付き合いも長い。国の安否を配慮するのも死線へと出向く友人を心配するのも当たり前のことだろう」
一条はにこりと優しく笑った。その笑顔はまるで父親のようで閑音はほっとした。
幼い頃から自分と接点のあった彼は閑音にとって、時には父親で兄で友人で、同僚であった。それが今でも変わっていないのを閑音は感じた。
「ああ、そうだな。ありがとう。もう、寝ないと…。明日、早いのはお互い様だろ」
そう言いながらドアノブに手をかける閑音に一条は背を向けると元来た道を戻って行った。そして、背中越しに手を振りながら歩いていく。それが彼の就寝時の挨拶だということを閑音はよく知っていた。
「おやすみ」
静かに呟いて閑音は彼の姿が見えなくなるまで見送った。
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