Episode:04

 アラン・ウリンソンから連絡が入ったのは、あの夜雨花が電話した日から一週間経った朝のことだ。珍しく鳴り響く呼び出し鈴のけたたましさに、俺はリビングで食事を摂りながら眉を顰めた。すかさず雨花が席を外れたため、取りに行く必要もなかった。

 慌ただしい足音にさえ喜色が混じるのがわかって、俺の神経に障る。

 リビングの扉が意図的に閉じられた。客人のない普段は開け放しているそこを閉じるのは、会話が漏れることを防ぎたかったからだろう。はたまた俺の苛立ちに配慮するからこそか。馬鹿馬鹿しくなって思考を放棄した。

 雨花の美味い料理が不味くなるだけだ。

 アカデミアも貴族階級の子息女の集まる場所柄、粗末な食事は出てこない。それでも不思議と、本当に美味いと思えるのは見知った人間が懸命に拵える料理だった。

 雨花を抱いて一週間。彼女は翌日には何事もなかったように接した。少なくとも俺の前でわかるようにどうにかなることは微塵もなかった。

 その慣れが、俺を虚しくさせた。

 電話を終えて雨花が戻ってくる。その表情にはやはり喜色が滲み、俺は輪をかけて面白くない。

「今晩、旦那さまが寄ってくださるわ」

「……うれしそうにしちゃって。俺は部屋に籠らせてもらうよ」

 自分でも嫌になるぐらいわかる。口元がへに曲がる。眉はハの字だ。

「温室で育てられる、珍しいお花をお持ちくださるそうよ。シークレストへ行ってらしたのですって」

 聞いちゃいない。

 俺はグラスの水を飲み干して席を立った。

「……強情張らないで、挨拶ぐらいはしてちょうだい」

「それはお願い?」

 俺はひとつだけ決めていた。

「お願いよ。旦那さまも機会を待っていらっしゃるの」

 懇願するように雨花が続けるのを俺はじっと見守った。

「じゃあ、考えとくよ」

 素っ気なく返して雨花の横を素通りする。

 物事には代償がある。お願いをするには、それなりの何か見返りが必要なんだ。

 雨花がお願いを使うごとに、俺も彼女に「お願い」をしよう。たった今、そう決めた。「お願い」は雨花の口癖だった。

 食休みに、温室に続く扉を開く。外気温差で曇る硝子から覗く外は、相変わらず埃のように雪が舞う。 

 ヘリオトロオプに、茹だるような照り付ける太陽の日は来ない。アカデミアで習うことの大半はくだらないと俺は思っていたが、諸外国があって、自分の過ごす環境とはまるで違う未知のことがある。そんなことを知られたのは、本当によかったと思う。

 住処より庭ばかり広いこの屋敷で、温室はマリアも雨花も、俺も一番好む場所だった。特殊な硝子で張られたそこはどこよりも暖かだ。人口太陽を模したといわれる照明は、それひとつで一体どれだけの金がかかっているのだか想像もつかない。この水蓮市は、ヘリオトロオプの中でも異常なほど偏った文明の混在がある。一度街の外へ出れば、文明が半世紀は違う。その理由は他国から文明を取り入れることを嫌うこの国の方針と、それに対し金持ちがこっそり道楽に持ち込んだ他国文明を私物化しているところにあるんだろう。この温室を保つために置かれたよくわからない機材なんてのはまさしく、その代表格だった。触り方もわからないから年に一度、わざわざ向こうの職人を呼び寄せていた。

 温室の中はさながら植物園。繊細な装飾彫りの施された白い東屋、常冬の国ではあり得ない温帯植物、見事なまでの蓮池。金持ちの道楽加減には呆れるばかりだけど、景観の美しさは折り紙付きだった。

 白い雪に閉ざされて樹氷とわずかな花しか見られないのが通常なのだから、当然とも言えたけど。

 俺は東屋の八角形に沿って置かれたラタンのソファに腰を下ろして、足を組んだ。

「さて、どうしようか」

 数時間後にはあの男が来る。雨花は今から歓迎の仕度に追われて、厨房とダイニングを行き来しているんだろう。食事ぐらいなら付き合うのも止むなしか。味気ない時間になるのは見えていて、想像だけで気が滅入りそうだったけど、仕方がない。

 これは雨花の「お願い」だから。

 雨花が呼びに来るまでここでこうして、どんな「お願い」を返そうか考えを巡らせていよう。それだけ決めて、俺は眸を閉ざした。作られた陽気は心地よく眠気を誘う。やがてすとんと自然に、意識は落ちて夢に誘われた。

 



「ねえ、お願いだから止めて」

 何度目かの口癖に、俺は口角が上がる。

「雨花は本当にお願いが好きだよね。そうやって今まで何度、一方的な要求を通してきたの? 甘すぎるよ」

「ユーリィ、もう旦那さまがいつ到着してもおかしくないのよ。揚げ足取らないで……」

 俺を起こしに来た雨花の腕を引き寄せた俺は、彼女の腰に両腕を絡ませる。フリルエプロンから、香ばしい肉桂の香りがした。林檎と肉桂のパイは雨花の得意料理だ。

「お願いするからには対価があるべきだと思うんだ。だから、約束してよ雨花。そしたら俺、おとなしくアイツにも会って笑顔で挨拶だってしてやるさ」

 雨花の指先が、俺の髪を撫で梳いた。見上げるその表情には、嫌な予感を察して影を落とす眸がある。

「何を約束するの」

「簡単なことだよ。ひとつお願いするたびに俺のお願いを聞いて。お互いさまだろ、対等でいたいだけ」

「……あの一度じゃ物足りないってわけね」

「察しがいいね、話が早くてうれしい」

「本当に可愛げがないんだから……」

 ちか、ちか、温室の真ん中で人口太陽が明滅して、照明が落ちる。日没に合わせた夜の切り替えだ。

「それで、答えは?」

「今ここでどうにかするのだけはやめてちょうだい。……それさえ叶えてくれるのなら、もう後は好きにすればいいわ」

 苛立った様子で口早に述べた雨花はしきりに背後、温室の入口を振り返り気にしていた。

 俺はその頬に手を伸ばし、触れる。

「約束してよ、……口約束でいい」

「…………」

 眉を下げたまま、雨花が声にならない声を息に混ぜた。それから、間もなく彼女の柔らかい唇が額へ、頬へ、唇へ落とされる。どうせ額止まりの子ども騙しなキスしかしないんだろうと思っていた俺は、文字通り湧くように心を躍らせた。

「さあ、支度をしてちょうだい。続きは、また今度よ」

「……うん、わかったよ雨花」

 俺はとびきりいい返事をして、雨花を腕から解放する。

 これは、明確な契約だった。彼女が、どんな風に受け止めたのかはわからなかったけれど。俺にとってはとても意味のあることだった。この最中にあの男が乗り込んできて現場を目撃する、なんてアクシデントがあればもっと面白かったのに、とも思いもしたが。

 お楽しみは取っておくに限る。邪魔の入らない、ふたりだけの享楽を味わえることを今は喜んでいたかった。

 雨花は俺が立つのを待っている。気分が乗らないのは相変わらずどうしようもなかったが、俺は腰を上げて雨花の前を歩いた。

「いないのか、雨花」

 呼び声がするのにはすぐ気づいた。玄関先からだ、と思うと同時に雨花が俺を追い越して行く。あの男が到着している。深呼吸をひとつ挟み、平静を繕いながら俺も玄関へ向かった。雨花との約束のためだ。

「お待たせしてしまって申し訳ありません」

「いや、構わない。わたしこそすぐに顔を出せずにすまなかった。……珍しくも君がわざわざ連絡を寄越したということは、何か問題があったのかな?」

「ああ、ええ……」

 玄関ホールには中折れ帽を下ろす、スーツ姿のアラン・ウリンソン。そもそもこの男を呼ぶ理由が何であったのか、詳細は雨花の頭の中にしか存在しない。が、彼女は目にも明らかに狼狽えて言葉を濁している。

「俺が頼みました。長らくお逢いしていなかったから」

 咄嗟に口から出た言葉は自分にしては上出来だったと思う。ウリンソンはそこで初めて俺の存在に気づいたようで、ひどく驚いた様子で俺に向き直った。

「ああ、学長室でもまともに時間が取れず、すまなかったと思う。ようやく、話をする気になってくれたのだね。うれしいよ、来た甲斐があったというものだ」

「……立ち話もなんですから、こちらへ。お食事をご用意しておりますから、召し上がってください」

「ありがとう」

 雨花が彼のトランクを持とうとしたのを制して、俺が替わる。予想外のことに雨花がぱっと顔を綻ばせ、目配せを交わした。うれしそうに、ウリンソンをリビングへ手招いて先を行く。

 何もかもがうまく進んでいると思った。

 そしてそれは、俺がほんの少し上辺に良心を取り繕って見せるだけで成し得たことなのだと気づいた。それは今後、大人に対してどのように振舞えばいいのかを学んだ瞬間になった。そう、少しでも繕えばいいのだと。

 リビングのソファ上へトランクを置いた俺がダイニングへ向かうと、ウリンソンは長卓に着いていた。着席場所に迷いながら、俺は真向いの席に着いた。ちょうど、長卓の長い端同士に当たる。すぐに、雨花がトレイを手に戻ってグラスに食前酒を注ぐ。

「自宅謹慎は秋の新学期までだったかな?」

「……はい。手を煩わせてしまうことになってすみません」

「子どもの特権だ、今しかできないこともたくさんある。無論、正しいことではなかったけれどね。学べたことがあって、それを省みてくれたなら、それでいい」

 相変わらずのこの男の歯の浮くような言葉は、背がむずむずとした。それを堪えて作り笑いを浮かべるのは楽じゃなかったけれど、いい勉強にはなる。

 他愛のない会話が続いた。雨花が皿を運ぶたび、ウリンソンは彼女に些細な言葉をかけていた。隣で一緒に食事を、と誘う声を雨花は丁寧に辞退した。それでも、沈黙を恐れるように言葉を絶やさない。

「……彼が生まれた時、君はいくつだったのかな雨花」

「十四歳でしたわ」

「マリアとは六歳も離れていたか、そうか」

 忘れていた、とでも言うようにひとり納得していた。

「下稽古の毎日で姐さん……マリアには本当にお世話になりました。わたしをお連れくださると聞いたときは本当に、夢のような心地でした」

 初耳というわけではなかったが、普段並ばないこの三者間で既知の話題が出るのは興味深かった。答え合わせをするように俺は、黙って耳を傾ける。

「マリアのために長年こうして屋敷に留まっていてもらったが、君の先行きのことをもっと早く考えてやるべきだったかな。ここに縛られる必要はもうないのだと言っておくよ。無論、望む限りいてくれて構わないが」

「……旦那さま」

 ウリンソンの言葉を前に、雨花は苦渋を浮かべて、わずかにうつむく。

 彼女が二の句に何を述べるつもりなのか、俺は気が気でしようがない。先日のことを思えば、彼女が決心を固めているとしても何も不思議じゃあなかった。長卓の下、拳を握り締め、雨花を注視した。

「……彼が成人するまでは。そう、約束しているのです。マリアにとってはもちろん、わたしにとっても彼は自分の子のように大切。中途半端なままで離れるのは好みませんわ」

「……あまり荷に負わないでくれたまえよ」

 俺は無意識に殺していた息を吐き出した。握っていた拳は汗に塗れている。みっともない。膝上広げたナプキンでごしと拭う。

 雨花は穏やかな笑みで答え、またキッチンへと戻って行った。

 口上は俺に話した通りだったが、今の俺にはその言葉が素直な本心だとは到底思えなくなっていた。

 そこには必ず葛藤があったはずだと思う。ウリンソンへの想いか、マリアとの約束か、あるいは。

 ウリンソンは重ね重ねご満悦という風で、食事を終えてナプキンを置いた。味のしない食事だったが、ひとまず礼儀は立った。皿の上、少しだけ残る料理を置いて、俺もそれに倣った。

「久しぶりに庭に出て来ようと思うが、……来るかい?」

「俺は、遠慮させてください。停学中に辞書ひとつ分の課題が出されているので」

「そうか、では励みなさい」

 半分嘘だ。

 これ以上この仮面のような笑顔を保つのは無理だった。課題は確かに課されていたが、それをまじめにやるだけの気力はとうにない。側を離れられるのならそりゃあ、そんな嘘も吐く。

 疑いもなく俺を見送ったウリンソンは、言葉通り温室に向かったようだった。二階の自室に上がった俺は、部屋の窓からその姿を確認した。後を追うように雨花の姿も続いた。

 事実上ふたりきり、どんな会話をしているのだか興味がないわけじゃなかったが、少し本当に疲れていた。寝台の上に寝転がった俺は、何を思う間もなく微睡んだ。

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