花は甘く匂い立つ
紺野しぐれ
Episode:01
この歳になってようやく気づいたことがある。俺は、ずっと後悔と懺悔に満ちた時間を過ごしてきたのだと。
看板を下ろした後の独りきりのカウンターは、必要以上に俺を感傷的にさせる。そんな気持ちを紛らわすために煽る酒が正しく作用した試しはない。それでも、止められない。
十五年も前の話だ。
思春期真っ只中、クソ生意気なガキだったあの頃の俺はしあわせで、ふしあわせだった。
隣り合わせの感情、感傷。
生傷を舐め合って生きるのはとても甘美だ。
だけど、とても健全とは言えない。
何もかもを忘れたくて、何もかもを忘れたくなかった。
握り締めた掌のしあわせただひとつ、守ることが難しいのだと知らなかったあの頃。
物心ついた頃には、自分が特殊な家庭にあることを理解していた。父親はいない。正確にはいたが、幼心に父親とは認められずにいた。病弱な母・マリアは屋敷から一歩も外へは出ない。侍従として付き添う
マリアも雨花もその男、アラン・ウリンソンを前にすると顔色が変わった。マリアにとっては愛した男だから当然の部分もあっただろうが、雨花ですら「旦那さま」と呼び慕っては表情を綻ばせていた。
それが、どうしようもなく腹立たしかったのを覚えている。
あの男が家を訪れる度、俺は自分の部屋へ籠城してみせた。
迎合する気なんてなかった。
常冬のヘリオトロオプ北部に位置する水蓮市。そこが俺の生まれ育った場所だ。年間通して降り積もる雪は
十二歳、ヘリオトロオプ髄一の教育機関であるアカデミアへ上がった俺は、そこで初めて自らの出生、家庭、環境が人のそれと違って、それが差別されるようなものであることを知る。子どもには辛すぎる現実だった。
「なんでおれだけ眼が碧いの」
アカデミアから帰った俺は不貞腐れて頬を膨らませては、雨花を困らせていた。彼女は、やさしい手で俺の髪を撫で梳きながら答える。
「神様がそうあるようにお決めになったからよ。すてきな碧でしょう、学校でもきっとみんなとお揃いね」
「……マリアや雨花と同じがよかった」
「これは、特別」
宥めるように抱き寄せられて、彼女の胸に顔を埋める。彼女からはいつも、百合の花の匂いがした。やさしくも、気高い香り。
腰まである黒髪に紅色の瞳が映える。マリアと血の繋がりこそない他人だったが、ふたりの間には確かな絆があるのか傍からは姉妹のように映った。
「さあユーリィ、そろそろお夕飯ができるわ」
「手伝うよ」
「……いい子ね。それじゃあ、マリアを連れて来てちょうだい」
あの頃、本当に子どもだった。どうして紅眼の子が紅眼でないのか、どうしてそれを咎められるのか、何もわからなかった。
だが、咎める同世代の子どもにしたってそれは同じだった。ただ、当然だと思っている自分の定義から外れているから責めている、それだけのことだった。
俺の疑問に答える雨花の顔に、憂いの色があることにすら気づかなかった。
アカデミアは、十四歳を迎える第三学年から学徒は寄宿舎での集団生活を余儀なくされる。水蓮市にはいわゆる血族主義の貴族が多く住まい、アカデミアの創設に関しても、有権者による有権者のために門戸を構え、多くの時間は次世代後継者としての教養を養う場所だった。第三学年から卒業の第七学年までの四年間は男子禁制、女子禁制として寄宿生活を送ることになる。異性の目のなくなった生活は、統率者の居ない時間で無政府状態になる。
同級生から紅眼の子、と揶揄を受けた俺はその後その意味合いをようやく理解した。有体に言えば、俺は妾腹の子だった。
あの男、アラン・ウリンソンも貴族のひとりだった。その名前は同級生の間でも有名らしく、「あのウリンソン財閥の」なんて語句を何度耳にしたかわからない。俺にしてみれば父と呼べるほどの繋がりもない男であるのに、自分の姓がウリンソンである事実を突きつけられるこの環境にうんざりした。
さらに遅れて母・マリアがあの男に身請けられた高級娼だったと理解したときの俺の心のうちは本当に酷いものだった。
「お前の母さんはきたない、野良猫さ。よくもぬけぬけとこんな場所に顔出しできるよな、お前。居場所じゃないってわかれよ」
俺は特に上級生に絡まれることが多かった。管理されているようでその実抜け目の多い寄宿舎では、日々生徒の悪意から身を守らなければいられなかった。同室になったニカとは共同戦線を張ることで仲を深められた。
ニカもまた血統主義の輩からははぐれ者にされていた。部屋割には多少なりの配慮があったのだと、思いたい。
成績優秀なニカに習い、作法授業を除いて成績は芳しかった。
「どうして全力を出さないのさ。作法なんてそれこそ、大したものじゃないだろう? 手を抜いているのが見え透いてる」
「俺は貴族じゃないし、なるつもりもないもの。第一、今まで一度だってお叱りが飛んで来ないだろ、どこかでそうあるべきだって思われてるからさ。どうせろくに使わない。……お前はちゃんとしてろよニカ」
「オレには優等生を押しつけるんだから、まったく。だけどユーリィ、お前自分じゃわかってないだろうけどきっと映えるぜ。騙れるならそれはそれ、将来の役に立つんじゃないか」
「…………ワルめ」
ニカは要領のいい男で、はぐれ者でありながら器用に人の間を渡っていた。トラブルに巻き込まれても必ずどうにか潜り抜ける。人を頼ることが巧い男だった。教師、上級生、同級生の両親。その人脈を持ちながらに、どこへも属さずはぐれ者でいたがるのが不思議な、変わり者だった。
「そういえば、教頭から手紙を預かってた。電報だ」
電話機の普及が拡がりつつある昨今、アカデミアは抗うように一台も構内へ設けなかった。緊急であれ連絡の方法は書面を通すことになる。記録として残らない一切を厭い、すべての管理を目指すその指針は、何故か受け入れられていた。
ニカの差し出す文の封を開く。電報というのは実に簡素に事実を伝えて来るものだ。文字を呼んだ俺の頭は、その理解を拒んだ。ニカが背後から覗き込んで同じように沈黙を守る。
【マリア急逝につき、直ちに屋敷へ戻りなさい。休学の手続きはこちらから申請済みであるゆえ不要。
アラン・ウリンソン】
「………なんであいつが」
血が沸騰するようだった。電報を力任せに破っては粉々に、開け放った窓から投げ捨てる。散らばる紙片が冷たい風に舞って行くのを見据えながら、身体の中で目まぐるしく揺れ動く感情を堪えた。窓枠を掴む手が震える。
「ユーリィ、陽が沈む前に行きなよ」
「いやだ」
「聞き分けのないこと言うなよ。お前の家のことなんて知らないけどさ、葬式ってのは残された人間のためにやるもんだよ。……お前は行かなきゃ」
「……いやだ」
悲しみより、怒りが勝っていた。あの男に呼ばれ、あの男の下に戻ることが嫌だった。なんで、どうして。煉瓦壁に拳を打ちつけようとして、物に当たることしかできない自分の幼さにも腹を立てた。
背を向けたまま身体を硬直させている俺の手を、ニカが取る。
もう、何も言わなかった。何も言わずにその手を引いて、宿舎の外門まで歩く。抗う俺を力強く引いて。
そのまま俺は門の外へ放り出され、ニカは門の扉を閉めた。
「行ってらっしゃい」
ニカの怒るでもない声が聞こえるか聞こえないかの頃には、俺も踵を返していた。雪が融けてぬかるむ道を、家に向けて歩く。
雪は昨晩から降っていない。四月七日、常冬の国の短い春の終わりに差しかかるこの日、母・マリアは齢三十四にして俺を残して逝った。棺桶には温室育ちの桃色の芍薬が敷き詰められて、その上に横たわるマリアの姿があった。まるで木漏れ日にうとりとして目を閉ざしたかのような、綺麗な姿だった。
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