4 黄色の葉っぱ
お風呂から出た私たちは、少しのぼせた身体をベッドの冷たいシーツの上に横たえ、すっかり冷めたひとつのお茶で交互に咽喉を潤しながら、二人それぞれのお気に入りの本を開く。
俯せに文字を追う私の傍で、いつのまにか本を顔の上に微睡んでいた睦月の呼吸が、深い寝息に変わった音を耳が捉えた。
肌寒さを感じた私は、睦月を起こさないように、そろそろとベッドから抜け出すと素肌にシャツを纏いボタンを留める。
ついでに、ほんの僅かな距離を爪先立ちで歩き、床に置き放したままの背負い鞄の傍にあった睦月がどこからか手に入れてくれた本を拾い上げ、ぱらぱらと捲った。
茶色い滲みが浮き出た紙の中でも、決して色褪せたりしない小さな黒いインク文字は、整列する奇妙な虫のようにも見える。
目に映る文字が形を結び、やがて文章になり、物語へと変わり風景が浮かび上がる頃には、そっと、その場に腰を下ろし夢中で読み耽ける私がいた。
それは、誰もいない離れ島へ流れ着いた、兄と妹の二人の話だった。
血の繋がる兄と妹であることが……かけがえのない二人であることが、誰もいないところに二人きりで居られることが『何ともいいようのないくらい、なやましく、嬉しく、淋しい』のは、彼らに、まだ帰ることの出来る帰りたい世界があったからだ。
その後この兄妹は、自ら世界を手離すことを選ぶことになるが、そうせねばならなくなった日々については、書かれていない。
だが、
残酷なほどに甘く、苦しいほどに。
本は一冊だけだっただろうかと、顔を上げたとき、背負い鞄と床の隙間に見慣れない色が目に飛び込んできて、驚いた私は、自分が目にしているものを直ぐには信じられず恐るおそる震える指を伸ばす。
かさかさとした黄色い葉っぱに、指先が触れた。
知っている。
物語の中や図鑑でも見たことがある、これは……
壊れてしまった世界には、美しいものは何も残っていないのだと睦月は言っていた。だとしたら、滲みだらけのこの古い本の持ち主だった人が、栞の代わりに本に挟んでいたのかもしれない。
胸を締めつけるほど、なぜかひどく懐かしいその落ち葉の色や手触り。
そうっと取り出して、掌に乗せた。
世界が壊れる前を、私は、覚えていない。
世界が壊れた後を、私は、知らない。
黄色の葉っぱを、小さな両手いっぱいに握りしめ、水色の空に向かって放り投げるようにして誰かと遊んだのは、私だったのだろうか、それとも何かで読んだ物語の光景だろうか。
膨大な物語は私という存在を曖昧にする。
「
物語のほかに、私には忘れてしまっている、
訝しむような睦月の声に、はっと振り返り銀杏の黄色く色づいた葉を、指先に持ち替え掲げて見せた。
「ねえ、睦月。見て……これって銀杏の葉っぱよね? 本に挟まっていたのかな? きっと、こんなにも美し……」
瞬間、獣というものを、私は見た。
強引に銀杏の葉を持つ私の腕を掴み引き寄せた、敏捷で獰猛な睦月の顔を前に、その恐ろしさに、本で読んだ美しく恐ろしい獣とは、このことだったのかと思わず喘いだ。そのまま乱暴に組み敷かれると同時に、私の手を離れて宙を舞うように消えた銀杏の葉の黄色い残像が、目の奥に残る。
見上げる先の睦月と、これまでの睦月。
混乱する気持ちが、追いつかなかった。
私の知る、これまでの睦月なら『美しいね』と優しく微笑んでくれると思ったのに。
知らない睦月の黯い目を覗き込めば、そこには私が映し出されているだけで、実際には何も、見てはいないようだった。
誰かが栞にしていた銀杏の葉ひとつで睦月を変えてしまうほど、壊れた世界とは、そんなにも恐ろしいところなのだろうか。
それとも……私が、壊れてしまう前の世界を思い出すのを、恐れているのだろうか……あるいは、私が、壊れてしまった世界の存在を訝しむとでも、思っているのだろうか。
二人きりの
ほら、誰かが本を閉じ、物語を終わりにしようとする音が聞こえる。
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