新宿高層マンション殺人事件 (限定公開)

塚田誠二

十月二日(水曜日)

 十月に入ったというのに、まだ残暑厳しい。

 古畑ふるはた美和みわは会社同期で親友の、二村ふたむらめぐみを心配していた。古畑は大学卒業後、都内の王手雑誌出版社に勤めて早五年になる。二村とともにファッション誌を担当している。

 古畑には、仕事熱心で真面目な二村が、最近休んだ記憶はない。ましてや今日のような無断欠勤など考えられないことだった。

 古畑は午前中に、二村の携帯電話に二度かけた。しかしコール音のみで応答はなかった。

 不安が募り心臓を締め付け始めたのは午後のことだ。再度電話をすると、今度は電波が届かないという旨のメッセージが届いた。電源が落ちているのだろうと判断した。もちろんメールもしていたが返信はない。

 古畑は二村のことを考えた。二村は一人でなんでもこなしてしまう器用女だからこそ、問題を起こすとたちまち抱え込んでしまう。仕事が出来すぎて期待を一身に背負いこみ過ぎてしまうからこそ彼女のことが心配だった。他人への愛想が悪いから友達もあまりいない。ショートヘアの黒縁眼鏡の二村の凛とした姿を想像して、不安が込み上げてきて仕事にならない。

「お先に失礼します」古畑はそう言って、周りに頭を下げながら会社を出た。雑誌編集の仕事は多忙で、毎日の残業は当たり前。しかし今日は仕方がない。定時だが、いてもたってもいられなかったのだ。


 十八時。地下鉄を乗り継いで、二村の住む東新宿駅近くの高層マンションの一つ、『リーフ』に到着した。セキュリティのしっかりした住居で、部屋も広く、遊びに来ていた時は二村のことを羨ましいと思っていた。

 はやる鼓動の中、部屋の前まで来た。一呼吸するとチャイムを鳴らした。しかし応答はない。ドアに耳を近づけても全く音も聞こえない――。やはりいないのか。

 古畑は頭をフル回転させた。居場所として考えられる二村の実家に電話した。しかし本人からの連絡はないということだった。一日くらいどこか遊び歩いているんじゃないか、というのんきなことをいっていたが信じられない。孤独を苦としない、屈強な二村のことが思い浮かぶ。

 携帯をしまうと、当マンション管理人の、加瀬かせはじめが偶然通りかかった。午前中に防犯カメラの点検があったので、各階に作動状況を確認しに来ていたのだ。

「あのう、すいません」古畑は逡巡もせず、加瀬を呼び止めた。

「この部屋に親友が住んでいるんですが、ずっと連絡がとれないままなんです。お願いです。一瞬でいいから、鍵を開けて中を確かめさせてください」

 当然といった風に、加瀬はためらった。「そんなの、急にいわれても……」

「中にいるかもしれないんです。お願いします。すぐに確かめさせてください」古畑は両手を合わせて目に力を込めた。それでも加瀬の反応が悪いとみると、深々と頭を下げた。

 加瀬は相手の女性があまりにも深刻な顔だったので「ああ、わかった。ちょっと待っててくれ」と言い残し、小走りで管理室がある一階へと、鍵を取りに行った。

 七階への階段を駆け上がると、古畑は部屋の前で俯いたままだった。

 加瀬は何も言わず古畑に目で合図を送ると、すぐに鍵を開けた。

 ゆっくりとドアを開けると、電気は消えていた。もわっとした湿気が顔を包む中玄関から入り、電気をつけた。

 人がいる気配は感じられなかった。しかし二人は何かに引き込まれるように奥へと侵入した。2LDKで、四十平方メートルほどの広い間取りの部屋だ。左手に六畳ほどの寝室があり、残りは一部屋の大きなスペースのリビングが広がる。モデルルームのようにきれいに片付いている。電気を付けて部屋に入った。

 加瀬の鼻を何かが突いた。玄関に近いキッチンに、宅配ピザの箱が置いてあり、原因はこの匂いかと瞬時に判断した。

「はっ――」

 加瀬は後ろの声に背筋が凍った。振り向くと、古畑が目を丸くして、口に手を当てている。その目は何度もぱちぱちして、手元が震え始めていた。

 彼はその視線の先を追った。なんと女性がリビングの中央に、うつぶせで倒れているではないか。明らかに寝ているのでないことは不自然な手足の状態から察しがついた。

 加瀬は反射的に駆け寄っていた。体を起こし、顔をこちらに向けると、まぎれもなく住人の二村だった。

 死んでいるとすぐにわかった。二村は全身の力が抜けきり、加瀬に全てを委ねた格好のままだったからだ。やはり息はない――。

「おい、生きてるかー! 二村さーん! あっ――」思わず手を離してしまった。首にくっきりとした青黒い縄の跡が見られ、一瞬恐怖に感じたのだ。

「め、恵……」いつの間にか後ろにいた古畑は、声を震わせていて、全身は痙攣状態だ。

 こうしている場合じゃない。加瀬は冷静さを保とうとした。すぐに警察に電話を入れた。

 古畑は未だに呼吸が荒く、口に手を当てたまま座り込んでしまった。目をきょろきょろとさせている。夢と現実の狭間を行き来しているように見えた。


 警視庁刑事部捜査一課では、本日も平穏な一日が終わろうとしていた。

 警部補の新海しんかいきょういちは退屈と戦っていた。キャリア組として捜査一課に配属されたにも関わらず、現時点で心躍るような事件に遭遇していない。今年で二十九歳になり昇進を望み始めていた。

 平和だ、と思いながら真っ赤なネクタイをさらに緩め、椅子の背もたれに体を預けた。それは好きな刑事ドラマの主人公の真似だった。警察官になったのも、ドラマの主人公が自分にとってヒーローに映ったからで、正義の味方に憧れていたのだ。実際には、それほど仕事は思ったほど甘いものではないのだが。

 よっ、といきなり肩を叩かれ思わず声を挙げた。「あっ、先輩。お疲れ様です」

 九歳年上の、大友おおともひろあきだ。このごつい四角い顔に、取り調べを受けた大抵の者が声を無くし、下を向いてしまう。

 二人はかつて西新宿の強盗事件を、タッグを組んで捜査したことがある。大友の強気のリーダーシップを見せられて以来、新海は大友に信頼を置いている。

「元気か?」大友は有無を言わせぬ笑顔を示した。

「はい」そういわざるを得ない。「平和ですね。でも何か、事件ないですかね。こう、どきどきさせるような、大きな事件が――」

「仕事熱心なのは感心だ。でもな、俺たちの出番はない方がいいんだ。それはわかってるんだろうな」

「はい、わかっています」犯罪が起きたとき、それを解決するのが警察官の仕事だが、事件が起きないにこしたことはない。大友は仕事に関して、おかしなことは決して言わない所が良い。

 突然、館内放送を告げるチャイムが鳴り響いた。

(殺人事件、発生……)

 署全体の空気が変わった。

(至急――。東新宿駅近くのマンションの一室で女性遺体発見。年齢は二十代。縄で首を絞められた模様……)

 離れ小島にぽつんとある大きな机の前に座る神妙な顔になった課長、くすのきてつが立ち上がった。

「大友……それと――新海、お前もだ。至急、現場へ行ってくれ」

「はい」二人は声をそろえた。

 新海は胸を高鳴らせていた。捜査一課に配属されて初めての殺人事件だ。椅子の背にかかった上着を取ると、音を立てるように一周させて、袖を通した。

「あっ、待ってください、先輩」

 すでに大友は部屋の出口で、新海を見ないまま手招きをしていた。

 二人は詳しい場所を訊くと、パトカーの赤色を回した。

 助手席に大友、運転席に新海が乗り込み、現場へと急行した。


 二人が現場であるマンション『リーフ』に駆けつけた時刻は十九時だったが、街は静かにはならない。ここは東京都のど真ん中。イルミネーションに照らされて、夜の街へと生まれ変わるだけだ。

 七階の二村の部屋の前には、すでに多くの機動捜査隊員がいた。

 二人は立ち入り禁止のためのロープをくぐり抜けて部屋の中に入った。きれいに整えられた広い部屋だ。住人は律儀な性格の人物なのだろう。

「被害者は二十七歳の独身女性。都内の出版社に勤めており、三か月前にここに引っ越して来たということです」捜査員は歩きながら新海にそう伝えた。

 新海は手を合わせた後、死体の顔を覆っているシートを取った。するとショートヘアの女性の姿があった。一瞬目を背けてしまったが、すぐに取り直してまじまじと見始めた。

 死んでいる人間は、眠っている人間とは全く違う。微塵も動かず、冷たい無機質な物体と化している。

 最も印象的な部分は首だった。くっきりと太い縄の跡があり、寸断なく一周青黒く変色している。他殺、さらに言えば絞殺と見て間違いなさそうだ。まだ死後一日経過しているかどうかといったところか。

 新海は被害者の無念の思いを感じ取ると、事件の真相解明にのめり込み始めた。

「凶器の縄のようなものは、この部屋に?」

「いいえ、くまなく調べましたが見つかっておりません」新宿東署刑事課の平野ひらのせいが言った。

 窓は一つで、バルコニーに出るための大きな窓があった。それに近づいた。

「あれっ――。お聞きしますが、この窓の鍵は開いていたままでしたか?」新海は訊いた。

「ええ、そうです。確認した所によると、窓は閉まっていたが鍵は開いていたということです」平野は手帳を見ながら答えた。

 さらに第一発見者による、玄関の鍵が閉まっていたという証言が得られたことから、犯人の出入り口は窓と考えるのが妥当だろうという見解になった。

 新海はバルコニーに出ると、軽く走り回れるほどの広い場所に出た。ライトアップされた美しい新宿の街並が浮かぶ。被害者はこの景色を毎晩楽しんでいたのか、とふと羨ましく思った。

 バルコニーの天井までは五メートル程の高さがある。ここから飛び上がったとしても、天井にも届かない。よじ登り上階に逃げるのは不可能だ。

 下を覗き見ると怖くて身震いしそうになった。見えるのは、はるか下の地表だ。

 バルコニーは部屋同様、殺風景な印象で、特筆すべきものは何も見当たらない。

「新海、隣には移れそうか?」大友は訊いた。

「確認してみます」厚さが数十センチくらいの薄い壁が行く手を阻んでいた。隣の部屋は身を乗り出してなんとか見える程度だ。「隣に行くのは、簡単ではないと思います。しかもこんな高い場所です。もし手元を滑らせたら一巻の終わりです」新海は下を見て、再度身震いした。

「その点について報告があります」平野が部屋の中から顔を出した。「この部屋の両隣とも住人がいます。夫婦、子どもの家族で住んでおりまして、両方とも奥様が昼間はいらっしゃったということです」

「となれば、犯人が隣の部屋に移動した線は薄いな――」大友は眉間に皺を寄せた。「よし、今日はこれまでにしよう。明日から第一発見者、親しい人物から洗っていこう」

 帰り際、捜査員を唸らせる事実が発覚した。全館の廊下には防犯カメラがあり、ここ三日間で二村の部屋を出入りした人間は、なんと二村本人しか映っていないのだ。

 犯人は一体いつ侵入したというのか――。

 新海は明日、捜査のセオリーである第一発見者の古畑に話を訊いてみることにした。

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