ペチュニアを贈る

睦月ふみか

第1話 誰も望まない

 日差しが強くなってきたお昼ごろ、自室から出ると家の電話が鳴っていることに気が付いた。今日は確か母さんが病院に行く日だったなと思い、階段を下りてリビングに設置してある固定電話の受話器を手に取った。電話は父さんからだった。


「もしもし、昌か?悪い、父さん、ちょっとやらかして来週帰れなくなった......」


 震えているように感じる父の声が、電話の向こうから聞こえてくる。寡黙で自分から話すことがあまり得意ではない父さん。それでも言葉ははっきりと発する人のはずだった。三か月前から単身赴任をしていた父さんは、仕事が順調だから来週には帰れそうだと珍しく意気揚々に話していた。だが、今の父さんの声からは、覇気が感じられず不安を抱えたような自身のない声色をしている。


「え?父さん、ケガでもしたの?」

「俺は大丈夫なんだが、実は交通事故を起こして、人を、はねたんだ。今、やるべきことを終わらせてから、電話してるんだけど、被害者が、亡くなったと、連絡があって......」


 父さんのか細い声で伝えられた言葉に、嫌な汗が噴き出してくる。つっかえながら話す父さんに釣られて、自分の呼吸が浅くなるような気がした。父さんが故意ではないにしろ、「人を殺してしまった」という話は高校生の俺には衝撃的過ぎた。被害者が亡くなった。重たく呟かれた父さんの言葉に俺は頭が真っ白になる。その後途切れ途切れに父さんが何か話していた気がするが何一つ頭に入ってくることはなかった。気が付けば父さんからの電話は既に切れていて、俺の隣には病院に行っていたはずの母さんが眉根を寄せて佇んでいた。


 とりあえず俺は、母さんをリビングへと連れていき白いコーナーソファーに座らせる。俺もその隣に腰かけ、何をどう話せばいいのかを考えあぐねていた。そもそもどうやって切り出せばいいのか。さっきの電話で父さんが言っていたことのほとんどを覚えていない以上、包み隠さず聞いたままの話をすることしか俺にはできなかった。


「母さん、できれば落ち着いて俺の話しを聞いてほしいんだけど、さっき父さんから電話があったんだ。なんでも交通事故を起こして、人をはねたらしいんだ。それで、その被害者の人が、亡くなった、って......」


 俺がそう言い切ると母さんは目を丸くする。次第に顔が真っ青になっていき、言葉にならない音を発していた。ようやく言葉が紡げるようになると、小さく「なんで、あの人は、事故なんて起こすような運転はしないのに」と独り言のように呟く母さん。その姿に、俺は胸が締め付けられるようだった。はっきり言って話を全然聞いていなかった俺は、その言葉に何も言うことが出来ずただ「分からない」と答えるだけだった。


 母さんが言うように、父さんは事故を起こすような人ではないことだけは俺にもわかっていた。車に乗るときは安全運転だし、おとなしい性格なため自己主張をするような無意味な運転は一切しない人だ。人通りが多いところは怖がってあまりスピードを出すような真似はしない。逆にゆっくり走りすぎて警察に注意を受けたことがあるくらいだ。そんな父が事故を起こすなど、俺も母さんも、恐らく本人も思っていなかったことだろう。にわかには信じられない話だった。何かの間違いであってくれと、俺も母さんもその日はただ祈ることしかできなかった。


 それから暫くして、父に執行猶予付きの禁錮刑が下されたと連絡が入った。その後、母さんが被害者の遺族と連絡が出来ないかと、父さんが雇った弁護士に聞いてみたものの、遺族たちがそれを望んでいないと告げられた。相手方の娘が酷い精神的なショックを受けてしまっているため、それどころでは無いらしい。それもそうだろう。小さい頃から世話をしてくれた家族を、何の前触れもなく亡くしてしまったら誰だってショックを受けるだろう。また、父さんも精神的に参ってしまっているため仕事が手につかないと聞いた。


 いつの間にか父さんの噂が広まったらしく、俺はクラス、というより学校全体から浮いた存在となった。周りにいた友人たちも、当たり前のように去っていき、街を歩けば後ろ指をさされ、クラスに居ればそこに居ないものとして扱われるようになった。そうして俺は、自分から避けるように一人で過ごす時間が増えいった。それでも、父さんよりかは心に余裕があるはずだ。そう思いながら過ごしているうちに、いつの間にか俺は、俺自身から、表情が消えていることに気が付いた。やがて、家族の為にと頑張っていた父さんはいつの間にか連絡が付かなくなり、母さんは過度のストレスが原因で入院することになった。これは母さんが入院する前日に知ったことだが、毎晩ばあちゃんの家に電話をしては泣きじゃくっていたらしい。父さんと連絡が付かないこと。俺が笑わなくなったこと。母さんが職場でいじめを受けていたこと。度重なる環境の変化に、母さんも、俺もこころが疲弊していった。本当の意味で孤独を知ってしまった俺は、外に出ることがなくなり学校にも行く気力がなくなっていた。別にいじめを受けているとかではないが、人のいる空間に居心地の悪さを感じ、自分に余裕がなくなっていった。少し前までは頻繁に足を運んでいた好きなアイドルのライブにも、めっきりいかなくなった。


 何がいけなかったのだろうか、と無意味と分かっていながら自分に問いかけたが、俺は一度も父さんのせいだとは考えなかった。誰が何と言おうと、俺は父さんを責めるつもりはない。責める気力も、恐らくないだろう。遺族への謝罪の機会をもらえたなら、もし許されるなら、どれだけ心が軽くなるだろうか。


 最近は食事にも喉が通らなくなってきた。近所のスーパーに買い物に行かなければ食料も底をつくだろう。だが、もうどうでもいいか。このまま誰の目にも触れずに、静かにひっそりと暮らしていく方がいいのかもしれない。学校も、もうやめてしまおうか。別に学びたいことがあるわけでもないし、毎日人に気を遣いながら神経をすり減らす必要も無いだろう。きっと母さんなら許してくれるはずだ。早速明日にでも学校へ連絡してみよう。母さんには、お見舞いへ行った時でもいいだろうか。これは逃げている訳じゃない。すべてが面倒になっただけだ。そう思いながら、俺は独り、散らかされた自分の部屋のベッドに沈む。大丈夫、大丈夫。自分にそう言い聞かせながら、自分の目元を覆った。とにかく、今日は眠ってしまおう。嫌なことも忘れて、なにも考えないで、ただひたすらに。

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